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自凝島神話
| 福良浦 |
| 当国の南の隅なり港中廣くして諸船を泊むるに便よし又国君の行邸あり いにしへに吹浦と書しと云.支邑に中山潟上鳰刈藻砥取などといへる地あり此湊は後に山岳相対し海口には煙嶋洲嵜なんど列り中間は恰も湖水の如く此より阿波国板野郡撫養に距ること海程三里の渡しにして終日渡海の船出入る事絶間なしざる程に渡口には船宿旅宿軒をならべ内町には工家商家建列り濱辺には漁夫の家多く裙帶菜を鳴門の海に采り海鰮を漁り五万米とし又は干鰯或は鯤にと其余諸魚闕るものなく別て海鼠の鳴門漬灰乾の裙帶菜は他に類ひなき風味なり又干潟には鹽窯ありて烟を立澳には鰮引船の漁火を焼なんど民用の助けにして浦の風景を添るものなり 凡市坊家数七百餘戸艮より坤に続き長さ十町余乾より巽へ幅二町ばかり家居相続けり市坊大抵三条山手にあるを上町といひ海濱にあるを下町といふ一書に云 抑当浦の湊は東西一里かなりの入海なりて向方十余町にして山なり峯並つづきて嶮しけくならび松樹緑ふかく四季の詠め絶ず山の尾嵜谷ふかくて磯近きに家居あるなりて朝の烟立ちのぼり 日に暎ぜるけしき勇まし霞ようくに晴行ば小舟 かずく出来り小網引あり釣たるもあり或は国々へ通へる船入あり出あり家々の印おし立てて行違ふ船のひまあれば水鳥群来て浪間に浮沈める眺めあり 岸に望めば左に丸山八幡山右の方には煙島森のおく少し南に洲嵜嶋 蛇の鰭嶋は阿万山にひつそへり 煙島の後には鶴島の古城蹟刈藻島行者嶽戸崎の鼻は鳴門にのぞみ怒れる濤の光景は言の葉にも尽しがたし遥に望めば雪の如く白砂に墨流せるごとく松の生茂るあり阿州むやの河口なり 山々城地の辺りまで委しく見へりすでに夕陽山を照らせば黄葉さらに紅いなり暮ては一家の燈し幽に寂寞としてなさけを催せり沖には漁火の波に漂ふ中に編引の聲聞ゆれば程なく櫓びやうし響かし来るは魚取の帰りにて濱には松明炎々として市からの 声かまびすし月澄のぼれば漁火もしらみきえて金波滄々として山つづくのけしき世外の思ひとなせり |
福良浦 味地草より |
| 市坊家数七百戸許艮より坤に続き長さ十町余乾より巽へ幅二町西に十軒家あり東に新道あり家居続けり市坊大抵二筋山手にあるを上ハ町と云海濱にあるを下タ町と云 国君の行邸往古は御東行屋敷と云慈眼寺門前戎町にあり延寳年中此地へ移転せし時の関司飛田某「忠右衛門・嘉右衛門」政令を執行す国君の阿波に通行せし時は浦長岡田氏某の宅へ御入なりて御茶屋と弥し修造も時々加へられしが後行邸に御殿を造営し御入りありし也 依て戎町の旧邸は十一屋某「太郎兵衛と弥す」其時里正の職なりし 右官所の命を蒙り通銀三百匁を以恩賜し則中之町北側の宅也 其官劵も彼家に伝授す古波止制札場の此家の近傍にありしは昔行邸のある時の形存せる也 下町籃觴寛永年中津吏飛田氏命を受け下町割を指揮して分一丁まで成 此時肥前島原の兵乱起き飛田氏は九州の地理弁用の人とて発向の命を蒙り起程の装いを既にしを終に島原の騒乱も静謐して発向も止まり町割は分一丁切に中絶して有けり 然るに中世網屋町の列軒火失して其後時期経て町筋を網屋町に通し谷川町水道まで通徴す 昔分一丁まで下町の在し 遺風は今八幡神祭の時華表より神輿出御して上ハ町を通りをとふり郷殿社までの限とせし後 還御は網屋町と分一丁の小路より下町へ廻り下町通りを宮まで還御する也 分一丁海浜に長さ十四五間許の小波止あり此地は法魚を集め市を出する所にて「市場の波戸」とも呼波止の行詰に一筋の横小路あり昔は殿屋敷と云 今番卒の住地にて俗呼て「十軒家」或は十人衆とも云 行邸の西小川筋あり殿川と云 昔飛田氏某其在勤の時用水のため箱樋を架爰て通せしなりて殿川と呼也 往古の波戸は原田川の末備前町下タ町の東角の河岸に遺跡あり「古波戸」と云 今の波戸は市坊の西端にあり「新波戸」と呼ふ………略 |
