第六章 PSK

十二月十日 三回目の丸山ワクチンをもらいに行く日である。

今回も、兄と一緒だった。

前日の朝刊の広告欄に、近藤啓太郎著《微笑》という新刊書が掲載されていた。

内容の説明に癌の一文字が入っていたので、私は、東京へ行く車中で読もうと思い、昨日の間に買っておいた。

新幹線に乗るとすぐに、私はその本を読み始めた。

文中では登場人物の名前が変えられていたが、近藤啓太郎氏自身の話であることはすぐに分かった。

敬一郎の奥さんである寿美が癌を患い、最後は亡くなってしまうのだが、途中で使用したある薬が驚異的な効果を発揮し、かなりの期間、寿美が完全に治ったように見えたという内容だった。

私は読んでいて、『これは、すごい薬やな』と思った。

兄にそのことを話すと、兄も、「そんな、すごい薬あるて、書いてるんか」 と嬉々とした表情をした。

私は、すぐにでも、その薬を手に入れたいと思い、東京の上野でバス待ちの間に出版社に電話した。

私の声が余程、切羽詰まった声をしていたのかもしれないが、編集部で近藤先生の自宅の電話番号をすぐに教えてくれた。

私が電話をすると、近藤先生本人が出てくれたので驚いた。

正常な頭の状態なら、こんなにも簡単に電話ができず、一旦は躊躇するかもしれないが、その頃の私は、父のことになると常に冷静さを欠いていた。

近藤先生の声は暖かく、私にとって安心できるものだった。

私は父の病状のことを説明し、今から丸山ワクチンをもらいに行くところであることや、父を何とか治したいと思っていることなどを早口で捲し立てた。

近藤先生も私の気持ちをすぐに汲み取ってくれたようで、本来なら簡単に教えてもらえないようなことも、すべて話してくれた。

文中では、中矢化学が製造し、国立癌センターで臨床試験中であると書いてあったが、中矢化学というのは、呉羽化学のことであり、発売元は三共製薬であるということだ。

また、薬の名前もラックスと書いてあったが、実際には、まだ治験薬の段階で、PSK(後のクレスチン)という名称で呼ばれており、大阪なら、大阪大学微生物病研究所付属病院で臨床試験中であることなども教えてくれた。

私は近藤先生に、深々と頭を下げて電話を切ったが、ちょうどバスが来たので、私達はそのバスに跳び乗った。

バスが動き始めた途端、私は興奮状態のまま、兄に電話の内容を早口で話したが、話し終わると、ほっとしたのか、段々と落ち着きを取り戻していった。

そして、どうやって、その薬をもらいに行こうかという相談をした。

兄はすぐに名案が浮かんだような顔をして、大阪中央病院の田附先生に頼んでみると言った。 

田附先生は、大阪中央病院の副院長で、父が昔からよく知っている人で、今では病気がちの母の主治医になってくれていた。

母は体が弱く、特に、この五・六年は入退院を繰り返しており、一年の内の三分の一は大阪中央病院へ入院していた。

兄も風邪を引いた時など、母を見舞ったついでに診てもらったりしていたので、結構親しそうだった。

兄は、田附先生が大阪大学出身だということを聞いていたので、うまくいけば微生物病研究所付属病院を紹介してもらえるかもしれないと言った。

  

私達は日本医大へ行くのも二回目だったので、不安無く行くことができた。

どう違うのか分からないが今回は薬の種類が変わっていた。

今まではAB二種類の薬を隔日に注射していたのだが、今回の薬はAAになっており、しかも四分の一増量というものである。

 

大阪へ帰った翌日、兄が田附先生に電話をかけ、先生の回診が終わる夕方四時に約束が取れたので、私達はその時間に病院で落ち合うことにした。

先生はまだ回診中だったが、看護婦が先生に連絡を取ってくれた。

暫く待っていると、一階へ先生が降りてきてくれ、先生の部屋へ招かれた。

田附先生は背が高く、少し痩せていている感じの人だった。

先生は優しい眼差しを私達に向けて、父の様態を聞いた後、母のことも聞いてくれた。

兄がそれに答えた後で、今度は私がPSKのことを話し始めた。

《微笑》という本に載っている薬が癌に著しい効果があったと書いてあった。

電話で尋ねると、その薬はPSKといって、大阪大学微生物病研究所付属病院で臨床試験中だと教えてもらったことなどを話した。

田附先生は、「 そんなに効く、いい薬がありますか・・・分かりました。そこの院長は知ってる先生なんで紹介状を書きましょう」と言ってくれた。

その先生は田口鉄男先生といい、癌の権威であり、日本でも屈指の有名な先生であることも教えてくれた。

簡単には行かないかもしれないと思っていたので、私は狐につままれたような気がした。

 

