おりおりの記・雑

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虞美

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金魚の死

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金魚の足

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青大将

     虞美

 二男が生れ落ちたばかりの子犬を拾ってきたのは、もう八年も前のことになるか。彼が小学五年生の時だった。霰降る道端の草むらの中に鼠様の動物がうごめいているのを発見して可哀相だからと拾ってきたのである。それからの我が家はてんてこ舞いであった。長男を本屋に走らせ、犬の飼育に関する書物を何冊か買わせ、二男には段ボール箱の犬の住処を準備させ、私は牛乳を飲ませることに専念した。長男が買ってきた本には生れ落ちて一度でも母親の乳を吸っていれば助かる場合もあると書いてあった。両手の中にすっぽり入る、まだ目も開いていないこの子犬は、どうしても、母親の乳を知らずにすぐ捨てられたように思えてならない。

 家族四人でなんとしても育てようと衆議が一決してからの毎日は実に楽しいものであった。牛乳を飲んだ後のゲップはどうして出すか、排便させるにはどうするか、本と首っ引きで勉強した。十日目ぐらいで目が開いた。

 子犬は順調に成長した。「犬」「ちび」「雑」などと呼び習わしておったが、一応ちゃんとした名前を付けようということになり、その役は私に決まった。何代にわたる雑種か知らないが、犬の本には載ってない複雑なあいのこのようで、その上、メス犬だがなんとも器量がよくない。小便をたらしながら駆けずり回っている姿からは知能の程度まで分かるような気がする。私はこの哀れな犬に『虞美』と名づけた。楚の項羽(項王)の愛妃、絶世に美人『虞』(ぐ)にあやかったものである。

 

  力抜山兮気蓋世

  時不利兮騅不逝

  騅不逝兮可奈何

  虞兮虞兮奈若何

 

 子犬を虞(ぐ)とだけ呼んだのではどうもすっきりしない。『虞美人』では少々大げさすぎる。そこで『虞美』(ぐび)と命名したのである。成長するほどに妙ちきりんな、名前に相応しくない犬になっていった。保険所への犬の登録と予防注射のときは、妻が年次休暇をもらって連れて行ったのだが、犬の種類の欄になんと書くか迷った末、係員の助言に従い『雑』と書いてきたとか。とまれ、家族にだけは愛されて育ったこの犬も、あくる年にはどこの野良犬と不義の交わりをしたものか、五匹の子犬を産んだ。一匹の犬の命を救った私たちは、貰い手のない五匹の犬を保険所に運び、五つの命を奪ってしまった。

 この『虞美』が、私の退院の前日どこかに姿を消してしまった。息子も妻も私が退院して家に帰るまでそのことを一言も言わなかった。家族が散々探して歩いたであろう道を私も「虞美」「虞美」と呼びながら捜し歩いた。

 過去において、私が大病をして、その回復期に向かうたびに、私の飼っていた小動物が一匹ずつ死んでいったような気がする。身代わりなどといえば笑われそうだが、そんな気がしてならない。寡黙になった家族は『虞美』の不在をほとんど口にしないまま、生きてある自分たちを静かに寂しく確認しあった。

 志賀直哉の『城の崎にて』という作品が私の頭の中を駆け巡った。偶然助かる命と、偶然消え去る命。----しかし、今の私はそこに必然の絆を感じた。

虞兮虞兮奈若何(虞や虞やなんじを如何せん)

 

     金魚の死

十年間、ほとんど意識されないまま、一緒に過ごしてきた金魚が死んだ。水槽の底に静かに横たわって鰓呼吸をしている状態である朝発見された。その状態で三日間生き続け、今日の昼過ぎ静かに死んだ。

 長男が小さなナイロン袋に三センチほどの和金を一匹入れて帰ってきたのは、何の祭りの時であったか。あの時が長男が高校を卒業した年だったとすると、長男は記憶を辿って、そう言っているので、あれから、10年になることになる。

