格言集〜人名辞典

2001年10月11日 00:00:00


【アリストテレス】
 プラトンの弟子でその学説から出発したが、後プラトンの生得的・超感覚的なイデアの世界(例えばバラの花は理想のバラの花の設計図のようなもの―イデア―があると考える)を否定して、感覚的に認知出来る物を量的に観察し、抽象することによって個物の概念が出来ると考え、その為に量的に例えば「馬」というものを観察し、それを形成している要素を考えた。そして例えば馬を特徴づけているものは馬そのものの中に有るのであり馬と別個にその様な概念(イデア)があるのでは無いとした。(しかし概念を形成する能力は生得的である。また美を感じる感覚もまた生得的とする)

   アリストテレスは物を質量(その物を作っている素材)と形相(その物の固有の性質を作っているもの)からなると考えた。彼は事物の運動を4つの要素からなると考えた。
  未だ形相を持たない質量を可能態とし形相を得たものを現実態と表現した。そして事物の運動・変化は可能態から現実態へ移行する目的因を持ったものだと考えた。
  事物の運動は質量因(運動の素材)・作用因(素材が働きかけること)・形相因(運動の様子)・目的因(運動を起こす目的、必然性)と考えた。

【カント】1724〜1804
 1724年4月22日、ドイツ北方の商業都市ケーニヒスベルク(当時東プロイセンの首都、現在はロシア領。ソ連時代のカリーニングラード)に、謹厳実直な馬具職人の父と、信仰心の篤い母との間に生まれた。父母はピエティスムス(敬虔派)という宗派の熱心な信者であった。それはルターの体験した「回心」を信者が追体験し、敬虔で禁欲的な生活をすることを信条とするというものであった。カントは母から大きな影響を受けるが1737年12月カントが14才の時母は世を去った。母はピエティスムスの神学者でライプニッツと親交のあるシュルツの薦めでカントをフリードリッヒ学院(ギムナジウム[高等学校])に入学させる。
 1740年生地のケーニヒスベルク大学に入学。神学、哲学などを学んだ。そこではライプニッツ−ヴォルフ学派に属するクヌッツェンの指導を受ける。1746年3月、父の死。卒業論文『活力の真の測定に関する考察』により大学卒業。1747年大学を卒業し、ケーニヒスベルク住み家庭教師をしながら勉学を続けた。1749年『活力の真の測定に関する考察』出版。
1755年ケーニヒスベルク大学の形而上学、論理学担当の私講師、1770年正教授となり、以後1796年に退職するまで学部長を務め、形而上学、論理学、倫理学、自然地理学、人間学をはじめとする諸学科について講義を続けた。1804年2月12日、ケーニヒスベルクで「これで良し」という言葉を残して死去するまで生涯この町に暮らした。
 カントが生きた時代は、啓蒙専制君主フリードリヒ大王の治世(1740〜86)で、ドイツ啓蒙主義の最盛期だった。その自由な雰囲気が、カントの哲学を育てたのである。
 カントは初め合理論から出発しニュートンの物理学の影響を受けて1755年太陽系の起源を解き明かす『天界の一般自然史と理論』書いた。宇宙の生成を力学的に説き明かすことを試みたもので、後に「カント‐ラプラスの星雲説」の名で知られるようになる画期的な学説であった。宇宙が機械として純力学的に説明されることは神の存在の証明として認識された。ガリレイに始まる自然観、つまり自然を機能的、関数的にとらえる思想と、神学的な有機体論的、目的論的世界観を総合するという後の批判哲学につながるモチーフがすでに見られる。 
 やがてカントはイギリスのヒュームの懐疑論哲学による形而上学批判を知り、それまでの確信が揺らぐことになる。後年「ヒュームによって独断のまどろみを破られた」と回想している。カントはヒュームの影響を受けイギリス経験論や感情哲学を批判的に摂取しこれまでの自然科学や形而上学という自らの哲学との総合を試みる。また文明に毒されない素朴な人間性を主張するフランスの思想家ルソーの影響を受け人格の自由と尊厳を意志の自律としてとして基礎づけた。

【ニーチェ】1844〜1900
 ドイツの詩人、哲学者。キルケゴールと並んで実存哲学の先駆者とされる。ショーペンハウアーの意志哲学を継承する「生の哲学」を継承し、当時の社会の精神状況に関する鋭い分析、徹底した文明批判を行い、キリスト教的・博愛主義的倫理を弱者の奴隷道徳とみなし、その中に潜む「ニヒリズム」を摘発し、人間の真の姿を根源の生=ディオニソス的なものとして提示することによって、強者の自律的道徳を主張、その具現者を「超人」とする思想に達した。その思想は狭義の哲学のみならず、文学を含む現代思想全般に多大な影響を与えた。しかしこの機械時代・大衆支配時代に対する批判は、一面ファシズムの支柱ともなった。