次の日の夕方、兄が田附先生に電話をすると、翌日は、ちょうど田口先生の診察日ではないので私達に会ってくれることや、確かに臨床試験していることなどを教えてくれた。

私は、『やった』と心の中で叫んでいた。

兄と相談した結果、田口先生には私が電話することになった。

私には翌日まで待つことが、すごく長く感じられた。

翌日、会社で、朝の打ち合わせを終えるとすぐに、公衆電話から微研に電話を入れた。

交換で待つように言われたが、私は待っている間も、期待と緊張で胸の鼓動が激しく打っていた。

暫くすると田口先生の声がした。

男性的な太い声で、だからと言って、圧迫感のない柔らかな声だった。

私は先生のその声を聞いた途端に緊張がほぐれ、「 田附先生に御紹介頂きました島田と申します」 と言った。

「 あぁ、聞いてます。今日、何時頃来られますか」 と丁寧に聞いてくれた。

一時に決まり、私はすぐに兄に電話を入れて、十二時四十五分に微研の駐車場で待ち合わせることにした。 

私は営業に行くと言って会社を出たが、こういう時、営業部に所属していることは都合がいい。 

 

当時、微研は吹田市にある北千里公園のすぐ裏側の山田丘というところにあった。

山田丘は名前の通り、その辺り一帯が小高くなっていて、池や木立も多い。

そんな中の少し古ぼけた建物がそれである。

付属病院は、微生物病研究所と隣り合わせになっていて、田口先生は微生物病研究所付属病院の院長だった。

受付けで、田口先生と約束していることを告げると、院長室を教えてくれた。

院長室は二階の奥まった部屋だった。

兄が扉をノックすると「どうぞ」と声が聞こえたので私達は扉を開けた。

一通りの挨拶を終え、私達は田口先生に椅子を勧められた。

田口先生は、電話の声と雰囲気がピッタリ合う、五十歳前後のガチッとした体型の人で、髪の毛がフサフサしていることが特に印象的だった。

院長室は、備え付けの棚に難しそうな専門書がぎっしりと並べられていたが、四畳半位のちょうどいい広さだった。

窓からは木立が数本見えて眺めも良く、私は、『大学の中の病院やなー』と思った。

「 PSKですか……あれは今、臨床試験中の薬で、かわら茸というキノコから熱抽出したものなんですよ。いくらでも差しあげますから、使ってみて下さい」 とこんなに偉い先生が、私達のような年齢の低い者に敬語でしゃべってくれた。

田口先生から先に話を切り出してくれたので、凄く気が楽だった。

ひょっとして、他の病院へは出せないとか、非常に高価なものだとか言われたらどうしよう、と色々悩んでいたからである。

まさか、こんなにも簡単にもらうことができるとは夢にも思っていなかった。

先にPSKを使うように言われてしまったので、順序が逆になってしまい、変な具合だったが、私が父の容態や丸山ワクチンのこと、そして、PSKを知ることになった《微笑》という本の内容などを矢継早に話した。

田口先生との会話中に、私達兄弟と同年代と思える学生かインターンらしき人が、何度か部屋に入ってきた。

その中には、既に先生になっている人もいたのかもしれないが、全員直立したままで、田口先生に質問や報告をしていた。

その度に、今、私が初対面で厚かましく話をさせてもらっている先生は、ここで一番偉い先生であり、そればかりか、日本でも屈指の有名な先生なのだと思うと、話をさせてもらっていること自体が誇らしくもあり、同時に恐縮してしまった。

