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私の義母(家内の母)は82歳。10年ほど前から、パーキンソンとの診断を受け、8年程前から、私どもと一緒に住んでいる。パーキンソンに老齢化による呆け症状が加わって、ここ2年程前からは、目を放されない状態になってしまった。医者が言うとおりに、また、親切な隣人たちが教えてくれるとおりに、症状は、日一日と、確実に負の方向に変化していく。この、無残なまでに確実に忍び寄ってくる人格破壊の病気に立ち向かう何物も私たちは持ち合わせていないように思われる。自分だけはこうはなりたくないと思うばかりである。
義母を第三者的に冷ややかに観察している私でも、かなりのストレスを感じるのだから、娘である私の妻のストレスは大変なものであろうと思う。時々すまなそうに私に義母を預けて、気の置けない仲間と日ごろの愚痴を披露しあう会に出かけることがあるが、心の内のありったけをさらけ出して訴えてきたことであろう、便秘が直った後のようにすっきりした様子で帰ってくる。そして、誰々さんの家では、家よりひどい様子だとか、誰々さんは、介護施設に母を預かり旅行に行ってきたとか、興奮気味に話して聞かせるのである。私に苦労の半分は理解しろとの意味でなのか、自分より苦労している仲間を知ることによって、自分が安心しているからなのか、話は尽きない。
介護の、避けることの出来ないどろどろした面は別の機会に話すことにして、周囲の心配とは関係なく、どんどん老人力をつけている義母のおりおりの介護の様子を描写してみることにする。
体重が33.5~34.0程度の小柄な義母であるが、食欲は旺盛である。毎食私たちと同じぐらい食べて、10時と3時におやつを食べて、それでも彼女の食欲は満足していな いかのようである。最初の頃はそばにある菓子を手当たり次第食べていたのであるが、それを見咎めた娘から、「もうすぐ食事だから止めなさい」、とか、「食べ過ぎて胃を壊すよ」、とか、「さっきもお饅頭を2個も食べたでしょう」、とかとやかましく注意をされるので、彼女なりに考えたのであろう、私たちが見ていないところで、食べ物をほおばるようになった。こんなことをされると、家内ばかりでなく、私までいやな気分になってしまう。
義母にはすまないが、食べ物の恨みは深いと言うか、我々夫婦も意固地になってしまい、果物や、菓子の側を離れるときには、つい残りの個数を数えるようになってしまった。実は、この点ではわれわれ夫婦の方があさましい根性のように思えるが、つい、こんな意地悪をしてしまう。しばらくして帰って菓子を見ると、もとの数の半分ほどになっていることがよくある。その半分を残したまままた義母の側を離れると、今度は、そのまた半分になっていることもよくある。こんなことを事細かに観察している我々夫婦の所業は自分たちでも嫌になってしまうが、大儀は、義母の健康を気遣うと言うことにある。しかし、実は、終戦後の物の無い時代に育った我々夫婦の食い物に対する意地汚さがそうさせるのだろうと気がついているのだが--------。
とにかく、義母は、どんなに食べたいものでも半分は残すのである。妻は、自分の母のことだから、むきになって、十分食べさせているのにまだ足りないの、食べたければ食べたいとはっきり言いなさい、隠れてこそこそ食べるのはいやなことだと母をたしなめるのだが、その母は一向に平気な顔で、食べてなんかいないと言い張る。そのくせ、隠れて食べ過ぎたときには食事を残す。時によっては、食べたものを吐いたりしている。
羊羹とか、サツマイモと言ったものは、几帳面に包丁で半分ぐらいずつ削りながら食べるのである。羊羹がどんなに小さくなっても、その前の半分は残っているのである。この伝でいくと、永遠に残る羊羹といったことになりそうであるが、現実には、その前に羊羹が変質してしまうので、家内がそれを捨ててしまうことになる。
漱石の小品「思ひ出す事など」の中に、次のような面白い一節がある。
「人が余に一個の柿を與へて、今日は半分喰へ、明日は残りの半分の半分を喰へ、其翌日は残りの半分の半部を喰へ、かくして毎日現に餘れるものの半分づつを喰へと云うならば、余は喰ひ出してから幾日目かに、遂に此命令に背いて、残る全部を悉く喰ひ盡すか、又は半分に割る能力の極度に達した為、手を拱いて空しく餘れる柿の一片を見詰めなければならない時期が来るだらう。」
「希臘(ギリシャ)の昔、ゼノ(Zenon)が足の疾きアキリス(Achilleus)と歩みの鈍い亀との間に成立する競争に辞を託して、いかなるアキリスも決して亀に追い付くことは出来ないと説いたのは取りも直さず此の消息である。」
アキレスが亀との距離を半分ずつつめていっても、永久に半分の距離が残ると言う「アキレスと亀」の説は、面白くて、何十年も前に読んだ漱石の本のこう言う場面に載っていたと言うことまで記憶していた。義母の半分ずつ残すやり方は、「私は全部は食べなかった」と言う確たる証拠にはなりうる。はたして、痴呆の進む義母がそんなこすからいことまで考えているのだろうか、はなはだ疑問ではある。
あるとき、ビスケットの一部を袋から出して菓子器に盛って義母に出したところ、幾日経ってもさっぱり減らないということがあった。日によっては多くなっているようにも思われた。例の、母の健康を気遣うと言う大儀の陰の意地悪さで観察していて気がついた。本体の袋の方のビスケットがほとんどなくなっていたのである。義母は、自分が食べる度に袋から補充していたのであった。
これにはむしろ感服してしまった。その後、家の中のいたるところで、アキレスと亀の高邁な説の実証例や、食べ残し補充例が発見された。仏壇のみかんの配列がおかしい。仏壇の菓子の袋の目立たないところに小さな穴があいていて、少しずつ、少しずつ減っているのが見つかった。不思議にも、これまでに 対象物全部がなくなってしまったことはなかった。最後の一歩をヤット踏み出す力というか、思い切って全部食べてしまう勇気に欠けるのであろう。この義母の手の込んだ行為は何に対する方便なのか、何に対する気兼ねなのかさっぱり分からないが、私はこのことを妙に愉快にさえ感じているのである。
昔かたぎの律儀な彼女には、最後の一歩をヤット超えるだけの、つまりは見つかることを覚悟して全部食べてしまうだけの思い切りがないのである。
どうも最後まで物に執着して、最後の一歩を飛び越えることが出来ないようである。まして、その義母の姿を観察している私は、一切無執着(いっさいむしゅうじゃく)・一切放下(いっさいほうげ)とはいかないようだ。あさましくも、興味津々見守っているのである。
義母が視線を遠方に向けて、何かを考えているように見えることが、ある時期までしばしばあった。そしてそんなときに、なんだか馬鹿になったようだ、頭がおかしくなったような気がする、といったことをポツリとしゃべることもあった。そばで聞いていた私はドキッとして義母を見るが、特別表情に変化を認めることはなかった。明らかにおかしいときは目を見るとすぐに分かる、すでに焦点が定まらなくなっているのである。しかし、そういう変化はどこにもなかった。