 ニーチェは1844年10月15日、ザクセン州リュッツェン近郊の田舎町レッケンでルター派の牧師の長男として生まれた。1864年ボン大学に入学するが、1年後ライプツィヒ大学に移ったが、そのころショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を読み感激、その影響を強く受けた。また1868年尊敬していた音楽家ワーグナーに会う。


 翌年4月、スイスのバーゼル大学の員外教授に招聘され、のちに文化史家のブルクハルトと交わる。1872年『悲劇の誕生』を出版。
 この中でニーチェはギリシア悲劇の根底にある芸術衝動には、過剰、陶酔、激情に向かう「ディオニソス的」ものと、秩序、明晰、静観、夢想の方向に進むも「アポロン的」なものとの二種類があり、音楽や舞踊はディオニソス的であり、造形芸術や叙事詩はアポロン的であるが、これら二つの衝動はギリシア悲劇においてはみごとに結合しているという。
 ニーチェの思想は「叙情詩人の“自己”はザイン(存在)の深淵から響いてくるのだ。近代の美学者がいう意味でのその“主観性”は思いこみである」といわれているように、芸術の根源を主観に置く人間中心主義に逆らい、「ディオニソス的」と尊称される始原の一者根源のザイン(存在)に求めるところにある。
 「始原の一者」「根源の存在」「世界の心臓」は時間空間および因果のうちにある経験的事実ではないから、当然それは「現象の機関およびシンボルとしての言語」によって語るべきものではなく、本来はむしろ沈黙すべきもの、あるいは一転して「歌う」べきものである。経験的事実=現象の形式である個体化の原理(時間空間および因果)が越えられるとき、人間の内奥より、また世界そのものの内奥より湧き出てくる喜悦と恍惚という性格が「ディオニソス的」なものには付きまとっていたが、過剰ゆえの苦痛であると同時に、「現象のあらゆる転変にもかかわらず不壊なる力をもち、愉悦に満ちたもの」、あらゆる文明の背後にあって不滅なるものという。これはニーチェ自身の芸術論的な形而上学、存在論の表明であり、その根源の生への賛歌が後年の代表作『ツァラトゥストラはこう語った』に結実する。 

 1878年、キリスト教的倫理観に収束しようとするワーグナーと絶交し、以後その音楽を激しく非難する。この年の冬(34歳)病状悪化し、翌年バーゼル大学を辞職し、その後の10年間は夏は主としてアルプスのエンガディーン地方,冬は地中海のほとりの保養地というように漂泊の生活を送りながら、執筆活動を続けた。その時期の作品『曙光』では特に権力感情の分析が展開され、弱者を主人公にしたてるヨーロッパ的キリスト教的価値観の底に潜む偽善と自己保存的なニヒリズムを抉り出し、人間が成長しようとする「力への意志」というその後の問題意識の萌芽が現れている。
 そして1881年,ニーチェはアルプスのシルバプラナ湖畔で「永劫回帰」の覚知に達し,当時の社会に浸透していた進歩信仰や理性崇拝に反対し、生命も歴史も宇宙も力ある者も無い者も、意味も目的もなく、永遠に自己回帰を続ける、そして歴史はその永劫回帰の瞬間からなっているという思想に到達した。そしてそのような永劫回帰の中でも、生ある者は「力への意志」を求めて生きる「運命愛」を持っているという自己肯定の考え方を示し、その完全なる体現者としての「超人」を想定し、人間を動物と超人との中間の存在と位置付け、人は超人への道を歩むことによって、キリスト教的、プラトン的な奴隷道徳を超克しなければならないと考えた。
 
ニーチェは1883〜85年に渡って、このような思想を主著『ツァラトゥストラはこう語った』を書き上げる。その後1886年『善悪の彼岸』、1887年『道徳の系譜』、1888年、自伝的著作『この人を見よ』を書いた後、1889年1月3日イタリアはトリノのカルロ・アルベルト広場で昏倒し、精神錯乱のまま1900年8月25日ワイマールに没す。