| 六箇度合戦 平家物語 巻第九 |
| さるほどに平家一の谷へ渡り給ひて後は四国の者ども従ひ奉らず 中にも阿波 讃岐の在庁等一向平家を背き 源氏に心を通はす「そもそも我等は昨日今日まで 平家に従ひ奉たる身の 今日はじめて源氏へ参りたりとも
よも用ひられじ 平家に矢一つ射かけ奉て それを面にして参らん」とて 門脇中納言 嫡子
越前三位、弟能登守教経父子三人 備前国下津井にましますと聞いて 討ち奉らんとて
兵船十余艘で寄せたりければ 能登殿大きに怒つて 「昨日今日まで 我等が馬の草切つたる
奴ばらが いつしか契りを変ずるにこそあんなれ その儀ならば一人も漏らさず射てや」とて
小舟十艘ばかり押し浮かべて 「あますな漏らすな」とて攻め給へば 四国の者ども人目ばか
りの矢一つ射てのかんもとこそ思ひつるに 能登殿に手痛うかけられ奉りかなはじとや思ひけん
遠負けにして引き退き 淡路国福良の泊に着きにけり その国に源氏に二人ありけり 故六条の判官為義が末子 賀茂の冠者義嗣 淡路の冠者義久と聞こえしを 四国の者ども
大将にたのんで、城郭を構へて待つ所に 能登殿やがて押し寄せて散々に攻め給へば賀茂の冠者 討ち死にす 淡路の冠者は痛手負ひて 生け捕りこそせられけれ
能登殿防ぎ矢射ける兵ども、百三十余人が首切りかけ、討手の交名記いて、福原へこそ参られけれ
安摩六郎忠景 これも平家を背き 源氏に心を通はしけるが 大船二艘に兵糧米積み物の具入れて
都の方へ落ち行きけるを 能登殿福原にてこれを聞き 小舟十艘ばかり押し浮かべて追はれければ
西宮の沖にて 返し合はせて防ぎ戦ふ能登殿 「あますな、もらすな」とて散々に攻め給へば
安摩六郎かなはじとや思ひけん 遠負けにして引き退く |
丹生明神 |
| (櫟神社 賀集八幡神社) 行教和尚筆記より |
| 到今在護国密寺矣相双于八幡而丹生明神鎮坐年代分明 素在福良浦一 上古託宣于福良人一 曰我社混二 于海濱一 而不v 堪腥臭一 汝等可v 移二 社ヲ
陸上一 是故移二 於賀集山一 至二 于今一祭二 祀 之一 或此神謂二 月夜見尊一 誤乎神名帳云大和国丹生ノ河上罔象ノ 女一座故按二日本紀一 伊弉册尊生二
火神軻遇突智一 被テ v 焦而終矣ヘシ又 且終之間生二 土垣山姫水ノ 神罔象女一 云 然則水神 也非二 月夜見尊一 必不v 可v 據二 于妄記一
而可矣 父老ノ 傳説云中世阿淡刺史欲v 聞二 賀集山 八幡之由致一 召二 郷老乃一父老應v 召赴二 阿府一 途中而逢v 翁行語而至二 于八幡之由致一
翁云我 能知二 其事故一 請筆二 記我所一 v 語列坐於阿波国木津神浦一 而筆記畢則不v 見二 翁之去處一 呈二 此大旨於刺史一 云々感二 信翁是八幡大王一
寄二良材一 造営不v 日而大成今八幡境内之畫図有v 之 者翁之以v 所v 語議二 畫工一 而圖二 冩之一 者也八幡之近境有二 丸山鬱密一 牛頭天王鎮坐并東 有二
大野明神一 祭禮 三月十六日 丹生祭祀 神輿幸二 福良檪木一 |
| 丹生明神由来 |
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里老曰く丹生明神福良より王餘魚而乗りて至れり其所をかれが川といふ九月十六日には福良より子供行きて塔をめぐるなり九月塔と云之八幡社農馬の乗祭礼の跡なり福良の初産子酒肴持ち寄りて振る舞ふたり城主福良安芸守の家人行事馬場なりし遺風也と云ふ 丹生都比売命の伝説 (罔象女 みずはのめ) 水分(みくまり)の神とも言われ 水を与え水の配分を司どる神 揚子江の南 西湖の景色で名高い杭州は絹や水銀を産する 稚日女(丹生都姫)は江南の呉王国の姫として生を受けた 紀元前5〜3世紀呉越の戦いから秦による統一に至る中国の戦国時代国が乱だれたので金属採取に長けた越人を交えた一族部民は呉王女姉妹を奉戴し呉越同舟で船出をし新天地の倭国へ向かった