 縦25センチ、横35センチ程度の小さな水槽を買って来て飼った。水の浄化装置もなく、水替えをして1週間もすればミズゴケなのか、水垢なのか、何かの藻でもあるのか、緑色の苔の様なものが生えてきて、そのままさらに何週間かおけば、金魚の姿はほんの少ししか見えなくなったものだ。夏の暑い盛りには、酸素不足のためか水面に浮上してはパクパク口をあいて喘いでいたものだったが、気がつく度に、水を足したり、水替えをしてやっていた。それでも何とか成長を続け、10年もかかって15センチほどになった。

 金魚の寿命はいったい何年ぐらいだろうか。水族館にでも問い合わせれば簡単に解決がつくと思うが、それもせずに、これは大変な長寿記録だと今のところ一人決めに決めている。元気すぎてか、酸素不足でか、水槽から飛び跳ねて床に転がり出たことも何回かあった。水替えといっても、水道の水をカルキ抜きもせずただ与えておっただけである。よくまあ、生き続けたものだ。

 彼?彼女?それとも金魚は両性を具備しておったかな。それすらはっきりしないまま育ててきたが、それでも、金魚の晩年3年間ほどは幸せであったのではないかと思っている。何故といって、だいぶ長く生きているのだから、少しは愛情をもって飼育してみたらとの次男からの進言があって、水槽を少し大きなものにしたし、空気の循環器も備え付けたし、水の管理にもそれなりに気をつけてきた。それにも増して、家の前のどぶ堰に誰かが捨てていった3センチほどの金魚を拾ってきて仲間に入れてやったことが、水槽の中の雰囲気を華やかなものにした。人間の側からだけの判断では、幸せそうな晩年に見えたのだが-----。拾ってきて仲間に入れた金魚も和金だったので、親子のようにも見えていたが、最近ではほとんど同じ大きさにまで成長していた。

 大きさは同じでも、金魚のうろこの輝きでどちらが旧主であるかは一目でわかった。キンギョに皺がよるといえば人は笑うだろう。しかし、皺はできる。抜け落ちた鱗は再生せず、残った鱗からは光が失せ、体の筋肉の具合が波を打ったように外から見えるようになる。それを私は金魚の皺といっているのである。

 音もたてず、ひっそりと泳ぎ続けた金魚。その寿命の大半を一匹で静かに生きつづけた金魚。なんだかご苦労さんといいたい気持ちになる。飼い主は浅はかなものだから、金魚の生涯は楽しかったのか、どうだったのかなどと詮索し、自分勝手な感情をそこに移入して悦に入っているが、いい気なもんである。何と10年もの間、ことりとも音を立てずに私どもの側に存在し続けたのだ。それだけで有り難い。

 金魚が死んだらどう始末しようかと、鰓呼吸をはじめてからずっと考えていた。水中生息の金魚を土に返すというのも変だし、だからといって川に流してやるというのも無責任な気がするし、さてどうしたものかと。今は真冬で、土まで凍っているのに、そこに埋葬するのは可哀相である。川に流す気はない。考えた末、金魚を水槽から取り出し、まず水気をきれいにふき取り、次に、キッチン・ペーパーに丁寧にたたみ込み、その上をパラフィン紙に包んで、春まで乾燥させて保存し、土が温かくなってから土葬することにした。喪主としては、だんだんその気になり、パラフィン紙の上に、南無妙法蓮華経お題目を書きつけた。あとで我が家は禅宗であったと気がついた。いまさら南無阿弥陀仏と書くのも面倒くさい。ずぼらな私はそれで言いと決め込んだ。どうせ宗教に関する私の信仰心などこんなものである。金魚よ、法華経にて成仏してくれ。我が家の、わが仏事にしてもすべからくこの調子なので、許したまえ。我が、母も父もあの世で、息子のおくるお題目の一定しないことにずいぶん迷惑をして、ふらふらしていることであろう。

 ついでに、

 和金院魚影静謐居士(大姉)と大げさに院号を贈る。    1997/2/9

 

