第二章 思い出の旅行

病気を患った時、父は松下電器の常務をしていた。

昨年秋の重役検診で、レントゲンに写った胸の陰のことや時々血便が出るということもあり、精密検査をするために、一度、入院するように言われていたのだが、胸の陰は持病だと勝手に決め付け、血便にしても痔だと思っていたので、父は仕事を優先させていた。

 

松下は、本来、家電のメーカーなので、テレビ・洗濯機・冷蔵庫などが中心である。

しかし、父の仕事はそれらとは異なり、コンデンサー・溶接機・モーターといった産業機器という分野に属するものであった。

豊中市にある産業機器事業本部の傘下には、松江松下・富山松下・加賀松下などがあり、それ以外にも、支店・営業所、そして、協力会社・販売会社などもあり多忙を極めていた。

なによりも、松下の花である家電部門の重役達との出世争いもあり、入院しておれる状況にはなかった。

結局、重役検診から十ヶ月以上も経って、やっと入院したのである。

早く入院していれば、違う結果になっていたとも考えられるが、だからといって、その方が父にとって幸せだったかどうかは、父の気性からして分からない。

それでなくても、その後暫くして、世にいう松下十七段跳び≠ナ山下新社長が誕生し、間にいた大勢の重役が一新されてしまったわけであり、父が生きていたとしたら、その時、一体どうなっていただろうか。

 

父は確かに仕事人間ではあったが、家庭を顧みないというタイプではなく、家庭も大切に考える人であった。

毎年、夏期休暇には、父と母が有馬グランドホテルに4日間逗留し、姉・兄・私と、各兄弟の家族全員を一日ずつ順番に招待してくれていた。

しかし、この年だけは、いつもと違い、父は山陰方面へ旅行すると言い出した。

初めの一泊は兄夫婦、後の一泊を私達夫婦と一緒に宿泊するという二泊三日の行程だった。

簡単に言えば、車を運転できない両親の足代わりということになるのだが、私達にしても旅費が浮くので、大歓迎の足≠セった。

その上、当時の私達夫婦は、まだ子宝に恵まれず、いつもは二人だけの少し物足りない旅行を、賑やかなものにしてくれた。

父が例年とは異なる休暇を取ったというのも、後にして思えば、何かを感じていたからなのかもしれない。

 

私達夫婦は、二泊目の両親の宿である湯村温泉の老舗旅館である井づつや≠ヨ向かうために、豊中の自宅を昼近くに出発した。

池田インターチェンジから中国自動車道に乗り上げ、西へ向かって福崎まで行き、そこで播但連絡道に乗り換えると早いのだが、別段、急ぐ旅でもないので、一般道の三一二号線に入って、それを北上した。

