第九章 インターフェロン

そして ムンプスワクチン

私はPSKの効果を心待ちにしていたのだが、《微笑》に書いてあるような劇的な変化が父に現われることはなかった。

抗癌剤やコバルト照射、そして、副腎皮質ホルモンなどの投与のために、父の体は免疫を作ることができなくなってしまっているのだろうか、それとも、あと少しで急に効果が表れるのだろうか。

私は焦りと諦めの入り混じった複雑な気持ちの中へ沈んでいった。

 

一月二十一日 北里研究所で開発されたインターフェロンが癌に効果がある≠ニの記事が新聞に掲載された。

私はどうしてもその内容を知りたくて、厚かましいとは思ったが、他に方法が思いつかなかったので、田口先生に北里研究所への紹介状を書いてもらおうと思った。

田口先生にしても、北里研究所では、誰を紹介していいのか分からない様子だったが、名刺に私を紹介するという一行だけを書き加えてくれた。

私にとっては、先生の紹介状さえもらえれば鬼に金棒であり、日本中、何処へでも訪問することができた。

私は北里研究所へ電話をし、「インターフェロンのことで、お伺いしたいことがあるのですが」と伝えると、交換でその部門へ回してくれ、一月二十三日の三時に会う約束が取れた。

丸山ワクチンをもらいに行く日も迫っていたので、私にとっては都合が良かった。

 

一月二十三日 今回は二箇所掛け持ちということもあり、朝早く、妻の運転で桃山台駅まで行き、そこから電車で新大阪駅へ向かった。

その時間は、まだ新御堂筋もすいているので、本当は新大阪駅まで送ってもらうと楽なのだが、妻には早朝会議だと言ってある手前、新大阪駅まで車をつけさせるわけにはいかなかった。

新大阪駅は早朝であるにも拘わらず、日帰り出張をする人が多いのか、結構混んでいた。

私は学生時代からの癖で、ディスカウントチケットの指定席券を持ってはいるのだが、窓口へ行って、その指定を受けるということをしなかった。

駅に着くと、最初に来た列車に乗り込み、指定車両のすいている車両へいき、空いている座席に座る。

もし、その座席の指定を受けている人が現われた時は、変わればいいだけである。

なぜ私が指定を受けないのかというと、コンピューターの設定だと思うが、同じ列車なのに、混んでいる車両とすいている車両が極端に分かれていることが多いからだ。

団体が急に入った時のために、すいている車両を作っているのかも知れないとも思うが、そのために、長い時間をぎゅうぎゅう詰めにされるのはかなわない。

しかし、いつもより早いせいか、その日の列車はほぼ満席であった。

一応座ることはできたが、三人席の真中だったので最悪だった。  

両側の人が肘掛を自分のもののように占領し、私は指定を取っていない弱みから、気分的にも小さくなって座っていた。

前後を見渡しても、空いている座席は全くなかった。

その上、名古屋駅で私が座っている座席の本当の持ち主が現われたので、私は座席を空けなければならなかった。

その持ち主は、私のことを犯罪者でも見るような目で見ていた。

私は「済みません」と言って座席を立ったが、座っている人達も皆、同じような視線を私に送っていた。

私はすごすごと隣の車両へ行ったが、その車両でも三人席の真中しか空いていなかったので、私は仕方なくそこへ座った。

本当は座れただけでも感謝しなければならないのだろう。

三時間ほど窮屈な時間を過ごしたので、東京駅に着くと、私はほっとした。

東京駅から上野駅へ行き、バスに乗り換えて、いつものように丸山ワクチンをもらいに行った。

私は丸山ワクチンを受け取ってから、一旦上野駅まで戻ったが、まだ昼頃なので、北里研究所へ行くには早過ぎる。

私は食事をゆっくり済ませた後、不忍池≠散策することにした。

考えてみれば、東京に七年間も住んでいながら、ここへは一度も来たことがないことに不思議な気がした。

学生の時は、渋谷駅から東横線で二十分ぐらいの日吉にある大学の寮にいたし、就職してからも東高円寺のアパートや新宿駅から井の頭線で二十分ぐらいの富士見ヶ丘にある会社の寮に住んでいた。

