第七章 最後の正月
私は国立がんセンターでの話をするため、翌日夕食を済ませてから叔父のところへ行った。
兄は先に来ていた。
私は東京で聞いてきた話をしていたが、叔父は免疫療法の限界を感じていたようで、ほとんど興味を示さなかった。
そして、叔父は話題を変え、「お父さんはこの正月が最後になるかもしれへんと思うんやけど、家に帰る方がええんとちゃうやろか」と言った。
当然、私達に異存がある筈もなかったが、叔父の言った最後という言葉が、『お父さんは、ほんとに死んでしまうんや、お父さんに来年の正月はこないんや』という残酷な現実を大きな画像として、私の目の前に映し出していた。
私は新薬新薬、希望希望≠ニ、毎日、前ばかりを見てきたので、父の死が間違いなく近づいてきていることを、認識していなかったのかもしれなかった。
事実、父は日増しに痩せてきており、筋肉質だった肩や手足も、骨と皮だけのようになってしまっていた。
「お父さんを連れて帰るには、お父さんに、痛み止めの注射を打てんとあかんわけやけど、正月やから、病院も人手がなくなるんで、看護婦を付けられへんて言うてはんねん。どっか、近くのお医者さんで、注射打ってもらえるとこ、あるかって聞いてはんねんけど、そんなとこ、なかなかないやろ」と叔父は言った。
そう言いながらも、中川医師は注射器や痛み止めの薬を渡してくれるらしく、この質問自体、辻褄が合わなくなり、飽くまでも建て前として聞いたのだろう。
私は家族の気持ちを汲んでくれた中川医師に感謝した。
叔父は私と兄とで注射を打つように提案した。
私は、「注射なんか、こわーて、よう打たんわ」と言ったが、叔父は、「そんな難しいことと違う。わしが見本、見せたるから大丈夫や」と勇気付けてくれた。
次の日から、トイレや風呂場の改造を改造するため大工を入れるなど、父を迎える準備が始まったが、年末の大掃除も重なったので、実家は大忙しになった。
十二月三十一日 普通なら病院の診察も終わり、後は若手に任せて、外科部長である中川医師は病院に来ていないはずなのだが、わざわざ病院へ詰めてくれていた。
私達は兄弟で中川医師のところへ礼を述べに行ったが、その時に、ディスポーザブルの注射器と痛み止めのペンタジン、そして、私にとっては一番大切なPSKを受け取った。
その後、警備室で、一時帰宅の申請書に記入してから父を迎えに行った。
病室へ行くと、既に両親は帰り支度を済ませて、私達を待っていた。
父は重役の中でもダンディー≠ナ通っていた。
父は背広を着た時に、帽子を被ったりすることもあったが、息子の私でも、テレビ番組のバットマスターソン≠ニいう西部劇の、格好いい主人公に似ていると思ったぐらいである。
入院中であっても、父はいつも髪を綺麗に揃えており、無精髭を生やしているといったようなこともなかった。
前日の内に、父は冬の背広を持ってくるよう、兄に頼んでいたので、今日は寝巻きではなく、きちっと着替えまでしていた。
私は父のそんな姿を久し振りに見た。
ただ、父が痩せ細っているので、背広のサイズが全く合わず、入院時に見た父らしい重厚さがないことに心が痛んだ。
当然、そのことを一番痛感しているのは父なのだろう。
私は母から、帰り支度の入ったバッグを受け取り、兄も荷物を入れた紙袋を持ち病室を後にした。
私達が車に乗ろうと外にでた途端に、強い風がひと吹きした。
父が入院した頃は夏の暑い時だったし、病室は冬でも暖房してあるので、十二月末の冷たい外気に父は面喰ったようで、肩を窄めていた。
兄の車の助手席を倒し、そこに父は横になり毛布を掛けて、私は母を乗せ、兄の車の後ろに続いた。
私達は近畿自動車道に乗り上げた。
この高速道路は、普段から割にスピードを出して走っている車が多いのだが、師走だからか、それとも私達の車が遅いからか、他の車が、やけにスピードを出しているように思えた。
吹田のインターチェンジで下り、中央環状線を西へ向かって暫く走り、千里中央を過ぎると自宅は目と鼻の先である。
きっと父は、久し振りの我が家に、胸をときめかしているのだろう。
私も学生時代や本州製紙にいた頃、よく車で帰省したが、ちょうど、この辺りを過ぎると、自然に胸がワクワクし始めることを思い出したからだ。
家に着いて兄の車が停止したので、私もその後ろに車を止めて兄の車まで走っていき、父のいる助手席の扉を開けた。
兄は連携プレーのように、家の呼び鈴を押していた。