そんなことばを聞いたあとで、自分にそんな疑問を投げかけている義母はまだ呆けてはいないと我々夫婦はむしろ安心していたことであった。しかし、ポツリと発せられたことばには、なんともいえない静けさと寂しさと言ったものが感じられてならなかった。最近では(ここ一年ぐらいは)もう、そういうこともない。
そんな折、私はきまって、中島敦の小説「山月記」を思い出していた。虎になってしまった博学才頴の李徴のことをである。
「------ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。さういふ時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪へ得るし、経書の章句を誦んずることも出来る。その人間の心で、虎としての己の残虐な行のあとを見、己の運命をふりかへる時が、最も情けなく、恐ろしく、憤ろしい。しかし、その、人間にかへる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今迄は、どうして虎などになったかと怪しんでゐたのに、此の間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考へてゐた。之は恐ろしいことだ。今少し経てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えて了ふだろう。恰度、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するやうに。さうすれば、しまひに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂ひ廻り、今日の様に途で君と出会っても故人と認めることもなく、君を裂き喰うて何の悔いも感じないだろう。------(中略)------己の中の人間の心がすっかり消えて了へば、恐らく、その方が、己はしあはせになれるだらう。だのに、己の中の人間は、その事を此の上なく恐ろしく感じてゐるのだ。ああ、全く、どんなに、恐ろしく、哀しく、切なく思ってゐるだらう!己が人間だった記憶のなくなることを。この気持ちは誰にも分からない。誰にも分からない。己と同じ身の上に成った者でなければ。------」
もし、自分が呆けていく過程を意識することがあるとすれば、李徴と同じ、恐ろしさと、哀しさと、切なさを感じることであろう。少しずつ、正気が失われていき、少しずつ、狂気が増大していくのである。ある時期までは、その変化の過程が分かっていながら、自分にはどうしようもないのである。ましてや、周りは、いいかげんな推論の下に、いいかげんな処方を加える。それがどんなに悔しく歯がゆいことなのか、我々には分からないのだ。そんな過渡期に、呆けを遠くに意識したであろう義母は視線を遠くに向けていたのかもしれない。義母の心に去来しているものは、過去への懐旧の情か、不確かな未来への情か、-------いや、その視線の先は誰にも分からないことなのだ。-------私だけは呆けたくない、人間の尊厳を失いたくないと切に思うこのごろである。
半年に一度ずつ、義母を連れて、介護認定の更新に出かける。そのとき、食事時にどんなに義母を静止してもじっとしていないことを訴えると、「食事時症候群」ですな、とケアーマネジャーが言う。実にぴったりした呼称なのに、ついアハハと笑ってしまった。ケアーマネジャーもニコニコ笑っていた。そのとき、これが正式な介護用語なのか、医学用語なのか、彼が勝手に言った言葉なのか聞くのを忘れてしまった。
家内は、母がパーキンソンであることと、痴呆もそれなりに進んでいることを医者に聞いてから、母が自分でやれることは何とかやらせるようにして、病気の進行を遅れさせるか、このままの状態を少しでも長く維持しようと考えたようである。水道の水は出しっぱなしにするし、温水器のお湯はしばしば空になり、風呂に入れないことも何度かあった。恐ろしいのは、ガスをつけっぱなしにすることであった。それでも、我々二人で見守ることにして、義母が進んでやろうとしていることで、まだその能力が残っていると思われる炊事仕事はそのまま続けさせることにしたのである。このことに関しては、我々の方針が正しかったと思っている。
さて、義母は、これらの仕事に生き生きと働いた。風邪をひいたり、体調を崩して起き上がれないようなときに、妻が炊事をしていると、「ごめん、みんなやらせて」、「ごめん、みんなやってもらって」、とすまなそうに娘に詫びるのである。このときの「やらせて」と「やってもらって」の、ことばの意味のとり方はいろいろあろうと思うが、このことばを発した時のタイミングと、場面からして、義母が主体で、自分がやるべき仕事を、代行してもらいすまない、というニュアンスのことばである。私にしてみれば、お世話になっているのは私たち夫婦のような気になってしまうのである。これも別に悪いことではない。
しかし、それでも何とか炊事をこなしていければ問題はないのであるが、昨日まで出来た、味噌汁の作り方を今日は思い出せないと言うような状態に突如なるのである。いくら注意しても、雑巾で茶碗を拭いたり、洗剤やハイターに浸けたまま、まだ濯いでない食器に食べ物を分けたりしてしまうのである。この手のことは、枚挙に暇がない。
そこで、家内が少しずつ、母の仕事を取り上げると言うことになるのである。自分の守備範囲をどんどん狭められていくことに気がついておれば、これはこまめな義母にとってはたまらないほど辛いことであろう。しかし、はっきりしたその意識があるかどうかは、今のところ疑問である。
義母の痴呆にばかり、我々は気を取られているが、パーキンソンの方も確実に義母の体を冒しだしているのである。歩き出しの第一歩が出ない。第一歩が何とか出ると、今度は止まらない。食卓の物を取ろうとしても手が確実にその物に到達するとは限らない。途中、味噌汁をこぼし、しょうゆビンを倒し、やっと取り上げたものは途中で落としてしまうといった具合である。また、気管支と食道の調節がうまくいかずにしょっちゅうむせてしまう。箸で口に運んだつもりがほんの少しずれており、襟首からお腹のあたりまで、食べ物をこぼしてしまい、それをまた几帳面に一つずつ拾って食べては次の動作に入るといった始末である。だから、義母の食事は一時間以上かかるのが普通である。その一時間のうち40分ぐらいは根気よくこぼしたものを拾っているのである。そういう母を見て、娘は母の仕事の範囲をどんどん狭めていかなければならないのである。
