第五章 〝丸山ワクチン(後)〟

私はその頃から、絶対に父を治そうと思い始めていた。

旭屋書店や紀伊国屋書店へ行き、私が読めそうな、癌や免疫に関する書物を買ってきて勉強した。

ただ、父の病名を妻に話してなかったので、妻が寝た後や買い物へ行っている間とか、会社への通勤途上や営業時間をサボったりして読んでいた。

勉強するにつれ、確かに化学療法(抗癌剤)や放射線治療をする場合に免疫療法と併用する場合もあったが、どれも化学療法や放射線治療が主であり、その副作用を緩和するために免疫療法を併用するといったものばかりであった。

免疫療法が主の場合に、化学療法や放射線療法を併用するというようなことは、見付けることができなかった。

丸山ワクチンを使用する前に、叔父が説明してくれたことと同じであり、どう考えてみても、免疫療法である丸山ワクチンが抗癌剤や放射線と併用しても良いことなどあり得ないことだと思った。

私は日曜日の朝、父のところへ行く前に、叔父とそのことについて、もう一度話しあおうと思い、叔父の家へ寄った。

きっと、私の顔は叔父を非難するように険しかったに違いない。

その頃、会議室は叔父の家に変わっていた。

叔父の家というのは、母が喜ぶと思い、父が自分の家の敷地内に別棟を建て叔父夫婦を住まわせていた

私が行くと、叔母が何時ものように珈琲を入れてくれた。

兄にも来るように私が電話しておいたので、珈琲が入る頃に庭の植木をくぐり抜けてきた。

私は、珈琲を一口飲んで、煙草に火を点けてから、「おっちゃんは、丸山先生が、抗癌剤と併用しても構へんて言ってはったと僕等に言うてたけど、そんなん、どう考えても、やっぱり変やわ」と言った。

私達兄弟は姉を含め、全員叔父のことを愛称で〝おっちゃん〟と呼んでいた。

私の詰問に対して、叔父は、「日本医大でも化学療法やコバルトなんかと併用しても構へんて言うてはったように思うし、わし等が、無理にでも止めてくれ言うたら、中川先生と衝突してしまうやろと思うんや。そうなったら、お父さんに、却ってええことないんと違うやろか」と言った。

しかし、私は何に対しても、中途半端にできる性格ではなかったし、ましてや、父の命がかかっていることでもある。

父に最善を尽くすことが第一義であり、中川医師と衝突するとか、しないとかは、次元の違うことだと力説した。

兄は、どちらとも言えないような顔をしていたので、私はもっと力説して、兄を味方に引き入れなければならなかった。

もしここで、兄が叔父と同じ意見を採れば、私だけが孤立してしまい、中川医師も次男である私の意見など、無視してしまうことは明白だった。

私は必死であった。

このことが、父の命運を左右する重大事のように思えた。

父のために、私は〝正義の使者〟にならなければならなかった。

私の迫力に負けたのか、兄も最後は、私の意見に同調してくれた。

 

一〇月も下旬に入っていたが、抗癌剤投与やコバルト照射は相変わらず続けられており、父はそのために食欲もなくしていた。

母は病院食で出された、部厚い養殖鯛の切り身を、父が食べ易いようにとペティーナイフで薄造りにしたり、昆布巻きするなど、できるだけ父の食欲を誘うように努力していた。

しかし、私には、ペティーナイフの切り口がきれいでないためか、あまり旨そうには見えなかった。

日頃、父は接待などで、贅沢な食事をすることが多かっただろうと思っているので、病院の粗末なプラスチック容器で食事をしている父を見るのは忍びなかった。

父が食欲をなくしているのは、そんなことが原因でないことは明らかであったが、せめて夕食ぐらいはと思い、兄弟が順番に家で作ってくることにした。

 

そろそろ退院する話が出てきても良さそうなのに、その兆しすら出てこないことに、父はイライラし始めているようだった。

父もコバルト照射をしていることで、自分が癌かもしれないと思っていたかもしれないが、母が少しも動じないことで、少しは安心していたように思う。

もしそうであれば、母に話さなかったことは、大成功だったということになる。

父がそんな不安定な状態の時に、最近代わった付き添い婦が、「 前に付いた患者さんも、直腸癌で同じように人工肛門付けてはったけど、結局死なはったわ」と母に言った。

本人は小声で話した積りだったのかもしれないが、それが父に聞こえてしまい、父は激怒して、「 うるさい」と怒鳴ったと母から聞かされた。

何という無神経な、また信じられないことを言う人がいるものだと、私は心からその付き添い婦を憎んだ。

【人は極限状態に置かれた時、九十九パーセント駄目だと思っていても、一パーセントでも可能性がある限りは、それを希望にして生きられるものなのだ】

当然、その付き添い婦は交替させられたが、 父がその言葉でどれほどの傷を受けたてしまったかと思うと、私は父がかわいそうでならなかった。

 

二回目の丸山ワクチンをもらいに行く日が近づいてきた。

叔父に言われ、私達は日本医大へ提出するための報告書を書いてもらおうと、中川医師のところへ行った。     

そして、叔父に日本医大への道順を教えてもらい、十一月五日、私達は東京へ向かった。

 

