第十一章 最期
四月も終る頃、父の顔立ちが変わってきた。
左の眉だけが八の字を書いたようになり、左眼も開いたままで、どちらかと言えば間の抜けた顔になった。
中川医師に聞くと、脳転と言い、脳に癌が移転した時、そのようになるらしかった。
また、その頃から、直腸の癌細胞が余りにも増殖し過ぎて、仲間にさえも血液を送れなくなって自ら壊死してしまうために、死臭というのだろうか、嫌な臭いが病室全体に漂うようになった。
人間の鼻の粘膜は感度が鈍く、暫く経つと慣れてしまうことは分かっているのだが、私は病室に入るとすぐに、消臭剤を撒かずにはおられなかった。
脳転したということで、母や姉や妻達にも、父が癌だったことを報せることにした。
母には、病院のロビーで、叔父から話すことになった。
母は涙ぐみ、「ずっと変やとは思ってたんやけど、まさか癌やとは思えへんかったわ」と言った。
もし癌であるのなら、真っ先に自分に先生が話してくれると思っていたようだ。
叔父は、母が涙を見せると父に分かってしまうので、言わないように先生に頼んだと説明した。
妻には、兄弟各々が自分の家で話すことにしたが、私が話すと、その途端に妻はわんわん泣き出した。
そして、私達が何度も東京へ行ったことなど全く分からなかったが、私達の行動を訝しげに思ったことはあったと言った。
脳転してからの父は、日増しに病状が悪化していった。
痰が絡み始め、自分で切ることができないので、誰かが鼻から細い管を入れて、時々痰を吸い取らねばならなかった。
五月十二日 私が父の枕元にいると、松下幸之助さんが病室に入ってきた。
松下さんが、しばしば見舞ってくれていることは、母からも聞いていたし、妻も何度か会ったことがあると言っていたのだが、私はこの時が初めてだった。
母は以前から、「松下さんは耳朶が大きく福耳やけど、お父さんは耳朶が小さいから幸の薄い人かも知れへんね」と言っていたことを私は思い出していた。
私は母の言葉を馬鹿げた迷信だと思っていたのだが、本当に、母の言っている通りになってしまったなと思った。
松下さんは私に向かって、「あんたは次男さんか。今どこに行ってるんや」と優しく聞いてくれた。
私が、「山善です」と直立して答えると、「あぁ、あの問屋さんな」と言った。
私は自分が働いている会社は商社の山善≠セと思っていたが、松下さんから見ると、問屋の山善≠ノなってしまうんだなと思った。
父の痰が喉に引っ掛かりゼーゼー言っていたので、私は「失礼します」と言って鼻から管を入れ、父の痰を吸い取った。
松下さんは、近くへ来て覗き込み、「そうやって取るんやね」と興味深げに見ていた。
五月十四日 妻の両親が見舞いに来てくれた。
義母は父の手をさすりながら泣いていた。
入院当初に見舞いに来てくれた時と比べ、父がやせ細っているのを見て、その痛ましさを心から悲しんでくれていた。
五月二十二日 兄弟で中川医師に呼ばれて、父は、あと二・三日しかもたないだろうと告げられた。
父の部屋には、酸素吸入器や心電図などの色んな器材が仰々しく運び込まれた。
五月二十四日 父は痙攣を起こしたので、舌を噛まないように、舌圧子(耳鼻科で舌を押さえる器具)にガーゼを巻きつけて口に銜えさせられていた。
私には、こうまでして、父が生かされているのはかわいそ過ぎるのではないかと思った。
この日、松下電器の全重役が、病室の前に列を作って、父と最後の別れをしてくれた。
その日の夜からは、兄弟どちらか一方が父に付き添い、後の一人は、父の病室から二つ手前の空室で休むことにした。
五月二十五日 父の死をただ待つだけという嫌な一日になった。
五月二十六日 父の痙攣が酷くなった。
今日が山だと言われ、叔父や妻達も詰めていた。
夕方、京都に住んでいる父の妹夫婦が来た。
父の妹は、「ご苦労さんやったな、ご苦労さんやったな」と父の手を握りながら言っていた。
妹夫婦が帰った後、家で父を迎える仕度をしておくように叔父に促され、義姉や妻は叔父の車に乗って帰っていった。