以上のような経過を辿って、今ではほとんどすることがなくなってしまった義母は、食事時になると、じっとしておれずに、狂ったように駆け回ることになるのである。ご飯炊きの仕事は、水加減を間違うことと、炊飯器の保温・炊飯・予約ボタンの選別が出来なくなったために取り上げられてしまった。味噌汁は、汁がなくなるまで煮込んでしまい、鍋を何個も台無しにしてしまい、取り上げられてしまった。この調子で次から次と仕事を取り上げられてしまう義母は、娘の仕打ちを意地悪と受け止めて不満でたまらないといった様子である。することを取り上げられた義母は、狂ったように台所の中を駆けずり回り、納豆、漬物、梅干、佃煮、その他、冷蔵庫にあるものを片っ端から食卓に運び始めるのである。家内は、それをせっせともとの場所に返し、「こちらで用意したもので食べよう」、「少し静かに新聞でも見ていたら」、と諭すと、20秒ぐらい何とか従おうとするのだが、すぐに忘れて、またせっせと冷蔵庫の中のおかず運びに励むことになるのである。もちろん、開けた冷蔵庫の蓋を閉め忘れることはいつものことなので、妻があるとき、温度センサーのついた冷蔵庫警報ブザーなるものを買ってきて取り付けたことがあった。これには、さすがの義母もびっくりしたようであった、最初はブザーがなると大急ぎで閉めていたが、そのうち、うるさいとブザーに文句をつけ、なかなか従わないようになってしまった。娘にその事をがみがみ指摘されると、冷蔵庫の蓋がなる度に大急ぎでいったん閉めて音を止め、すぐまた開けるという知恵を生み出した。庫内の温度が上がりガーガー音をたてて冷蔵庫がフル稼働する。ピーピー音をたてて早くドアーを閉めろと冷蔵庫の警報ブザーがわれわれに訴え続ける。我々には、その音だけで十分にイライラが溜まってくる。しかしながら、そんなことにはちっともめげずに、何とか警報ブザーとも折り合いをつけて、冷蔵庫内に頭を突っ込み、おかずのあれこれを探し続けている。義母の学習機能にはびっくりさせられている。
義母には、徘徊といった行動がない。これは大いに助かることである。然し、この食事時の大騒ぎが、あるいは徘徊と同じ根を持つ行動パターンではないかと思う。戦後の混乱期に、連れ合いが復員するまでの間、家族連れで実家にお世話になり、そこには20人をくだらない引揚者や、焼け出された者達がおったという。彼女は、お世話になっている身として、食事時などはおおわらわであったことであろう。その緊迫が今でも脳裏にあり、じっとしていられずに動き回るのかとも思う。体の自由が利かなくなればなるほど、おろおろと焦りながら食事時を過ごすのである。もっと静かにテレビを見、新聞を読んで過ごしてはどうだといいたいが、言いそびれて、呆れながら観察している始末である。妻が堪えかねて、テレビでも、新聞でも見て少し静かに待ってなさいといつもより強く指示すると、テレビの前で新聞を広げ、見るでもなく、読むでもなく、頭をたれて困惑の表情でもじもじしているのである。これとて、5分ぐらいのことで、またまた激しく台所を駆けずり回るのである。まさに食事時症候群である。
地面から30センチ程度の足掛けのついた竹馬に初めて乗ったときのことを思い出す。視野が急に開けて、世の中が明るくなったような、自分がなんだか偉くなったような気がしたことを思い出す。高等学校に入学して、今まで履いたことのなかった高足駄を履いて通学しだした 時のことを思い出す。通学電車の中で足駄の分だけ乗り合わせた大人達より頭抜けて廻りを見回すことが出来たとき、なんだか自分が突然偉くなったような気がしたと同時に、それまで大人に寄せていた信頼が少し崩れたような気がしたことをよく覚えている。
義母は、骨粗鬆症気味で、背中が曲がってしまったと言おうか、その事を腰が曲がったと言うのだろうか、とにかく最近極端に体が曲がってしまい、腰と並行ぐらいに頭の位置があり、地をなめるような恰好で歩く。腰が曲がるとともに日に日に目線が下がっていくことだろう。これは、前記の、私が経験した視野の広がりの感覚とは正反対のことを体験しているのではないだろうか。もしかして、その変化の過程を義母がいちいち意識しているとしたら、これは彼女にとってはたまらない不安であろうと思う。然し、そういうことへの意識が希薄になることが老人性痴呆ということなのだろうか-------。
義母はパーキンソンのため行動の自由がうんと制限されてしまっていることと、老齢から来る呆け症状の進行のためと思うが、耳は音を聞き取っても、音の意味を正確に把握することが出来なくなったようだ。物がよく見えていてもそれが何かを正しく認識することが出来なくなったようだ。本人はその事を、耳が聞こえない、物がよく見えないと我々夫婦に訴え、これまでに何度か医者に診察までしてもらったが、そのたびに、私よりもよく見えるし、聞こえるという診断を下されると言う結果になってしまったのである。義母には、それが不満なのである。いいかげんな医者だと息巻いている。
さて、義母の不満の一つ、物がよく見えないということの原因には、視野狭窄といった状態があるのではないかと私は推測している。医学的な意味での視野狭窄とは、瞳の視覚認識範囲の狭窄のことを言うのであろうが、義母のように、目そのものが対象物に出くわす範囲が狭まってしまったことも視野狭窄であろうと牽強付会、強引に当てはめて自説を進めているのである。自分の身長の半分ぐらいの高さの位置に頭がきてしまっているのである。これをこそ、視野狭窄と言うと勝手に決め付けている。胸の筋肉も、首の筋肉も、下を向いたままの姿勢を保つように固まってしまって、しかもその生活に慣れてしまった義母には、顔を持ち上げて、視線を頭上に向けることにはたいへんな苦痛を伴うようになってしまったようである。
然し、義母の旺盛な生活力は、その環境にあきらめることなく、適応の方法を考えるのである。彼女は想像力で見えない部分、よく聞き取れなかった部分を補おうとするのである。瞬時のうちに頭をめぐらして、状況の把握に努めるのである。ところが、その想像の大本となるべき、頭の働きがちょっと変調をきたしているので(老人性痴呆症)とんでもない想像をしてしまうことになるのである。
音に関して言えば、夜中の十時頃、私がパソコンのゲームで、対の絵を探して当てると、ザといって消えるゲームをやっていたときのことである、ザ、ザ、ザと繰り返して音を出していると、「誰かが畑を耕している」と言う。常識で考えて、夜中に、畑を耕すものなんかいない、ましてや、我が家の畑だとすると、働き手の私は今同じ部屋にいるのである。隣の土地は、宅地に造成したままほったらかしにしている空き地である。
また、あることに気を取られていると、すぐ近くでなる電話にも気がつかない義母が、突如、遠くの玄関にお客さんがあると言い出す。何回かは信じて玄関に出たことがあるが、当たったためしがない。時々は義母自ら玄関に出かけるが、「おかしい、何もいわずに帰ったのかしら」と自分の想像力を信じる形でその件は終わるのである。また、トントントンと二階から駆け下りてきて義母の側を通り抜けると、「今、トントントンと私の側を通り抜けて二階にいったのは誰だ」と私に聞く。一瞬、狐につままれたような気分になるが、状況がまるであべこべになった形で義母の脳裏に私の行動が定着するのである。