しかし、それと同時に、田口先生を紹介してくれた田附先生に頭が下がる思いであった。

私が本の話をすると、田口先生は、「そんなにあれが効いたと書いてましたか」と少し驚いた顔をした。

私は、少し自慢気にその下りを話したが、

田口先生は、「あれは普通、単体で使うより、抗癌剤と併用して、その副作用を和らげるというものなんで、あれだけを使うというのは、どんなもんでしょうかね」 と言った。

私は免疫療法に心酔していたので、『先生は、ご存知ないのかな。これは免疫療法では最高のものなのに・・・』と神をも恐れぬ生意気なことを考えていた。

しかし、その時はまだ、PSKの使用法というものは、確立されていなかったようだった。

田口先生に待つように言われ、私達が暫く待っていると、先生自ら袋に一杯のPSKを持ってきてくれた。

私達にとって、それは宝物より大切なものに見えた。

微研の駐車場で、兄とともにその成果を喜び合ってから、お互い別々の車で松下病院へと向かった。

兄がPSKの入った袋を積んで先に走り、私は、他の車が兄の車にぶつからないようにガードして、そのすぐ後ろを走った。

一緒にいる時よりも、こういう時の方が、兄との連帯感を意識する時でもある。

私は最大限の注意を払いながら車を運転し、大げさのようだが、無事、松下病院へ到着した。

私達は、いつものように病院の前にある公園沿いの道に駐車した。

この辺りは駐車場がないにも拘わらず、駐車違反の取締りが厳しかった。

『ここは困ってる人ばかりが来るとこやのに、なんで、こんな厳しくするんやろ』といつも腹立たしく思っていた。

ただ、今日は、既に他の車が犠牲になっていたので、私達にとってラッキーな日だった。

犠牲になった車のタイヤには、真新しいチョークが引かれており、そのタイヤのすぐ横には、昼の時間が書かれていた。   

大抵、取締りをするのは一日に一回だけなので、今日は取締りが終わっているということになり、安心して駐車できるのだ。

私達は車を停めて、急ぎ足で病院へ入り、四階の看護婦詰所へと向かった。

そして、中川医師に至急連絡を取ってもらうように言った。

看護婦に一Fの外科外来の前で待つように言われ、私達は一階へ下りていったが、待合所のそんな時間はガランとしており、朝の喧騒が嘘のようだった。

暫く待っていると中川医師がやってきて、診察室で話すことになった。

中川医師にはPSKのことは何も言ってなかったので、兄から説明したが、「そんな薬があるんですか」と丸山ワクチンの時とは表情が全く異なり、その対応の違いに、私は困惑させられてしまった。

中川医師にPSKを渡した後、私達は病室にいた。

夕方、看護婦が持ってきた薬の中にPSkが加えられていた。

暫くすると中川医師が入ってきて、「今日からこれを飲んで頂きます。少し飲みにくいかもしれませんが、体の調子を良くする薬ですから頑張って飲んで下さい」と父に説明してくれた。

父は少し変な顔をしながら頷いていた。

田口先生からPSKを受け取った時、私は有頂天になっていたので、余りその薬を見ていなかった。

よく見ると、コップに五分の一ぐらいしか入ってないのだが、真っ黒で気味の悪い薬だった。

本当に、不味そうなので、少し父が気の毒だったが、『お父さん、これで良くなるかもしれへんから頑張って飲んでな』と心の中で励ましていた。

そして、私はまた、父に変化が出るのを期待しながら、毎日を過ごせるようになった。

 

それから二日後の十二月十四日、会社の帰りに私が病院へ行くと、母が、「今日、松下さんが漢方の偉い先生で、東光先生という方を連れてきはって、粉の飲み薬と床擦れの所に貼る真っ黒な薬をくれはったわ」と言った。

私は内心、『そんなもんは必要ないのに』と思ったが、父にとって松下幸之助氏は神様であり、その神様が自分のために何かをしてくれたと思うだけでも元気が出るわけであり、私も喜ばざるを得なかった。

私は、きっと、粉薬は霊芝のようなキノコの類いだろうと思った。

ただ、母の次の言葉を聞いて、やはり神の助け≠ェあったかもしれないと思った。

既に抗癌剤の投与は止められていたが、コバルト照射は相変わらず続けられていた。

コバルト照射も抗癌剤と同じで、免疫力を低下させるので、私は止めて欲しかったが、中川医師は頑として首を縦には振ってくれなかった。

東光先生がどんな言い方をしたのかは分からなかったが、父が中川医師に頼んだらしく、翌日からのコバルト照射は止めることになった。

松下さんは、他にも色々と父のことを気にかけてくれていた。

松下さんは週末の金土日の三日間を療養のために、父の病室の次の部屋、その階では一番奥にある病室を改造した部屋で過ごしていた。

そして、専属料理人を置き、父のところへも、時々、その料理を運ばせてくれていた。

母が、「松下さんは、本当に長唄がお好きなんやね、よくテープ聞いてはるわ」と言っていたが、テープから流れてくる長唄が壁伝えに聞こえてくると、神の存在が確認できるので、父にとって、これ以上の幸せはなかったのではなかろうか。

