第十章 父の足跡



兄も私も、新薬のことであちこち走り回る気力もなくなり、父のそばにいることが多くなった。

私達の落胆が父に伝わってしまったのか、四月の中頃、父はお薬師さん≠フ土を返してきて欲しいと兄に頼んだ。

母でさえ、今まで土のことを知らなかったのだから、私達兄弟が知らないのは当然のことなのだが、父が郷里の鳥越村を出る時に、村にある小さな薬師堂の土を、布袋に入れてずっと大切に持っていたということで、仏壇を買ってからは、その中に大切にしまっていたらしい。

父は早くに両親をなくしているので、きっと、その土が自分を守ってくれる親のように思っていたのだろう。

そして、父は自分の死期が近いことを悟り、兄にその土を返してくるように頼んだのではないのだろうか。

私は父の心中を察すると、居ても立てもおられなかった。

モルヒネの効果もあるのかもしれないが、土を返した後、父は穏やかな顔をしていることが多くなった。

自分が死ぬ、または死ななければならないと知った時に、こんなにも平穏でおられる人は少ないだろう。

 

狭い村なので、兄の話を聞きつけて、近い親戚の人だけでなく、遠縁の親戚の人までもが次々と父を見舞いにやってきた、というより、お別れを言いにやってきた。

父は、明治四十一年八月一日、石川県の白山の麓にある小さな集落である鳥越村神子清水で、五人兄弟の長男として生まれた。

鳥越村は今でこそ、バスも通り大日スキー場が近くにできたりして、金沢や小松からも、一時間ほどで行けるといったように便利なところになったのだが、四〇年少し前、私が中学生の時に訪れた頃は全く違っていた。

バスは通っておらず、電車があるにはあったのだが、単線だったので、寺井駅より一時間近くかけて鶴来駅まで行き、その鶴来駅で乗り換えの電車が来るのを二時間ほど待たなければならなかった。

一口に二時間といっても、何もない同じ場所でじっと待っているというのは、並大抵のことではなかった。

そこから四五分ほど電車に乗ると、やっと終点の釜清水駅に着く。

駅を降りるとすぐに真っ暗なトンネルがある。

そのトンネルは昼間でも真っ暗で、運が悪ければ牛か馬の糞を踏んでしまう。

そこを通り抜けると鳥越村の別宮(べっく)である。

そして、そこからまた十五分ほど歩き、やっと神子清水に辿り着く。

いわゆる都会もん≠フ私達にすれば、本当に辿り着いたという言葉がぴったりのところである。

その頃、父の生家は大日川のすぐ横にあった。

本来の後継者である父が家を出てしまっているので、次男である和友が島田の家を継いでいたのだが、三男の三郎が南方で戦死した後を追うように、和友も戦争中の無理がたたって、一人娘の好枝がまだ一歳の時に亡くなってしまった。

後家になった初枝は、細々とタバコ屋をしながら、女一人で好枝を育て、島田の家を守ってきた。

その好枝も成人したので、隣村から婿を取り、今では孫も曾孫も増え、初枝も幸せに暮らしている。

特に、その婿は武雄というしっかり者だったので、田舎思いの父は本当に嬉しそうであった。

島田の元の生家は道路にかかってしまうということで、現在は一〇〇メートルほど南へ移動させられている。  

始めに家があった場所のすぐ横には、大きな岩があったのだが、洪水の原因だということで爆破されてしまった。

その岩があった頃は、川幅が極端に狭くなっているので、台風の時などは川が氾濫し、父の生家も四本柱だけになったこともあるということだ。

ただ、爆破前は、岩がダムの役割を果たしていたようで、その辺りの水深が極端に深くなり、夏には、近くの岩の上から子供達が飛び込んでは遊んだりしており、父もよく飛び込んだらしい。

魚も自然と、その深みに集まってくるので、すぐ横にある橋の上から川を見下ろすと、魚が一杯泳いでいるのが見える。

その橋から、大きな竹竿に針と糸だけを結び付けた簡単な仕掛けに、丸めた酒粕を餌にして川に放り込むだけで、三十センチほどもあるウグイが簡単に釣れた。

そんな風景が見られなくなってしまったので、私達のように、時折訪れる者にとっては少し寂しい気がする。

 