見ることに関して言えば、庭を歩いている私を見て、何回も泥棒にしてしまうのである。落ち葉のシーズンには、庭に散り敷いたこげ茶色の枯葉を見ては、茸だと騒ぐ。我が家には赤松があり、落葉松があり、白樺があるものだから、あみ茸・あわ茸・など、いぐち科の茸が毎年生える。我が家で収穫したサトイモと茸汁を作って年に1〜2回は食しているのである。だから時期が時期だと義母のいいかげんな想像にだまされて大急ぎで庭に出てみることになるのである。
梅の花を桜と言うのはいいが、年配者にある季節の推移への繊細さなど微塵もなくなっているのである。雪国秋田には、水仙から躑躅の頃までの季節がごっちゃになってやって来るには来るが、微妙な季節感の存在が抜け落ちてしまっているのである。寂しいことである。空は、抜けるような青空なのに、玄関の打ち水を見て、また雨だと言うに至っては、痛ましい思いでいっぱいになってしまう。
こういう、とっぴな想像を繰り返し、我々夫婦に笑われ、いいかげんなこと言わないでくれ、言う前にちょっと考えてみたら、などと言われ続けている義母は、全くひるむところがないばかりか、次から次と想像の産物が彼女の脳裏に去来し続けているのである。それをまたすぐに口に出しては周りに呆れられたり、周りを煙に巻いたりしているのである。
狼が出た、狼が出たと何回も嘘をいい、周りからの信頼をすっかり失ってしまった、狼少年を今思い出している。義母が夢の現実を夢から覚めないままに話しているような場面に出くわすたびに、我々夫婦は義母を狼婆さんと陰で呼んでいる。狼婆さんには自分がいいかげんなことを言っているといった意識は全くないのだろうか。想像力は我々を自分を超えた広い世界へと誘うのだが、過去の経験に縋った、パターン化した想像はどうなんだろう。これを想像力が豊かと言うか、貧しいと言うか-------。
狼婆さんは、風に乗って聞こえてくる大安売りの宣伝カーの音を聞き、ああまた選挙が始まった、騒がしくなる、とぶつぶつ呟く。
五年程前の二月、秋に家の中に取り込んだ木瓜がいよいよ咲きそうになったのでその鉢を食卓の上に置いた。まもなく何輪かきれいに咲いた。義母は、「父さんこれは何の鉢だ」、と私に尋ねた。一瞬戸惑い、忘れたと応えた。こだわらずに正直に言えばなんでもないことであったのかもしれない。昨年の二月に同じようにテーブルに木瓜の鉢を置いた。義母に五年前と同じように何の鉢だと聞かれた。よく聞き取れない義母に、大声で「ボケ」と応えた。頷いていた。
よく気がつく人である。一年前から、火曜日と水曜日には、介護老人福祉施設にデーサービスを受けに行っている。帰ると、一日の報告をする。腰の曲がった小さなばあちゃんがいたという。義母より腰の曲がった婆さんを私は今までに見たことがない。食事時にご飯をぼろぼろこぼしている自分のことはさておいて、ご飯をこぼすので看護婦さん(介護支援者のことを看護婦と呼んでいる)に難儀をかけているじいさんがいるという。
小屋の戸は閉めたか、廊下のストーブは消したか、玄関の戸締りはしたか、等等----気にかかることの多い人である。
私が外出するといえば、ハンカチは持ったか、傘を忘れないように、時計はしたか、お金を忘れないか、----その他、細々としたことによく気がつく。
岩見沢と名取りに住んでいる、私の息子夫婦が帰ったあとなどは騒動である。あちこちのものを引っ張り出して、これは忘れ物ではないかと我々に問いかけ、違うといわれても、忘れて困っているのではないかとくよくよと心配するのである。
そんなふうにあれこれと心配をしながら、本人は、ガスをつけっぱなしにし、風呂のお湯を出しっぱなしにし、部屋の電気を日中でもつけっぱなしにして、一向に気が付かないのである。まず、自分の頭のハエを追いなさいと言いたいが、遠慮する。人のふり見て我がふり直せと言いたいが、これも遠慮する。
昔仕えた校長の中に、職員に、服装・挨拶・言動まで、こまごまと注意するが、学校教育にかける夢など一度も語ったことのなかった人がいた。彼は、元気かなあと、ひょんな契機に思い出す。生きておれば九十歳ぐらいになることであろう。涎をたらし、パンパースをして、老人ホーム中をくまなく巡り、行き会う人ごとに、下着が出てる、洟をかみなさい、返事は一度でいい、人が話しているときに笑うやつがいるか、いまどきの若いやつらは-------、と息巻いているような気がしてならない。現状が不満で、不満で、不満が生きる活力になっているような生き方をしているような気がする。全く不遜ないいかげんな私の想像であるが、はたしてどうなのか、一度会ってみたいような気がしてくる。
そんなことはないとは思うが、もし万が一私の想像の通りの老いを迎えていたとしても、人のふり見て-----とは私は決して言えないだろう。
人は人のふりを見て、自分の活力を得、人の頭のハエを追うことに生きがいを感じているかもしれないのだから。
老人性痴呆に、二つの型があるのではないかと思っている。私の友人の母は、痴呆が進みだしてから、何もする気を起こさなくなってしまったそうである。朝は起きたくない、人前には出たくない、本当に親しい人以外とは話もしたがらない。そして、息子夫婦が、母は呆けたのだから、火を使わないように、外を出歩かないように、踏み台に上がったり、二階に掃除に出かけたりしないようにと注意をしたら、きちんと守ると言うか、それ以上に一切何もしなくなったと言うことである。しまいには、年金と、貯金通帳を出して、よろしく頼むと言う始末だそうである。ただ、そういうことがあってから、無気力になり、極端に言えば、生きる力もなくしてしまったようだと言う。嫁いだ娘がたまたま帰ってくるときがあると、枕もとに 彼女らを侍らせておいて、くよくよと現在のおかれた状況のことを話し、同情を得ては、一緒に泣いているそうである。帰りには、娘にいくらいくらお金を上げてくれと依頼し、お金をもらって味を占めた娘が殊勝にもまた来るから、と言うと、満足そうに頷いているというのである。
私はこれを勝手に鬱型痴呆症と名づけた。そして我が家の義母と比べて、羨ましいとも思ったことであった。もちろん問題はそんな単純なことではないのだが。
義母は、友人の母とは正反対であるようだ。痴呆が進みだしてから、一時も黙っていなくなってしまった。朝は早く起きて、ご飯の準備に取り掛かる。火を使わないように、その他危険なことがないようにと注意を繰り返すも、どこ吹く風で、ガスコンロでお湯を沸かすことから義母の一日が始まるのである。家内もやむを得ず早く起きなければならない。こちらの仕事の都合、お腹の都合、日脚の長短の都合など全く無視して、十一時三十分になれば昼食の準備にかからなければならないし、夕食は四時半から準備にかかり、六時台には食卓に向かっていなければならない。日脚と関係なく、時計で動く。だから、夏至と冬至の季節には、同じ夕食でも、真昼に食事をしているような、あるいは、夜中に食事をしているような妙な感じになってしまうのである。
