幼児の戦争記憶

 

            木村 富美子(高16期)

 

人は何歳ごろからの記憶があるのだろうか。

私が、3歳以前の記憶がある、と言うと、親などから聞かされたことを、自分自身の記憶として錯覚しているのだ、と疑って信じてくれない人が多いが、私の耳が憶えていることが、確かにあるのだ。

 それは、昭和20年4月、自宅のあった池袋から銀座方面一帯が空襲(あの『君の名は』の真知子と春樹が数寄屋橋で出会う同じ空襲)になった夜の、一瞬の記憶である。焼夷弾の降る中を、母の背に負ぶさって、火の粉を避けるために頭から布団を掛けられ、防火用水の水を浴びながら、火の海の中を逃げたらしいが、そのことは全然憶えていない。安全な場所まで逃げて来たとき、母は初めて、背中の私が身動き一つせず、泣きもしないことに気づいたのだろう。

 母が、「ふみが息をしていないようなの!早く布団を取って確かめて!」と叫んだ。そのときの母の声を、私ははっきり憶えているのだ。父が布団を取り去った瞬間、私が大きな声で泣いたことも。それまで怖くて声も出せなかったのだろう。
「元気だよ。ふみは元気だよ」私は泣きながら、父の声も聞いた。父が水筒から水を飲ませてくれ、私は喉が渇いていたらしく、ゴクゴク飲んだらしいが、そのことはあまり憶えていない。だが、4月の夜に濡れた体で寒かったのか、私は大きなくしゃみをした、その「ハクション」という音も、耳底にあるのだ。

 父の実家の西多摩で疎開生活を始めるまでのことも、始めた後のことも、終戦の日のことも、何も記憶にない。
 しかし、8月の末、学徒出陣していた兄が復員して来た日のことは、鮮明に憶えている。

 私は3歳3ヵ月になっていた。兄は、父母に向かって、最敬礼をし、「ただ今帰りました」と言った。母は、割ぽう着の裾を顔に当てて泣いた。私は、兄がくれた板チョコを、従姉と一緒に食べながら、何で泣くのかと、母の姿を見つめていた。幼い私には、嬉しくても泣くことが、分からなかったのだ。板チョコは、今までに味わったことがない程おいしかったのだろうが、その味の記憶がない。だが今でもチョコレート色の包装の板チョコを見ると、なんだかとても懐かしくなる。
 
 終戦が十日遅かったら、兄も特攻隊として、飛行機に乗ったかもしれなかったという。訓練を終えて飛び立つ先輩達の姿と、飛行機を見送ったときのなんとも切なく複雑な気持ちは、60年たった今も忘れることが出来ない、兄は言う。

 私は疎開して以来、近くの村役場が正午を知らせるサイレンを聞くたびに、毎日毎日脅えたように泣いたらしい。小学校に入学してからもそれは続いていて、お昼のサイレンが鳴ると、みんなは「弁当だ!」と喜ぶのに、私は反射的に机の下にもぐって、耳を押さえて泣いていた。空襲警報を聞いた記憶は残っていないのに、私の体が、私の鼓膜が、恐怖感と共に憶えていたに違いない。

 記憶の中にはなくても、私の五感の中に残っている恐ろしい体験と、ところどころの鮮明な一瞬の記憶が、どんなことがあっても、二度と戦争をしてはいけない、と叫び続けている。

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