 ニーチェはショーペンハウアーの「生の哲学」を継承し「力への意思」を主張し、「神は死んだ」と宣言する。キリスト教の「愛」を弱い者、滅びるべきものに手を貸し、生き長らえさせる自己保存的な倫理観だと言う。それは力ある者、価値ある者を否定し、弱いもの、価値無き者を価値と見なす倒錯であり、弱者の復讐であるといい、それを「ルサンチマン(怨恨)」と呼んで激しく攻撃した。また社会主義思想思想に対しても「神を地上に引きずり下ろしたもの」だと排撃する。「弱者救済」というキリスト教的・社会主義的な奴隷哲学ではなく、人間が内蔵している「創造する力」への意思を持たなければならぬと主張する。それが善であり、その善を実現するためには一度古い奴隷哲学を破壊するという「悪」が必要だという。
 ニーチェの思想は同時代のダーウィンの思想と結びつき、社会ダーウィニズムというファシズムの思想を生み出してゆく。そしてさらに後のハイデッガーの思想と合流し、現代の右翼思想の形成に大きな論拠を与えてゆく。
 しかし最近の遺伝学の研究では、弱者は決して淘汰されないことが実証されている。劣性で淘汰されるべき筈の生物が優勢の生物と同じ場所で生息しながら、一定の比率で残り続ける事実は劣勢とは何かという問題自体が、人間の勝手な主観であることを暴露するのだ。ニーチェが言った「生」の哲学と同じ意味で、キリスト教的な「愛」は生物的な生死を越えて、人間が内臓している「力」を実現しようとするエネルギーをもっている。キリスト教の「愛」であれ、仏教の「慈悲」であれ、それは欺瞞ではなく、人間が人間であろうとして必然的に生み出した思想である。世紀末の一時的な閉塞状況を見て「神は死んだ」といったニーチェも時代に限定された思想家であったといわなければならない。

【ニーバー】1892〜1971
 
アメリカの神学者。エール大学卒業後、デトロイトで牧師をしながら、社会問題と取り組みながらキリスト教社会主義を提唱した。大恐慌の起こった1929年、ニューヨークのユニオン神学大学で社会倫理学教授となり、教鞭をとりながら社会キリスト者同盟の機関誌『キリスト教と社会』などで論陣を張り、知識階層に大きな感化を及ぼした。

【ヒルティー】1833〜1909
 スイスの法学者、キリスト教倫理的思想家。代々医師の旧家に生まれた。父は著名な医者。母は篤信で愛情深く、豊かな精神の持ち主で、彼の精神形成に深い感化を及ぼしたといわれる。
ドイツのゲッティンゲン,ハイデルベルクの両大学で法学や哲学を学び故郷のクールに帰って弁護士となった。この職業の社会的意義を彼はきわめて高く評価し、自らもその理想実現に努力した。ギリシア・ローマの古典に親しみ、30才の頃に、キリスト教に基づく、深い倫理思想に到達した。1874年ベルン大学教授となり国法学を教えた。のち同大学総長となる。国会議員にもなり、1909年にはハーグ国際仲裁裁判所判事となるが、同年秋死去した。多忙な仕事の間に書かれた『幸福論』3巻、『眠られぬ夜(よる)のために』などの著作は、富や栄誉を追いかけるのではなく、魂の内奥の静かな真理愛を求めることこそが人間の真の幸福であるという、カント哲学と聖書を基礎とした敬虔主義的な思索を吐露している。

【プラトン】B.C.427〜347
古代ギリシアの哲学者。アテナイの名門の出。ソクラテスの弟子。師の死後各地を旅行し、前387年、アテナイ西北部に学園(アカデメイア)を設立。この学園は紀元後529年ユスティニアヌス帝によって廃止されるまで約900年続いた。
 
 プラトンは、人間は経験的世界を超えて存在するイデアを持っており、教えられなくても美しいものを美しいと感じ、哀しい音楽を聞いて哀しいと感じるのだとする「生得説」を主張。「真理」・「善」・「美」というイデアを考えた。そしてそれを想起することによりイデアにいたろうとする観念論哲学を樹立した。また、哲学者の統治する理想国家を説く。著書は『ソクラテスの弁明』『饗宴』『国家』『テアイテトス』など約30編の対話編を残している。

【ベーコン,フランシス】1561〜1626.4.9
 絶対主義時代イギリスの政治家・哲学者。イギリス古典経験論の創始者。エリザベス朝の国璽尚書を務めたニコラス・ベーコンの8男としてロンドンに生まれた。1573年12才でケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ入学。1576年退学してグレー法曹院に入り1576年仏大使に従ってフランスに渡った。3年後父が死去した為帰国、1584年からエリザベス一世女王下に下院議員となる。さらにジェームズ一世のもとで司法長官となり、以後は法務長官、枢密顧問官を歴任し、ついで父と同じ国璽尚書の栄職についた。、1618年大法官となり男爵に叙爵され1621年、1621年には子爵ととなったが、同年、汚職のため失脚した。後復帰を認められたが隠退し晩年は研究と著述に専念した。1626年、ハイゲートに向かう途中に病気となり、4月9日、死去した。