また、人前で昔話をするのが楽しそうである。過去のことを嬉々として話している姿からは、とても痴呆の進行など考えられない。調子に乗ると、義理の息子の私のことを、本人がいる前で、大いに誉めそやしたりするのである。薬の世話、病院通い、家内が不在のときの私が用意する食事のことなど、父さんにお世話にならないものはない、助かっていると熱く訴えているが、毎度同じことを同じ調子でやられると、こんなに私に気兼ねしているのかと、可哀相になってしまうのが落ちである。聞かされるお客さんだって、ことばの裏の意味に心をはせるに違いない。「父さん、ご苦労さんです」とお客はすまして私に言う。
踏み台に上がって洗濯物を干したりすることは禁止しているが、娘の目を盗んではヤッと台の上にあがっている。六年ほど以前に階段を四、五段滑り落ちたことがあるので、二階に上って仕事することは厳禁にしている。落ちれば寝たきりになってしまうよと口をすっぱくして 言っているのだが、隙を見ては上がろうとする。また、義母は、日記の中に、娘が自分を二階に登るなと言っているのは、二階に何かを隠しているからだ、と書いていると妻が言う。(日記は長年の習慣でだろう、よく書いている。感心なものである。ただし、最近では、昨日なにを書いたか自分で読んでも分からないという。それでも書き続けていることはすばらしいことだと私は思う。長年その日記帳は私が用意してあげていた。その日記帳を彼女は後生大事に書いては厳重に管理してしまっていたものであるが、最近では、書く時間よりも、日記 帳を探している時間の方が多くなってしまった。あれほど秘して書いていたものを、今は、開いたままであちこちに置き忘れている)
金に関する執着がすごい。千円以上の金の単位については分からなくなっているが、とにかく自分の金は自分で管理しようと必死である。貯金を引き出すのに、娘に頼んだりはしない。必ず娘を連れて行って、必要な金額を自分で引き出すようにしている。ところが、その金をしょっちゅう紛失するのである。大事さのあまり、布団の下に、枕の下に、本の中に、化粧台の下に、いろいろなところにしまい込み、挙句、しまいこんだ場所を忘れるのである。そのたびに、娘に、お前知らないかと問い掛ける。最初は、しつこく付きまとわれるのが嫌で、すぐ探しに出かけ、見つけ出しておったが、最近では、必ずあるから、自分で探してみなさいと突き放しているようである。それでも2日も見つからないとなると、家内も気持ち悪く思えてくると見えて一緒に探したりしている。お金に限らず、一日中ごそごそと探し物をしている義母にうんざりしてしまうと同時に、こんなふうになりたくないと切に思うようになった。五年も六年も前のガス・水道・電気・電話などの領収書を出して、毎日のように調べては、今日は忙しかったとむしろ満足げであるのには驚いてしまう。義母の頭の中で、現実の時間の進行と、現在の自分の行為がどんな意味を持って結びついているのだろうか、それが知りたい。
この頭の混乱はなになんだろう。どこにも生産性のない混乱。本当にうんざりしてしまうと同時に、真剣にそういうことと取り組みながら日を送っている義母が哀れでならない。
私の友人の母が、鬱生の痴呆だとすると、義母は躁性であろうと思う。他人の力を借りず、とにかく自分のことは自分でやろうとする。その自分の欠点を他人から指摘されたりしても決して認めようとしない、場合によっては猛然と反撃に移るのである。これを私は躁性の痴呆だと言っているのである。
昔、オウム真理教の宣伝部長みたいな者に、上祐某とか言うものがいて、マスコミにあれこれ質されていたが、いつも即座に答えていた。その大半は屁理屈のように聞こえるが、とにかくすらすら答えていた。当時、口からでまかせに申し開きするような人のことを、「ああいえば上佑」と言って揶揄していた。図らずも、このことばを思い出しては義母に当てはめ、妻と二人で納得しあっているのである。
「ばあちゃん、薬飲みなさい」と言うと「今ちょうど飲もうとしていたところだ」と即座に答えが返ってくるのだが、実はこれは、すでに飲む時間を一時間も経過してからの会話である。「ばあちゃん、味噌汁の汁がなくなるほど煮てるよ」というと、「今火をつけたばかりだ」と平然としている。強弁しているのか、本当にそう思っているのかわからない。「ばあちゃん、洗面所のお湯出しっぱなしだよ」というと、「今日は寒くて-----、朝かなり冷えた-----」と一生懸命に話の方向を変えようとする。「ばあちゃん、いただきます、は三回目だよ」というと、「聞こえないかと思って----」とか「返事がないものだから----」と言った、返事が即座に返ってくる。確かに、二度も三度もいただきますを言われるとあきれて返事を無視してしまうのが常である。一瞬、義母は我々を試しているのかと思ってしまう。その他この程度の例は、毎日いくらでも出て来るが、あまり格調の高いことではないのでこれぐらいにしたい。
この当為即妙と言うか、すかさず出てくる言い訳はなんだろう。義母の頭の働きがいまだ旺盛で、自己保身のために激しく働くのか------、そこで思い出すのが、ああいえば上祐なることばなのである。その場を糊塗することに夢中で、必死で言い逃れをする、相手が言い逃れの先を知っているのにとにかく言い逃れの道を探す。
これを哀れと取るか、これを生きる力と取るか悩むところであるが、私は、生き生きと生きる義母の知恵であると思う。片っ端から失われていく多くのものの中で、必死に守っている彼女の弁解は、取りも直さず彼女のプライドであり生きる力であると思うのだがどうであろうか。上祐婆さんの弁解に腹を立てることなく、いとおしむぐらいの気持ちを持たなければいけないと自分に言い聞かせるのだが、時には「いいかげんなことを言うな」と叫びだしたくなってしまうことがある。悟りの境地には程遠い、生半可(半跏)な己を恥じる。
--------2002/01/31まで。
2002/3、半年ごとの介護度審査で、義母は介護度1から2になった。今まで週2日のデイサービスが3日になった。義母はそのことをごく自然に受け止め、いつものように、むしろ楽しげに施設に出かけている。
我々夫婦はそのことでホッとしている。自分が義母と同じ立場になったら、どうか施設にやらないでくれと頼むに違いない。毎日のようにボランティアの方たちがやって来て、にぎやかに慰問してくれたり、介護してくれたりすることを思うと、どうか個室に一人にしておいてくれと頼み込むか、タクシーを呼んで家に逃げ帰るかしていることであろう。素直に出かけてくれる義母にその点を感謝している。
