第四章 丸山ワクチン(前)
九月二十五日の夜、男三人だけで集まることになっていた。
私は夕食を済まし、「ちょっと行って来るわ」と言って、実家へ向かった。
私が応接室に入ると、兄が疲れたようにソファーに腰掛けていた。
今日の昼、兄は中川医師に呼ばれ、「お父さんは今年の正月を迎えるのは、ちょっと難しいと思いますので、もう、お母さんにも、本当のことを伝えて頂けないでしょうか」と言われたらしい。
中川医師にしてみれば、母が本当のことを知らないと、色々、困ることがあるのだろう。
叔父は、私の顔を見ていたが、おもむろに口を開き、「中川先生の言ってはることも分からんでもないけど、わしはやっぱり、お母さんには伝えん方がええように思うな」と言った。
私は大学と本州製紙へ行っている六年のあいだ大阪を離れていたが、叔父は身体が弱く入退院を繰り返している母の面倒を見てくれていたので、母のことは私なんかよりも、はるかに分かっている筈で、兄も私も叔父の意見に従うことにした。
叔父は三人の意見が一致したのを見届けてから、父の死を待つしかないと諦めていた私達兄弟に、心躍らせる提案をしてくれた。
その提案というのは、文芸春秋にも載っていたことだが、と断った上で、ある治療法を試してみたらどうかということであった。
私達が期待を込めた表情をしたので、叔父は話し始めた。
ただ、その前に、現在行なわれている一般的な癌の治療法と癌という病気の説明を先に話しておかなければならないと言った
それによると、癌治療で一番良いのは、病巣を全部切除してしまうことである。
しかし、父の場合はそれが叶わなかった。
その場合の治療法としては、大きく分けて三つある。
その三つとは、抗癌剤療法、放射線(コバルト)照射、そして、免疫療法である。
抗癌剤と放射線とは併用することが多いが、それらには副作用があるということを考慮しておかなければならない。
そして、その副作用を減らすために免疫療法を加えることもある。
しかし、免疫療法を選択した場合には、抗癌剤投与や放射線照射を併用することはありえず、免疫療法単独でなければならない。
なぜ抗癌剤と放射線が免疫療法と異なるのかを説明する前に、正常細胞と癌細胞との相違点を先に説明しておかなければならない。
正常細胞の場合には、一定回数までしか分裂・増殖しないという制御機構が細胞内に組み込まれている。
癌細胞というものは、何らかの理由で、その制御機構がうまく作用しなくなったものと考えられる。
そのため、癌細胞は無制限に分裂、増殖して行き、その結果、臓器がその機能を充分に果たせなくなったり、他の臓器を圧迫したりして、最後には死に至らせてしまう。
しかし、癌というものは、かなり大きくなるまでは自覚症状がなく、また、腫瘍を切り取ったとしても、細胞診をするまでは、良性なのか悪性(癌)なのか判別できないことが多い。
つまり、癌細胞というものは、正常細胞と兄弟同志のようなものなのである。
それ故、抗癌剤投与やコバルト照射をして癌を叩こうとしても、癌細胞だけでなく、正常細胞をも同時に痛めつけてしまうことになる。
それだけでなく、免疫を製造する骨髄や胸腺にも大打撃を与えてしまうので、徹底して癌細胞を叩くことができない。
そのために、白血病などの一部の癌を除いては完治するということは考え難く、延命効果という意味においてさえも疑問符が付く。
また、この二つの治療法には副作用も結構あるので、食欲がなくなったり、気分が悪くなったり、頭髪が抜けてしまったりもする。
ただ、一定期間、癌細胞を叩くことより、一時的にせよ癌が縮小し、暫くの間、完治したように見える時期がある。
それを寛改の状態≠ニいう。
それとて、癌が消失したわけではないので、暫くすると、必ずまた増殖を始めてしまう。
しかし、これらの抗癌剤療法や放射線治療が、現在の医学会での主流である。
それに対して、免疫療法というのは、動物が本来持っている自然治癒力を利用して、キラー細胞やNK細胞といったリンパ球を活発にし、それらに癌細胞を異物として認知させ、攻撃させたり、正常細胞に戻させたりする治療法のことである。
それ故、一旦、効果が現れた場合には、ルルドの泉(注釈1)と同じように、劇的な効果が期待できる。
ただ、この治療法の問題点としては、免疫を製造する能力が弱ってきたから癌になってしまったとも考えられ、初期の段階ならまだしも、手遅れといわれるような癌の場合には、癌病巣の出す悪液質というものが大量に排出されているため、体がそれに対抗する武器、つまり免疫力を生産できない状態に陥ってしまっていることも考えられる。