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| 檪社 (東本町櫟神社) 味地草より |
| 檪木明神と弥び永見谷鬼灯谷の中間にあり此地惣谷を中山と云祠南向拝殿瓦葺二間半に壱間石華表宝暦二年九月再建 祭神水神罔象女の神也社僧神宮寺往昔此處海濱而して後世埋れて田園に開き也しと潟の上塩濱の地底蛎殻出る事多し是往昔海濱なりし也 庚申供養碑本社乃西に並ふ當社は官処の神社集に著明す |
| 立石 |
| 福良へ越る坂道中山といふ所の峠而立石有則福良境也三好勢鳴門を渡て中八木之細川氏を襲ふ時国中の兵卒等渓而関を構へて番手を置通路を塞きし所といふ |
| 永見谷 「長見山」 味地草 福良浦の項 |
| 艮隅八幡村境にあり源二十町許谷は己方に向ふ谷口に池あり永見谷の池と云艮の背通い八幡村境谷頂は飯山寺村に隣る左右小谷多く谷口の東を細小谷西を蛇谷と云 南は官道也 |
| 馬宿ノ谷 |
| 小松谷の西並にて谷は巽に向ふ小谷三ツありて坤に向う是を嘉助谷と云同西並南に向ふ是を東馬宿ノ谷云巽に向ふを西馬宿ノ谷と云惣谷は街道也 上古の駅家建続けわたる前に池あり此谷口の南は広田にて潟の上と云其西に塩浜あり村老云往古は此谷口まで入海にて官道は山手を伝て馬宿の谷中を西へ越て今の新道より船に乗りて渡海せし事也と |
| 延喜式巻二十六 主税上曰凡諸国驛馬皆買百姓馬堪騎用者置之 又曰淡路国驛馬由良大野福良各五疋 |
| 居神明神 |
| 八幡神境の南而三十餘軒許の農家列軒す俗弥て水神百姓と云往古福良浦の水神といふ事より丹生明神を守護し移来せるとき十六人共々来住し後世栄へて今数軒に及ふ神境山谷の下草を此者共と村長のみ入りて刈取るその他の農夫刈取ることを禁止するの恒例也と云ふ 刈取りの其余を村夫入費に当たりと乃由緒有事之云 |
| 桐原刑部 (東本町の山住祠) |
| 此浦の住人十一屋某「俗称太郎兵衛」遠祖を桐原刑部と号す志知松本城主加藤氏の臣にて加藤国替の時致仕して浪士となりて當国に残り福良に住し時に此浦の富豪家なれば里正を司職すとぞ 慶長五年関ヶ原一乱の時破壊の城を修復の為に福良海濱の石を大阪へ運ふべきやう秀頼公より命あり 刑部其命を等閑して延滞に及し罪によりて此浦中山八幡境立石の傍にて遂に刑部磔死せられしとそ 其後官脚飛来関東の利運となり石田方打負けしかは刑部助命すへしと傳しども早絶命の後にて残念如何ともなし今の立石か其磔死せられし所の證也とそ 其子傳右衛門存続して里正の職を励めける |
| 水神 (向谷の居神) |
| 添江の南並北向谷口に丹生の祠あり乾向古老の伝説に此神比目魚に乗て飛行し八幡村に移り賜うこの八幡宮の摂社丹生明神是也其旧地にて祭日には八幡村より神輿来り遷坐する事恒例也 |
| 行者嶽 |
| 砥取の南に出張たる峻崖にして高さ二十間許頂上の廣二間に四間租税を免除せしむ寳形造堂高二間に一間半役氏堂あり未申向長壱尺四五寸の木像を安置す 拝殿一間半四方毎歳六月七日は仏縁にて近里の詣人群集し又南の崖上に石像の不動尊あり東向境内二間に四間貢を免除したる所の地也 享保七年流川原村浄園法師是建境内に中窪みし成石あり是役行者笈をお詠せし石「笈卸」なりと又一書に云佐々木四郎馬を山上より海に向てあゆませたる谷は行者嶽の西にあり号けて馬おろしと云とあり按に行者嶽の西のササゲ谷を云なり是を灑傳へて佐々木四郎と云なるへし |