祖父の和吉は本当にいい人だったそうで、本家の兄が亡くなると、自分の子供が五人もいるのに、遺児になった三人の子供も引き取って一緒に育てた。

そうかと言って、決して裕福だったというわけでもなく、どちらかといえば貧しい方だった。

家も狭いので、祖父母と八人の子供がよく生活できたと思う。

祖父はそんな貧しさの中で、やりくりして株を売買したり、色んな仕事に手を出したりしていた。

また、山師のように鉱石を探しては、それを分析するために東京へ送るとか、和紙の生産や豆腐屋などもしたが、次々と失敗を繰り返したそうである。

ただ、この山奥と貧乏の中にあって、よく次々と事業をしたものだと思う。

父の事業への情熱は、この祖父の血を引き継いだものなのかもしれない。

祖父の事業資金や生活費は、小さな田畑だけで賄える筈もなく、父の妹の節子や清子を奉公に出したり、長い道程を尾小屋鉱山まで物売りに行かせたりしては捻出していた。

 

父は、別宮にある尋常小学校に通っていたのだが、畑仕事をしていた時に、草刈り鎌で手首を切ってしまい、それが原因で百姓をするのが厭になっていた。

その上、小さい頃から、村の近くにある小さな発電所に興味を持ち、電気の素晴らしさに魅せられていた。

その両方の理由から、父は電気に関連する仕事に就きたいと思っていたらしい。

だから、百姓が嫌になったというよりは、それを言い訳にして、電気関係に進みたかっただけなのかもしれない。

そんな父の気持ちを知った祖父が、二階に下宿していた小松製作所の岩永さんという人に、父を小松製作所で使ってくれるように頼んでくれ、父は小松製作所で暫く働いていたが、電気への気持ちは募る一方で、結局、小松製作所を辞めて、別宮で民生委員をしていた蕪木(かぶらき)さんという人に連れられて、わらじ穿きで東京へ行くことになる。

父、十五歳の時である。

 

東京で父は、麻布にある華族の黒田家の書生として住み込ませてもらい、東京電機学校高等部の定時制に通わせてもらうことになる。

電気への夢、第一歩≠ナある。

黒田家というのは、九州の黒田藩のことであり、先代は西郷隆盛とも親しく、娘を榎本武場に嫁がせているといった名家だったようだ。

昭和三年 父は東京電機学校を卒業して東京電灯へ入社し、様々な変遷はあったものの、生涯を電気とともに歩むことになる。

田舎者の父ではあったが、天性の気配り上手だったのだろう、主人である黒田清秀氏に、大変気に入られたらしく、加賀の前田家や平田男爵のところへも、よく使いに出された。

そんな人達の中で、父は自分を都会風に磨いていった。

父が色んなことを覚えることができたのも、徳川家康がまだ竹千代と呼ばれた頃、名門、今川の人質となり、その時に色々体得したのと似ているように思う。 

黒田家には奉公人が大勢おり、大変な素封家であった。

母は結婚してから、父に一度だけ黒田家へ連れていってもらったらしいが、その頃としては珍しい八ミリ映画を見せてくれたそうだ。

 

母は石川県小松市の生まれで、父とは違い、石黒という名家の長女として生まれた。

そんな母が父と結婚したのも、母が生来、病弱であり、祖父母が、『この子は早く結婚させた方がいい』と考え、体が弱いことを隠して父と結婚させたらしい。

父二十九歳、母二十二歳の時である。

 

結婚式場は、小松では一流料亭の相川樓であった。

そして、新婚第一日目は、小松の隣にある粟津の山下旅館≠ヨ泊まる予定だったのだが、大雪で車が立ち往生してしまったために、急遽、相川樓でそのまま泊まることになった。

翌日、東京での父の家、とはいっても、父が間借りしている部屋≠ヨ二人は向かった。

母は父の部屋へ始めて行った時、父が月賦で買ったという洋服箪笥や哀れともいえる机それと安スタンド、家財道具としては、たった、それだけしかないのを見て驚いたそうだ。

父もそのことに気付いたらしく、すぐに大井の坂下町へ引っ越し、母の結婚道具を受け入れ、何とか世帯としての体裁を整えた。

そこは上下二軒ずつの長屋だったが、母は東京が珍しかったらしく、そんな住まいでも大満足らしかった。

二週間ほどして、父は本当の新婚旅行ということで、熱海へ母を連れていった。

熱海では一藤旅館≠ニいうところに宿を取り、十国峠など回った。

旅館に戻り、母が風呂に入っている時、見ず知らずの男が突然入ってきて母の背中を流し始めた。

母も、それには少なからず驚いたそうだが、後で、父がその男に心付けを渡しているのを見て、それが父の心遣いだと知った。

父も変わった心遣いをしたものである。

父は何かを頼んだりすると、必ず心付けを渡す人だったが、それが子供だと余計に奮発していた。

気風が良かったとも言えるが、きっと自分が家をあとにした頃のことを思い出して、自然に、そうしてしまうのだろう。

 

