第三章 手術

母は、旅行から戻ると、《白珠》という短歌の会が毎年夏に催す山上歌会≠フ一泊旅行に出かけた。

そして、八月十九日、母の帰りを待ち構えていたかのように、今度は父が、守口にある松下病院へ母を伴って検査入院した。

父が母を同伴させるというのは、身の回りの世話を他人の付き添いさんにしてもらうのが嫌なのか、寂しいからなのか、それとも怖い病気だったらと思ったからなのかは分からなかったが、きっとすべてをミックスしたような気持ちからなのだろう。

私は妻に、「検査ぐらいで、大の大人が、わざわざ、嫁さんを連れて行かんでええやろに」と父をちょっと小馬鹿にしたような言い方をした。

入院した当初、それほど心配する風でもなく、父は新聞を読んだりテレビを見たりして、しばしの休養を取っているといった風であった。

母は、それにも増してのんびりしており、好きな短歌を作ったり、手紙を書いたりしながら過ごしていた。

しかし、四日から長くても一週間で終わる筈の検査入院は延長された。

そして、父が思いもしなかった〈手術〉が必要ということになったのである。

それだけでなく、十一日目の八月ニ十七日には、その手術が、かなり大掛かりなものになるということが分かったのである。

私が父と話をしている時に、相沢医師が病室に入ってきて、「島田さん、ポリープを取って、一旦、人工肛門を付けますが、傷ついた直腸が治る来年の春頃に、もう一度手術をして、人工肛門をなくしてしまう予定です。心配されなくても、ちゃんと治りますからね」と言った。

私は、父の大きなお腹を二回も切るということを聞きゾッとはしたが、家庭の医学書の知識もあり、命に別条はないと確信していたので、それ以上の心配はしなかった。

相沢医師が退室した後、よく気が付くだけでなく美人で明るい父がお気に入りの看護婦の坂さんが、「うちのお婆ちゃんも、人工肛門付けてるけど、すっごく元気よ」と明るく言い、父を心配させないようにしてくれたのが嬉しかった

 

手術の五日前の九月十二日 自宅で私が食事を終えテレビを見始めた頃、兄から電話がかかり、「話があるから、一寸、家まで来てくれへんか」と言ってきた。

兄の声のトーンが低いことが少し気になりながら実家へと向かった。

実家は私の家から歩いて五分ほどのところにある。

実家へ着き、応接室の扉を開けると、石黒の叔父も来ていた。

義姉がコーヒーを運び、部屋から出て行くのを待って叔父が口を開いた。

叔父は静かな口調で、父が癌であることを告げた。

父の病名については大体想像していたし、直腸癌は治癒率が非常に高いという医学書からの予備知識もあっことで、私はそれほど動揺しなかった。

むしろ、兄と叔父の表情が暗いことに、『そこまで心配せんでもええのに』と思ったくらいだった。

ただ、いつもの私なら、「そんなこと、とっくに知ってたわ」 と強気で言うところなのだが、単に「やっぱりな」と言うに留めた。

しかし、その後、一寸躊いながらも、「お父さんの場合、かなり広範囲に転移してる可能性があって、手術してみんと分かれへんけど、そんなに安心できるもんやないんやで」と叔父が言うのを聞いて、私の気持ちは先程とは全く違うところへ移っていった。

叔父は更に話を続け、「 できるだけ沢山、癌を取って欲しいんやけど、もし、広範囲に転移してる時は、癌は取らんで人工肛門を付けるだけにして、すぐお腹を閉じてしまうやろと思うんや。その時は、手術もすぐ終わると思うけど、うまく癌が取れるとしたら、かなり大掛かりな手術になって、六時間ぐらいはかかるやろ。そやから、時間がかかった方が、うまく行ってると思といたらええんや」と言った。

私は叔父の話を聞くにつれ、父がそんなにひどい状態だったのかと、悲痛な気持ちになっていった。

そして、「 そやけど、取れたら治るんやろ」 と始めの落ち着いた素振りとは違い、すがるように叔父に質問したが、「そら、そやけど、それは、なかなか難しいと思うし、もし、癌が取れへんかったら、今年一杯持たんかもしれへんて言うてはんねん」 と悲観的な返事が帰ってきただけだった。

 

叔父は私達兄弟が、年齢からしても、癌に対しての知識がほとんどないだろうと思ったのか、癌という病気の説明を始めた。

ただ、兄とは癌告知を受けてから、何回か話し合っていたようで、叔父は私だけに向かって話し始めた。

癌とは非常に厄介な病気で、極端な話、癌細胞を一つでも残してしまうと、その一つから、ねずみ算式に増殖していき、その結果、他の臓器を圧迫したり浸蝕したりして、最後には死に至らせてしまう。