金魚の足

 子供の信頼を独り占めした時の父親は幸せである。「僕の父さん、最高」などと我が子に言われようものなら、一本の晩酌を十本にしても足りないぐらい舞い上がるものである。

 ある時、確かに息子の全幅の信頼を勝ち得たことがあったのでした。

 学校の官舎に住んでいた頃のことでした。前の住人が造ったのであろう、何もない殺風景な10坪ほどの庭の中に、半坪ほどの池が掘ってありました。入居してすぐに、その池を息子たちと一緒にきれいに掃除をして、和金を5匹放しました。

 ちょうどその頃、職場で雑談の折に、何かのきっかけで金魚のことが話題になり、自分でも飼いはじめたばかりだったので、何やかや質問しながら話の輪の中に加わっていました。そのうち、金魚を孵化させて育てるのは簡単なことで、最近では、金魚を買ってくるどころか、増えた金魚をどうしたらいいか困っている、といった話が飛び出してきました。金魚の孵化が、私の友にそんなにたやすく出来たのなら、自分にも出来ると確信しました。

 教わったとおりに、池をきれいに掃除して、水草の浮き草を束にして何箇所かに浮かべ翌朝を待ちました。なるほど、なるほど、金魚は早朝の空気を破るように、パチャパチャ音を立てて水草に体をよじりながら、群れをなして泳ぎ回っていました。このとき水草に近づいてよく観察しておりさえすれば間違いは起きなかったものを--------

 私は、金魚が卵を水草に産みつけたことを確信して職場に向かったのでした。その日から2〜3日して、友との雑談の機会に、おかげで家の金魚が卵を産みつけた、ということを報告すると、友は、その卵をすぐに別の容器に移せと言います。そうしないと親が食べてしまうということでした。

 私は金魚の卵をポリバケツに取り、これで半分は成功と、息子たちを集め、今後の育て方を自信に満ちて説明しました。そのとき、下の息子に、「父さんすごい!」と言われて、もう、天にも昇る気持ちでした。世の父親族は、このように子供とのコミュニケーションをとらなくてはいけない、父親が子供に信頼のある家庭に非行などありえない、と思ったものでした。子供の信頼をさらに深めるための、事実の積み重ねに余念がありませんでした。「水温は18度に保ちなさい」「金魚が孵化したら、ゆで卵の黄身を、水の中でこのように擂り潰して与えるのだ。ただし、金魚は生まれて10日ぐらいまでは、母親からもらった栄養で生きている。丸いあのお腹に全ての栄養があるのだよ。」

 嬉々として父の説明に聞きほれる我が子の表情を見たとき、私はこれ以上の満足がないぐらいの満足感を抱いたものです。

 ところがです。水面と水平に泳ぐはずの孵化した金魚の稚魚が、水底から水面へと縦に泳ぐのです。おかしいなあと一抹の不安が心をかすめましたが、初めての体験を強引に自分に納得させるように、こんなものなんだ、と初めて習得した知識にむしろ感動しながら、妻にも、子供にもじっくりと観察させました。この稚魚は、子供たちが指ですりつぶして与えるゆで卵の黄身を食しながら、日に日に成長しました。

 頭が大きく、お腹がいつまでたっても丸く張り出しており、内蔵らしきぐるぐると渦巻く腸のようなものが透けて見えるのです。そういえば、人間の子供も頭ばかり大きいし、白魚なんか、成魚になるまで内臓が透けて見えるじゃないか、これでいいのだと、自分に言い聞かせる度に、それとはうらはらに、不思議な胸騒ぎが起こってくるのでした。成長の段階で、どう変化すれば、この頭の大きい異様な稚魚が、あの流線型の和金になるのだろう。どうも納得がいかない。金魚には小さな尾びれしかないのに、この稚魚ときたら、丸い大きなお腹に続いて長い尻尾だけがある。これが金魚に変化してくるのは確かに生命の神秘ではありますが、やはりどこかに納得のいかないあるものが内心にくすぶり続けるのでした。