三一二号線を暫く走っていると、景色がどんどん変化していき、旅行気分になってきたので、妻が家で作ってきた、おにぎりと卵焼きを食べながら運転した。

途中、生野銀山の標識があったので寄り道していくことにした。

生野銀山が近づくにつれ、大きな木が多くなり、山奥へきたという感じがした。

銀山に到着し、入口で切符を買って中に入ると、そこは庭園のようになっていて、その一角から銀を発掘するための坑道に入っていけるようになっている。

坑道は結構長く、その中にいると、外の暑さが嘘のようで逆に寒いくらいである。   

坑道の中には、鉱石を掘っている人の動く人形などもあった。

坑道から出ると、むっとした外気が私達を襲った。

出口のすぐ横には土産物屋があり、水晶や黄銅鉱など色んな鉱石や名産品が売られていた。

そして、その土産物屋に続いて、鉱石を採掘するための道具や写真などが展示されていた。

私達は公園で写真を撮ったりジュースを飲んだりしてから、来た道を引き返して三一二号線へ戻り、和田山方面へむかった。

和田山で九号線に合流し、川沿いの道を暫く走るとハチ高原がある。

ハチ高原から半時ほどで春来峠だ。

春来峠の千六百九十六メートルの長いトンネルを通り過ぎると、湯村温泉は、もう、目と鼻の先である。

湯村温泉は標識に湯村とは書かれておらず、温泉町とだけ書かれている。

湯村温泉は、城之崎温泉と三朝温泉という二大温泉地に挟まれ、NHKのドラマ夢千代日記≠フ舞台になるまでは、余り知られていなかった。

それ以降でも、その両者と較べれば知名度では、はるかに劣っているが、父との思い出の場所ということを除外したとしても、私はそこが本当に気に入っている。

父が亡くなった後、私は何度も湯村に行くことになるのだが、父と行かなければ、きっと城崎温泉とか三朝温泉に行ってしまい、湯村温泉を一生知らなかったように思う。

湯村温泉には本当の温泉地だという風情があるばかりか、湯量に於いては他に類を見ないほどであり、湯村の全家庭に温泉を引いても、まだ湯が余るという。

私達夫婦は夕方、井づつやに到着した。

井づつやは九号線に面しており、皇室が泊まったこともあるという格式の高い旅館である。

私達は車を旅館の人に任せて、先に到着している両親の部屋へ案内してもらった。

左手に庭園がある長い廊下の壁には、有名な画家が書いたと思われる絵が掛けられており、ガラス棚には、古くて高価そうな陶器が飾られていた。 

両親はゆっくりとくつろいでいたようだが、私達の顔をみると、「来た、来た。間違わんと来れたか」と父は言いながら、母とともに笑顔で迎えてくれた。

特に父は、妻が子宝に恵まれず、肩身の狭い思いをしていることを気遣ってか、満面の笑みをしてくれた。

私は、「生野銀山も見ながらゆっくり来てん。ここは、なかなかええ旅館やんか」と答えた。

井筒屋旅館は建物の造作、料理とも、父が山陰で一番気に入っている旅館である。

父は、私達が旅館の茶菓子を食べて少し休むのを待ってから、「ご飯前に風呂に行こうか」と言った。

妻は洋服のままでいいと言ったが、私は浴衣に着替えて、皆でぞろぞろと風呂場へ向かった。

風呂は広くはないが、露天風呂は風流な趣を醸し出していた。

湯はどんどん流れ出しており気持ちがいい。

父は、昔から大きな風呂が好きで、私が小さい頃には、よく銭湯へ連れていってくれた。

しかし、大きくなってからは、父と一緒に風呂に入るのはこんな時しかなかったので、何だか嬉しくなった。

父はそれほど長風呂でもなかったので、私にとってはちょうどいい。

風呂場を出たところに休憩所があり、私達は母と妻を待ちながら、旅館がサービスで出してくれる梅昆布茶を飲んだ。

父がお茶を飲む時は、演技をしているのかと思うほど、うまそうに飲む。

 

部屋に戻ると食事の用意ができていた。久しぶりのご馳走である。いろんな話をしながらゆっくり食事をし、食後のゆったりした気持ちを楽しんでいると、父が、「ちょっと、その辺、ぶらついてみよか」と言った。

グッドタイミングである。

私は妻に、「行く?」と聞くと、妻も嬉しそうに頷いていた。

井づつやのすぐ横にある石段を、十段位下りたところの踊り場に、家の一部を改造して造ったと思われる一軒の土産物屋がある。

その土産物屋は玩具やお菓子などを一切置いておらず、その辺りの山や畑で採れる料理の食材といったものを中心にした、珍しい土産物屋だった。

秋でも、松茸のようなものは置かずに、変わった茸などを売るらしい。

その土産物屋から、また三十段ほど石段を下りていくと賑やかな街通りに出る。

下りてすぐ向かいにある大きな土産物屋の角を左に曲がると、湯村の名前通り、その辺り一帯が湯煙に包まれており、温泉特有の匂いがした。

その湯煙の中に、ボーッと浴衣姿の大勢の人達がいるのが見えた。

そこは荒湯≠ニいう名前の源泉だった。

その源泉は二ヵ所に分かれており、どちらの源泉も、ぶくぶくと熱湯が湧き出しているといった風ではなく、せせらぎのような静けさで湧き出していた。

始めの源泉は、何本もの石の柱で囲まれているのだが、柱と柱との間隔が少し広めなので、熱湯といった感じがしないそのお湯に手を浸けてみようかといった誘惑に駆られてしまい、私は少し恐怖感を覚えた。

その先にある、もう一つの源泉は、石で厳重に囲まれており、その石の上には木の柵が取り付けてあって、生卵やトウモロコシが茹でられていた。

父は荒湯のすぐ横にある土産物屋へ入っていき、数個生卵が入っている網袋を買ってきて、手慣れた感じで、沸騰した湯の中に、生卵を浸け、網袋の手の部分を木の柵に結びつけた。