私は妻に、実家へ行っておくよう電話しておいたので、家の中から義姉と妻が笑顔で出迎えた。
父は照れたように作り笑いをしていたが、
自宅に帰れたのが余程嬉しかったのだろう。
妻達が、「お帰りなさい」と言うと、父もそれに答えて、「ただいま」と言った。
家に入って、自分の部屋へ行くと、父はすぐに寝巻きに着替え、既に敷かれていた寝床へ横になった。
一時間も走らなかったのだが、久し振りの車に疲れたのだろう。
病身で痩せ細っているとはいえ、父のいる家は、やはり家≠轤オかった。
暫くすると、父が痛みを訴えた。
叔父も来ていたので、手本を見せるからと、兄と私に来るように言った。
「筋肉注射やから、一回で深く刺さんとあかんのやで。そやんと液が漏れてしまうし、刺し直すと、すごく痛いからな」と応接室で説明してくれてから、三人で父の部屋へ行った。
叔父は、父の寝巻きの左袖を捲り上げて、アルコールで肩を拭いた。
そして、注射器にペンタジンを吸い込ませ、注射器の中の空気を出すために注射針の先から少し薬液をこぼした。
その仕草を見ているだけでも、私は安心感を覚えることができた。
ただ、『なぜ、叔父はこんなに手慣れてるんやろか』と不思議に思いもした。
父も叔父の器用さを認めていたので、安心しているようだった。
叔父は、父の左腕の筋肉を左手で下から持ち上げるようにしてから、ブスッ≠ニ注射針を刺した。
看護婦が打つ時には、別段、気にも止めなかった仕草なのだが、自分もやらなければいけなくなるのだと思い、凝視して見ていると、本当に音が聞こえてくるような気がした。
父は口をすぼめ、しゅーっ≠ニ音をたてて息を吸い込んでいた。
やはり、安心しているように見えても、少しは不安だったのかもしれない。
暫くするとペンタジンが効き始め、痛みが治まったようだった。
父に笑顔が戻り、ゆっくりと、久し振りの我が家を見回していた。
妻達は台所で、正月のおせち料理≠ニ夕食の仕度にかかりっきりであった。
兄が父の落ち着いた様子を伝えに行くと、お茶とお菓子が運ばれてきた。
父はお菓子には手をつけずに、お茶だけを飲んでいた。
きっと食欲がないのだろう。
一段落したので、兄が赤ん坊を連れてきた。
父も会いたかったのだろう、赤ん坊を抱っこしながら、本当に嬉しそうな顔をしていた。
夕食の時間になったので、両親と兄弟の四人が先に食べた。
しかし、父は無理をして食べているという風であった。
私は腹が減っていたのでモリモリ食べてしまい、父に申し訳なく思った。
妻達はおせち料理の最終段階である重箱詰めに取り掛かっていた。
私が食事を終えて、お茶を飲もうとすると、「ちょっと、疲れた」と言って父は自分の部屋へ戻ってしまった。
やはり、体力はほとんど残っていないようである。
私は兄とともに父の部屋へ行って、父と一緒に三人でテレビを見ていた。
九時近くになり、父もゆっくりしたいだろうと思ったので、NHKの紅白歌合戦≠ェ始まる前に私は家へ帰ることにし、居間にいる妻に、父のところへ挨拶に行ってくるよう促した。
私達は車で二・三分ほどの自宅へ戻った。
私達は子供がいなかったので、三歳になるチャウチャウ犬のチャウ君≠子供のように大切にしていた。
私達が家に帰って玄関を開けると、チャウ君が大喜びで、しっぽというより大きなお尻を振りながら飛んできて、顔を私達の足元に擦り付け、これ以上ないというほどの喜びを、体全体で表現してくれた。
しかし、私と家内のどちらか一方だけを、贔屓することがないように気を使い、二人順番に、愛想を振り撒いてくれていた。
家の中は冷え切っていたが、チャウ君の出迎えで私達の気持ちは暖かだった。
チャウ君の大きな頭をポンポン叩いてやり、私が顔をくっつけてやると、大きなザラザラした舌で、顔中を嘗め回してくれた。
その後、妻と二人でチャウ君を散歩に連れていってから、紅白≠見たり風呂に入ったりした。
コタツの横では、チャウ君が大きな場所を占領して寝そべっていた。
ここでチャウ君のためにページを少し拝借したい。
チャウ君は生後三ヶ月の仔犬の時に、ペットショップから買ってきた中国産のチャウチャウ犬で、我が家に来た時には、針で突付くと風船のように、パンと割れそうな感じがするほどお腹がプンプクリンに膨れており、その真中に、可愛いいお臍が付いていた。
また、鼻はペチャンコで、目は長い睫毛に被われて、ほとんどが黒目といってもいい感じである。