 職場の仲間に、遠慮しながら、不安のいくつかをさりげなく尋ねてみました。稚魚に親のような色がないのだが、と聞きますと、そりゃすぐに色は出ませんよ、3〜4週間もかかったかなあ、と言う返事でした。水槽を上下に泳いでいるのですが、と聞きますと、そんなこともあったかなあ、群れをなして水面をあちこちと泳ぎ回るよ、と教えてくれました。これ以上質問することに不安を覚え曖昧に会話を打ち切りました。

 子供より早く家に帰り、じっくりと観察してみると、益々不安になってきました。よくよく見ていると成長の早い稚魚に、尻尾の付け根からなにやら足のような突起が出ようとしていることに気がつきました。そのとき、私の後ろにやってきていた長男が、「金魚の子供は、おたまじゃくしに似ているね」と言い出したのです。

 私にはハッと思い当たるものがありました。いや、いまさら思い当たるという表現も適切ではないでしょう。私は、自分の子供時代から、これはおたまじゃくしだと分かっていたような気がするのです。その通りだよ、当たり前のことじゃないか、------そんな気がするのです。しかし、それを、いい年をして、いつから、なぜ、金魚などと思い込んでしまったのでしょうか。恥ずかしい。しかしどうしようもない。

 水槽を掃除した次の朝、確かに金魚は水草のあたりでパチャパチャやっていたのです。なん日かして、バケツにそれを取った。そのことを、つまり自分の行為を、私は限りなくおたまじゃくしに似た生き物の存在そのものよりも、固く信じていたのです。客観的に状況を振り返って見ますと、確かに池の周りには、いぼ蛙のようなグロテスクなやつがいるにはいました。卵の存在を友に報告して、そのままでは親に食われてしまうから別の容器にすぐ取るようにいわれるまで2〜3日経ってもいたのでした。卵そのものの形状には、誰が見ても区別がつくほどはっきりした違いがあるのに、知らないということの悲しさ、寒天状の袋のようなものに包まれた、かえるの卵を後生大事にバケツに汲み上げたのです。識者は言うに違いない、葉の上にびっしりと産み付けられた金魚の卵と間違うなんて考えられないと。しかし、無知は考えられないことをしでかすのです。

 それ以後の父親の存在といおうか、威厳といおうか、そんなものはどこかに吹き飛んでしまい、実に実に哀れなものに成り下がってしまいました。園児の弟は「いつお魚になるの」「いつ赤くなるの」としつこく聞く。一瞬、子供の顔を見る。何も知らない顔をして、こいつは自分を責めているのではないかとあらぬことを考えてしまう。都合の悪いことにこの弟の方は、友達に父を自慢し、ついでに金魚を分け与える約束までしているらしい。私は、最初に妻にこのことを打ち明けて、ありったけの面罵と嘲笑をいただいてしまったのです。私にも一言はある。バケツを用意してくれたし、卵をゆでて協力してくれたのはいったい誰なんだ。亭主を信頼してのことだったんだろう。あきれて言葉もない妻にそのことは言わずにただひたすら謝って、今後の子供への対処の仕方を相談したものでした。

 妻と私は、おたまじゃくしを裏の川に捨てました。後で気がつき、すがり付いて、悲しみ喚く弟に、慈悲の心から、金魚を大自然に帰してやったといった趣旨のことをくどくどと説明しました。納得どころか、親への不信の芽生えのきっかけを作ってしまったことでしょう。黙してじっと「時」を待つことにしました。不思議なことに、小学生の兄の方は、弟に大自然を自由に泳ぐ金魚のことを説明してやっていました。私を責めるようなことは一言も言いませんでした。

 後で分かったことですが、兄の方は、父の失敗に父より先に気がついていたようです。父をかばうなんて、なんていやらしいことをするやつだと思いながらも、感謝していました。弟の方は、父にあれほど食ってかかったくせに、父が言ったような論法で、友達にいいかげんな言い訳をするのでした。

 その年度の暮れ、小学生の兄の文集に、金魚と勘違いして、おたまじゃくしを育てた父のことが載っていることを妻から聞きました。父に寛容であった上の息子に完全に一本取られてしまいました。

 川に放した蛙の子は、もうとうに足が出て、今ごろは冬眠していることでしょう。幼稚園の弟に、父の嘘の足がつく日はそう遠くないかと思います。

                                         1977/3

 

