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白い窓から
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春を待つ
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白い窓から
六階の病室の窓からは交差点に面したYAMASAデパートの玄関付近が見える。デパートへの出入りの人の群れは交通信号で溜まり、そして吐き出され、終日右往左往している。買い物籠を持った婦人がいる。コートの襟を立てて俯きかげんのサラリーマン風の男がいる。両手をポケットに突っこんだまま煙草をふかしている器用な男がいる。高校生でもあろうか、信号を二三回無視して立ち話に耽っている一団がいる。私の所からは彼らの出す音はいっさい聞こえない。利害得失に関係なくこういう外の光景を見ていると、社会生活に参加できない寂しさと同時に、参加できないからこそ感じるのであろう無責任な好奇心が次から次と湧いてくるのである。
批評家の立場は、いわば硝子戸の中から外の事象を眺める好奇心と同じことではないだろうか。クリチストたり得てもアクターたり得ないのである。吉田兼好の透徹した批評眼と冷徹なまでの現実の分析力は何だろう。身を京都の吉田山に隠居させ、そこから眺める洛中の事象を縦横に分析・批評して見せているのであるが、どうもそこに生きて動く作者を感じないのである。やはり、アクターたり得ず足踏みを続ける人間をそこに見るのである。
松尾芭蕉は「向上帰下」と言った。心は高く悟りながらも俗世間にまみれて生きよとでも言うことであろうか。「日々旅にして旅を栖と」した芭蕉は、現実社会を、とことこ、とことこと自分の足で歩きつづけた人である。アクターなのである。
硝子戸の中から出たいと願いながら、音のない現実世界を眼下にして過ごした一ヶ月であった。
物騒な字面の言葉であるが、『禅』のほうではよく使う言葉のようである。
競争社会にあっては、世の中、右も左も敵だらけであるはずであるが、人は皆静かに笑い合いながら、互いに手を取り合いながら平和に歩み続けている。もっと言えば、互いに殺しあわなければならないほどの自我と自我を背負い込みながらも,平静を維持しあって暮らしているのである。これが互殺の上に成り立つ平和なのである。
子供のころの私は弱虫であったが、喧嘩をして負けたという経験は一度もなかった。相手が睨んできたら挫けそうになる弱気の虫を辛うじて抑えてじっと睨み返していた。相手が胸ぐらを摑んできたら、震えながらも相手のむなぐらにしがみついていた。相手が石を持ったら、私もすかさず石を持った。棒を持ったら、棒を持った。喧嘩の八割はお互いの力と力との均衡が保たれているこの間に終了したものであった。
米ソの力の均衡による平和の論理もほぼこれと同じことである。水面下で地球を壊滅させるほどの原子力を保有することによってのみ維持される平和である。----これが互殺の和の世界なのである。
ソビエト連邦は社会主義化に目覚めた自由の把握に自己矛盾をきたし、自ら崩れ落ちてしまって、互殺の世界から脱落してしまったのである。私はというと、たまりに溜まった体内の病が突然暴れ出して自己制御ができなくなってしまい、敗北を宣言して、医者にその身を任せたのである。
<硝子戸の中>にしても<互殺の和>にしてもそうであるが、これは夏目漱石が血反吐を吐く思いで考察した思考過程を勝手にいただいて、その上に浅薄な自己推察をしているのである。私は何か困ったことがあるといつも夏目漱石の言葉を借りて考えるのである。もう少し続ける。
互殺の和の世界からの脱落者、戦う勇気はすでに消え失せ、戦えば死ぬという意識さえ起きない完全なる敗北者として、ただひとつ行動の自由が利く自分の目でベッドを取り巻く世の中を見回してみると、漱石の言う通り皆親切であった。看護婦は黙々と仕事に従事していた。妻は入院に必要なものをあれこれと手配してくれていた。友は駆けつけてきてくれて『安心して療養しろ』といった趣旨の言葉を何度もかけてくれた。私は天井を睨みながら、やはり、世の中の人は皆自分より親切なんだなあとのんびりしたことを考えていた。----これが互殺の和の世界からの完全な敗北であろう。もしかして、平安は完全な敗北にだけ存在するのではないかと、ベッドの上で妙に寛いだ気分になっている自分に驚いていた。
再び世に出ることを許されたとき、私はどうあればいいのだろうか。六階の白い窓からYAMASAデパートに出入りする音のない集団を見ながらつくづくそう思った。
病室の壁はなぜ白いのだ。白衣は、ナースキャップは、シーツは、布団は、ベッドはなぜ白いのだ。病院そのものの外壁は必ずしも白と限ったものではないが、目を閉じて病院をイメージするとなぜか私にとっての病院は白い建物になってしまうのだ。なぜだ。