私みたいな偏屈な人間も多いと見えて、介護施設に個室を設置することの必要性が今盛んに論じられている。これは、是非ぜひ実現して欲しい事である。老人を孤独にさせないいろいろなイベントは必要なことであろう。また、老人を孤独にさせると痴呆がどんどん進む場合もあることであろう。しかし、私は、残り少ない生の日々を、一人でいる時間を多くして、勝手なことを考えて過ごしたいと思っている。善意のにぎやかなボランティアの方々の奉仕に甘えて、また、心のどこかでは彼らに遠慮しながら拍手と笑いの中に埋没してしまうことだけは避けたいと思っているのである。
とにかく義母は昔小学校に通っていた頃のように律儀に出かけるための準備をして、何の不満も述べずに出かけてくれる。ありがたいことである。
施設では、老人同士のトラブルがあってはいけないからとの配慮からであろう、すべての持ち物、着物類に記名をすることと、お金は2〜3百円以内にすること、お菓子を持ち込まないようにすることなどについて、あらかじめ保護者に通知してあるのである。
義母はときどき、得体の知れない干菓子をティッシュに包んで持って帰ることがある。食い物であると隠れてでも食べようとする人が、施設で出すおやつを食べずに家まで持ってくる不思議さに、どうして食べなかったのかを聞いてやっと分かった。お菓子を持ち込みこっそりと仲間に配っているばあさんがいるようなのである。それに対して、義母は何かお返しをと真剣に考えているのである。お菓子を配ることはいけないことだとの認識があるかどうか義母にしつこく尋ねてみても、はっきりとした応えがない。応えに窮したことと、その場で食べずにティッシュに包んで持ち帰っていることを考え合わせると、規則を破っている後ろめたい感情はあるようである。
小学校、中学校、高等学校、大学、いやいや、老人ホームに至るまで、人の集まる施設には必ず「ワル」がいるものだなあと、感心した次第である。また、そのワルの周りには、やっぱり取り巻きがいて、ワルをはやしたて、おだて挙げ仲間はずれにならないように自己防御の姿勢を怠らない連中もいるものである。さらに、その追従の輩の中に、何人か良心の呵責と格闘しながら行ったり来たりうろうろしている可哀相な者達も何人か存在するものである。駄菓子屋で一個10円ほどで売っている干菓子をティッシュに包んで家に持ち帰る我が家の義母はさしずめ「良心の呵責組」ではないかと思っている。
このお菓子のこととの関連でかどうかは分からないが、施設へのお金の持ち込みは2〜3百円以内といわれていて、あらかじめ準備してある財布にいつの間にか1万円札が入っていたことがあった。妻は、このことを発見以来、毎朝財布も点検することにしていた。効果覿面と喜んでいたのも束の間、今度は、ズボンのポケットの中から、ティッシュに包んで手帳の中から、折りたたんだハンカチーフの中から、メガネケースの中から、時には、硬く握った手の平の中から数千円が出てきたのである。いくら家内に注意されても、毎朝、どこかに隠して数千円を持ち出そうとしているのである。毎週、毎回のことである。家内もあきれて、施設には怒られるかもしれないが、2000円ぐらいまでは黙認しているようである。しかしそうなると今度は、それ以上のお金を何とかして持ち出そうとして、隠す場所を探してうろうろしだすのである。一体何のためであろうか。
施設には、ジュースの自動販売機が一台あるきりである。どう考えても、持ち出そうとした金額を使うような機会も場面も無い。また、時々お菓子を配る「ワル」へのお返しをするためのお金と考えるのもどこかに無理があるような気がする。施設には駄菓子の店が無いのだから。では、一体何のためであろうか。
何十年も昔のことになるが、私が東京の学校に行っていた頃、帰省の前になるとほとんどお金を使い果たしてしまい、帰りの汽車賃と、駅弁代ぐらいしかなくなってしまったことを思い出す。金がきれて何も食えないひもじさを心配するよりも、金がなくなるそのことの心配の方が強かったように思えてくる。いよいよ余裕がなくなると、こっそりズボンのポケットに手を突っ込み、残りの金に触ってみることさえあったものである。もしかして、義母は戦中戦後の苦しい時期、子供を抱えて金に困った頃のことがトラウマとなって、こんなにもお金に執着しているのではなかろうか。
義母がけちとか、貧乏性とか言うのではない。使い道が無くて有り余るほどの現金と通帳を、押入れの布団の中、枕の下、鏡台の引き出しの中、と、あちこちに隠して、それが見つからないといっては、ひがな一日お金探しに明け暮れるのである。こんな状態でありながら、2〜3百円といわれた財布には、何とかして2〜3千円のゆとりを持とうと画策する。2〜3千円の中身の財布には、人知れずさらに2〜3千円を上積みしようとする。
義母のこの習性をどうにも解釈できない。私は勝手に、戦争中の精神的外傷ではないかと分析している。私の親も、生きておれば、倦まずに、日がな、お金探しに右往左往していたことであろう。
口の悪い友は、お前の両親は、息子孝行だったなあという。早死にした両親のことをこのように表現されてみると、どこかの点でやはり私の本心を見抜いている言葉のような気がして、嫌な気持ちになったものであるが、このごろでは、自分が息子孝行であるためにはどう生きて、どう消えればいいのかと、滑稽な?悲愴な?考えに捉われているような次第である。
2002/8/31
子供の頃母に「トン・チン・カン」とよく言われた。最初はその意味をよく飲み込めなかったが、何回も言われているうちに、おおよその想像がつくようになって、他の子にこの形容をして、相手をポカンとさせたことを記憶している。
広辞苑によると、「鍛冶屋の相槌は交互に打ち、音が揃わないところから @物事がゆきちがい前後すること。つじつまの合わないこと。 Aとんまなこと。またそういう人。」とある。
何事につけ、とんまなことをしでかしていた私は、この言葉の意味を辞書で知る何十年も前から、おおよそ正確に把握していたし、他人のとんまな行動にも的確にこの言葉を浴びせていたような気がする。
トン・チン・カンは擬音語だったのだ。鍛冶屋の音の調子がとれない様を見事に形容した言葉だったのだ。したり顔に、「頓珍漢」などと宛てている人がいるが、これではとても意味を理解しているとはいえないと思う。人間の頭の構造なり、行動態度なりが、どこか方向違いに働いている様を理屈抜きに表現する、これがトンであり、チンであり、カンであるのである。
さて、義母についてであるが、彼女のいちいちの行動を勝手に取り上げて、勝手な解釈をしている私の行動こそトン・チン・カンと言わなければならないことであろう。しかしである。------最近、どう考えても理屈の付けようの無い行動が出来(しゅったい)しだしたのである。この項を読んだどなたかが解釈してくださることを期待して、私にいわせるとトン・チン・カンになってしまったとしか考えようがない義母の現状をここに書き付けてみることにする。