                青大将

 

 屋敷蛇などと言う言葉があるかどうか分からないが、その家の屋敷を棲みかとして棲息している蛇ならば、こう呼んでもいいであろう。

 昭和53年に建てた我が家には、それ以前のことは分からないから、それ以来ということにしておこう、ずっと住みついている蛇がいる。大の蛇嫌いで、まともに蛇を見つめることさえ出来ない私には、もちろんその蛇の個体を識別できるはずがない。しかし、毎年毎年、初夏のむしむしする芝生の上に、あるいは、秋の陽だまりの庭石の上に顔を出して私を縮み上がらせてはズルズルとどこかに消えていく蛇がいる。

我が家の玄関のある北面は道路であり、東と南面はこの家に引っ越した頃は杉林であったが、現在は所有者が土建業者に変わって、資材置き場になったり、時にきれいに整地して重機を置いたりしている。そして西面は田んぼである-----とはいっても、現在は減反地に当てられている。水田としての機能を失はないようにとの持ち主の配慮からであろう、年に何回も作付けもしない休耕田を耕運機で耕作し、水を張り、均している。我が家の道路に面した北面以外のこれらの土地には、我が家の屋敷と画する生垣や塀などの障害が何もない状態である。つまり、我が家を囲む三方の土地は、毎年こまめに掘り起こされ続けているわけである。にもかかわらず、毎年我が家に姿を現している蛇は、土建屋の重機を避け、農家の耕運機を避けて棲息していて、気が向けばひょっこり我が家に顔を出すのである。周りの危険な変化をやり過ごして、もう30年近く我が家に顔を出し続けている蛇はもはや我が家の蛇と言うしかないような気がする。蛇は何年ぐらい生きているのか分からないが、おそらく何代目か代替わりしながら現れているのであろう。

ドウダン躑躅の植木に絡まりながら脱皮している。玉柘植の枝に絡まり脱皮している。これらの全身の抜け殻は、草むしり中の私を脅しつける。命の宿っていない抜け殻であっても私は怖気づいてしまい、方1間ぐらいを取り残して作業を終了してしまう有様である。

家内はまたその抜け殻を拾ってきて、何のおまじないか知らないが床の間の壷の中に入れておいたりする。暮れの大掃除にそれを見つけて私は腰を抜かさんばかりに驚く始末である。

 私がなぜこんなに蛇が嫌いかというと、それには私なりの訳がある。

 あれは小学校に入学する前後のことであったと思う。年上の仲間に従って遊ぶことの苦手であった私は、自分の言うことに何でも従う自分より年下の子を4〜5人従えて栗の木の下で遊んでいて、何のきっかけでそうなったかは記憶にないが、私がその栗の木に登って下を見下ろして有頂天になっていたことがあった。枝を摑み手元に引き寄せるようにして、一段また一段と、木の高みに幹を登っている最中にあのことが起こったのである。

 もう一段上へと、次の枝に手を伸ばしてぐっと力を入れたら、その枝が、妙な感触でグニャリと目の前に引き寄せられたのである。あの気持ちの悪い感触と、それが蛇だと感じたあの一瞬。今ではもうあの時の感触と恐怖をうまく表現できないが、思い切りその物体を空中に投げ捨てたことが記憶に残っている。その後、がくがく震えている私を尻目に、私より小さい仲間たちが、その蛇を竹棹の先にぶら下げて、村中をあちこち練り歩いていたことを思い出す。そのときのリーダーたる私の役目がなんであったかどうしても思い出せない。ただ自分より頑是無い彼らの行動を離れて見ていたものでもあろうか。はたして、あの恐怖を仲間に感づかれないままに済んだものであったろうか、その点が全く欠けたままの、しかし強烈な思い出である。

 この時のことを、その後何回か夢にまで見た。今では、もともと夢の中での出来事ではなかったかなどと思えてくることがあるが、当時の私の仲間に、そのことを裏付ける記憶が残っている者がいて、それを半世紀も過ぎてから聞かされて、あれは現実であったのだと確認させられた次第である。