そのまましばらく放っておくと温泉卵ができるらしい。

父は玉子が茹で上がるのを待つ間に、荒湯の横にある湯飲み場で、源泉を飲もうと言った。

父は湯飲み場に備え付けられている長い柄のついた柄杓を持って湯を汲み、茶碗にその熱湯をかけ消毒してから、もう一度新しい湯を汲んで茶碗に注いでくれた。   

そして、全員が順番に飲み終わってから、最後に自分が飲んだ。

その時代の男性としては、サービス精神がある方だと思う。

その湯は本当に熱く、味は茹で卵のような変わった味がした。

変わった味といっても、決してまずいというのではなく、もう一杯飲みたくなるような不思議な味である。

その後で、父は私達夫婦に、玉子を買った土産物屋の中から入れる珍しい洞窟のことを話してくれた。

地熱洞≠ニいう名前で、いつか寒い季節に来て、そこに入ってみるように言ってくれた。

数年後、私達が冬に湯村を訪れた時、父に言われたことを思い出して、その洞窟に入ったことがある。

地熱洞は土産物屋の先代が造ったものらしく、店の一番奥から地下へ下りていく階段がある。

入口で下駄を脱ぎ、身を屈めて狭い階段を七・八段下りると、六畳位の部屋がある。

部屋の床は平らで、私達が行った時は、一組の浴衣姿のアベックが寝転がっていた。

床に座ると、ちょうど、洞窟の説明書きが見えるようになっている。

それによると、この洞窟は、大変な苦労をして岩を削り取って造ったものらしく、この岩の少し外側を高熱の温泉が通っており、その熱で、洞窟の中がサウナのように暑くなっているということである。

しかし、それを読んでいると、今にも岩が崩れて、熱湯をかぶってしまいそうな気がして少し気味が悪かった。     

そこにいるだけでも、そのように感じるのだから、『洞窟を掘った人達はすごいもんやな』と感心もした。

暫くそこにいると、確かに暑いが、不思議に汗もかかず、快適そのものだった。

「一寸茹で過ぎたかな」と言って、父は先程、温泉につけておいた玉子を取り出して、小さい子に渡すように、「はい」と言って妻に渡してくれた。

妻は「有難う御座います」と言って、私の方にそれを差し出したときに温泉の香りがほんのりして、スーパーで売っているものとは異なり、確かにうまそうであった。

私達は荒湯に祭られている地蔵尊の横の階段を上り、すぐそばを流れている川を渡ったが、そこに夢千代日記≠フ説明書がある。

夢千代は本名を永井佐千子といい、胎内被曝者だった。そして、白血病と戦いながら芸者の置屋をしていたが、その置屋に吹き寄せられてきた人々の、悲しく切ない人間模様を日記に書き記していたが、吉永小百合が夢千代を演じ、人々を感動させた、と書いてあった。

川沿いの階段を降りていくと、幅一メートル位の石組みの小道がある。

川は浅いが、流れはほどほどある。

その川の水が、温泉から流れ出る湯と混ざり合って冬でも温かいらしく、魚が繁殖するのには最適なのだろう、養殖していると思われる鯉を始め、色んな魚が一杯泳いでいた。

対岸に目をやると、目と鼻の先に、白鷺が二羽、人がいるのに警戒もせず、気持ちよさそうに大きな羽を一杯に広げていた。

その石組みの小道は、道自体も手摺も地熱の影響で温かい。

父が言うには、冬でもここへ座っているとお尻がぽかぽかして、寒いどころか気持ちいいらしい。

何から何までよく知っているガイドのような父に、私は妙に感心した。

その後、父は決まっているコースであるかのように、骨董品屋へ立ち寄って、わけの分からない古めかし壺を買っていた。

金額からして、骨董品というよりは古道具といった程度のものなのだろうが、それでも父は結構喜んでいた。

母は呆れた顔をしていたが、私は父のこういうところが好きである。

翌朝、ゆっくり起きて、父と二人で朝風呂へ行き、その後、皆で朝食をとった。

そのまま帰るのかと思っていたら、「くん坊や峰子さんが次に来た時、釣りをすんのにええとこがあるから、教えといたげよか」と言って、湯村から北へ車で十五分ほど走ったところにある、浜坂まで行くことになった。

浜坂は漁港なのだが、港のすぐ横から、延々と砂浜が広がっており、防風林も砂浜同様に続いていた。

その砂浜の端には防波堤があり、投げ釣りとサビキ釣りの両方ができるようになっていた。

「お父さん本当にええ場所やな」と私が言うと、妻も、「気持ち良さそう」と言ったのでみんなで車の外へ出ることにした。

時間が早かったためか、まだそれほど暑くはなかった。

私は大きな伸びを一回してから煙草を吸った。

母が松林の方へ歩いていき、食用の浜防風を探し始めたので、全員でそれを探すことにした。

暫く散策してから浜坂を後にし、再び井づつや旅館の前を通り過ぎ、春来トンネルも越えて暫く走っていると、車中が静かになっていた。

バックミラーを見ると父も母も一緒になって眠っていた。

妻も静かなので眠っているのかと思い横を見ると、ニコッと笑っていた。

父が眠っているということは、私の運転に安心してくれているからなのだろう。

私は今まで、父に守られてばかりだったので、父が眠ってくれると、何だか、私が父を守っているような気がして、少し嬉しかった。

しかし、父との楽しい旅行もこれが最後だった。

大阪に地獄が待っていることを、まだ誰も知らなかった。

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