夜八時 父が口から血を吐いた。
父に付いていた看護婦が慌てて中川医師に連絡した。
廊下をバタバタと走る音がして、中川医師が別の看護婦を従えて病室に駆け込んできた。
私はその時に備えて、気持ちを強く持っていた積りだったが、血を見た途端に、息が止まりそうになってしまった。
心電図がピーッと鳴ったまま、横一直線を引いたので、中川医師は父の胸をはだけ、両の手の平を合わせ、全体重を父にかけるようにして心臓マッサージを行なった。
父の身体は一瞬のうちに硬直しており、中川医師の体の動きに合わせ、父の身体とベッドのマットが一緒に上下して、ベッドの軋む音がした。
私は柔らかい父の身体が板のように硬くなってしまったの見て、父の終わりを知った。
次の瞬間、中川医師が何かを叫んだ。
看護婦が大きな注射器を中川医師に手渡した。
中川医師はその注射器を、父の心臓めがけて突き刺した。
そしてまた心臓マッサージを続けた。
私は、『もう、止めてくれ』と心の中で叫んでいた。
『もし、お父さんが目を覚ましたところで、もう一度、すぐに死ぬだけやないか、どうせ、もう助かれへんのやから』と中川医師の正当な行為、一分か二分長く生かせるためだけの無駄な行為、に反発していた。
そして、『頼むから、もう父を静かに逝かせてやってくれ』と心の中で叫んでいた。
暫くして、中川医師の手が止まった。
中川医師は静かに父を見ていたが、自分の腕時計に目を移すと、深々と私達に頭を下げ、「ご臨終です。八時四十分でした。」と告げた。
この時、父は六十七年の人生の幕を閉じた。
私達は「有難う御座いました」と言って、中川医師に頭を下げた。
母と兄は父に取りすがって泣いていたが、私は涙も出ずに、そこに茫然と立っていた。
暫くして、母と兄は中川医師に呼ばれて出ていったので、私は父の前へ行き、突っ立ったまま父を見ていた。
『お父さん、ご免、一生懸命やったけど、あかんかったわ、もう、ゆっくり休んでな』と心の中で呟いていた。
私は、人がいると裸になれない性格のようで、誰もいなくなったので、涙がジワーッと湧き出してきた。
兄が暫くして病室に戻ってきて、「僕らが、お父さんに色んな薬を使ったから、お父さんの身体がどうなってるんか、医学のために解剖させて欲しいて言うてはんねんけど」と言った。
私は急に涙が溢れてきて、「アカン、アカン絶対アカン、誰がそんなことさせるか」と大声で泣き叫んでいた。
父は病院の車に乗せられ、母が付き添って病院を離れた。
その後を兄の車、私の車と続いた。
病院にずっと詰めてくれていたのか、スーツ姿の豊中工場の人達が十数人、父を見送ってくれていた。
家では、先に帰っていた義姉と妻、そして叔父と叔母が表玄関を開けて、父を出迎えるために待っていた。
妻達は目に一杯涙を貯めて、口々に、「お義父さん、お帰りなさい」と言っていた。
父が寝床に横たえられるのを見て、私は、始めて父が楽になれたと思った。
叔父が、母に枕経を唱えるように言い、母は泣きながら、一生懸命、仏説阿弥陀経を唱えていた。
次の日は、朝早くから俄かに慌ただしくなった。
会社の人達が何人も来て、葬儀の場所やお坊さんのことなどを母や兄と打ち合わせていたが、結局、父の気持ちを考えた母の意向で、通夜や密葬は自宅で行われることになった。
夕方、何時の間にか、父の部屋は葬儀場に変わっていた。
祭壇には花が一杯飾られ、いつ撮ったのか、父の遺影も大きく飾られており、庭には、一般用の焼香台が据え付けられ、椅子も一杯並べられていた。
訪問者も多く、私達はその対応で忙しかった。
親戚の人達も続々と到着し、寂しいと感じることさえできなかった。
お坊さんが到着し、通夜の読経が始まり、焼香へと続いていった。
参列者の中で、昔から父の部下だった人達が数名、涙を流してくれていたのが嬉しかった。
夜も更けて、参列者も次第に少なくなり、最後は身内だけになってしまったが、それでも結構人数は多かった。