口紅で、眉を描いたらしい。身だしなみに厳格で、お化粧もきちんと鏡台の前に座り丁寧に施している義母。介護施設に出かける日には必ず化粧道具を携帯する義母。このことをいいことだと家内と話していた矢先のできごとである。口紅で眉を描き、10時のお茶の時間に出てきたのは。
まづ私が見つけてびっくりしてしまった。家内に合図を送ると、家内もびっくり仰天の体で、「ばあちゃん、眉になにをつけたの」と思わず叫んでしまった。義母は心外なことを聞くと言った表情であったが、「眉を赤く描いたのはどうして」と家内に詰問され、ティッシュで自らの眉のあたりを拭いてみて、やっと異状に気がついたらしい。眉も抜けよとばかりに拭うが一向に赤い色は落ちない。
鏡台の前で、じっくりと化粧したはずである。どうしたことであろうか。笑ってはいけないような気がして、家内も私も笑わなかったが、-----とにかく驚いた。
これも私の子供の頃のことになるが、我が家で飼っていた三毛猫に眉を描いて喜んだ日のことを思い出してしまった。三毛猫の毛は白・黒・茶の三色に決まっている。家の猫は片方の目の周りは茶で、鼻から口の回りは黒で、もう一方の目のあたりから額の半分は白であった。あるとき、いたずらをして白い額の方に赤いクレヨンで眉を描いてみたことがあった。たまらないほど可笑しかった。妹に受けたし、母にもそんなつまらないことをするなと言われたが、言いながら母はげらげら笑っていた。不謹慎にもそのときの可笑しさがこみ上げてきてしまった。義母の眉は鮮やかに赤かったのである。
義父の甥にあたる人、つまり義母の義理の甥が肺ガンで、秋大病院に入院していることを聞き、義母を連れて病気見舞いに出かけた。末期のガンだということを聞いて義母に面会させることを心配しながらも出かけた。付き添いの奥様が言うとおり、その日は病人の調子のいい日で、ほっとした次第である。義母と義理の甥と私たちはあれこれと話しこんで、最後に一日も早く退院できるように、医者の言うことを聞いて養生するようにと言ったことを言い残して病院を後にした。
その後、お盆に、義父の墓参りのついでに、義父の甥の家に寄った。入院中であった甥もお盆中だということで、一時退院して家に帰っているところであった。我が義母は、その甥にむかって、さかんに秋大に入院していた、甥のことを元気だったと説明するのであった。はて、自分の話し相手を誰だと思っていたのであろうか。
ニヤニヤしながら、自分の入院報告を聞いていたその人は、そのちょうど一月後には死亡してしまった。義母を連れてお葬式に出かけた。義母は神妙に故人の冥福を祈っていたが、はたして入院していた義理の甥と、お盆に会った義理の甥が心の中で一致していたものやらどうやら。
義理の姪(死者の妹)がいて、我が義母に、久闊をあれこれと述べていたが、なかなか相手を認知できずに、「本物だが」と聞いていた。姪は必死で「本物だ」と叫んでいた。
義母の弔いの言葉、久闊の挨拶、そのどれもがきちんと的を得た会話になっているのだが、--------。
義母の頭の中で、現実の事象が有機的にうまく結びつかない。一つ一つの具体的事象には正しく対処しているが、それが頭の中で統合しない。鍛冶屋の鳴らす槌音が、澄んではいるが、調和しない。トン・チン・カンと各方面に飛び散るのである。もしかして、高音のあの澄んだ音色が、勝手にトンと鳴り、チンと鳴り、カンと鳴りだす状態が、老人性のぼけ現象では-----------。
2002/10/14
長いこと学校の先生をやってきて、習性となってしまったのか、人にものを教えるということが-----。ものを教えて、さらに、それがそのまま相手に定着することを期待するということが-----。
最近では、すっかり呆け症状が進んでしまった義母に、一日中、何やかやと日常の生活上の注意をしていなければならなくなってしまった。一挙一動をあれこれ注意される義母はさぞうんざりしていることであろう。しかし、こちらはこちらで、83歳にもなる義母に怪我でもされたら取り返しがつかないとガミガミ注意しながら、ほとんど纏わりつくようにして生活しているのである。あげく、注意をしている方もされている方もくたくたになってしまうのである。
長いこと教職に就いていた身としては、教えたことは覚えて欲しいし、口をすっぱくして5回も6回も注意したことはぜひとも相手に定着して欲しいのである。「こんなに言っても分からないのか」とかんしゃくを起こしてしまったり、次には自分の注意の仕方が間違っているのだろうかと反省し、教えることの難しさに落ち込んでしまったりしているのである。この繰り返しが教員生活を長い間したものの宿命だろうと思っている。もちろん、反省がないまま、生涯、生徒に恵まれなかったことを嘆いて終わるおめでたい教師も多いのだが------。
話を戻そう。我が家の教育現場にあるのは、退職教員二人と呆け老人一人である。義母を生徒に擬してみると、教員二人が一人の生徒にあたることになる。我等の愛すべき教え子・義母は、教えられたことを、新しいものから順番に忘れていく。過去において覚えたことさえも日に日に無くしていくといった始末である。寂しいことであるが、それこそ痴呆の症状なのである。その事をきちんとわきまえて、対処すればいいのだが、「あれほど、何回も言ったのにまだ分からないのか」とかんしゃくを起こしてしまう。忘れるのが商売のような義母にとっては、甚だ迷惑なことであろう。注意を受る度ごと、真剣に受けとめ、努力しているのにもかかわらず、相手は始めから「ダメ----ダメ----ダメ----」と命令形+否定形でまくしたててくるのである、迷惑と言えばこれほど迷惑なことはあるまい。
義母が風呂に入る順番は、この家の主で、娘婿、つまりは、私の次である。私のときはもうもうと湯気を上げて気持ちよく一番湯につかるのだが、二番湯になると、天井から湯気が水滴となって落ち始めるのである。頭、肩、背中、首筋、所かまわずピチャリと落ちてくる。それがやりきれないのだろう。義母は浴槽に自分が入ったまま、頭の上に蓋をしめるのである。瞑目するまでもなく、中は暗いし、落ち着くのであろう、手足を伸ばして、この世の極楽とばかりリラックスするのかもしれない。時には、眠ってしまうこともあるかもしれない。――――――そういう時は不気味なほど静かなのである。家内も私も、風呂の方は大丈夫かと気にしだして、家内が様子を見に行ってみると、風呂場に母がいないと言うことで大騒ぎになってしまうのである。風呂の蓋を取られ、発見されたときの義母は、プライバシーの侵害といった非常に不満な顔をするそうである。家内のかんしゃくが風呂場から聞こえてくる。「ダメ----ダメ----ダメ----、危ないでしょう!風呂に蓋をして入る人がありますか!ダメ----、ダメ----、眠ってしまったらどうするの!介護用の補助椅子を風呂から出してしまっては何の役にも立たないでしょう!風呂の中で滑って転んだらどうするの!----------」延々と続く--------。