私は会社に有給休暇を申請し、妻には、「今日は、仕事でちょっと遅くなるかもしれへんから」と言い残して家を出た。

兄も私と同じだと言った。

兄はその頃、松下電器を辞めて、その関連会社へ行っていた

東京は久しぶりだった。

目的地の日本医大方面へは訪れる機会もなく不案内であった。

叔父が書いてくれた通り、私達は東京駅で山手線に乗り換えて上野駅まで行き、上野で早稲田行きのバスに乗り換えた。

バスが日本医大前の停留所に着いたが、それらしい雰囲気がないことに、少し戸惑いながらも日本医大の受付へ行ったのだが、丸山ワクチンをもらうのはそこではなく、付属病院の方だった。

付属病院へ行くと、間違ってないことがすぐに分かった。

というのも、私達が思っていた以上に大勢の人達が、丸山ワクチンをもらいに来ていたからである。

私達は受付けを済ませ、言われた通り、他の人達と一緒に、ぞろぞろと説明会場へ向かった。

そこで、私達は丸山先生の話を直接に聞くことができた。

丸山先生はかなり高齢で、私が見たところ八〇才を越えているように見えた。

少し背中の曲がった、色が白い小柄な人で、見るからに学者風だった。

不思議なことに、目は少し青みを帯びたように見え、澄み切っていた。

兄も同じように思ったらしく、「あんな目の澄んでる人、見たことないなー」 と言った。

丸山先生の説明が始まった。

それによると、丸山ワクチンを使う人のほとんどが末期癌患者であり、そういう人は、ただでさえ免疫力の低下が著しいので、抗癌剤や放射線との併用は絶対に止めて欲しいと言った。

私は兄に、「やっぱり、今まで間違ってたんや。大阪へ帰ったら、中川先生と話し合わんとあかんな」と勝ち誇ったように言ったが、同時に、大阪へ帰って大変なことをしなければならなくなったわけで胸の動悸が早くなるのが分かった。

  

私達は大阪へ戻ると、その足で松下病院へ向かった。

病院へ行き、看護婦詰所に丸山ワクチンを渡してから、二人一緒に父の病室へ行った。

父は食事中だったが、二人一緒というのは珍しかったので、両親とも、少し怪訝な顔をしていた。

 

次の日の夕方、私達は中川医師と対決した。

私が、「丸山ワクチンの説明を聞いてきましたら、抗癌剤やコバルトを、すぐに止めるように言われたんですが」 と切り出した。

それならすぐに止めましょう、と言ってくれる筈もなく、思った通りの押し問答となった。

それもだんだん激しさを増していき、中川医師も気色ばんで、「私も父を癌で亡くしてますんで、医者としての全力を傾けてるんですよ」と言った。

私は、中川医師が父親を癌で亡くしていることを知らなかったので、一瞬ひるんだが、すぐに体制を立て直し、「それなら先生は今の治療で父を治せる、と断言してくれますか」 と応戦した。

青二才の思わぬ逆襲に、今度は中川医師が一瞬たじろぐ形になったが、医師の威厳を回復するように、「医者として、私も後悔したくないんですよ」と言った。

その言葉に中川医師の誠実さを感じはしたが、「僕等の父親です。どうせ治らないんでしたら、僕等の思い通りにさせて下さい」 と涙を流しながら真剣に頼んだ。

その日は中川医師の、「少し考えさせてくれませんか」 という言葉で終わった。

私達は中川医師の結論を待てず、翌日、兄の計らいで病院の事務局長に会って懇願した。

結果、抗癌剤は中止してくれることになった。

私は小躍りして喜んだ、『これでお父さんは治るかもしれへん。今まで丸山ワクチンが効かんかったんは、使い方が間違ってたんやからあたりまえや』と思った。

そして今まで以上に、父に変化が出るのを楽しみに待つことができた。

食欲が出ないか、顔色が良くならないか、

元気が出ないか、痛む回数が減らないか、何でもいい、何か一つでもその兆候があれば、いい。

それが父の回復への第一歩になるのだから。

しかし、私が考えているように甘いものではなかった。

始めの間こそ、私は毎日毎日を楽しみにしていたが、日が経つにつれて、だんだん不安感が増幅していき、そして、諦めへと変わっていった。

私は、日本医大からもらってきた、《丸山ワクチンで喜んでいる人の声》というパンフレットに記載されている人達に会って、色々と話を聞いてみたいと思った。

そのリストには、電話番号が記されていなかったのだが、何とか、三人の電話番号が判ったのでダイヤルを回した。

しかし、私の期待は見事に裏切られてしまった。

電話した三人の内の二人から、電話が引切りなしにかかり迷惑している、とすごい剣幕で怒鳴られてしまった。

電話をかけた途端に怒鳴られてしまったので、理由を聞くことさえできなかったが、その人達や家族に、もし喜ぶべき結果が出ていたとすれば、丸山先生に対しても恩義を感じている筈だし、同じ悩みを持った者への同情もあるわけで、丁寧に応対してくれるのではないだろうか。

