第十二章 エピローグ
私は、その年の九月の人事異動で会社に辞表を提出させられた。
させられたというより、「島田は東大阪の倉庫勤務を命ずる」と辞令が下ったのだ。
山善で倉庫へ行けということは、辞めろということと同義語なのである。
父が入院している一〇ヶ月間というものは、会社の仕事を何一つしていなかったのと同じなので、当然の結末と言えよう。
ましてや大不況突入で、次の倒産は三光汽船か山善かと噂され、新聞の号外にも名指しでそんな記事が出た時でもあり、父が亡くなってしまった今、私を置いておく理由を見付けられない。
『まぁ、ええか。どうせ、いつかは自分で何かしたいと思ってたことやし』と思い、それほど辞令に衝撃を受けなかった。
妻にそのことを話すと、「あなたが自分の思い通りの親孝行したんだから、いいんじゃないの」と平然としていた。
私は、父が亡くなった一年後の命日に合わせて小さいながら自分の会社を設立した。
会社の名前は父の生地である加賀の加≠ニ、父、芳雄の芳≠フ字を繋ぎ合わせて、株式会社加芳(カホウ)と命名した。
命名といえば、父が亡くなって五年経った昭和五五年、父と同じ干支である申年に、結婚して十一年も経つ私達夫婦に、ほぼ諦めていた子宝が授かった。
私は子供の名前を、父芳雄の芳≠フ一字と、父の生まれ変わりだと思ったので、父を継ぐの継≠ニいう字を合わせて、芳継≠ニ命名した。
父に一番見て欲しかった、私達の子供である。
芳継が小さい頃は、一番光る大きな星を指差して、「あれがお爺ちゃんの星や」と教えてやり、「お爺ちゃんがいつも継君を守ってくれてはるからね」と言ったものだ。
相続も終わり、お世話になったお礼にと大阪大学微生物病研究所付属病院へ、そして、それとは別に研究所の麻疹部門へも、母と私達兄弟の三人で寄附をさせてもらった。
そして、父を生涯守ってくれた鳥越村にある小さな薬師堂お薬師さん≠ェ老朽化していたので、兄から村の人達にお願いして、島田芳雄建立と書かせてもらって新築させてもらった。
夏に、母を連れて四人で墓参りへ行く時は、必ずお薬師さんへ拝みに行くことにしている。
お薬師さんは県道から細い地道を二百メートルほど入ったところにあるが、その道のすぐ横を、大日川から水を引き込んだ疎水が流れている。
疎水の中には、木で組んだ箱が数個入れられており、中を見ると大抵は鮎が泳いでいた。
道端には色んな花が咲き乱れ、都会から来た者にとっては、それを見ているだけでも心が洗われる。
また、お薬師さんのすぐそばには、小水(しょうず)という地下水が湧き出しているところがあり、村人の大切な飲料水になっており、夏にその水を飲むと、『水とはこんなにうまいものか』と誰もが思うであろう。
私も子供の頃に、何度もそこを訪れたが、
夏には、その水が氷のように冷たく感じられ、一分も手足をつけていることができないくらいで、皆でよく我慢較べをして遊んだものである。
お薬師さんから、細い坂道を二百メートルほど上がって行くと、急に視界が開け、一面に田んぼが広がっている。
その一角が小高い丘のようになっており、村の墓地がある。
その墓地の上の方に、島田本家の墓があり、また少し上に、分家である和吉の墓がある。
私が幼い芳継を連れてその辺りまで来ると、幼少の父の姿と、遊んでいる芳継の姿とがだぶって見えてしまい、何だか嬉しい気持ちになってしまう。
父は、その和吉の墓の中で祖父母と一緒に眠っている。
それ以外にも父の骨は、大阪茨木の霊園に母と兄が建てた墓と、私達夫婦が建てた墓との三ヶ所に分骨されている。
私達の墓は、妻の勧めで、父が生前プレーしていたゴルフ場能勢カントリークラブ≠見下ろす丘陵地にある。
そのゴルフ場で、私も時たまにプレーすることがあるが、七番ホールから、ちょうど父の墓が見えるので、『お父さん、見ててよ』と心の中で呟いてからティーショットをしている。
松下電器豊中工場の父の部屋は、父から引き継いだ中川懐春副社長の御好意により、二年間使用されなかったことを知り、中川副社長の人情味ある人柄に感謝した。
その後、産業機器事業本部は父の悲願だった松下本体からの独立を果たし、松下産業機器株式会社となった。
初めての命日に合わせて、故島田常務取締役をしのんで≠ニいう追悼誌を発刊して頂き、その最初のページには歌集白珠≠フ同人である母の歌が二首載せられている。
延命を願はずなりて諦めの
日々は虚しく季(とき)移ろへり
暖かき夫(つま)の心よてのひらに