その場合には、この治療法はほとんど役に立たない。
その上、体に免疫力が残っているか否かの判断も難しく、効果が出るとしても、かなりの時間を必要とする。
そればかりか、その効果自体を疑問視する声も多く、医学界では、まだまだ日陰の存在なのである。
現状はこのように厳しいのだが、免疫療法の雄として丸山ワクチン≠ニいうものがあり、文芸春秋の中で、病理学の権威で、文化勲章も受章した緒方知三朗東京大学名誉教授が絶賛していた、といったようなことを話してくれた。
そして、叔父は私達に、その丸山ワクチン≠ニいうものを使ってみないかと提案したのである。
癌についての知識としては、私は怖いもの、恐ろしいもの、という以外には何も持ち合わせていなかったので、助けを求めるように兄の顔を見た。
しかし、兄も私と同程度の知識しかないようだった。
叔父は東大出というだけあって、すべての面に博学であり、常日頃から、私達が何か質問すると、大抵はそれに答えてくれていた。
そんな叔父に反対する必要もなく、私達は丸山ワクチンを使うことを即座に同意した。
何よりも、白黒をつけたがる性格の私にとっては、どうせ完治しない治療をするよりは、奇跡でもいいから、それに賭ける方が数段いいと思った。
そう決断すると、いままで何の希望もなく、真っ暗な部屋の中にいたところへ、いきなり太陽の光が射し込んできたようなもので、思い込みの激しい性格も手伝って、『これで、お父さんが治るかもしれへん』というより、『これで、お父さんは絶対に治るんや』と確信していった。
さて、決めたのはいいのだが、今度は、丸山ワクチンをもらいに行くための軍資金を捻出しなければならなかった。
叔父と相談した結果、五十万円ぐらい必要だろうということになった。
しかし、私達兄弟は、二人とも親の脛ばかりかじってきたので、自慢ではないが貯金なんてものは一切なかった。
当然、母に頼むわけにも行かず、それでは叔父にということになるのだが、それも難しかった。
叔父は頭が良過ぎることが災いして、人と融和することができず、数年前に会社を辞めてしまい、今は無職であり、祖父の残した財産で食い繋いでいた。
結局、兄弟で友人から彼等の親にお願いしてもらう以外方法がないということになった。
次の日、兄は、一番の仲良しである笠谷さんの父親に頼みに行った。
兄が先方の家へ遊びに行った時には、いつも笠谷さんの父親とも談笑していたので、その程度のお金を借りることは簡単なことだと思っていたようだったが、案に反して断られてしまった。
急遽その翌日、私の友人である林田君の親に頼んでみることになった。
夜九時に来るように言われ、兄を伴って堺市にある林田君の家を訪問した。
アンティークな雰囲気の応接室に通されて暫く待っていると、気を遣ってか、林田君は入ってこずに父親だけが入ってきた。
林田君の父親は大会社の社長だけあって、私はその風貌に圧倒された。
兄が一通りの話をしたが、会社の業績が思わしくないとの理由で、笠谷さんに続いて断られてしまった。
今までは、父が何でもしてくれていたので、たった五十万円の金を手にすることが、これほど難しいことだとは思ってもみなかった。
兄が運転して帰ったが、二人とも口数は少なかった。
しかし、事は急を要する。
こうなると、姉に父の病名を知られてしまう危険性はあったが、義兄に頼むしかないということになった。
兄が義兄の家へ頼みに行くと、義兄はすぐに了解してくれ、姉に知られずに借りることができた。
これで何とか軍資金が調達できた。
私達には会社があるということで、叔父が丸山ワクチンをもらいに東京まで行ってくれることになった。
ただ、丸山ワクチンは薬として認可されておらず、治験薬という扱いだったので、それを使用してくれる担当医の了解がどうしても必要だった。
もし医師の了解が得られない場合には、丸山ワクチンを使用してくれる病院を探して入院させるか、丸山ワクチンに理解がある個人病院で注射してもらうしか方法がないということだ。
しかし、父は自分が癌だとは思っておらないわけだし、例え癌かもしれないと思っていたとしても、手術は成功したと思っている筈なので、松下病院から転院させることなど不可能なことだった。
そのため、主治医の中川医師になんとしても許可をもらう以外に方法はなかった。
翌日、私は兄と二人で中川医師に面会し、丸山ワクチンを使ってくれるように頼んだ。
しかし、医学会での丸山ワクチンの評価は非常に低く、中川医師も当然のように反対した。