そう考えると、電話の応対に私は打ち拉がれてしまった。

『なんやこれは。一体どうなってるんや。文芸春秋にも載ってたぐらいやから、嘘ということはないんやろけど、僕等はお父さんに取り返しのつかんことをしてしまってるんと違うやろか』私の心は揺れに揺れた。

どちらか一人でもいいから〝丸山ワクチンは神様のようなものです〟と言ってくれていれば……。

私は完全に自信がなくなり、次の日から父の顔を見るのが辛かった。

 

翌日、会社の帰りに病院へ行ったが、三十分ほど病室にいて、煙草を吸うために一Fのロビーへ下りて行った。

ロビーでは面会の人と話している人、付き添いでの疲れを癒しに来た人、煙草を吸いに来た人など十人以上の人達がいたが、『あんたらは、大した心配もないんやからええよな』と、私は僻んだ気持で眺めていた。

しかし、後日、入院している人達の大多数が癌患者であることを聞き、この人達も私と同じ悲しみを背負った同胞かもしれないという感情で接するようになった。

 

私が丸山ワクチンの効果に疑問を持つようになった頃、叔父も同じように思っていたようで、「お父さんもかなり注射が痛そうやし、いっそ、丸山ワクチンを止めたらどうやろか」と言った。

叔父の言うことも、もっともなことだと思ったが、私にすれば、疑問を持ったとはいえ、丸山ワクチン以外に頼れるものがあるわけでもなく、ひょっとして、明日にでも、劇的に効果が出始めることも考えられるわけだし、中止することなど、考えることすらできなかった。

 

当時、私は癌関連の記事を探しては新聞を隅から隅まで読んで、本や週刊誌の広告などにもすべて目を通していた。

そして、もし目次にそれらしい記事が出ていれば、そぐにその本や週刊誌を買いに行く、のが日課になっていた。

椎茸から抽出したエキスの入っているホレステリン・天理大学の海洋軟体生物から抽出された薬・ヨード療法・リンパ球の点滴など、色んなものがあったが、その効果を調べる術を私は持ち合わせていなかった.

本当は、それらを編集した人に、話を聞くことができれば一番いいのだが、その時の私には、どうしていいのか分からなかった。

ソウルのハレルヤ祈禱院の金桂華伝道院での治療や、末期癌患者も五分で治ったという心霊治療にまで興味を持ち始めた自分を、もう少し冷静になれと戒めもした。

それ以外に、漢方の本なども積極的に読んだ。

私が一番期待していたのは、漢方薬の本場レッドチャイナだった。

当時の中国は、現在のように国際舞台へ上がっておらず未知の国であった。

それ故、ひょっとして何かあるのではないかと、西側諸国でも考えられていたからである。

事前には情報が入り難い国なので、既に、すごい薬ができているかもしれないという期待感もあった。

そんな時、新聞に〝中国で抗癌新薬発見〟という小さな記事が掲載された。

香港紙報道のもので、ニトロカフェーンという、ある種の生物から抽出された薬で、上海薬物研究所で開発され、上海第十二回国際癌学会で発表されたということだった。

私は『これや』と思い、叔父にその記事を見せた。

しかし、叔父は今の段階でこれを手に入れることは、不可能に近いことだし、きっと、まだ中国国内でも臨床試験中か、それ以前の段階かもしれないだろうと言った。

それでも私は、何とかならないかと毎日考えていた。

 

十一月二十一日 母の誕生日である。

それも還暦という特別の日でもあった。

急遽、病室で誕生パーティーをすることが決まったので、姉にも声をかけたが、三人目の子供が生まれたばかりで来ることはできなかった。

結局、兄夫婦とその一歳になる孫、そして私達夫婦と、父が気に入っている付き添いのおばさんという、総勢八名の大パーティーとなった。

妻達が、各々の家で作って持ち寄った料理に、花・ケーキ・シャンペンなどを買ってきて、病室は一瞬で還暦祝いのパーティー会場に変身した。

父はベッドから下りて椅子に座り、私達兄弟が逆に父のベッドへ腰を掛け、女性達は補助椅子に座った。

「お母さん、おめでとう」父の音頭でパーティーが始まった。

付き添いのおばさんは、乾杯の後、父が引き止めたにも拘らず、休憩と称して部屋を出て行った。

きっと気を効かせてくれたのだろう。

続いて父が、「ハッピー・バースデーお母さん」と歌い出した。

毎日毎日、母に世話になっているその労をねぎらうかのように、父はニコニコした顔をしていた。

母も皆が歌うのを、俯きかげんに照れながら聞いていた。

母もまさか誕生日を祝ってもらえるとは思ってもみなかった、というより誕生日ということさえ忘れていたようで、本当に嬉しかったに違いない。

中川医師が気を効かせて、少し前に痛み止めのペンタジンを注射しておいてくれたようで、父も痛みから開放されて楽しそうだった。

父が癌でなかったらどれほど楽しかっただろうと思いながら、私は父の顔と母の顔を交互に見ていたが、笑顔とは裏腹に悲しみが込み上げてきて、涙が出そうになるのを止めるのに必死だった。

しかし、その日は久し振りの一家団欒があった。

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