おりおりの教育
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私はこれまで二回卒業生を出し、今回の諸君は三回目に当たる。第二回目の卒業生のことを書いてみよう。
三年間さんざん迷惑をかけておいて、いざ卒業となると、妙に神妙な顔をして、『三年間大変にお世話になりました。先生今後ともよろしくお願いします。』とくる。今後ともよろしくったって、私から離れて行ってしまう者をどうよろしくすればいいのか困ってしまう。時々呼び出して、酒・煙草の注意をするわけにもいかないし、自分のことは自分で責任を持って進んでもらうしかないのだよ。こちらは、卒業してからの諸君の責任の尻拭いなんかする気はさらさらないのだ。「先生の言ったことをよく守り、立派な人間になってみせます。」とも言う。冗談じゃない。私の言ったことをよく守っていたんでは、これはどうしたって私程度で終わってしまうことになる。私程度のものが世の中にごろごろ転がっている姿を想像してみるだけで、どうも恥ずかしくって生きて行く気がしなくなってしまう。
私の言わなかったことをよく勉強して、私を踏んづけて、大きく羽ばたいて欲しいのだ。私はそそっかしい人間だもんだから、前記のような、卒業生の、殊勝な言葉を聞くとつい涙が出てきてしまう。馬鹿め安っぽく泣くもんじゃないと、屁理屈をついてみるが、涙腺の方がどうもしまりがない。
わたしは「遊びに来いよ」と言うのが口癖である。私の言うことをよく守り、今後ともよろしくと私に頼む諸君らに、何と言えばいいのか困った末の言葉が「遊びに来いよ」となるわけである。この言葉は心からそう思うことによって自然に出てきた言葉と固く信じている。本当は、私の言ったことを守らず、私の世話にならず卒業した諸君のその生き様に接するのが楽しみだからである。しかし、諸君よ、一升の酒を持参して我が家に来たならば、一升の酒が切れる頃には少なくとも帰る姿勢を示すべきである。そうすれば、草庵の主人はきっと言う。帰らないでくれ、私を一人にしないでくれと。
これも安っぽく響く言葉だが、私は「死ぬなよ」とよく言う。「死ぬなよ」の前提には「私はまだ死なない」という気持ちがある。だから諸君よ「死ぬなよ」と続くのである。生きてさえおれば、会おうと思えば何とか会えるのだ。これも少々流行歌調であるが「呼べば答える」という言葉がある。この言葉の前提には生きて存在していると言うことがなければならない。生きていて欲しい。生き生きと生きていて欲しい。生きておれば答えが返ってくるに違いない。両親を早くに喪ってしまった私は、特にそう思うよ。なんと呼んでも、何回呼んでも返事が返って来ないのだ。
諸君の高校時代の三年間を振り返るとき、生きながら死んでいた者の多かったことに驚く。呼んでも叩いても夢の中に浮遊していた。逆に、君たちが私を呼んだときにもこういった空しさを感じたことがあったであろうなあ。
諸君が私を理解するには、私を出なければいけない。私が諸君を理解するには、私は諸君と離れなければいけない。卒業の意味をそんなふうに考えてみた。諸君、また会おう。
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1.カウンセリングの位置
学校教育でめざすものは、A・必要な学力の養成と、B・人間形成の両面かと思います。A・の必要な学力の養成に関しては、長年の学校教育活動がこれを受け持ってきたわけでありますが、これからの時代と、そこにおける教育を考えるとき、B・の人間形成の面が大きく浮かび上がってくるわけであります。知識だけに偏った社会性に欠けている人間をつくらないためにも、また、基礎的知識が欠けているために情報化の時代から置き去りをくう人間をつくらないためにも、これからの教育に望まれることは、上記A・Bの程よい調和の取れた教育かと思われます。
カウンセリングが、学校教育のどこに位置付けられるかと言うと、いうまでもなくBの人間形成の教育であります。人間形成の教育とは、指導と治療を兼ね備えた教育活動のことであります。「指導」と言う語は、ここでは適切さを欠くような気がしますが、ガイダンス・方向付けのことであります。「治療」と言う言葉も、はなはだ曖昧ですが、クライエント自身が自ら自分の問題を解決していこうとする際に、機能的な援助をすることであります。つまりは、学校カウンセリングは、生徒の心の問題をサイエンス化してゆこうとすることなのです。