 

PSKがスタートして四日目、私が病室へ行くと、父の調子が良さそうだった。

次の日からも調子の良い日が続き、父の機嫌も良かった。

私は嬉しくなった。

ちょっと効果が出るのには早過ぎるかもしれなかったが、丸山ワクチンはずっと続けてきたわけだし、PSKとの相乗効果で急に効き始めたとも考えられる。

理由はどうあれ、効いてくれれば、それでいいのだ。

「お父さん、本当は癌やったんやけど、もうすぐ治るからね」と言って、皆で一緒に楽しく過ごせる。

父もきっと、兄弟二人が努力したことを喜んでくれるに違いない。

今度こそは親孝行を一杯しよう。

楽しい情景が、泉のようにどんどん脳裏に湧き出してきた。

私達はコバルト照射が中止されてから六日目の十二月二十日に、勝ち誇ったような気分で、中川医師に面会した。

私は中川医師に、「父が良くなったような気がしますが」と控えめに切り出した。

しかし、私は中川医師の次の言葉で、天国から地獄へ落とされてしまった。

「お父さんは良くなったんではなく、プレドニンの一時的な回復ですよ」

プレドニン、これは副腎皮質ホルモンのことであり、それが開発された当初は、【何にでも驚くほど効果を発揮し、どんなに悪い状態の患者でも一瞬で良くなる】と無制限に使用された。

しかし、実際には、良くなるのは一時的であって、その後は逆に、極端に悪くなってしまうことが多く、神の恵みといわれていた薬が、後に悪魔の薬とまで言われてしまった。

当然、使用しなければならない場合もあり、時宜を得た使用には抜群の効果を発揮する。

だが、使い方を一歩間違うと、免疫力をすべて奪い取ってしまい兼ねない恐ろしいものであることも確かである。

私は、「何故ですか。僕達が免疫療法に全力を傾けていることは、ご存知の筈じゃないですか」と力無く詰め寄った。

私は、もう、どうにでもなれという気持ちだったので、プレドニンをすぐに止めてもらうという了解だけを取り付けるしかなかった。

中川医師は父の苦しい症状を取り除くことだけに専念していると言い、私とは全く異なる思考をしていたわけである。

私は朦朧とした頭の中で、『そういえば、父はここ数日、くしゃみをしてなかったな』と思った。

父はアレルギー性鼻炎であり、朝夕には三軒先にも聞こえるほど、大きなくしゃみをしていた。

 

アレルギー性鼻炎・喘息・アトピー性皮膚炎が起こるような体質を一般にアレルギー体質という。

異物などの抗原(外部要因)に対して、自分を守ろうとする抗体が身体にできて、それに対抗する、これを抗原抗体反応という。

その反応の仕方が、普通の人より過剰に反応してしまうことをアレルギー反応といい、そんな身体のことをアレルギー体質という。

しかし、プレドニンを投与することによって、一瞬にして、抗体の正常な反応性が抑制され、抗原抗体反応が起こらなくなってしまうのである。.

逆に言えば、くしゃみが出ている間は、父にも、少しは免疫が残っていることの証明にもなるのだが、その免疫も、プレドニンを投与することによって、一瞬で根こそぎにされてしまうのだ。

 

私は家に入る前に、いつものように仮面を付けて、「ただいまぁー」と元気よく言ったものの、後が続かなかった。

妻にそんな気持ちを見透かされてしまい、「何かあったの」と聞かれたが、「いや、成功する寸前まで行った仕事やったのに、調査部が調べたら、そこの会社は取引したらあかんて言われてしまったもんやから、腹が立ってな」とごまかすのがやっとだった。

  

十二月二十三日 病室へ行くと重たい空気が充満していた。

私がいつものように隣の小部屋を覗くと、母が少し困ったような顔をしながら、小声で、「お父さん、今日お尻から、たくさん出血してね」と言った。

父も相当ショックを受けたらしく、ベッドの上で天井の一点を凝視しており、私が部屋へ入った時に、ニコリともしない理由が納得できた。

父にしても、入院以来、希望の光が点灯しては消え、また、点灯しては消えての繰り返しであり、今回のことは特にショックが大きかったのだろう。

数日調子が良かった直後の大量出血であり、父の感情の振幅は計り知れない。

 