『智恵子抄』の中の「レモン哀歌」は爽やかな詩である。智恵子の臨終の床を題材にした詩を爽やかというのも不謹慎な気持ちもするが、白一色の病室、黄色いレモン、がりりと黄色いレモンに齧りついた智恵子の白い歯、ありがとうと光太郎に差し伸べた智恵子の細くて白い手、そして深い深呼吸を一つしてそのまま死んでしまった薄幸の智恵子。‐‐‐‐‐『死』はこんなものではない、もっともっと断末魔の何かがそこにはあるのだと思いながらも、『死』はこうであって欲しいと祈る。
私は小学校、中学校のころ、ある町医者の娘さんと同級生であった。物のない終戦後の混乱した時代に町医者の娘はいつも身奇麗であった。特別美人であったとも思えないが、くりくりした、物怖じしないまっすぐに相手を見る目が魅力的であった。そのころの私は腺病質だったのであちこちのリンパ腺を腫らしてはよく医者に通っていた。すると、その医院の二階から決まってピアノの音が聞こえてくるのであった。医者には先妻と後妻との間に娘が四人もおったので誰が弾いているのか皆目わからなかったが、村の人寄せの場で歌われる野卑な響きのある民謡と美空ひばりの歌とその他二三の流行歌しか聞いたことのなかった私の耳には実に新鮮に響いた。診察を終えると医者は、「家の〇〇〇と遊んで行きなさい」といつも声を掛けてくれた。もちろん、一度も遊んで帰ったことなどなかったが、白い白い記憶の底に町医者の白い館とピアノを弾いていたであろう彼女の姿が今も白く浮かび上がってくるのである。
白は殺菌、無菌という言葉にイメージとして結びつく。潔白、清潔に結びつく。中国では秋を意味する。北原白秋のイメージはまさしく白だ。『朱欒のかげ』の弟との思い出は悲しいまでの白だ。山崎豊子の『白い巨塔』は言いえて妙である。
二十四時間態勢の点滴は大変なことであった。滴る薬だけが私にとっての命の綱なのである。葉脈に沿って流れてきた朝露が葉の先端で滞り、丸い玉になってからぽとりと落ちるように、注射器の鋭い針の先端に丸い玉となり、きらりと光って落ちていく。それを私の静脈が受け取るのである。その何万回かの繰り返しの中に私の命は九日間も飲まず食わずで息づいていたのである。四六時中点滴を眺めながらこの滴りだけで生きている自分が不思議でたまらなかった。乳酸リンゲル液、塩化ナトリューム、カリウム、ブドウ糖液の混合液が、なんら人間に叙情的な興味をそそらないこの液が、無性に有り難いものに見えてならなかった。かってに『天滴』と名づけた。
点滴とか注射に関しては、血管に空気が入り込み、それが心臓に到達すると死んでしまうというどこからか聞いて知った知識を私は後生大事に持っている。もしかしてそうなったら大変と点滴の液が減少するにつれて心配になってくるのである。あわやという時間になると看護婦のせかせかした元気な足音が聞こえてくるのである。ホッとする。こんな小さなことに気を取られているからこそ胃潰瘍なんかになるのだと自分に言い聞かせて静かに目を閉じる。今交換された点滴を四時間で落とすのだ。
入院から九日間、点滴と一日中睨みあいながら精神的には退屈することがなかった。ただ肉体的には首、肩、腰など痛いところがあちこちに発生してきた。そんな中で正岡子規のことがしばしば思い出された。脊椎カリエスで身動きできない状態で、行動範囲六尺の病床から送ったメッセージが『病牀六尺』である。この時期俳句革新、短歌革新のライフワークも着々と進めているのである。激痛の走る体にモルヒネを撃ち、痛みの和らいでいる間に自己の仕事の完成を目指したという。この精神力にはほとほと感心する。モルヒネで命を縮めることを覚悟してまで完成を急がなければならなかった、その理由は何か? 結果的に俳句、短歌を余技としての文学にとどめることなく、人間が一生を掛けるに足る文学の一領域に高めたと評価できるであろうが、本人にとってのあの気違いじみた仕事ヘの情熱は何か? と問われた場合、生きることと死ぬことの意味をもって答えを出さなければならないであろう。非才な私はその問題は一時措いて、次に進むことにする。
瓶に挿す藤の花房短ければ畳の上に届かざりけり
私は中学生の頃この短歌に出会い、写生のすばらしさや、短歌革新の代表的な歌であることをその解説から教えられたが納得できなかった。この程度でいいのなら自分にもできるといった気持ちであった。藤の花房が短くて畳に届かないのはあたりまえ のことで、長けりゃ届く、それだけのことではないか、藤の花房と畳が子規の人生とどうかかわっているのだといった具合に、まことに不満の残るものであった。後に、横になったまま世の中を縦に見ることのできない子規の視線が、畳を這うように進んで花瓶と花房と畳の微妙な調和の中に凝結していることに気がついた時、呆然とした思い出がある。