しかし、今までにも、丸山ワクチンの許可を求められたことが何度かあったのだろう、以外と簡単に了解してくれた。
一回目は、叔父が丸山ワクチンをもらいに行くが、次からは私達が行くようにと言った。
きっと、自分の発言から、丸山ワクチンを使用することが決まってしまった責任の重大さを、少しでも緩和したかったのだろう。
十月一日の夕方、叔父が丸山ワクチンを東京から持ち帰った。
私達が相談して、免疫療法である丸山ワクチンを選択したのだから、今まで使ってきた5FUやマイトマイシンなどの抗癌剤投与やコバルト照射を止めてくれるよう、中川医師に頼むとばかり思っていたのだが、案に相違して、叔父は、日本医科大学付属病院での使用説明会で、丸山ワクチンは化学療法と併用しても良いと説明されたと言った。
私は叔父の話に何か割り切れなさを感じながらも、丸山ワクチンがスタートしたことに安堵した。
毎日毎日が、父の最期を見届けるためだけの無為な繰り返しから、父に変化が出るかもしれないという喜びを持てるようになったからだ。
私は父に変化がでることを待ちながらも、何か父を喜ばせることがないか考えていた。
そんな時に父が、「 ベッドから下りるのに、このベッドは少し高いな」 と不都合を訴えた。
私は『これや』と思った。
父を喜ばせるために、父に内緒でベッドの踏み台を作ることにした。
私は元来不器用だから、何を作るにしても、きれいに仕上げることが苦手だった。
そんな私が作るのだから、鋸で板を切り、その板切れを釘で打ち付けただけの粗末な作品しか完成しなかった。
しかし、松下の常務である父が、小学生以下の私の作品を心から喜んでくれた。
私は、少しでも父の役に立てたことが嬉しかった。
手術してからは、会社関係の人達やそれ以外にも、大勢の人達が見舞いに訪れていたが、父は会う人を選んでいるようだった。
そんな中で、父の郷里出身の人達で構成されている《白山会》の人が二人、父を見舞ってくれた。
父は郷里を想う気持ちが人一倍強く、自分の出た小学校にオルガンなどの寄附をしたくらいで、郷里の人達だけは面会を断るということをしなかった。
しかし、見舞いに来てくれた二人のうちの一人が、その帰り途、交通事故に会って他界されたということを母から聞かされ、人の寿命の不思議さというものを感じないわけにはいかなかった。
また、父は血縁というものを特に大切に考える人でもあった。
そんな中でも、京都に住んでいる二人の妹を本当に大切にしていた。
その二人が見舞ってくれた時に父が見せた嬉しそうな顔を、私は今でも忘れることができない。
二人が帰る時、私が守口駅まで車で送って行ったのだが、車中で、二人がサルノコシカケの話をしているのを聞いて、『なんで、お父さんが癌やということを、知ってるんやろか』と不思議に思った。
父を見ていれば、そんなことが分かることは当然のことなのかもしれないが、隠している積りだったので、二人がそんな話をしていることに狼狽してしまい、「お父さんが変に思ったら困るから、そんなもん、勝手に持ってこんといてや」と強く言ってしまった。
丸山ワクチンの注射を打ち始めると、副作用というものはなかったが、思いがけない苦痛を父に与えてしまうことになった。
丸山ワクチンは筋肉注射なので、右肩・左肩と交互に打つのだが、小さな面積に繰り返し打つため、すぐに両方の肩の筋肉が硬くなってしまう。
熱いタオルで揉みほぐそうとしても、日毎に筋肉が硬くなっていき、その硬くなったところに、また注射するので、両肩が石のようにカチンカチンになってしまう。
何とか柔らかくしようと、私達が強い力で揉むので、父は本当に痛そうであった。
一番辛いのは父であることは当然なのだが、毎日かなりの時間を揉まねばならず、それも結構大変なことだった。
姉も義姉も子供に手が取られているので、子供がいない私の妻が適任者のようになってしまい、毎日のように病院へ行っては父の肩を揉んでいた。
私はそんな妻の姿に天使を見る思いがした。
それと同時に、不妊治療をしても、なかな
か子宝に恵まれず、子供がそばをうろついて
いない孤独な妻の姿に、哀れみを感じもした。
(注釈1)
ルルドの泉はフランス、ピレネー山脈麓のへんぴな田舎町にある。
一九五八年ベルナデッタという少女が、聖母マリアと思われる女性の指さすところを少し掘ったところ、泉が湧き出してきた。そして、その泉の水(聖水)を飲んだり浴びたりすると、難病が治るといった奇跡が頻繁に起こるようになり、今では、年間数百万人の巡礼者が訪れるというカトリック教最大の聖地となる。