私は次の日に田口先生を尋ねて、ことの成り行きを説明した。

田口先生は私の話を聞いていたが、敢えてコメントしてくれなかった。

その代わりに、私のPSKに対する質問に答えてから、「PSKを一番使っているのは、東京の国立がんセンターの伊藤先生ですが、一度会いに行かはりますか」と聞いてくれた。

私が「是非お願いします」と言うと、すぐに紹介状を書いてくれ、年末の忙しい時期なのに、伊藤先生とすぐに会えるように電話までかけてくれた。

 

私は翌日の朝九時に出発する新幹線に乗り込み、東京へ向かった。

今回の上京は私一人だけだった。

いつもは兄と二人なので安心感はあるが、兄弟とはいっても、全く気兼ねしないというわけではなく、また、癌に関する書物を必死に読みながらだったので、のんびりという言葉が当て嵌まるようなものではなかった。

それに、大阪にいる時は、毎日、何かに急き立てられているように感じていたので、プレドニンのことでショックを受けたとはいえ、PSKだけに賭けている今回の上京は、他に考えることもなく、新幹線に乗っている三時間あまりは完全にのんびりできた。

その上、出発時間が良かったのだろう、二人席を最後まで一人で占領できた。

 

私は昔から駅弁が好物で、新幹線なら水了軒≠フものが一番だと思っている。

今までにも、色彩豊かなものや変わっているものなど、色んな駅弁を食べたが、水了軒のもの以外は、おいしいと思ったことがない。

新大阪駅から京都駅までは十五分ほどで着くが、そこを過ぎれば名古屋駅まで一時間ほど時間がある。

私は折角の好物をゆっくり食べたかったので、京都駅を過ぎて、乗り込んできた人達が席に着き、ざわめきがなくなってから駅弁を食べ始めた。

こんな風に食事をするのは、数ヶ月しか経っていないにも拘わらず、何年振りかのような気がした。

新聞をゆっくり読み、その後で週刊ポストもゆっくり読んだ。

しかし、いままでの癖で、何を読むにしても、癌関連の記事がないかと、目次からのスタートになってしまう。

そうこうしている間に、静岡駅も過ぎ、暫くすると、「左手にきれいな富士山が見えます」と車掌の声で、車内放送が流れた。

私は『国鉄にしたら、粋な計らいやなぁ』と思った。

車掌の言う通り、富士山が本当に綺麗に見えた。

普段は麓の稜線は見えても、その上には雲がかかっていることが多く、こんなにも綺麗に見えることはまずないだろう。

私は大学を出て本州製紙に入社したての頃、富士の宮市にある会社の工場で、二週間ほど研修をしたことがあるが、その間に完璧な富士山が見えたのは一回切りしかなかった。

今日の富士山はその時と同じで、堂々とした美しさを称えていた。

そんなことを思い出していると、熱海駅・小田原駅と通り過ぎていき、東京駅到着まで、三十分ぐらいのところまで来た。

私は伊藤先生と会って話すことなど色々と考え始めたが、その途端から胸が少しずつ苦しくなっていった。

東京駅に着き、山手線に乗り換えて有楽町駅で降りた。

有楽町駅は日本一地価が高い銀座が目と鼻の先にあるのに、余り綺麗なところではなかった。

二年ぶりだったので、数寄屋橋付近へ立つと懐かしさが込み上げてくる。

この辺りは、本州製紙に勤めている頃、いつもぶらぶらしていたところである。

そこから真直ぐ南へ十分ほど歩き、少し西へ行った築地五丁目に国立がんセンター中央病院がある。

国立がんセンターへ行くためには銀座の中心を通って行くことになるのだが、一旦ソニービル側へ道路を横切ってから、南へ向かうことにした。

銀座の風を浴びながら歩いていると、銀座四丁目交差点のすぐ手前に、果物屋で有名な千疋屋があった。

私が大学を受験する時に、父が東京までついてきてくれ、私達は新橋の第一ホテルに泊まっていたが、銀座で食事をした後、父がジュースを飲もうと千疋屋へ連れてきてくれた時のことなどを思い出した。

そんな郷愁にかられながら歩いていると、銀座五丁目の交差点近くまでやってきた。

交差点のすぐ西側には、昭和通りに面して、私が通っていた本州製紙のビルがある。

交差点を南へ渡って少し行くと、車線の反対側には母の好きな歌舞伎座がある。

そして、そのまま南へもう暫く進んで、右へ曲がったところが目的地である。

建物は古かったが、ここが、あの有名な病院だと思うと胸が高鳴った。

受付けで、伊藤先生と面会の予約をしていることを告げたが、午前の診察が長引いていると言われたので、先生が食事する時間も考慮して、ニ時間後に再度伺うと伝えてもらうことにした。