そして、身体全体はフサフサとしたビロードのように柔らかなこげ茶色の長い毛に覆いつくされており、さながら、仔熊の縫いぐるみといった感じであった。
大きくなってからは、余りにも毛が多くて、夏は暑くてかわいそうだなと思っていたら、どこかのトリマーがチャウチャウ犬のために発案したライオンカットというものがテレビで映っていたので、チャウ君もそのカットにしてもらった。
ただ、カットしてみると、ライオンにしては精悍さがなく、余りにも間の抜けた感じがして、当時人気があった漫画の主人公であるだめ親父≠ニそっくりになってしまった。
チャウチャウ犬は本来、喧嘩は強いらしいが、性格はいたって大人しいので、悪いことだとは分かっていたが、千里北公園などの広い公園へ連れていった時などは鎖を外して散歩させていた。
すると、遠くからでも子供達がチャウ君を見付けて寄ってきて、チャウ君を触ったり撫ぜたりしていた。
たまに、やんちゃな子供が、チャウ君が間抜けた顔をしているので安心してか、しっぽを思いっきり引っ張ったり、お尻の穴に指を突っ込もうとしたが、チャウ君は驚くだけで、決して怒ったりはしなかった。
また、チャウ君は、よく家から逃亡していた。
お尻を振りながら、スタスタと父の家に向かって歩道を歩いているのを、近所の人が見かけて報せてくれるといったこともしばしばで、近所でも著名犬と言えた。
私達はチャウ君と一緒にベッドで寝ていたが、時々夜中に寝苦しいので目を覚ますことがあったが、そんなときはいつもチャウ君がその大きな身体を、私のお腹や胸の上へ乗せて眠っていたのだ。
チャウ君が年頃になった頃に、私が車を運転していて、たまたまチャウチャウ犬を散歩させている人を見かけ、車を降りて声をかけた。
その犬はチャウラちゃんという雌犬だったので、私が頼み込んで、二人を何度かデートさせたが、結構、仲が良さそうだったので、両家合意の上で結婚させることにした。
その結果、チャウラちゃんに子供が三匹生まれ、暫く経ってから、飼い主の渡辺さんが仔犬を連れてチャウ君に面会させに来てくれた。
しかし、仔犬達があちこち動き回るので、チャウ君は立ったまま目をきょろきょろさせて、居場所がないという風だった。
そして、チャウ君の容器にミルクを一杯注いでやると、仔犬たちが我先にと飲みに行くので、チャウ君は遠慮して飲みたいのを我慢していた。
本当に良くできた我が子≠ナある。
私達が年越しそばを食べていると、紅白も終わり、行く年・来る年≠ナ除夜の鐘を突いているところが映されていた。
その内に、番組内でカウントダウンが始まり、新年を祝う声が聞こえてきた。
私達は夫婦でおめでとうと言ってから、二人で「チャウ君おめでとう」と言った。
その後、父へも電話をかけたが、父はもう休んでいるとのことだった。
昭和五〇年元旦の朝になった。
普段の元旦だと、もっとゆっくり寝ているところだが、その年は朝八時に目を覚ました。
夫婦とチャウ君とで、改めて、「おめでとう」を言い合ってから、お屠蘇を飲み、実家で作ってきたおせち料理と雑煮を食べた。
チャウ君には、鶏肉を軽くエレックしてやり、お屠蘇もちょっぴり舐めさせてやった。
その後、二人でチャウ君を散歩させてから父の家へ向かった。
実家ではまだ全員が食事中だった。
皆に「おめでとう」と言い、父の部屋へ行って夫婦で仏壇に手を合わせた。
いつもの年より長く拝み、父の快癒を願った。
父が部屋に戻ってきたので、私は居間へ行って、兄に「注射、もう、したんか」と尋ねた。
私が一番気にしていることである。
兄は首を縦に振って、「割に、簡単やったで」と言った。
私は一人だけ取り残されてしまったような気がしたが、『きっと、一回位は、せんとあかんやろな』と思ったので、気が重かった。
その後、父の部屋へ兄と行ったが、父とそれほど話をするわけでもなく、三人ともボーッと庭を見ていた。
庭は広く一面に芝生が敷き詰められており、父の田舎の大日川から運んできた、大きな岩が数個置かれていた。
庭には、梅や椿や、その他にも色んな木が植えられているが、仏壇に供えてある乾燥したおぼけさんや硬くなったパンなどを父母が撒くので、訪れてくる鳥も年々増えてきて、雀は当然のこと野鳩・百舌・ひよ鳥それに鴬までもがくるようになった。
暫くすると、父が、「外へ出て見ようかな」と言った。
兄が父にガウンとマフラーを着せて、父がよろけて倒れないようにと、私達は父のすぐ傍を歩いた。
外は元旦にしては暖かく、父も気持ち良さそうだった。