 私の蛇嫌いの原因を私はいつもこのときの体験に帰している。なんと言うか、私の掌の中で絶対に動かないはずの栗の木の枝がグニャリと動いたのである。あの当ての外れた予想外の妙な感触、ひんやりしていたか、ざらざらしていたか、グニョグニョしていたか、それが全部合わさった感触であったか、それは今では曖昧であるが-----、しかしその物体は栗の木に劣らず黒く感じられたことだけは記憶の中で鮮明に生き続けている。

 恐怖は、そのものへの関心を奪い去ってしまうのかもしれない。その蛇がなんと言う種類の蛇か、蛇が木に登ったりするのか、その後蛇に関すると言うか、爬虫類に関する知識には全く目を瞑って過ごしてきたしまった。

 私から、蛇が恐いと言う話を聞いた仲間は必ずその蛇の種類について聞きただす。ところがまともに蛇を見ていられないぐらいな私にはとうてい答えることができない。仲間は、マムシか、ヤマカガシか、シマヘビか、アオダイショウか、と聞く。中学生の頃まで、アオダイショウが蛇の中では一番恐ろしいのではないかと思っていた。何しろ蛇の「大将」なのだからと。仲間は熱心に、茶色かったか?黒かったか?縞があったか?鎌首をもたげて向かってきたか?などと問う。恐怖におののきながらチラッと見た蛇は、黒いと言えば黒いようでもあり、こげ茶色であったかもしれないとも思われるし、縞があったような、なかったような、何しろ曖昧で、とにかく家に来て見てほしいと言うのだが、友の来ているときに現れたことは一度も無いのである。60を越してから、勇を鼓して我が家の蛇と1間半ほど離れて長いこと対面したことがあった。長いと言っても2〜3分のことであったろう。蛇ははすかいに私を眺めながら微動だにしない。この蛇は我が家に住み着いた蛇の何代目であろうか、以前見たものよりもだいぶ小さい。それでも1メートルはあるだろう。うす黒い身体は、よく見るとつやがあり、若くて元気そうで、じっとこちらの様子を警戒している目はむしろ可愛らしいぐらいである。縦に縞があるし、横にもなにやら模様がある。ここまで観察して、そっと後ずさりながら蛇から離れると、蛇は急に草薮の中に入り込んだ。こんな観察の余裕が出たのは恥ずかしながら60を越してからなのである。それ以来、我が家の蛇と出会うたびに、内心では一瞬「おっ」と声をあげるが、距離を保ってじっと眺めるようになった。蛇もまた私がじっとしている間じっと私と見合いをしていて、私が戻りかけて、何歩か離れると大急ぎで物陰に滑り込む。仲間の話と、動物図鑑から推し量ると、どうやら「青大将」のようである。今は、無害でおとなしい青大将でよかったと思っている。我が家の畑は鼠の巣のようになっているから、「大将」にとって住み心地のいい場所になっているのだろう。

 私は春の山、秋の山に山菜取りに出かけるのが好きだ。春は、蕨、筍摂り、秋は、みずの実、茸摂り。それでいて、やはり蛇が恐いのである。枯れ木が蛇に見えたりすることはしょっちゅうである。不幸にして、筍、茸の傍に蛇を発見したりすると、その山の(ひら)一帯はもうだめである。

 女学校に勤めていたときに、体育館に通じる廊下に蛇が入り込んでいた。2メートル近くある蛇だったので、やはり青大将だったことであろう。生徒の悲鳴を聞きつけて現場に駆けつけたのはいいが、そこに蛇を見出して私はほとんど固まってしまった。幸い恐がっている生徒の中に私の顔色を判断するほど冷静な者はいなかった、と私は思っている。同じく生徒の悲鳴で美術の教師も駆けつけてきていた。私の背中を押して、決して私の前に出ようとしない彼は、やはり恐かったに違いない。その彼が私の傍をつと離れると、ハイジャンプの竹バーを持ってきて、校舎外に追い出そうと試み出した。生徒の手前、私も遅れてはならじとその竹にしがみついて、二人で追い出し作業をしたが、蛇はその竹に取り付いて我々の手元に向かってきたのである。あの時の竹の棒を通じて感じた蛇のうごめきはなんとも言えず気味の悪いものであった。思わず竹の棒を放してしまったが、相棒もまた思わず手放していた。蛇は勝手にズルズル校舎外に這い出してくれた。