残念ながら、父の場合は、一個も残さずに取れる可能性が非常に少なく、というより、可能性がないと言った方がいいらしかった。

叔父の説明を聞いているうちに、私は血の気の引いていくのが分かった。

そして、叔父は、私が落ち着くのを待ってから、母や姉そして私達兄弟の妻といった女性達に、父が癌であることを話すかどうかの相談を始めた。

叔父の考えでは、女はすぐに涙を見せてしまい、父に重病であることを報せているようなものだから、黙っている方がいいのではないかと言った。

どんなに修行を積んだ高僧であっても、自分が不治の病だと知った途端に、精神状態が不安定になり、急速に衰弱していったという話を何かで読んだことがあると叔父は付け加えた。

兄も叔父と同意見だと言った。

二人は父のことを始めから知っており、男の中では、私一人だけが知らされていなかったわけで、少なからず不公平に感じていたが、今度は自分もその仲間へ入り男としての復権を果たしたようなもので、私も同意見だと力強く言った。

その代わりに男である℃達兄弟は、その日から、辛い仮面を被らねばならなかった。

夜遅くまで、三人で話をして家に帰ったのだが、憂鬱な気持ちを隠して、「ただいまー」と元気よく言わなければならないことは、思いのほか辛かった。

 

私は当時『どてらい奴』という小説のモデルにもなった社長のいる、山善の営業部にいたが、父が癌であることを知った当初は、家で我慢しなければならないことへの反動であろうか、営業で外出した時など、運転をしながらでも、自然に涙が流れた。

今まで何か困ったことがあると、いつも助けてくれた父だった。

山善も父に入れてもらったのだが、その前にいた本州製紙へも父が入れてくれたのだ。

私は本州製紙を、入社して二年も経たずに父に無断で辞めてしまい、さっさと大阪へ戻ってきてしまった。

父も立場上、随分と困った筈だと思うが、それほど私を叱るでもなく、大阪で商売するのなら基盤を作らなければ駄目だからと、今度は山善に入れるよう、社長に頼んでくれた。

父に甘やかされることに慣れきった、世間知らずで親不孝者の私にとって、そんなことは当たり前のように思っていた。

私は山善では社長室に配属され、コールドチェーンシステムという新規のプロジェクトに参画させられた。

それは、ニチレイの冷凍食品と三洋電機の冷凍庫やフリーザーをシステム販売するというものであったが、会社の業績が急速に悪くなったので新規の事業は中止されることになり、それとともに社長室も閉鎖されてしまった。

そして、社長室の全員が、山善の命取りにもなりかねないと噂されていた南紀の椿にある馬鹿でかいリゾートマンションの販売に振り向けられた。

私は社長室から一緒に移ってきた同僚と、一週間ほどそのマンションに寝泊まりしていたが、大き過ぎて、まず三分の一も埋まらないだろうと思った。

いつまでもゴーストマンションのままだと、買った人も楽しくないし、私は、どうしても販売する気にはなれなかった。

それに、私の場合は、父の知り合いに勧めてしまいそうなので、もし、買ってもらったとしても、後で迷惑をかけてしまいそうに思え、余計にブレーキがかかってしまう。

そんな頃に父が病気になったのである。

 

父は毎日検査ばかりしていた。

手術のために、事前に色々と調べておかなければならないことは分かっているのだが、その間にも、癌がどんどん父の臓器を浸蝕していくように思い、『検査はもうええから、早く手術をしてくれ』と言いたかった。

私は手術の日が決まるまで、一日一日が長く感じられて苦痛だった。

ようやく手術の日が九月十七日に決まった。   

 

そして、運命の日がとうとうやってきた。

私は会社を休んで、妻と一緒に朝の中央環状線を、自宅がある豊中から守口にある松下病院へ向かった。

当時の松下病院には駐車場がなく、病院の前にある公園の周りに車を止めなければならなかった。

駐車する場所を探している時、カーラジオから、桜と一郎の昭和枯れすすき≠ニいう曲が流れてきた。

今までにない珍しい感じのする曲で、桜の

燗高い声と、一郎の落ち着いた声がミスマッ

チとも言えるのだが、そのことが、却って、この曲に独特の雰囲気を醸し出していた。

私は妻に、「これは絶対流行るな」と言った。

別に曲の話題でなくても良かったのだが、妻が私に、どう話しかけてよいかの分からない風だったので、『僕はそれほど心配してへんから、普通にしてくれてたらええからな』と伝えたかっただけなのである。

