第八章 お百度参り

父が病院へ戻った初めての日曜日、私が昼食を家で食べてから病院へ行くと、ロビーで電話をかけている兄と出合った。

兄が、ちょうど良かったという顔をして、「お百度参り、手伝ってくれへんか」と私に言った。

私はお百度参り≠ニいう言葉を知らなかったのと、何か、宗教めいた言葉のように感じたので怪訝な顔をし、「お百度参りってなんや」と問い返した。

すると兄は、三日前に、叔母に呼ばれて京都へ行き、叔母の勧めで神さん≠ノ司えているお婆さんに会ってきたらしい。

そして、そのお婆さんから、「家にある井戸をすぐに埋めなさい」と言われ、そして、「石切さんにお百度参りをして願をかけなさい」と言われたと言った。      

兄はお婆さんに言われた通り、昨日、石切神社へ、初めてのお百度参り≠ノ行ってきたと言った。

お百度参り≠ニは、神社の境内に離れて置かれているニ個の石柱の回りを、願をかけながら百周することをいうのだが、何日行かなければならないという決まりはなく、一生懸命お願いすれば一日でも良いということだ。

しかし、兄は、そのお婆さんから十四日間行くように言われたらしく、七日間を分担してくれないかと言うことだった。

私は神≠ニいうものを全く信じていなかったので、アホらしいと思ったが、父は信仰心が強いので、父のためにと思い、行くことにしたのだ。

 

私は兄に石切神社までの地図を書いてもらい、父のところへ顔を見せてから、第一回目のお百度参り≠ノ出発した。

地図で見た時は、簡単に行けそうだったのだが、私は方向音痴なので道を間違えてしまった。

近くまで来ている筈なのだが、目的地に、なかなか辿り着けず、その辺りをぐるぐる回っている間に、西も東も分らなくなってしまい、結局、誰かに道を尋ねなければならなかった。

始めに聞いた人は、その付近の人ではなかったので分からないと言われた。

人通りも少なかったので、次は仕方なく少し恐い顔をしたお兄さん風≠フ人に聞かなければならなかったのだが、案に反して、すごく親切に教えてくれた。

石切さん≠ヨ来るということは、家族に重病人がいるということになり、怖いお兄さんでも、親切に教えてくれたのではないだろうか。

『やっぱり、日本人は心の奥底に日本人としての優しさが流れてるんや』と妙に感動してしまった。

石切さん≠ノ着いたので、私は車を駐車場に置いて、そこから歩いて行った。

入口の大きな鳥居をくぐって参道を進んでいくと、両側に石燈篭が十メートル間隔で並んでいる。

落葉の時期はとっくに過ぎている筈なのだが、道にはまだ落ち葉が結構残っていた。

その先には、木で造られた古い門があり、その門を抜けると土産物屋がぎっしり並んでいる。

土産物屋の中央付近に一本細い道が横切っており、その細い道の両側にも店があった。

そして、すぐに、また石の大きな鳥居があり、その先が神社の境内だ。

境内の回りには、それを取り囲むように、うっそうとした森があり、その森の右側には、一本だけ特別に大きな木が立っていた。

境内の中央には石切さん≠ツまり石切剱箭大神≠ェ祭られている社がある。

その社の前に直径三十センチ、高さ一メートル位の、先が丸く削られている石柱が二本、二十メートル位離れて立っており、その回りを二十人位の人がぐるぐると回っていた。

暖かい日曜日ということもあって、冬の割には人が多かった。

参拝者は写真を撮ったりして、観光気分の人が多かった。

しかし、石柱を回っている人の顔に笑顔はなかった。

お百度を踏んでいる人は、口の中で、もごもごと何か唱えながら回っているか黙々と回っているかのどちらかだった。

私は水で手を清め、賽銭をいれて、本殿に手を合わせてから輪に加わろうとした。

二十人位の人が等間隔で回っているのだが、結構なスピードで回っているために、私がその輪に加わると、そのリズムを崩してしまいそうに思い、輪の中に入るのが難しかった。

なんとか仲間に加えてもらい、一緒に回り始めたが、信仰もしていないのに、いつの間にか、「父の病気を治して下さい」と心の中で念じていた。

しかし、五十周位回った頃からは、「治してくれなかったら、一生拝まないぞ」と恐喝調になってしまっていた。

 

神様といえば、父は毎年、正月には成田不動尊と八幡神社へ初詣に行っており、私達兄弟が小さい頃には、いつも一緒に連れていってくれた。

しかし、混雑している中を急いで回ろうとするから、何箇所かで賽銭をポンポンと入れていくだけのように思えて、私には父が何かの支払いに来ているような気がして、子供心にも「もったいないな」と思っていた。

なぜ私達が着いて行ったかと言うと、お抱え運転手付きの車に乗れるからである。

日産自動車の小さなダットサンだったように思うが、当時としては珍しかった。

ただ、今の時代では考えられないことだが、その車は必死で走っているのだが、四人を乗せていると自転車にどんどん抜かれていってしまう。

兄弟して運転手に、「ガンバレ・ガンバレ」と大声で応援したので、父にいつも叱られた。

 