また、デートの時は港が見える丘公園≠竍山下公園≠ニいった横浜方面へ行くことが多く、都心では、澁谷・原宿・青山・銀座へ行くだけだったので、上野方面へ来るということは全くなかった。

 

私は、東京見物の人達がするように上野恩賜公園≠フ階段を登り西郷隆盛の像≠見て、その後不忍池&面へと歩いていった。

案内の看板には、ユリカモメ・マガモ・ハクセキレイ・カイツブリ・サギなど十四種類の鳥がいると書いてあったが、私は、『鳩が一番多いな』と思った。

そして、池の中央にある弁天堂≠見学していたが、体の芯まで寒くなってきたので、見物を切り上げて、港区白金にある北里研究所へと向かった。

 

約束の時間より少し早かったが、受付で予約をしていることを伝えると、先生が二人、私を出迎えてくれた。

私は今までの治療内容などを話した後で、インターフェロンについて色々と質問した。

質問内容が専門的な部分もあったからか、二人の先生は私に、「あなたも、医学関係の方なんですか」と尋ねた。

その質問で、私は少し得意になり、「商社の山善へ勤めているただのサラリーマンです」と答えると、二人とも少し驚いた顔をしていた。

一時間ぐらい話をしていたが、インターフェロンの効果については、まだ、確認ができてないばかりか、副作用もかなりありそうなので、今の段階では勧められないと言った。

私は、期待していただけに残念だったが、仕方なく諦めることにした。

 

大阪に帰った翌日の昼過ぎ、結果報告とお礼を兼ねて、兄を伴って田口先生を訪問した。

私が残念そうに話しているのを見て、田口先生が、「うちでも色んな研究をしてますが、変わったものでは、おたふく風邪のワクチンを使って、癌治療をしているところもありますよ」と教えてくれた。

私は縋りつきたい気持ちだったので、「是非とも御紹介下さい。」と気色ばんで言った。

田口先生はすぐにその部門へ電話をかけてくれ、私達は付属病院と別棟だが、廊下伝いで行ける微生物病研究所へと向かった。

微生物病研究所の麻疹部門というところで研究されている、このおたふく風邪のワクチンが、私達兄弟にとって、父の体に巣食う悪魔に対する最後の挑戦となるのである。

私は今でも、もし自分自身や家族の誰かが癌になったなら、迷わずこの薬を使わせて欲しいと思っている。

麻疹部門は、当時、微生物研究所の最上階にあった。

私は微生物病研究所という名前から、細菌やウィルスが、そこらじゅうを、うようよしているような気がして、少し気味が悪かった。

エレベーターに乗っている間にも、新種の病気に罹りそうな気持ちがした。

最上階である八階まで行き、エレベーターを下りたすぐのところに、麻疹部門の研究室があった。

ドアをノックすると、女性の研究員が出てきたので、兄が田口先生に紹介されてきたこと告げると、少し待つように言われた。

私は、試験管やビーカーなどの実験装置が一杯あるのを珍しそうに見ていた。

暫くすると、五十歳前後の人が出てきて、「どうぞ、お入り下さい」と言って、教授室に招かれた。

名刺を見ると、教授の奥野先生だった。

奥野先生は机の前の回転椅子に腰掛け、私達は長椅子を勧められた。

いつもと同じように、父の病状や今までの治療内容などを話した。

奥野先生は、おたふく風邪のワクチンについての一応の説明をしてくれ、おたふく風邪のワクチンを癌に使うというのは、亀岡市で開業医している浅田先生の発案であり、実際の治療に当たっているのも、その先生が中心なので、浅田先生に聞く方が詳しく分かるのではないかと言った。         

最近では、外国からの問い合わせも多いことも話してくれた。

そして、最後に浅田先生の住所と電話番号をメモしてくれ、「気軽に電話されてもいいと思いますよ」と言ってくれた。

私達は外へ出る間も待てず、微研の一階から電話を入れたが、「夜八時以降なら、診察も終わってますんで、どうぞおいで下さい」と浅田先生は言ってくれた。

約束の時間に遅れると失礼になるし、早く着いたとしても、亀岡の近くで食事をすればいいのだから、私達は少し早めに家を出発することにして一旦別れて、六時に兄が私を迎えに来てくれることになった。