 あれは、小学校の1〜2年生の頃のことだったろうと思う。私の村から小学校までは約2kの田舎道であった。途中に私鉄の線路があって、レールの上に5寸釘を置いて、列車の通り過ぎるのを待ち、押しつぶされて、平に、鋭利に研ぎ澄まされた釘を拾い上げては列車の威力に感嘆したものである。拾い上げた釘は喧嘩の武器にでもしたものであろう、釘の持ち主は大切にポケットにしまいこんで学校に急いだり、家路を急いだりしたものである。

 列車の威力を測るものにはいろいろあったことだったろうが、石ころを置くことが多かったように記憶している。何回か、そんなことをしては危険だと学校で注意を受けたことも記憶している。意気地なしの私は仲間の後ろからそんないたずらを黙ってみては、そっと抜け出して学校に急いでいたような気がする。

 あるとき、誰かが蛇を捕まえて、それを列車に轢かせてみようと衆議が一決しているところに出くわしてしまったことがあった。蛇の頭を石ででも叩いたのであろう、既に死んでだらんと垂れ下がったままの蛇を持って一団は、私鉄線のレールに急いだ。彼等は蛇の胴体を3寸ぐらいに石で切り刻み線路の上にそれをきれいに並べて、列車の通過を待つのであった。よくは見ることができなかったが、列車に押しつぶされた後の蛇はまるで乾いた抜け殻のようであった。何度もガキ大将の手の中にある蛇の残骸を見たのは恐さ故のことだったのかもしれない。祖母は、「恐いものから目を放すと化けてでるぞ」と、弱虫の孫によく言って聞かせる人だった。蛇が化けて出たり、夢にまで出てきたんではたまらないと、何度も蛇の死骸に目を走らせていたような気もする。

 そんな、こんなといろいろある、私の蛇にまつわる経験の記憶の数々が、トラウマとなって、私の心の内に蛇を極端に恐れる巨大な恐怖の巣窟が出来上がってしまっていたのだ。------しかし、長いこと続いたこの呪縛は、私の内で最近どんどん融けだしたような気がする。

 となりの田んぼに耕耘機が入ると、危ないぞ、耕耘機の音に反応して遠くに逃げなさいよと心の中で叫んでいる自分に気がつきギョッとしたりしている。東面と南面の空き地にブルドーザーが入る時などはことのほか心配になる。「大将」の無事を祈らないではいられない心境になる。これを書いている今は12月であるが、地中深くで安全に冬眠しているか心配になったりしている。春にはまた元気な姿を現してくれと「大将」の息災を祈っている自分に吃驚している。なぜだろう?会えば固まってしまうのになぜだろう???

 奴は、屋敷蛇に違いない。できれば会わずに過ごしたいものであるが、やはり年に2〜3回は遠くに顔を出し、静かに挨拶を交わしたら消えていって欲しいなどと考えたりもしている。

 筋向いの中島さん家の黒猫が、今日も我が家を巡回している。おそらく鼠の穴を探索しに来たのであろう。よくまあ我が家の「大将」はあの爪にもかからずに、生き延びているものだとまた感心している。来年の春にはまた元気で顔を出しておくれと祈らずにはいられない。

今は出会いのあの緊張が待ち遠しいよ。

気持ち悪いけれど、待ち遠しいよ。

懐かしさに「大将」に駆け寄るようなことは、

今後の短い私の生涯において決してありえないことであるが、

一目散に逃げたりもしないよ。

------だから毎年現れて、弛緩した全身に程よいショックを与えてほしい。

いたずら鼠に「猫いらず」をやらないのも、ほんのささやかな私の好意さ。

いや、罪滅ぼしかな?

2002/12/05