| 賀集八幡城ヶ丸 |
| 入割り谷と云所の西の山頂に平地二反余り四方眼下に見ゆる所なり 村老曰阿波三好勢中八木大土居を攻る時に軍勢皆鳴門崎より船を着く 背伝いて護国寺後山に来り暫く屯て敵城の要害を窺ひし所を城ヶ丸と云ひしなり 此地より直に中八木へ寄たり鳴門崎に馬おろしと云嵩壁処あるは三好勢渓より山頂に蹐攀りし跡にとぞ其頃中八木勢は皆福良の湊口に出張り中山に強大なる城戸を構へ敵の越さん事を防ぎしに敵兵は人知れず山越しにて心易く当地へ入り込みし事ぞ一説に三好勢阿那賀渡海し来ると云も誤あるよし村長語りき |
| 敦盛塚 |
| 是モ 在二 福良浦ニ 一 口碑曰摂州一ノ 谷落城メ 熊谷直実ハ 平氏敦盛ノ 首オバ奉大将義経ニ 仁必ノ餘リニ如何モノゾ 死骸オ 父公経盛ノ 方ニ
送ハヤト 支度ケレモ 源氏兵卒来タレハ 有退散夜陰窃ニ営ミ 船ヲ 淡路之南浦之磯傳ニ漕ケル熊谷下知ニ水主共ハ 漕行ニ 釣舟ノ 者風聞淡路ノ
福良浦ニ平家ノ公達御座由在父公経盛卿ハ敦盛ノ 行ユク程無覚束一門連枝ノ 後ニ 留滞メ 窺フニ待幾シト往逢程コトアラン水主共死骸并 送状捧スルニ
父公落涙ノ下ニモ熊谷ノ 仁情ヲ 無限アレ餐テ食給殿原トテ即返状礼酬有シカバ水主帰帆シケリサレハ別ノ 愁涙v雖無ト 限春暖ノ 潮風死骸餒レテ臭気楊レバ浦ノ僧ヲ
雇テ 福良浦ノ 煙カ 嶌ニソ無常ノ 煙ト 成玉エルトトナン 傳ヘリ須磨ノ 浦ニモ石塔残テ 行舟ノ 旅客無不云 二 断腸一 洛東新黒谷ニモ有二石塔一遺骨ハ定テ
黒谷ニコソ送埋有之欣屋嶋ニハ塚塔不v 見淡路福良浦ニハ至v今塚頭并菩提寺ノ 礎石ノ跡トシテ浦人唱ヘ 悲ノリ昔浦人ノ 傳ヘリ あわれげに 君にみせばや淡路なる 福良の洲崎波の松原 昔平家ノ 公達此浦漂泊羇旅ノ 徒然讀南評曰信濃前司行長筆記敦盛死骸ヲ 屋嶋ニ 送リツル 文意ハ只大テヨリ 凡而巳記セリ見タリ其故ハ 一ノ 谷落城ノ 節者仲春疾風暴雨之時分ナレハ平氏ノ 門旅漂泊流浪ノ不v 辨二方角一 漸阿波ノ 浦々ニ 任風随浪ニ 思々此彼ニ 浮フシ着テ 其後要害ノ 好処オトテ讃武士ヲ 遣シ 讃州屋島ニ構城有シト聞タリ是ヨリ前ニハ大半ハ 阿波ノ 撫養堂ノ 浦遍留宿ノ 源氏今モ寄来ラント群勢甲冑センヤ 勢揃ヘ有シ所ヲ冑嶽堂ノ 浦小山アリ小宰相ノ局入水有シモ此堂ノ浦内島戸傳ヘリ淡路ノ浦々並阿波ノ浦山掛テ平氏ノ士卒残居テ而其餘黨右ノ堂浦讃岐路傳ヒ行路筋ナルハ 櫛木粟田際ニ平家ノ 侍ノ 残類今ニ 到マテ浦氏ト 成テ魚賣ニ 出ケル言ニモ魚買ヘ 々ト 官柄ニ 罵苜ノ餘勢衰レ 実ニ落涙去ハ淡路ノ福良浦ノ 洲崎松原ニ 月寒ヘ渡リ小夜千鳥ノ 音ルル夜半ノ 折柄ハ東関ニ 音高キ三保ノ松原奥津ノ 景色ニモ長々不劣実哉 後鳥羽上皇隠岐御遷居ノ 閑寂御詠ニ 隠岐の海を独りや来つる小夜千鳥 鳴く音にまがう磯の松風 ト有シヲ思合セテ哀也 |
| 口碑曰春雨秋霖ノ夜ハ 絶妙ナル笛ノ音粹カニ聞ユル折シモ有ナリ是粹餽乃名残青葉悲曲ノ餘音ナラント覚テ最哀シケル此煙島ノ 竹林ニ 好音出ル 笛竹有シヲ主シ
無煙島ナレハ 今伐荒シ只篠原ノ 如コソ無下ト云モ 愚ニ 彼ノ 塚ノ 下壇ニ所斑ウニ石ノ見タルハ敦盛ノ塚守ノ 島ノ 房ノ 跡タリ近比ニ 福良ノ漁家ニ巡テ
彼ノ霊供粮乞タル島ノ 僧有ツルト故老傳ヘ 侍レリ平家ノ 縁建置シナリ 香水ノ 塔婆ニヤ有リケシ 近世海童等拾ヒ 来タル爪木ニ 挟テ 炉中ニ 薫郁シタリ
老翁共吟味セシニ 最早焼尽ノ 残恨シットナシ |
| 洲崎 「淡路常磐艸」 味地艸 |