 

六時きっかりに、兄が迎えに来てくれ、私達は箕面・池田を通って、四二三号線、通称摂丹街道≠ノ入った。

摂丹街道を暫く走ると、信号がほとんどない道になったので、兄は六十キロ制限の道を少しオーバー気味に走っていたが、私にとって、この道は非常に狭く感じられた。

山道なので曲がりくねっており、助手席から見た限りでは、対向車とギリギリ擦れ違っているような感じがした。

よくこのスピードで走れるものだと私は兄の運転に感心もしたが、それと同時に、このスピードで、もし擦れ違うダンプカーに衝突したらと考えると、心配になってしまう。

ただ、兄は運転がうまいことも確かであり、

私も大学で免許を取ってすぐに、兄から特訓を受けた。

その特訓のお陰で、だんだん激しい運転をするようになり、今では、違反といえばスピード違反ばかりで、中には五十キロオーバーで捕まったこともあるが、今まで、大した事故もなく、自分でも運転がうまい方に属しているのかなと思えるようになった。

私達の車は余野を通り、暫くは視界の広いところが続き、兄も百キロ近いスピードを出していた。

山道にさしかかり、長い下り坂を下りていくと、木々の合間から、遠くに亀岡の街の光が見え始めた。

その坂道を半分くらい下りたところに、山小屋風のレストランがある。 

ここまで来れば時間の計算もできるので、そこで食事をしていこうということになった。

飛ばしてきたので時間も結構余り、食事の後でゆっくりコーヒーも飲めた。

私達は約束の時間の八時ちょっと前に到着した。

浅田医院と書かれた病院の隣に家があり、その家の呼び鈴を押すと、優しそうな奥さんが出迎えてくれ、私達は夜間の訪問を詫びた。

玄関のすぐ横にある応接室に通され、少し待っていると、笑顔を一杯にした長身の浅田先生が入ってきた。

私が浅田先生に今までの経緯を述べ、奥野先生から、おたふく風邪のワクチンのことは浅田先生に聞く方がいいと言われたことを話した。

奥さんがお茶とお菓子を出してくれてから、浅田先生が少し高めの声で、おたふく風邪のワクチンのことを話し始めた。

おたふく風邪はムンプスといい、成人男性がこれに罹ると、しばしば子供ができ難くなるが、それは精子を作っている睾丸がムンプスに侵され、睾丸炎になるからである。

睾丸は精子を作るところなので、常に細胞が分裂・増殖している。

癌というものも、細胞が異常に増殖したものであり、増殖ということに於いては、どちらも同じだと考えられ、ムンプスが癌細胞を退治してくれるのではないかという仮説が成り立つ。

浅田先生は阪大へ行って、奥野先生にそのことを話したところ、奥野先生も非常に面白い考え方だと言ってくれ、全面的に協力することを約束してくれた。

ムンプスという病気は大抵の人が小さい頃に罹ってしまっており、すでに抗体を持っているために、二度発症することはない。

しかし、ほとんどの成人は、感染してからかなりの年月が経っており、低下した抗体値が上昇するまでに少しは時間を要する。

そのために、ウィルスが癌細胞に感染して破壊するということも充分に期待しうる。

これを破壊効果≠ニいう。

更に、抗体値が完全に上昇してしまった後でも、なお持続的な効果が期待できる。

これを免疫効果≠ニいう。

また、使用方法としては二つの方法が考えられる。

一つ目は、生のムンプスワクチンを静脈に直接注射する静注法であり、二つ目としては、もっと直接的な破壊効果を出すために、癌そのものへ接種する方法である。

靜注をした場合の一日目は患者がムンプスに感染したことで、高熱が出る可能性が高いわけだが、熱が出れば出るほど強く感染したことになり、癌細胞への破壊効果も期待できる。

また、どの治療法についても言えることだが、癌の部位によっても効果に差があると考えられるので、使用方法は色々と変えながらやっている状態で、現在のところ確立された方法があるわけではなく、東大阪中央病院や大阪成人病センターなどでも現在臨床中である。

浅田先生からムンプスワクチンの説明をしてもらった後で、効果があった色んな事例を聞いている間に、段々と、自分が興奮していくのが分かった。

後日、このムンプスワクチンは、アメリカの権威ある癌専門誌キャンサー≠ノ紹介されることになる。

 