私は、今来た道を逆戻りし、古巣である本州製紙へ行き、同期入社の友人を呼び出した。

永田といい、同じ消費材事業部で一緒に仕事をしていた友人である。

久し振りの再会で、一時間ほど楽しい時間を過ごし、予定より少し早目に、再び国立がんセンターを訪問した。

受付で伊藤先生の部屋を教えられたので、部屋まで行ってドアをノックすると、中から「どうぞ」という声がした。

私がドアを開けると、伊藤先生が笑顔で迎えてくれた。

伊藤先生は、田口先生とは学会などでよく会うことなどを話してくれたので、私は安心して、いつもの雄弁な自分に戻ることができた。

私はいつものように、父が今まで行なってきた治療の説明をし、PSKは伊藤先生が一番よく臨床試験していると、田口先生から聞いてきたと言った。

三、四〇分ほど話していたが、伊藤先生も田口先生の話と同じで、PSKは単独使用というよりは、抗癌剤と併用して副作用を減らすために使用する方がいいのではないかと言った。

私は、暮れの忙しい時期に時間を取ってもらったことに礼を述べてから、国立がんセンターを後にしたが、あまりにも《微笑》の内容と違っているので。その使用方法については、どうしても納得できなかった。

 

しかし、伊藤先生に会っても、PSKの単独使用で良いという返事を聞けなかったわけであり、自分の考え以外では満足しないというのなら、自分が希望することを言ってくれる先生を探し回っているだけであって、父のためというよりは、自分のために東京まで来たことになってしまう。

ただ、それから、数年後にPSKがクレスチンという名前で商品化され、その後また数年経って、抗癌剤の副作用を弱めるためだけではなく、手術後の再発防止のために、単独でも使用されたことを考えると、あながち、私の考え方が的を外れていたとは言えないのではないだろうか。

そして、製造元の呉羽化学や発売元の三共製薬の株価が暴騰したことを考えてみても、PSKに私が信念を持ったこと自体も、正しい選択だったと結論づけられないだろうか。

 

私は気持ちが晴れないまま、国立がんセンターを後にして、友人の越智に電話をした。

今日、上京することを前日に電話しておいたので、彼はどこへも出かけずに会社で待機してくれていた。

そして、東京駅の八重洲側の改札口付近で待ち合わせた。

私の方が少し早く着いたが、彼の会社からの距離からすれば、余程急いでくれたのだろう。

彼は大学の友人であるが、学部もクラブも一緒になったことはなく、私が四年間を過ごした慶応大学日吉寮の友人の友人であり、一緒によく競馬や麻雀をしたという間柄だった。 

彼は、私より五センチ高い百八十センチの長身であり、顔立ちは、いかつい方に属すると思うが、優しい性格をしており、甘えられるような包容力の持ち主でもあった。

彼とは、お茶を飲むだけの積りでいたが、「奢るから、飯食っていけよ」と言い、私が遠慮すると、「どうせ、余りいいもん食ってないんだろうから、いいもの食わせてやるよ。」と冗談めかして言ってくれ、その店で一番高いステーキを注文してくれた。

私は毎日、父のことで動き回ってばかりで、友人との付き合いを断っていたので、越智のそんな思いやりが本当に嬉しかった。

 

帰りの新幹線では、疲れが溜まっていただけでなく、アルコールの酔いも手伝って、東京から大阪までほとんど眠っていた。

家に帰って一息つくと、妻が、「東京のお兄ちゃんが痔の手術をしたんだけれど、結核性の痔だったらしくて、あと数日遅れていたら手遅れだったらしいの」と言った。

私は疲れていたので『医者なんて、そんな風に言うもんや、痔なんて病気のうちに入れへん』と言いたかったのだが、そこまで言うのも億劫で、「ふーん」と軽くあしらってしまった。

私の返事が冷たかったので、妻は塞ぎ込んでしまった。

妻は献身的に父の看病をしてくれているし、父が癌だとは知らないわけで、実家は離れているので、すぐに見舞いに行くことさえできないのだから、もっと親身になって聞いてやれば良かったと後悔した。

 
             
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