当時の松下病院は、建物は古くて、こじんまりしており、お世辞にも見栄えがするといったようなものではなかった。

私達が病室に着いたのは八時を少し回った頃だった。

病室には、入院の日以来ずっと泊り込んでいる母に加え、兄夫婦とその赤ん坊、芦屋から駆けつけた姉、そして叔父も既に来ており、それ以外にも、父が信頼している部下の土江さんや秘書の淡路さんまでもが来てくれていた。

父の地位を考えると当然のことなのだろうが、下っ端の私からすれば、さすがだなと思った。

カラッと晴れた空からは強い日射しが病室に射し込んで、眩しいくらいだったし、これだけ大勢の味方がいるので心丈夫のような気がした。

実際は、待機している人数が多いことや天気が良いことと、父の手術がうまくいくこととは、全く関係のない話なのだが、大勢の人がいるということが、私に弱々しい表情を出しづらくしており、気丈にさせたのかもしれない。

もしこれが逆に、薄暗い曇天の日で、人も僅かしかいなかったら、きっと暗い気持ちになってしまっていただろう。

父の不安を少しでも和らげようと、父を取り囲み、皆で談笑していた。

途中、内科の相沢医師からバトンタッチされた外科の中川医師が回診に来たが、実際は回診というよりは、父を安心させるための顔見世のようなものだったのかもしれない。

暫くして看護婦が入ってきて、父に安定剤と思われる注射を打ち、「島田さん、そろそろ手術着に着替えましょうか」と言ったので、母を残し、全員病室から退出したが、私は『いよいよやな』と思い、一瞬で現実に引き戻された。

看護婦に、「入っていいですよ」と言われたので、今度は家族だけが病室に入った。

父は手術着に着替えて、車椅子に座ったまま、ニコッと笑顔を見せていた。

手術着姿の父を見た私達が、緊張した顔をしていたので気を遣ってくれたのだろう。

少しは時間があるのかと思っていたが、「それでは島田さん行きますよ」と看護婦が車椅子を押し始めた。

姉が、「 お父さんがんばってね!」と言うと父は頷き、病室から出て行った。

これから麻酔や手術前の処置が色々とあるのだろう。

父がいない病室に取り残され、一族の中心が急に抜けてしまった無力感に襲われていた。

暫くして看護婦が私達を呼びに来てくれ、一瞬だが手術室に入る前の父に会うことができた。

父を乗せた寝台車はゆっくり廊下を進んでいた。

母と姉がすぐそばから声をかけて励ましていたが、それに答えるように、父は朦朧としながら皆の顔を見ていた。

私達夫婦は少し離れて父を励ましていた。

ここから先は遠慮するように看護婦に言われたので、全員エレベーターの手前で父を見送った。

私達はぞろぞろと父のいない病室へと戻っていった。

父の病室はゆったりしており、中央にベッドが置かれ、入って右側にカーテンで仕切られた付添人用のベッドがあり、左側には、簡単な炊事ができる二畳ほどの小部屋が付いていて、そこに母が寝泊りしていた。

そして、窓際には、折りたたみ椅子が数脚並べられていた。

私達が戻ると、数分も経たずに、淡路さんと一緒に土江さんが入ってきて、「今日は、わざわざ、中川先生の上の偉い先生が来て執刀してくれはるし、麻酔もその道の第一人者と言われてる後藤先生が来てくれはったから、もう任せといたら間違いないですよ」 とニコニコしながら、母を安心させるように言った。

土江さんは父より十才ほど若い笑顔の多い人で、髪の薄さが憎めない風貌を助けていた。

父も非常に可愛がっていたようである。

土江さんは幼稚園の頃から父を真似て、私のことをくん坊・くん坊≠ニ呼び、遊び相手にもなってくれた。

当然それは父への胡麻擦りなのだろうが、私にとっては嬉しかった。

くん坊というのは、國雄の愛称である國坊というのがいつの間にか変化したのだろう。

秘書の淡路さんは、豊中工場の医務室で看護婦をしていた人なのだが、父が怪我をした時に、包帯の巻き方が丁寧なことや、よく気が付くのを見て、父が秘書に抜擢した人である。