私は丸山ワクチンのことも聞いてみた。

すると、丸山ワクチンは免疫力を高めるということではムンプスワクチンと同じなのだが、丸山ワクチンは結核菌の成分を抽出したものであり、生ワクチンというわけではないために、効果としては非常に弱いのではないかと思うとのことだった。

ただ、免疫療法という点では同じことなので、止める必要はなく、どれが効いてもいいのではないかと言ってくれた。

私はこの言葉を聞いた時、真の医者の姿を見る思いがした。

最後に、父の場合は、静注だけでなく、直接に腸の中へムンプスワクチンを流し込む、注腸という方法も併用する方がいいだろうということであった。

そして、ムンプスワクチンの保管方法についても説明してくれた。

ムンプスワクチンは保管が難しく、ベストの効果を引き出すためには、零下七十度に冷却された生ワクチンを融解せずに持ち運び、使用時に常温でゆっくりと融解させ、速やかに静注・注腸することが大切だと教えてくれた。

私達は時間を忘れて先生の話に聴き入っていたが、先生も、私達が色々と質問したことに、時間を無視するかのように親切に答えてくれた。

 

兄が、「そろそろ、失礼しようか」と言ったので時計を見ると、既に十一時を少し回っていた。

私達は浅田先生に礼を言って家を出たが、こんな時間なのに、奥さんも先生と一緒に外まで見送りに来てくれた。

私達は車の中で、「この薬はひょっとしてひょっとするなぁ」と会話を弾ませながら帰った。

自宅ではいつものように、チャウ君と妻が出迎えてくれた。

妻は今日も千羽鶴を一杯折っていた。

 

一月二十八日の夕方、兄弟で父を見舞ってから、七時に中川医師と面会した。

中川医師にムンプスワクチンの話をすると、「他の患者にうつると困りますので、それはちょっと許可できませんね」と言った。

私は、「そんなことはないと思いますが」と自信のない返事をしながらも、心の中では悪魔が囁いていた、『他の人にうつっても構わないから、ムンプスワクチンをお父さんに使わせてくれ』と。

結局、再度、私は浅田先生に聞きに行かなければならなかった。

 

翌日の夜、今度は私一人で浅田先生を訪問することなった。

その日、私は自家用車で出社し、会社が終わる五時を待って大急ぎで出発した。

そして、家にも寄らずに、直接に亀岡の浅田先生のところへ向かった。

中一日の訪問にも拘らず、浅田先生は快く会ってくれ、弱毒化したワクチンなので、人にうつる危険性はないことを説明してくれた。

質問は、それだけだったし、時間もあったので、ワクチンの使用法を、保管時・溶解時・使用前・使用時・使用後に分けて、事細かに注意事項を含めて説明してくれた。

九時になったので、帰ろうと思い外に出たが、雪がチラチラと降っていた。

十分ぐらい走った頃から、道路がうっすらと白くなり始め、走るにつれて道路全体が雪で被われていった。

私の車のタイヤは、ラジアルでなくノーマルだったし、雪道の運転に慣れていなかったのこともあり、気持ちは焦っていたのだが、スピードを落として走らなければならなかった。

しかし、徐々に雪が積もってきているし、カーブも多い道なので、ハンドルをあまり強く握リ締めていると、スリップした時に危険だとは分かっているのだが、どうしても握り締めてしまう。

少々雪が多くても、交通量が激しければ、道路に車輪の跡が二本くっきりと付き、そこを辿って行けばいいのだが、この時間に車はほとんど通っていなかった。

私は大きなトラックを先に行かせ、その後から付いて行こうとしたが、トラックが一台通ったぐらいではアスファルトが露出してくれず、雪がトラックのタイヤに押し付けられアイスバンのようになってしまい、却って危なかった。

カーブで何度も車輪を取られながら、やっと池田の街の明かりが見えるところまで来た時、私は『助かった』と思った。

池田に着くと市内は交通量も多く、タイヤの二本線だけはくっきりと付いているので、安心して車を走らせることができた。 

全身の疲れがどっと出る、というのはこんなことを言うのだろう。

時計を見ると十一時になっていた。

私が家に帰ると、妻が寂しそうな顔をして「お帰りなさい」と言った。

 