百周するということは、結構面倒なことである。

それに、観光客のいる中で、真面目にお百度参りをするというのは、別に見られているわけではないだろうが、少し恥ずかしかった。

そんな風に思うのも、きっと、私に信仰心が足りないからだと思う。

お百度を終え、再び病院に立ち寄って父に報告すると、父は嬉しそうだった。

母も、「ご苦労様」と言ってくれた。

 

お百度参りへは、会社をさぼって行ったこともあるが、ほとんどは夜に行った。

夜に始めて行った時は、正直言って少し気味が悪かった。

一月のことで寒さも厳しく、夜の石切さんは、土産物屋も閉まっており人影もないので、雰囲気からして私一人だけだろうと思っていた。

驚いたことに、境内まで行くと五・六人の人が回っていた。

私は切れるように冷たい水で手を清め、石切さんに手を合わせてから輪に加わった。

昼に回った時とは全く雰囲気が異なっていて、荘厳な儀式に参加しているようにも感じられ、人がいたことでホッとしたからだとは思うが、同じ境遇の人達に仲間意識を覚えたりもした。

そして、昼間より、少しは信仰心を持って回ることができた。

妻に話しておいたので、家へ帰ると、「ご苦労様」と私を労った。

妻よりも早く、チャウ君が飛んできたことは言うまでもない。

それから私は遅い夕食を取った。

 

一月十四日 三度目のお百度参りから帰ると、コタツの上に色取り取りの折り鶴が散らばっていた。

私が、父を見舞ったり、お百度参りに行ったりして帰りが遅い時など、父に何かできることがないかと妻が考えた結果らしい。

妻は毎日のように父の所へおかずを届けに行き、その時に丸山ワクチンで固くなった父の肩を揉みほぐしてくれていた。

そればかりか、癌に侵された直腸の患部から出てくるネバネバした悪液質が肛門に溜まっているのを、素手のまま、水に濡らしたガーゼで拭き取ってくれたりもしていた。

それだけでなく、父の死後に叔父が、「あんなことは、わしにもできんことや」と言っていたことなのだが、父の痰つぼを洗う時も素手で洗ってくれていたらしく、それだけでも有難いと感謝していたのに、その日だけでも五十羽位の鶴を折っていた。

 

私が妻の峰子と出合ったのは、私が本州製紙に入ってすぐの頃である。

休日に原宿の表参道で、電話をかけようと電話ボックスまで行くと、先に電話している娘がいたので、私は終わるのを待っていた。

私が待っているのを見て、すぐに電話を切ってくれ、「済みません」と言い、その場を立ち去ろうとした。

私はポケットに手を入れると小銭が全くなかったことに気付き、とっさに、「済みません、十円玉貸して頂けませんか」とその娘に頼んだ。

すると、笑顔で、「どうぞ」と三十円渡してくれた。

私は、今時こんな優しい娘は、なかなか、いないだろうなと思い、「有難う御座います。僕は怪しいものではありません」と言って、会社の名刺を差し出した。

私は何を言ったのか覚えてないが、真面目に一生懸命話したのだと思う、その娘も勤め先の電話番号を私に教えてくれた。

私は数日してから電話をし、その娘が勤めているという、大田区の武蔵新田という、聞きなれない地名を探して会社まで行った。

私は、未来の妻が会社から出てくるのを待っていると、ほうっかむりをしたまま、ニコニコした顔をして出てきて、「ビックリしたでしょ、こんな格好してて。一寸待ってて下さいね」と言った。

私は、男性が会社を訪ねてきても変に思われないのかな、と少し心配しながら待っていた。

確かに、原宿の時の格好とは違っていたので少しは驚いたが、同時に私が勤めている会社の娘達とは違う新鮮さというものが感じられた。

付き合ってみると本当に純粋で、こんなにも打算のない娘が現代にもいるのかと思った。

というのも、私は自分の父のことを、結婚が決まるまで、わざと言わなかったのだが、逆に一度も聞かれなかった。

私が結婚することを決めてから、始めて自分の父のことを話したが、妻の叔父の初山さんに「峰子ちゃん、すごい人の息子さんと結婚するんだね」と言われたらしい。

しかし、妻が勤めていたのは、町工場とはいっても武蔵ギアという妻の父親が経営している会社だったので、何不自由なく大切に育てられてきたことが、打算のない純粋さを作り出したのだろう。

 

妻が千羽鶴を折っていた頃、時を同じくして、豊中工場でも女子社員の手によって千羽鶴が折られており、妻の千羽鶴が完成する前に父のところに届けられた。

折り紙も上等なもので、千羽程度では済まないと思われるほど立派なものだった。

富山松下からも、霊見あらたかだといわれている湧き水が毎日届けられていた。

父は喜んでその水を飲んでいたが、『これは効く』と思ったからというよりは、部下の人達の心遣いが嬉しかったからなのではないだろうか。

その頃は癌細胞がどんどん増殖しているために、父はすぐに貧血気味になってしまい、豊中工場の人達が順番に病院まで来て、献血してくれていた。

父にとっては、会社の人達が自分のことを心配してくれているということが、一番の心の支えになっているようであった。

ただ、父はその頃から寝たきりになってしまっており、小便も自分では取れなくなっていた。


             
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