当時、父は東京電灯で、後に松下電工の副社長にまで出世する青柳さんと一緒に試験係をしていたが、色んなところで電気修理をしたり、美容院や映画館などで照明を付けたりしていたので、自然に顔も広くなり、結構、楽しかったらしい。

ちょうど電気ゴテ、今でいうパーマが流行し始めた頃だったので、父がよく知っている美容院で、母がパーマを当ててもらうことになった。

しかし、美容院の奥さんが、当てる時になって、いい意味での田舎娘らしさ≠失ってしまうのが惜しいと言ったので、母も諦めざるを得なかった。

母は、父が会社へ行った後に、大森の山王まで行き、小松では見たことのないような大邸宅が建っている辺りを歩くのが好きだった。

そして、その後は坂下町の桜新道という商店街で買い物をし、父に田舎料理を作っていた。

また母は、自分の父親から仕送りが送られてくると、その仕送りを使って銀座へ行くのも好きだった。

銀座へ行くといっても、新橋駅で降り、ウインドーショッピングをしながら歌舞伎座付近まで歩いていって、安い掘り出し物があれば買ってくるという程度のことなのだが、見るもの全てが珍しかったのだろう。

母は七十歳を越えてからも銀座が好きで、東京へ行った時には、必ず銀座に立ち寄り、義姉や妻に二千円程度の、自分では掘り出し物≠ニ思ったものを土産に買ってきていた。

昔の癖というのは、幾つになっても抜けないものである

父は母のそういう天真爛漫さが満更でもなかったらしい。

父はヘビースモーカーであったが、そのお陰で、母は、煙草屋の娘さんと友達になり、大船の撮影所なんかへも見物に連れていってもらっていた。

結婚してたった三ヶ月しか東京にいなかったので、母にとっては長い新婚旅行のようなものだった。

なぜ三ヶ月かというと、父が東京電灯を退職し松下電器へ移ったからである。

父が、大会社である東京電灯を辞めたのも、東京電灯では、一流大学を出てないと出世の見込みが全くないということもあったのだが、親友の青柳さんが松下電器に移り、少し寂しさを覚えていたところに、決定的な事件が起こって、それが引き金になったからだ。

父は以前から開発していた、電気暖房スリッパを完成させ、意気揚々として上司に見せたところ、「うちは、家電メーカーではないぞ」と逆に怒られてしまった。

ちょうどそんな時に、以前から再三、「うちに来はりませんか。」と誘ってくれていた松下幸之助氏が、父がしたいことの何をやっても構わないと約束してくれたばかりか、始めから課長待遇で入社させると言ってくれたからである。

昭和十二年 父二十九歳のことである。

 

松下へ入社したので、父と母は大阪の淀川沿いにある木川というところへ引っ越した。

家は堤防のすぐ下の、新築二階建て五軒長屋であった。

父は二人で使うには、広過ぎると思い、二階を自分の部下に又貸しするというような、チャッカリしたところもあった。

松下幸之助さんは後に経営の神様≠ニ言わたように、社員に対しては人一倍心配りをする人であった。

父が入社した当時、松下電器はまだ中小企業だったにも拘わらず、その当時から、《奥様会》というものがあったそうである。

昭和十四年 松下電器に慣れた頃、父は東京へ単身赴任することになった。

身重だった母は、小松の実家へ戻り、暫くして長女・幸子を生んだ。

父は大阪へ帰ると、今度は守口へ引っ越した。

引越し先のすぐ横には淀川の支流、とはいっても、どぶといってもいいような川が流れていた。

守口の家は借家だったが、独立した一軒家であった。

家は狭いのだが、庭もあって地下には物置も付いている住み心地のいい家である。

ただ、庭や手洗いに時折、蛇が出ることを我慢すれば、ではあるが。

 