私は結婚した当初から、飲みに行ったり麻雀で遅くなったりしても、妻に連絡するということをしなかった。

東京にいる間は、妻も実家に帰ったり友達に会ったりできたのだが、大阪へ来てからは、友達も子供もおらず、子供を持つ親同士で知り合いになるということもなかったので、いつも一人ぼっちなので寂しかったと思う。

しかし、妻は自分なりに、そんな気持ちを消化していたのだろう。

ただ、その頃の私は、会社の帰りに病院へ寄ってくることが日課になっており、お百度参りへも行かねばならず、会社から家に帰るということはなかった。

もし、早く帰ったとしても、叔父の家へ行ったりするので、妻と一緒にいる時間は無いに等しかった。

 

妻が寂しそうな表情をしているのを見て、私は仕方なく、「会社の人と一緒やってんけど、雪が降ってきたから、遅なったんや」と嘘をついてしまった。

しかし、妻は、「夜、病院にいた時、山本社長さんがお見えになって、島田はすぐ帰りよったのに、一体どこへ行っとるんや、と言ってられたわよ」と悲しそうな顔を私に向けた。

私は一瞬ドキッとしたが、それには答えず、

「あっそう、社長が来たんか」と言った。

チャウ君が、じゃれついており、私も、その相手をしながら話ができたので、妻に表情を見せずに済んだので助かった。

 

一月三十日、私は中川医師の所へ行き、ムンプスワクチンが人にうつることがないことを説明したが、素人の話が信用される筈もなく、釈然としない様子であった。

そして、中川医師は私に父のところで待つように言った。

暫くして、中川医師が病室に入ってきて、ベッドで寝ている父の足を持ち上げて、肛門が見えるようにし、私に、そばへ来るよう手招きした。

幾ら父が弱っているとはいえ、そんな格好を息子に見られるのは、嫌がるだろうと思い躊躇していると、中川医師はもう一度手招きした。

父が変に思うと却って良くないので、仕方なく私はそばへ寄っていった。

中川医師は肛門の中の白くなった部分を指さし、「もう、ここまで来てるんですよ」と小声で言った。

私は父に聞こえるのではないか、とそのことばかりを気にしていた。

私は中川医師の態度に我慢ができなくなり、兄を伴って事務局長に掛け合った。

事務局長が、松下幸之助氏の了解を取り付けてくれたのだろうか、翌日、ムンプスワクチンの使用が認められた。

中川医師にとっては、本当に嫌な家族だったに違いない。 

私は浅田先生から教わった注意点を至急まとめた。

 

別紙@参照

(MV使用前、使用後の注意

・靜注時注意・注腸時注意)

 

二月一日 私はその使用説明書を見てもらおうと浅田先生を訪問した。

浅田先生はそれに目を通し、「これで充分ですよ」と言ってくれた。

二月三日 私達兄弟は、ムンプスワクチンを零下七十度に保管するために、アイスボックスとドライアイスを買いに行った。

準備完了で阪大微生物病研究所へ向かった。

微研では、奥野先生が若い山西先生(元大阪大学医学部学部長)に、「六個入れたげて下さい」と言ってくれた。

私達は山西先生の後ろからムンプスワクチンの保管場所までついていき、容器の蓋を開けた。

その中へ山西先生は、「たくさん持っていきなさい」と言って、二十本ほど入れてくれた。

私達はその配慮に感謝した。

実際、浅田先生の処方では、一日に静注分として三本、注腸分として三本、それを三日続けなければならないので、計十八本必要ということになり、失敗した時のことも考えると二十本というのは最適数量である。

微研からもらった説明書には

 

別紙A参照

(阪大製MV概略説明書・主治医殿)

 

一日十〜三十ミリリットルの三日連続注射となっており、注腸の説明も書かれていなかったので、一日二本三日間で計六本あれば、ちょうどいいと奥野先生は判断したのだと思うが、『僕が書いた説明書に替えたらええのに』と生意気なことを考えていた。

私達は山西先生に礼を言い、そのまま松下病院へ急いだ。

 