義母の場合の食事に要する時間は約一時間ほどである。15分程度で終わってしまった我々を見て、もっと食べなさいと言う。それでも自分のせいで食事の後片付けが遅れてすまないとでも思うのだろうか、最後は食べ物を口いっぱいに頬張り、ご馳走様と立ち上がり、自分の食器を片付けようとする。時にそれを肺の方に飲み下し、身をよじって苦しむ羽目になる。何度そんなことがあっても、またまた、口をもぐもぐ言わせながら立ち上がるのである。「ダメ----ダメ----ダメ----、口の中にものを入れて立ち上がらないで!ちゃんと飲み込んでから立ち上がって!食べ物が肺に入っていったら、肺炎になるよ!」-------パーキンソンは筋肉の働きを奪い、やがては咀嚼することはもちろん、食べ物を嚥下する能力さえ奪ってしまう病気である。やはり、命令形と否定形で必死に阻止しなければいけないのである。
痴呆症の老人を介護するのに、教師は向かないとつくづく思う。
教師は、生徒に先生と呼ばれ、自らも「先生はネ」などといっている。私は恥ずかしくて、35年の教員生活の間、自分のことを「先生はネ」、という出だしで生徒に語りかけたことがない。周りのほとんどの教師が、「先生がやってみせる---」「先生が若かった頃は---」「ハイ、先生の言うことを聞きなさい---」「先生ならこうする---」などと自分の代名詞として先生を使っていた。私はどうもそれが恥ずかしくて、「僕は---」「私は---」「俺は---」「自分は---」などと話し出していた。しかし、「僕は---」は、大学を出て一年ぐらいで、どうも気障っぽく響いて早々にやめてしまった。次に、「自分は---」と言う言い回しはどうも軍隊式というか、場面にふさわしい使い方はごく限られている特殊な語のように感じてやめてしまい、結局は、「私は---」「俺は---」が中心になってしまった。そのうち、主語を省略することに気がついて、英語の先生などには怒られてしまいそうなほど一人称の主語を省略してしまった。そうすると、言葉が命令形になってしまったり、もともとの命令形が強まったりして、それなりに苦労したことを思い出す。
「私がやって見せる---」は「やって見せるからよく見てろ---」、「私の言うことを聞きなさい---」は「一度しか言わないからよく聞けよ---」、「先生ならこうする---」は「こうするんだ---」といったニュアンスの言葉になってしまうのである。
さて、教師個人の名前の代名詞「先生」は、妙な言葉である。「先生は」と自分のことを言ったとたんに、「生徒諸君に告ぐ---」と言う語感になってしまう。先生と言う一段高いところにいる人間が、生徒にものを教えると言う具合になってしまうのである。自分のことを「先生は」といっている教師は、自分では意識していないのかもしれないが、生徒を対岸の存在物にしてしまい、教育してやるという態度に自然になってしまっているのである。
この伝で介護にあたった場合には、あたった人も、介護された人も悲劇である。介護する側は、何回教えても定着しないことに耐え切れなくなって、かんしゃくを起こす、-----しかし、介護される側は、日一日と失われて行く記憶力(人間性とまで言ってもいい)と戦っているのである。そこに思いを致さねば介護なんかできるものでないと、このごろやっと気がついた次第である。
学校教育での落ちこぼれ、落ちこぼしの問題もそこいら辺に原因の多くがあるような気がする。これだけ熱を入れて言ったことは相手に定着しないわけがないと思いあがる教師の傲慢がある。
確かに、介護は大変である。身も心もくたくたになるほど大変である。しかしそんな苦労の何分の一かは、失われていく日々に兢々としている人に、日々、知識や技術を習得させようと、叶わぬことに望みを託している我々の無理解さにあるのではないだろうか。これが昂ずるとおたがいに不幸になるような気がしてならない。水を出しっぱなしにした呆け老人に、また出しっぱなしにしていると叱ってもあまり意味がない。あなたの注意は、そのたびに新鮮に相手の耳に入り込むだけなのだ。そしてまもなく、すっかりその注意を忘れて、同じ趣旨の次なる小言も、新鮮に痴呆者に入り込むのである。「何回も言ったでしょう!」、「情けない!」などと言ってみたくなるが、すでに前のことを忘れている相手の不信を買うばかりであると、じっと我慢の日々が続くことになるのである。我慢によって溜まるストレスのエネルギー量の大きいことは充分に理解できるが、その事をきちんと意識していた方が双方ともいくらか気分が楽になるような気がしたので、今回はこのことをテーマにしてみたのである。
実らぬ努力に介護の勇気を失ってしまう場合もあるかと思うが、「先生」的達成度評価、到達度評価なぞは、介護にはそぐわないということをはっきりと意識すべきである。そこには何も達成されるものなどないのだ。無事に過ごせる今をなんと持続するかと言うことしかないのだ。
日本人は何かと「頑張れ」と相手を励ます。ピーンと張り詰めた気持ちで毎日頑張って介護している人に、これ以上「頑張れ!」ったって、それは無理な相談である。もっともっと肩の力を抜いて、賢く対処する方法はないものかしら---。
介護施設の利用、ホームヘルパーの利用は大切なことである。心と身体にもう少しゆとりが欲しい。ゆとりを得て人間は人にも優しくなれるのかもしれない。Take it easy! 同じ励ましの言葉であるが、ここはアメリカ風に「きらくにやれよ」程度でどうだろうか。Don’t get so nervous about it. ぐらいでどうだろうか。
教師が教育にあたる場合と、教師が老人の介護にあたる場合についていろいろ書いてきたが、私は、教師は生徒に「生きる力」「生きぬく知恵」はちゃんとつけてやらなければいけないと考えている。詰め込みと言われようがなんといわれようが、生きて行くための基本となる知識は何が何でも身に付けてやらなくてはいけないと思う。私は、教え込むということにかなり抵抗のあるほうだが、どうしても教え込まなければいけないことをうやむやにしてはいけない。逆に、先生が介護にあたっては、何でもかんでも教え込まずには収まらないといった生真面目さで「生きる力を失わせない」ような介護を心がけるべきである。もうこれ以上は入らない器に無理矢理ねじ込もうとする生真面目さがいかに徒労であるかに気がつかなければならない。
さて、そうは言っても、痴呆老人と真剣に対峙しているとイライラはどんどん昂じてきてしまう。教えたい、教えて少しでも痴呆の進行を止めたい。---------。だから、今日もまた、「ダメ・ダメ・ダメ」の注意で一日が始まってしまうのである。
2003/02/20
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