淡路さんは秘書という仕事が天職だったのか、社内の人達からも取引先の人達からも人望を集めており、父も大変、重宝していた。

その話を母から聞かされた時、私は父の重用のうまさに舌を巻いた。

二人は暫くのあいだ病室にいたが、話が途切れがちになったので出て行った。

家族だけになり、叔父は母の体を心配して、「 少し休んでなさいな」と言った。

母が横になったので、叔父は私達に、「喫茶店でも行けへんか」と言った。

女性陣は全員、病室で待っていると言ったので、男三人だけで喫茶店へ行くことにした。

近くの喫茶店へ入ると、叔父と私は我慢していた煙草を立て続けに数本吸った。

一時間半ほど私達はそこにいて、叔父も、「ちょっと早いかな」と言いながら病室に戻ったが、すぐに土江さんと淡路さんが入ってきて、今手術が終わったことを伝えた。

余りにも手術が早く終わってしまったので私は落胆した。

きっと、兄も私と同じ気持ちだったことだろう。 

土江さんもその意味を当然知っている筈だとは思うが、「良かった良かった。やっぱりいい先生に来てもらったからですよ」 と笑顔で母に言っていた。 

私には、その言葉が悪魔の声のように聞こえてしまい、表情を暗くした。 

手術が早く終わったということは、病巣が取れなかったということだ。

私が知っているのか知らないのか、判断が付き兼ねたのだろう。今度は私の方を向いて、「良かったな、くん坊」ともう一度言った。

私は、「はぁー」と作り笑いで答えるのが関の山だった。

何も知らない女性陣は素直に喜んでいた。

 

数時間経ち、面会の許可が下りたので、私達は集中治療室へと向かった。

私は父の顔を見るのが怖かったので、遠くから静かに父を見守っていた。

父は酸素吸入器など、何本もの管に取り囲まれるようにして眠っていた。

 

姉は子供のこともあったので先に帰り、暫くして、叔父も私達の妻を乗せて帰っていった。

私達兄弟は母と一緒にいたが、暫くしてから少し遅めの夕食を食べに外出した。

私達がレストランから戻った頃、叔父がまた病院へ戻ってきていた。

私達は、面会時間が過ぎてガランとしたロビーへ行き、落胆した気持ちをそのまま出して、今日のことを話し合った。

叔父が、「 無理にでも取ってくれたら良かったんやけどなぁー」 と残念そうに言ったが、「あんまり色んな臓器に転移してたから、取れんかったんやろな」と自分自身を納得させるように呟いた。

 

その日、私達は夜遅くまで話をしてから自宅へ戻ったが、私はまた仮面を被って元気そうな顔をしなければならなかった。

「良かったね、いい先生に手術してもらって」と妻は無邪気に喜んでいたが、その時、私はどんな顔をしていたのだろうか。

私は、なかなか寝付けないと思い、ウィスキーの水割りを少し強めにして飲んだが、酔っているにも拘わらず、頭が冴えて、なかなか寝付くことができなかった。

『昨年の重役検診で分かってた筈やのに、なんで、強制的に検査するって言うてくれへんかったんや』と見えない誰かを思いっきり罵倒していた。

交通事故は、一瞬で死んでしまうので何もしてやれぬが、癌は、時間があるので色々してやれる$lは慰めの積りでそんな風に言うかもしれない。

しかし、何かしてやれる、というのは自分自身への慰めにすぎないと思う。

手遅れの癌というものは、時間をかけて、じわじわと、しかも確実に死に向かって進んでいくものであり、日が経つにつれ、患者の不安感と恐怖感は確実に増大していく。

人間にとって、こんな残酷な死に方が他にあるだろうか。

 

次の日から、私は外回りの営業の合間や会社の帰りなど、一日に一回は必ず父を見舞うようにした。

そして、私にできることが何かないかを考え、父の最期の日が来るのまで、できるだけ親孝行をしようと思った。

ちょうど私が病室へ立ち寄った時、看護婦が父の傷口の包帯を交換していた。

その傷口は痛そうではあったが、手術が終わったという安心感が、それに勝っていることが、父の表情からありありと読み取ることができた。

 

手術から五日目の九月二十一日 私が病室へ行くと母が、「今日、中川先生が回診してくれはった時に、来年の春には直腸の治療が終わるから、手術前に言ってはった通り、人工肛門を外せると思うって言うてはったわ」 と笑顔で言った。

私はそれを聞きながら、こんなにも残酷な嘘をつかなければならない医者という職業は、辛いものだと思った。

 

九月二十四日の昼過ぎ 私は会社をさぼって病院へ行ったが、父は病室にいなかった。

母に尋ねると、歩行訓練をしているとのことだった。

あの大きなお腹を切ったにしては余りにも早いので、縫い目が外れてしまわないかと心配になった。

私が廊下にでて父を探すと、兄が付き添っていて、歩行器に掴まりながら廊下をゆっくりと歩いていた。

「 もう大丈夫なんか」 と兄に尋ねると、「 腸が癒着するとあかんから、早く歩かせるらしいわ」 と言った。

時折、父は痛そうに、顔をしかめていたが、初めて自転車を乗リこなそうとしている子供のように楽しそうであった。

父は、手術も終わり、早く復帰しようと必死であった。

私は父が一生懸命なのを見て、『お父さん、元のようになるのは、もう無理なんやで』と心の中で呟いていた。

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