中川医師を院内放送で呼び出してもらい、アイスボックスのまま使用説明書とともに中川医師に手渡した。

中川医師はアイスボックスの中を見て、使用説明書に目を通してから、「分かりました。早速、今日から使いましょう」と言ってくれた。  

私達が病室へ行くと、妻がいつものように父の肩を揉んでいた。

私は話をするために、「お茶でも飲みに行けへんか」と妻を誘って、一Fの喫煙所へ行って、缶ジュースを二本買い椅子に腰掛けた。

私は妻に、丸山ワクチンのこともPSKのことも話してなかったのだが、おたふく風邪のワクチンのことだけは話しておかなければならないと思ったのだ。

うつることはないと聞いていたが、私自身おたふく風邪に罹った記憶がないので、本当は少し心配だったからだ。

「あんまりお父さんの治りが遅いんで、今日から、おたふく風邪のワクチンていうもんを使うんやけど、その使用説明書は僕が書いたんや。そやから、使い方が間違わへんか、見てんとあかんと思うねん。大体の人は小さい時におたふく風邪になってるから大丈夫らしいねんけど、僕がもし、今までにおたふく風邪に罹ってへんかったら、うつるかもしれへんと思うんや。もし、うつってしもうたら、子供生めんようになるかもしれへんけど、お父さんが助かるんやったら、しょうがないやんなぁ」と言った。

私は妻に対して、すごく残酷なことを言っているのだが、その時の私は、そんなことを考えているゆとりすらなかった。

私は、父が助かるのなら、どんな犠牲をも厭わないという気持ちでしかなかった。

当然のことだが、妻からの返事はなかった。

私には一瞬、妻の目が潤んだように思えた。

 

兄は先に病室へ行き中川医師を待っていた。

私は父へプレゼントをする時のように、気持ちが昂ぶっていた。

ただ、そのプレゼントは、「僕等から」と父に言えないのが残念だった。

中川医師が病室へ入ってきて、「今日から、新しい治療をしてみます。ちょっと、熱が出るかも知れませんが、心配しないで下さい」と父に告げた。

父は頬がこけ、目だけがギョロッとした顔を医師に向け、少し不安気に無言のまま頷いていた。

父のそんな顔を見ていると、「お父さん、これは凄いよ」と教えてあげたくなった。

太い注射器から、溶解したムンプスワクチンがゆっくりと父の血管に入っていくのを私達は無言で見ていた。

中川医師は、「ちょっと冷たいですが、大丈夫ですから」と父に言った。

それが終わると、「腸の洗浄もやりますので」と旨く説明してくれた。

すべてが終わり、中川医師が私達に笑顔を向けてくれたので、私達は救われた気持ちがした。

中川医師が出て行った後、「今の薬、何やろね」と母が言ったが、私達はそれには答えず、首をかしげた。

その後、一〇時過ぎまで私達は父のそばにいた。

 

次の日、一旦出社したが、父のことが気になり、昼頃病院へ寄った。

母が、「昨日、お父さん凄く熱が出てね。看護婦さんに言ったら、解熱剤を打ってくれはったんで熱は下がったんやけど、凄くしんどそうやったわ」と言った。

私は心の中で、『お父さん、しんどいけど、がんばってな』と応援していた。

三日間、同じ治療が続けられた。

二日目も少し熱が出たが、三日目は出なかった。

私はその日から、今までと同じように、父の様子を見るのが楽しみになった。

父に変化は表れなかったが、『今は免疫が高まっている時やけど、もうすぐ、きっと癌をやっつけ始めるやろ』と思っていた。 

 

二月七日の夜 とばしとばしになっていた最後のお百度参り≠済ませて、私が家に帰ると、その日に合わせたかのように、柱の釘に千羽鶴が掛けてあった。

妻が嬉しそうに、「明日、お父さんのところへ持っていくの」と東京弁で言うのが可愛かった。

 

私が妻との結婚を決めた時、父も本当は自分の社会的地位に釣り合う相手を見つけて欲しかったらしく、ちょっと残念がりはしたが、それほど反対するでもなかった。

しかし、病気になってからの妻の献身的な態度に、父も言葉には出さないが、心から喜んでくれていたことだろう。

 