| また蛇鰭「吹上に隷す」洲崎の東の海濱の山に添ひて長く出たる白濱なり龍蛇の水に浮へる如く洲崎に連接する勢あり 松樹列立て天の梯立なと想像らる 又近き頃より港中の歯斥に鹽龜の烟立そめてより引板かきならして竈尻に富士の山を模せるも浦の景色を添のみならす民用を助るわさなるへし 同煙島の東の海中にあさくつづけり乾より巽に続く長さ三町余艮より坤に至まで幅一町許地上は白砂と松樹蒼々と列ひ生て其勝景愛さるへし里老傳云此洲崎より阿万の下角俗『蛇の鰭』へ続きて小松並び立ちしと云然ば天橋立の景色を彷彿せる勝地にてありなんと 平家の公達爰に船とまりして詠賜しとや一説に天正年間地震の為に蛇の鰭と洲崎の間きれて海に陥りと云 同所の島中の乾に蛭児祠あり坤向拝殿石之鳥居あり神境の畝数六間而四間租税を免除せしむるの地也 官所の神社集に著明して社僧神宮寺 津番廰蛭児社の乾にあり |
| 煙島 |
| 同浦の洲崎の西にある小島也緑樹鬱蒼として島の上宗像の社あり 俗に弁財天の社と云或宝珠島とも云高さ直立凡十間許周凡一町許 嶋の頂平地凡五間ばかり宗像社あり此南石小祠あり 里人是を無官太夫敦盛の古墳なりと云傳 一説に元暦元年二月摂州一の谷の合戦で熊谷次郎直実平家の公達無官太夫敦盛を討とり其遺体を父経盛の陣に送る 其時此島に於て荼毘し煙となる
是より煙島と号く余後菩提所を営み摩尼山紅蓮寺と号く則摩尼は島の宝珠をかたどり紅蓮は敦盛の法号なりと 又紅蓮寺後世廃れ本尊観世音の尊躰は今神宮寺に坐る所是也 按洛陽新黒谷紫雲山光明寺に敦盛の碑有石面に書して曰空顔琳荘となり紅蓮の法号云べし後人尚考ふべし 雨しぶく 若葉青葉や けむり嶋 蝶夢 |
| 園島にして或は寳珠島と云配者安座の事古跡考に見へたり洲崎の西にあり周廻壱町程畝数七畝拾歩御林の地にして此内壱畝許は社殿の地也宗像の神社なり俗称弁才天と云 社僧神宮寺にして官所の神社集に著明す東向に石華表あり石灯籠二基拝殿二間に二間半瓦葺本社檜皮葺小堂頂上の寅方五間許本社の南尖祠あり是無官太夫敦盛の石碑也と或云福良城主冠者義久弁才天を勧請して祈願所とす又云平経盛敦盛の遺骸を此島に於て煙となして煙島と号う後菩提所を営して摩尼山紅蓮寺と号う (後略) |
| 福聚山慈眼寺 同市坊の中にありて山の方なり真言宗龍華院と号す |
| 寺記に云 當山は観自在薩捶霊應の地にして
鳴門の海中より出現し給う尊像あり其由来を尋ねるに往古當浦に宥智沙弥と号なえる奇異の道人あり恒に塵埃を厭ひ専ら菩提を求め仏乗を尋ねて修練して近の里を巡って托鉢し麁飯を爨ぐ
生涯を資け終う草廬を結んで勤行おくりたれば此に一年の夕海中より高僧来って無比の尊體を与うと夢見る事あり翌朝宥智沙弥その徒に語ぐ日
前夜奇異の霊夢を蒙りかなえば今日仏陀の尊像を得べしと 言ひも終らざるに威儀湯々たる十一面の尊容鳴門の澳に漂漾したまう奇なる哉 此大士龍宮城より涌出したる者なりと
沙弥合掌して禮拝し
実に佛?割符を合流が如くなりと数回感嘆せり余して後奨尊像を當寺にむかへ以来寺号を龍海寺と称す 斯星霜を移り仁治四年の仲春高野山の古哲道範阿闍梨本来の議論に依って讃州に配流の時當国繪島の磯に着岸し稍く此津に至るに不図暴風怒號して濁浪空を凌ぐ 是故に當山の観音に詣じて天氣の清和の祈念するに忽ち其霊験ありて翌日阿州の姫田に至り給う 時人あまねく佛力の深妙を感ず然るに阿州姫田の庄に瘡病を病みて其貎醜くき其父母悲嘆の餘り医師を招き良薬を乞い緇衣を請じて加持を受けるといえども 更に験あること少なし病者は其身の悪業を愧じて身を海に没せんと欲し斯時其村長告ぎて曰 此頃一僧有て道範阿闍梨と号して 近日淡州より来りて此地に留り嘗く予に語て曰 