カウンセリングの方法として、非指示的カウンセリング、指示的カウンセリング、折衷的カウンセリング、といった分類がやかましく言われておったことがありましたが、カウンセラーの資質と、クライエントの反応の仕方と個別の問題事例によってそれぞれカウンセリングの方法も違ってくることでありますし、どの方法がいいとか、どの方法が悪いとか一概に言えることではないのです。カウンセリングの本義=人と人との相談的な係わり合い、から考えて前記のようにカウンセリングの方法をあれこれ区別することにこそ大きな問題があると思うのであります。
2.カウンセリングと啐啄の機
禅の方に啐啄同機と言う言葉があります。親鶏が卵を温めてこれを孵化するにあたり、いよいよ雛が誕生するその時、卵の表面の殻を啐(たた)きます。ちょうどその時、卵の内側からも雛が殻を啄(たた)くそうです。このように得がたい絶妙の時期を逃さずに、機を得て両者が相応じることを啐啄同機と言います。この機がうまく合わなければ、雛は誕生できないかもしれません。このことを同時契合とも言っています。
人間と人間の出会いなどと言うものは、すべてこの啐啄の機ではないかと思います。カウンセリングは、人と人との相談的な係わり合いであると言われていますが、見知らぬ人間同士の相談的な係わり合いが成立するか、しないかは、まさに、この機を感じるか否かにかかっていると言えるでしょう。打てば響くとか、呼べば応える、とか言いますが、これが成立するには、そこに両者を結びつける、絶妙の「機」があるかどうかにかかっているのです。では、その「機」は自然に偶然に発生するものかといいますと、否であります。じっと待っていては機を得ることが出来ないでしょう。機を得るためには相手に働きかけなければいけません。心と心の呼びかけがなければ、どうしてもお互いの間に機は熟さないのであります。
ところで、カウンセリングを必要とするような人は、多くの場合、身を貝のように固く閉ざしております。このような場面で、カウンセラーは貝の心を開くために、いろいろなテクニックを試みることになります。しかし、これも徒労に終わってしまうことが多いのです。親鶏にある、雛誕生の瞬間の機を見逃すまいとする必死の愛情、それがあるいは、カウンセラーに不足していたのかもしれません。だから、カウンセラーにまず必要なものは、クライエントに関する、過去の事実でも、未来への予測でもない、現在の機を逃すまいとする愛情ではないかと思います。たとえ、言葉をなくして無言で対座していたとしても、そこに愛情があればお互いの思いは通じ合えます。ラポートに入るとは、このことを言うのでしょう。
3.カウンセリングと実存
カウンセリングにおいて、受容ということがよく言われますが、カウンセラーの単なるテクニック上の問題とされている場合が多いのであります。考えてみますと、テクニックだけで他人を受容しようとするのですから、人間を侮辱したことであります。
松尾芭蕉は「松のことは松にならえへ、竹のことは竹に習へ」と言っておりますが、これは、自分の心の中を虚しくして対象の中に入り込んだとき、対象がはじめて自分の心の中に素直に入り込むということを言っているのでありましょう。禅の方では、「無心」とか「無執着」とか「洒洒落落」とかといっておりますが、いずれも自分の心を虚しくして対象をあるがままに受容しなさいと言うことを意味しているのでありましょう。
まるごとの人間をまるごと受容することによってはじめてその人の本質にせまることが出来ると思います。一方には自分のガンとした意思を保持しながら、他方でクライエントの心を理解しようと努めても、それは、カウンセラーのメガネを通しての理解にとどまり、決して、その域を越えることにはなりません。非行生徒を例に取りますと、生徒指導部の処罰会議においては、非行の具体的事例が大いに問題になるとは思いますが、カウンセリングにおいては、具体的な問題事例の詮索より先にやらなければならないことがあります。あるがままの人間を、まるごと理解し、生徒自身の立ち直りの契機を見出し、どう援助できるかと言うことであります。あいつは非行生徒である、あいつはこれこれの悪いことをしでかした、------と言うような先入の知識で問題生徒との間に壁を築き、相手を孤立させ、せっかく立ち直ろうとしている者を、再び孤独で、反社会的・非社会的な人間につき返してしまいそうな相談活動は絶対にすべきでないと思います。
1997・3