昭和十六年 太平洋戦争が始まった頃、父は守口工場で軍需物資を作っていた。

昭和十七年 三十四歳で父は門真工場の工場長になった。

昭和十八年 兄が生まれたが、戦況は激しさを増してきたので、母は二人の子供を連れて小松へ疎開したが、その直後、守口の家の隣に、夜遅く焼夷弾が落とされた。

しかし、父はそんな時間でも、まだ工場に残って仕事をしており、運良く、その難を免れた。

戦争も終わり、母も守口へ戻って二年後の昭和二十二年 やっと私が生まれることになる。

守口の家がある辺りは、隣近所が助け合うといった土地柄であり、三人の子供を育てなければならない母にとっては、恵まれた環境といえた。

父は当時、進駐軍の電子レンジを作っていたのだが、通産省への贈賄容疑の責任を取って四日間拘留された。

家へ戻った父は、「家ほど、ええとこは、ないな」と言って、畳の上へ大の字に寝転がったそうだ。

 

父は部下を大切にする人だったので、みんなから慕われており、正月には狭い守口の家には溢れるほどの人達が集まってきた。

私はそのお陰で、幼稚園の頃、お年玉を一杯もらうことができた。

私はお年玉をもらうとすぐに、その場で中身を見てしまい、いつも母に叱られた。

何故かは覚えていないが、この守口の家で庭へ放り出されるほど、父に叱られたことがある。

しかし、私が本気で父に叱られたというのは、生涯を通して、これ一度きりである。

そのことを考えると、本当に優しい父親だったといえよう。

昭和二十三年 父は塚本工場の工場長になった。

戦時中から手掛けていたコンデンサ事業は、終戦とともに一時中断していたが、この年にGHQの通達を受けて再開した。

住友電工や日新電機の技術支援を受け、この年の十一月に商品化することに成功し、その後、改良に改良を重ね、コンデンサとは半永久的に使用できるものとの評価を得るまでになった。

この頃から父は、松下電器の中で、家電とは異なる産業機器という分野を進んでいくことになる。

販売ルートにしても家電の販売店であるナショナルショップではなく、小野ナショナル特機販売、福西電機商会、アキツナショナル電機溶接機販売、東京山川産業などモーターや溶接機の販売会社や、電気工事材料卸店であり、そこからまた電気工事店へ卸していくといったように、全く新しい販売ルートを開拓していった。

 

塚本工場長時代に、母の父である石黒小一の竹馬の友である新木栄吉氏が大阪へ来た。

父母も出迎えに行ったが、大阪駅では赤い絨毯を敷き詰めての大層な歓迎振りだったそうだ。

新木氏は戦争中、日銀総裁だったが、戦後すぐに、駐米大使になった人である。

新木氏は日銀へ寄った後、祖父と一緒に、父が工場長をしている塚本工場と私達が引っ越してすぐの豊中の家まで、わざわざ来てくれた。

新木氏は祖父への友情もあったのだろうが、父を非常に気に入ってくれた。

その後、松下電器が飛躍的に発展することになる。

  

昭和三十四年 オランダのフィリップス社と技術提携し、アークスタッド溶接装置に進出し、同じ年に簡易キュービクル式高圧受電設備の第一号機を完成させた。

翌三十五年 父は取締役になり、その年に、念願の自分の家≠建てたのである。

父五十二歳 私が中学一年生の時である。

 

業容が拡大するにつれ、嘗ての部下だった人達も各部門の長になり、大勢の人達が家に集まるということはなくなっていた。

しかし、幹部クラスの人達とその家族で、毎年秋には能勢の山へ松茸狩りに行くのが恒例となっていた。

今とは違って、人の顔ほどもある大きな松茸がごろごろしており、信じてもらえないかもしれないが、私達は松茸を足で蹴飛ばして歩いていた。

松茸狩りの後は、鍋一杯に外国産でない国産松茸≠フ入ったすき焼きを嫌というほど食べることができた。

昭和三十八年には、コンデンサ・配電機器・溶接機・モーター・トランスなどを研究するために配電器事業本部研究所を設けた、

昭和四十年 父は科学技術庁長官賞を受賞した。

昭和四十一年 島根県松江市に松江松下電器を設立し、同時に経営立て直しのために朝日電器の社長も兼務する。

昭和四十三年 父六十歳の時、常務取締役になる。

そしてこの年、藍綬褒賞を受賞した。

昭和四十五年 富山県砺波市に富山松下電器を設立し、

昭和四十八年 松下公害防止機器を設立し、

昭和四十九年九月 石川県加賀市熊坂町の国道八号線沿いに、八万二千五百平方メートルの加賀松下を完成させた。

石川県を離れ、五十二年の歳月を経て、父は故郷である石川県に錦の御旗≠掲げたことになる。

しかし、それが完成する一ヶ月前に、父は入院することになってしまったわけであり、余りにも哀しい凱旋ではなかろうか。


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