淡州福良の龍海寺なる観音の珠妙の薩捶にして定業を能転ずるの尊體なりとされば彼の津に渡りて祈念せば平復まさに速りあらんと病者は其教に随ひ 日あらば當浦に渡り来つく観音の宝前に三七夜参篭し大慈大悲を念ずる程に其満ずる夜夢中に白髪の老爺着たりて 忽ち杖を以て其頂を打と見て覚めたりと 則ち病ひ平癒して回復したれば奇異なり且厄難厄災を除くべしと勝計ふべし 又寛永十四年春嵯峨宮二品尊性親王阿州へ下向しありて鳴門御遊覧の時 住僧宥弘御宮に謁し當寺の濫觴を告奉るにより 末寺号の令旨を賜う此時改めて 福聚山慈眼寺と号す 是 慈眼福聚海無量 観音普門品の金言に因るところ也 具一切功徳 一切の功徳を具し 慈眼視衆生 慈眼をもって衆生を視たもう 福聚海無量 福聚の海は無量なり 是故応頂礼 是の故に応に頂礼すべし |
| 箕輪郷 道薫坊伝記譲り状 市村久蔵譲状 覚 道薫坊之事 |
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一、御輪旨之儀は先年淡路国江頂戴仕、其写三拾六本ハ国中江弘候而永久神いさめし操致候様蒙 勅免相勤候証拠之一軸大切ニ守護仕所、相違無御座候而五拾ヶ年以前、伯父市村六三郎諸国江罷出候節、国本より持参仕、国々は勿論エゾ迄も相渡り操興業仕、又々当国江渡り飯田辺ニおいて老死仕、然所拙者事も三拾ヶ年以前ニ御地に罷越、数年御両公之御世話ニ罷成候所此度病気仕候故、迚も不相叶と存候へ共世倅事ハ町人ニいたし候得ハ所詮相続難致存候間右之一軸御譲申度奉存候何卒幾久敷、道薫坊之一曲御勤被下度候、此段幾重ニも御頼置申度奉存候 以上
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弔敦盛塚ニ絶云 |
行年十七小英雄 行年十七 英雄わかし
埋在二 海濱松竹中一 埋めて海浜 松竹の中にあり
追憶紅顔横二 玉笛 追憶す 紅顔の玉笛を横たえしを
餘音惹恨暮江風 余音 恨みを惹く暮江の風
桃李春風節推 桃李春風の季節移る
奪花客色使人悲 花を奪うの容色 人をして悲しましむ
綾羅錦繍雖埋没 綾羅錦繍 埋没すと雖ども
未尽芳声玉笛吹一 いまだ尽きず 芳声もて玉笛の吹くを
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| 江戸時代の古絵図 |
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| 福良八幡神社 |
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| 養宜館 |
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| 福良渡海場 |
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| 櫟神社 |
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| 慈眼寺 |
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| 報身寺 重恩寺 |
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| 護国寺 賀集八幡神社 |
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| 八木松並木 お馬街道 |
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| 鳴門 |