二月の中頃、付き添いのおばさんが疲れを訴え、辞めさせて欲しいと言ってきた。

父も気に入っている人だったので、兄弟で手伝うから、いてくれるように懇願した。

おばさんも了解してくれたので、病室に折り畳みベッドを追加してもらい、私達兄弟とおばさんの三人が順番で、夜間の父を看ることにした。

三日に一度しか順番が回ってこないとはいえ、会社もあるのだから、結構しんどいことだった。

父が夜中に用事がある時は、枕元に置いてある南部鉄でできた鈴を鳴らして、私達に報せることにした。

叔父の勧めで、私の泊まる日に合わせて、骨休めと所用を兼ねて母が一日だけ家へ帰った。

私は父に何か作りたいと思い、「味噌汁と澄ましと、どっちがええ」と尋ねた。

「そら、味噌汁や」と父が言ったので、具を聞くと、「じゃがいもがええなぁ」と答えた。

私は隣の小部屋から妻に電話して作り方を聞いた。

自信は全くなかったし、父も期待している筈はなかったと思うが、「どうや」と聞くと、「うまい」と言ってくれた。

嘘だとしても、私は嬉しかった。

 

いくら待っても、父に変化は現れなかった。

二月も終わりに近づいた日の夜、私が病室へ行くと母から、夕方に松下氏が父を訪れ、「君も長くなったし、豊中工場を暫く誰かに見てもらった方がええんと違うやろか。中川君なんかは仲がええんかいな」と父に聞いていたと聞かされた。

父は、「中川副社長なら」と返事をしたらしいが、私には、父の寂しい気持ちと無念な気持ちが伝わってくるような気がした。

 

三月一日 温熱療法がイギリスで開発≠ニいう見出しが新聞に掲載された。

温熱療法とは、癌細胞が正常細胞より温度に弱く、四十二度で死滅し始める、ということに着目したものであり、今日では世界中でその研究がなされている。

私は喜び勇んで叔父に相談したが、父をイギリスまで連れていくことは、体力的に見ても不可能なことだと言われたので諦めるしかなかった。

私が冷静であれば、父の身体が限界にあることくらい分かりそうなことなのだが、追い詰められている私の目には治療という言葉以外に何も見えなかったのだろう。

 

三月二日、私達は浅田先生を訪れた。

日曜日だったが快く迎えてくれた。

私が浅田先生に、「全く、変化が出ないんですが」と言うと、浅田先生は少し落胆したような顔をして、「やっぱり、お父さんの場合は進行し過ぎてたんですかね」と言った。

しかし、私達が沈んでいるのを見て、「そうは言っても、まだまだ使用例も少ないし、色んなケースが考えられますんで、もう一回やってみましょうか」と言ってくれた。

その後も色んな話を聞いたが、始めの時のように、気持ちが高揚するということはなかった。

 

次の日、私達は前回と同じようにドライアイスを買って阪大へ行った。

今回も、山西先生が快くワクチンを分けてくれた。

『今度こそ、変化が起きてくれ』と私達は祈るような気持ちで毎日を過ごした。

 

三月の初旬に、遠縁の親戚で麻酔医の鈴木先生のところへ叔父が意見を求めに行ったが、鈴木先生は、「島田さんの場合は神経ブロックをして、痛みをとってあげた方がいいんじゃないのかな」と言っていたらしい。

私はブロックという言葉に最後を思わせる響きを感じ嫌悪感を抱いたが、別に半身不随になるといったような悪影響があるわけでもなく、脊椎に或る種の液体を注入するだけで、痛みから開放されるというものらしかった。

それは、苦痛を取るためには非常にいいものらしく、アメリカではペインクリニックという分野で研究も非常に進んでいるらしい。

ただ、父にそれをしてしまうと、痛みがあるかないかの判断ができなくなってしまうので少し考えさせて欲しいと言った。

しかし、後に、このことを考えた時、父の痛みを軽減することの方が、余程大切だったのではないか思い後悔した。

 