「新しい発見と資財によって豊かにすること」が学問の目標であると考えた。そして学問のための学問や名声を得るための学問を批判し、新しい学問は個人的天才によってではなく人類の共同作業であると考えた。彼は帰納と演繹の二つの道を総合し、経験論と合理論を総合した『学問の大革新』全六部の執筆を構想し、1605年、の『学問の尊厳と進歩』を著し、人間の持つ三つの知的能力を記憶・想像・理性に対応させて大きく歴史・詩・哲学に区分し、さらに哲学を神学と自然哲学に区分する方法を示した。その中でベーコンは、技術史や機械学など、また情報伝達の技術について著した。
1620年に著した『ノウム・オルガヌム』では、真理への接近を妨げる偏見として、四つのイドラ(偶像または幻影)をあげた。
第1は、自己の偏見にあう事例に心が動かされる「種族の偶像」、第2は、いわば洞窟に閉じ込められ広い世界をみないために個人の性向や、立場、偏った教育などから生じる「洞窟の偶像」、第3は、伝統的な権威や誤った説に惑わされる「劇場の偶像」、第4は、市場での不用意な言語のやりとりから生じる「市場の偶像」である。
 ベーコンはこのような偏見を排除し、役にたたない演繹的三段論法ではなく、「自然はそれに従うことによってのみ征服できる」という彼の言葉のように、実験と観察に基づく帰納的方法を重視した。

【マン,ホーレス】1796〜1859
 アメリカの教育家・教育行政家・政治家。〈アメリカ公立学校の父〉といわれる。マサチューセッツ州フランクリンに生まれる。幼時は貧困のうちに過ごしたが、苦学して1819年にブラウン大学を卒業、のち1823年弁護士となる。1827年から1833年までマサチューセッツ州下院議員となり、1833年から1837年まで州議会上院議員となり議長を務め、慈善事業、医療事業、社会事業関係の立法に尽くした。この間、アメリカ最初の州教育委員会の設置に尽力し、1837年から48年まで州教育長を務めた。州教育長在任中、毎年、教育長年次報告書を作成。この州内の教育事情の調査報告書によって公教育の価値やその諸問題について大衆を広く啓蒙した。また、1839年、アメリカにおける最初の師範学校の設立に尽力したほか、教師の地位・待遇の改善、教育施設の完備、道徳教育や実業教育の振興にも努力した。
 教育長在任中に毎年公刊した12冊の教育長年次報告書は教育統計、学校建築、教授法、教育課程、教員養成、外国の教育事情など多岐にわたり、広く国内で読まれた。また《マサチューセッツ普通学校誌》を創刊編集して公教育の目的、必要性などを民衆に説き,その在任中に公教育経費の倍増、学校その他の施設の増設、校舎の改善、学区図書館の設立、教育課程と教授法の改善、州立師範学校の創設、教員給与の改善に力を尽くした。こうした教育行政家の活動とともに公立学校を当時の貧民学校や慈善学校と区別して、アメリカ国民共通の教育を与える学校として位置づけた業績は高く評価されている。 
 1848年、奴隷制反対のホイッグ党員として連邦下院議員、さらに上院議員に選ばれ、1853年にはアンティオーク大学初代学長となった。徹底した男女共学、黒人学生入学を断行し、新しい大学経営を行った。

【吉川英治】1992〜1962
 本名英次。神奈川県久良岐郡中村町(現,横浜市)に生れる。父は横浜で牧場経営その他の事業をするが失敗、訴訟事件で敗け、困窮の中で小学校を中退する。店の小僧、官庁の給仕、商店員、横浜船渠の船具工などを転々とする。船具工をしている時、事故で負傷し、それを機に1910(明治43)年の暮れに上京する。下町で「会津蒔絵」の金属象嵌師の徒弟をするかたわら、雉子郎の名で川柳を投稿。《大正川柳》の編集に従う。1921(大正10)年、22才の時《講談抑楽部》の懸賞に応募、処女作《江の島物語》を投稿し、第一席となった。その後、『縄帯平八』『馬に狐を乗せ物語』『でこぼこ花瓶』などが掲載された。
 翌年『東京毎夕新聞』記者となり、同紙に『親鸞記』などを無署名で連載したが、関東大震災の時東京新聞を辞した。しだいに文運が開け、講談社系諸雑誌にいくつもの筆名で作品を発表、初めて吉川英治の名で《キング》の創刊号から連載した《剣難女難》以後注文が殺到するようになる。
 やがて剣禅一如の境地を求める求道者として描く『宮本武蔵』に至って、大衆文学の本質である娯楽性をもちながらも教訓的な側面を強めた作風が確立され、その後、『新書太閤記』、『三国志』を経て、第二次世界大戦後の『新・平家物語』や『私本太平記』に至り、国民文学としての構想を示した。
 吉川英治の文学理念は「大衆即大智識」という言葉に示されるように、大衆とともに生き、大衆に学び、大衆に応えるというものであった。そして歴史的な事件の中に現在の問題をとらえる鍵を見出すという視点で描かれ、広く読者の共感をよんでいる。1960(昭和35)年文化勲章を受章。1962(昭和37)9月7日死去した。