皆で酒を飲みながら、父のことや田舎のことなどに話が弾んだ。
翌日の密葬は、朝から大勢の人達が来てくれた。
松下幸之助相談役や高橋荒太郎会長そして松下正治社長など、松下電器の最上層部の人達も来てくれた。
全員が席に付くと、すぐにお坊さんが入ってきてお経が始まった。
全てが終わり、父の棺が部屋の中央に置き換えられ、皆がそれぞれ手に持った花を棺の中に添えていき、父は顔だけを残して、一杯の花で埋め尽くされた。
母は、父のそばから一瞬も離れずに泣いていた。
葬儀社の人が「お名残も尽きましょうが」と言い棺の蓋を閉じて、その後、棺に釘を打ち付けた。
その音は今でも、私の耳に残っている。
出棺の際に、兄が代表して参列者の方々に礼を述べ、父は大勢の人達に見送られながら、新千里の火葬場へと向かった。
父は蛇火に臥され、数時間後には小さな骨だけになってしまった。
職員が始めに、喉仏≠教えてくれ、そして、白い骨の中の黒く焦げた骨盤と助骨を指差して、「ここが悪かったところです。悪かったところは、白くならずに黒くなるんです」と説明してくれた。
私達は遠慮勝ちにお骨を拾っていたが、職員が、「もっと、入れたげて下さい」と言いながら、骨壷に山盛りに骨を入れ、箸で長い骨を砕いて、ぎゅうぎゅうと詰め込んだので、「父を、もっと大切に扱って下さい」と私は言いたかった。
母が骨壷を抱きしめながら、父を家へ連れて帰った。
本葬までの数日間は弔問客が絶えず、私達は、父への想いに浸っている時間さえないほどだった。
夜は疲れが溜まっていたのだろう、いつもすぐに睡魔に襲われてしまう。
しかし、葬儀より三日経った一晩だけは、眠ろうとすると、私が幼稚園だった頃や、大きくなってからの断片的な記憶が甦り、何ともいえない気持ちに襲われて、眠ることができなかった。
私は末っ子なので、感受性が人一倍強かったのかも知れないが、『お父ちゃんもお母ちゃんも、いつかは必ず死ぬんや。僕を残して死んでしまうんや』と幼稚園や小学校低学年の頃に寝床に入ると、そんなことを考えることがしばしばだった。
そんな時は、どうしようもないほど寂しい気持ちになってしまい、急いで父の寝床に潜り込んでいた。
父は私が入ってくると、すぐに私を抱きしめてくれた。
煙草の臭い匂いは嫌だったが、私は安心してすぐに寝入ることができた。
『やっぱり、その日が本当に来てしまったんやな』と父の身体の温もりを思い出しながら涙が溢れた。
『もうお父さんは帰ってこないんや、二度と会われへんのや。喋ることも、もう絶対でけへんのや』と思った。
背中を按摩すると喜んでくれた父。
味噌汁に入っている私の好物のジャガイモを、自分も好きなのに全部私の中へ入れてくれた父。
喫茶店では、子供のように、私と同じチョコレートパフェを食べていた父。
私が水を恐がるので、いつも背中に乗せて泳いでくれた父。
動物園で、よく見えるように肩車してくれた父。
そんな小さい頃の出来事が走馬燈のように思い出され、寂しくて、なかなか寝付くことができなかった。
父の戒名は、《芳香院釋清園》と決まり、従五位勲四等瑞宝章を追陞された。
六月三日 本葬の日である。
松下電器の規定では、常務取締役は社葬にできないとのことであったが、社葬に準ずるという名目で、大阪本町にある南御堂会館を葬儀場とした大掛かりなものになった。
御堂筋の交通整理は警察に頼み、参列者は数えることができないほどだった。
三人の僧が読経し、その声が和音になって館内に響き、葬儀をより荘厳なものにした。
弔辞を高橋荒太郎会長が読んでくれ、父と東電時代からの友人である青柳保松下電工副社長が、友人代表として父を送ってくれた。
葬儀が終わると、父の遺骨を持った兄を先頭にして母が続き、遺影を持った私、そして、姉・義姉・私の妻とが一列になって、大勢の参列者の真中を進んでいった。
十五歳の時に、わらじ履きで田舎を出た少年が、今、こんなに大勢の人達に見送られている。