三月二十六日、遂に待ちに待った変化が現れた。

その日の夜、私が病室へ行くと、母がちょっと不思議そうな顔をして、「今日はお父さん痛みが少なかってね、痛み止めの注射、まだ一回しか打ってへんのよ」と言った。

私は嬉しくて、「万歳」と叫びたかった。

しかし、それと同時に、余りにも今まで裏切られ続けてきただけに、『今日の夜や明日はどうなんやろか』という不安な気持ちも同時に起こってしまった。

 

私は翌日の昼、母に電話を入れて父の容態を聞いたが、引き続き調子が良いということだった。

何度も電話をすると変に思われるので、その後は電話をしなかったが、私が泊まる日だったので、一旦家へ帰り夕食や風呂を素早く済ませて、病院へ八時頃に行き、平静を装って病室に入った。

「お父さん、その後どう」と聞くと、母は、「調子がずっと良くてね、痛み止めの注射一回も打ってへんのよ」と言った。

私は、『やった、やった』と誰彼となく、手を握ってその喜びを伝えたかったし、『お父さん、もうすぐ治るよ』と言って、父を喜ばせたかった。

その日、私は嬉しくてなかなか寝付くことができなかった。

夜遅く、父の尿を採ってから私は寝たが、父も熟睡できたのだろう、夜中に一度も鈴の音はしなかった。

私は南部鉄の鈴で起こされるのが、少し辛くなり始めていた頃で、特に体が疲れ切っている日などは、その鈴の音が疎ましく思うことさえあった。

次の日の朝、私はいつもより早く目が覚めたが、父はまだ眠っているようだったので、父を起こさないように、目を開けたまま横になっていた。

私の気持ちは弾んでおり、人の気持ちというものは、こんなにも簡単に、良くも悪くも変化するものなのか、と自分でも呆れてしまうほどだった。

父が目を覚ましたので、私は朝の身仕度を整えて会社へ向かった。

仲のいい会社の藤原先輩にそのことを話すと、一緒に喜んでくれた。

ただ、『今日は、もっと良くなってるのに決まってるわ』という気持ちが強くなればなるほど逆に、『もし、悪くなってたら』と心配する気持ちも同時に湧き出してきて、父の状態を常に把握していたいと思った。

藤原さんに、営業先から直帰したと伝えてもらうことにして、私は少し早目に病院へ行った。

 

病院に着くと、私は急いで病室の小部屋にいる母のところへ行き、「今日も痛まんかった」と聞いた。

母は、「今日は、午後から、また痛み止めの注射を打ってね」と言った。

私は一瞬で奈落の底へ突き落とされてしまった。

私は看護婦詰め所へ早足に行き、「今日、何かしなかったですか」と詰問するように尋ねた。

看護婦はすぐにカルテを見てくれ、「今日は、朝にコバルトを当ててますね」と言った。

私は怒りが込み上げてくるとともに、立っているのがやっとだった。

そして、『もう終わりや』と思った。

私は中川医師に面会し、「昨日も一昨日もペンタジンはほとんど使ってなかったんですよ」と詰め寄った。

中川医師は一瞬たじろいだが、「以前見てもらってますように、癌が肛門まで侵潤してきているのに、放ってはおけないでしょう」と言った。

私は次の言葉を出す気力も失って、その場を離れた。

病室へ戻ったが、私は父に声をかけることができなかった。

父は私以上にショックが大きかったのか、ギョロッとした目で天井の一点だけを凝視していた。 

 

次の日、私は、聞きに行ったところで意味のないことだとは分かっていたが、田口先生に面会を申し込んだ。

「先生、今まで痛みのあった人が、その翌日に、一度も痛み止めを打たないでいられるということが、普通考えられますでしょうか」とここ数日の経緯を説明してから私は質問した。

田口先生は、「お父さんを診てないので、はっきりしたことは分かりませんが」と断った上で、「一般的には、ちょっと考えづらいですね」と言った。

私は、『父の命を繋ぐ細い糸は、やっぱり残ってたんや』と思い、それがプツリと切れてしまった事実を、確認したように思った。

次の日から父は、以前と同じようにペンタジンを何本も打つようになってしまった。

私はそれを見ていて、寂しいことだが、父の最期の日ができるだけ早く来てくれることを祈った。

早くこの苦しみだけの毎日から、父が開放されて欲しいと思った。

それから間もなく、痛み止めのペンタジンがモルヒネに変わった。 


             
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