『これが最後かもしれない』と父も思っていたのか、庭を隅から隅まで丁寧に見て回っていた。
父は小さい頃から大きな家を持つのが夢で、何年も切り詰めた生活をして、始めて建てた家である。
四百坪の広い敷地内に八十坪の家を建て、会社を退職してからの余生を楽しもうと思っていたようだった。
父にすれば、始めて持つ自分の家は、きっと、宝石のように輝いていたことだろう。
ただ、父がこの家を建てた当初、この界隈は、まだバスも通っておらず、兎も目にすることがあるといったように、野山のような雰囲気がするところだった。
しかし、万国博覧会が開催されることになったので、新御堂筋線や中央環状線などの道路が整備され、千里地区が大改造されてからは、本当に便利が良いところになった。
考えてみると、父は自分の家を持つために、本当に節約してきたのだと思う。
例えば、私が小学校低学年の頃、世の中はテレビ全盛だった。
しかし、私の家にはテレビがなかったので、
プロレスのある日には、隣の家まで見せてもらいに行かなければならなかった。
父もプロレスが好きだったので、テレビが欲しかったのだとは思うが、大望のために我慢したのに違いない。
そこまでして、やっと自分の家を持つことができ、老後を楽しみにしていたのにと思うと、人生の無情さというものを感じざるを得なかった。
一月二日 元旦より少し遅めの朝食を取り、十時過ぎに父の家へ行った。
私達が行くと、父は既に食事を済ませて自室で休んでいた。
私が母に、「お父さん、どうや」と聞くと、今朝の父は機嫌が悪いらしく、食事の時に、「今日も同じか」と言ったそうだ。
父は昔から、夕食は違っていても、三が日の朝食だけは、おせちと雑煮に決めていた。
ここ数年、おせちは三日が二日になっていたが、餅が大好物なので、雑煮だけは三日間必ず食べていた。
毎年、年末には、郷里から草餅・豆餅・砂糖餅など色んな餅が送られてきており、父の田舎を懐かしむ気持ちもあって、餅が大好物だったのだ。
その父が、今日も同じか、と言って腹を立てたというのは、余程、食欲がなかったからなのかもしれない。
私は心配になって父の所へ行ったが、その時にはもう、いつもと変わらない優しい父だった。
兄は「ちょっと用事があるから」と言い、家を出ていってしまった。
私は父を気遣って、父の部屋と居間との間を行ったり来たりしていた。
昼頃、父が痛みを訴えた。
愈々、私が注射をしなければならない。
私は父を安心させようと、本心を隠して、「お父さん、注射打つ?」と平然としながら聞くと、父は頷いた。
私はアンプルのガラスを切って、そこへ注射針を入れ、痛み止めのペンタジンを吸い取ってから一旦注射器を置いた。
そして、父の寝巻きの袖を捲くって、右腕を消毒してから再度注射器を持ち、針を上に向けて、空気を抜くために針の先から液を少し零して、おもむろに父の腕を掴んだ。
ここまでは見よう見真似で、叔父と同じようにできた。
よしっ、と気持ちを引き締め、ブスッと刺した積りだったのだが、加減が分からないのと恐いのとで、深く刺すことができなかった。
仕方なく、もう一度力を込めて、腕の筋肉深く差し込んだ。
それは、一番やってはいけないことだと叔父に言われていたことだった。
父は痛そうに口で息を吸い込んだ。
「お父さん、ごめん」と私は言ったが、父は笑顔で返してくれた。
きっと父は、一番安心できないオッチョコチョイの末っ子が、自分に注射を打つまでになったことを喜んでくれているのだろう。
注射を打ち終えると、もう一度心からニコッとしてくれた。
三日目の朝が来た。
もう、病院へ戻らなければならない日が来てしまった。
十時過ぎに、私達夫婦は父の家へ行った。
ちょっと早いかな、と思っていたのだが、病院への帰り支度は済んでいた。
すぐに出発すると言うので、病院から来た時と同じように、兄が父を乗せ、私が母を乗せて出発した。
病院へ着くと、まだ正月休みなので外来のロビーはひっそりとしていた。
看護婦詰め所で、戻ったことを母が告げると、看護婦が外まで出てきて、「お帰りなさい」と父に明るく言ってくれた。
病室に入ると、父はすぐに寝巻きに着替えてベッドに横になった。
病院に戻ってから、父はまた丸山ワクチンとPSKとの治療に専念し、私も父の変化を待つ毎日となった。
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