胃潰瘍でへなへなと参ってしまい、医者の言うがままに四六時中天井を見て過ごしていた私には、確かにおかれた状況に子規と比較できるほどの不自由さはあるが、情けないことに俳句一句、短歌一首浮かばないのである。このまま呼吸が停止でもしたら、何の用もなさない骸が一つ残るだけである。恥ずかしいことだ。侘しいことだ。白い窓からじっと時ならぬ春の雪を見る。
有る程の菊なげ入れよ棺の中(漱石)
有る程の花で飾れや白い部屋(愚作)
夏目漱石は伊豆の修善寺で胃潰瘍が悪化、大吐血をして三十分間の人事不省に陥る。同じ潰瘍を味わった私は吐血ならぬ下血だった。少し恰好が悪いが昭和天皇も下血だったんだと漱石に比較して少々下品な点を慰めている馬鹿な男である。
私が胃が悪いと指摘されたのは二十八歳の時である。三十五歳以上に胃検診が義務づけられていたとき、健康を証明し、それを自慢するために検診に参加した。その結果『異状を認める。要内視鏡』の通知を頂戴した。ショックであった。ひっかかった先輩二人とおずおずと胃腸医院に行った。三人とも「変形胃」「糜爛性胃炎」といった診断を下されて、その場は一応無事に解放された。無口に押し黙ったまま医者の門を叩いた三人は高笑いしながら門を出て食堂に直行した。大盛りのカレーライスでも食ったと思うが今は思い出せない。この馬鹿な三人の現在は、一人は胃の全摘手術を受けその後元気にしており、一人は好きであった酒と煙草を絶って養生を続けており,一人はご覧のように胃潰瘍で倒れてベッドの上にいるのである。
あの時から二十五年間ずっと検査の度に「異状」を指摘されてきた。怯えながらも強がりを言いつつ警告を無視し続けてきた。十年程前、妻も子もいる、自分独りの身ではないと殊勝な決意をして胃腸医院を訪れた。診断の結果はまたも「糜爛性胃炎」であった。これがまた私の意を強くして以後の学校での胃検診の結果をすべて無視して過ごしてきたのであった。
人間ドックにも一度も行ったことがない。行って病気でも発見されれば困るからである。どうにも我慢がならない痛さに絶えかねて町医者を頼ろうとする場合でも、痛さだけが治ればいい、本当の怖い病原はわからないままの方がいい、いや、分かって欲しくないといった心理が働くのである。こうなるともう馬鹿につける薬はないのである。馬鹿はやっぱり死ななきゃ治らないのである。
看護婦は専門職である。使命感と専門的知識と社会的地位の確立が専門職をより専門職たらしめることであろう。
「看』と「護」をそれぞれ訓で読むと『みる』と『まもる』になろう。看護とは平たく言えば『見守る』ということになるであろう。そこらあたりに看護婦の使命の原点がありそうな気がする。
二月二十六日、胃カメラのホースを通して胃を洗浄し、潰瘍の破裂口に止血剤を注入する治療を受けているときのことだった。自分の持ち場に関係のない私の教え子の看護婦と病棟付きの看護婦が検査室付の看護婦の後ろからじっと私の治療の一部始終を見守ってくれていた。三四十分かかっただろうか、あまりにも過激な検査だったので終わったときには声も出なかった。治療台から下りるとき、点滴を腕につけたままの左手を少し上げて感謝の意を彼女らに表すと、じっと私を見守ってくれていた二人の看護婦の目にかすかに微笑みが浮かんだ。そしてご苦労様と声を掛けてくれた。ありがたかった。看護の原点はやはりここにあるのだと思った。
人の不幸を前にして人間に何ができるだろう。何もできないと思う。もし、強いてできることを探せば、不幸な人間の側にただ居てやること、そして優しく手を取りじっと見守ってやること、それだけだと思う。
耐えがたいほどの苦しみに遭遇したことのある人は、耐えて生きることは結局は自分ひとりの問題なんだということに思い至ることであろう。私の側に百人の見舞人が駆けつけてくれたとしても、苦しみや痛さが百分の一になったりはしない。ベットの上で私が考えたことは、痛さに耐えている人間をそのまままるごと見て欲しいということであった。人間に与えられた四苦≪生・老・病・死≫もすべてこれは個人の問題で、ただ、ただ、見守って欲しいのだ。生きていく苦しみと、老いていく悲しみと、病・死の苦しみと悲しみに絶えて立ち向かう姿を見守って欲しいのだ。人は皆寂しいのだ。
見ることは見つめる対象に興味があることを意味する。興味があることはそのものをよく理解することにつながる。理解することは愛情の表現である。したがって、愛する人はじっと見つめ合うことになる。
看護の原点は慈悲の目でじっと患者を見詰める事である。患者の寂しさを見守ることである。私はそう思う。
私の病室の窓は北向きである。冷暖房の完備した建物では北向きの窓はいいものである。眺める先の風景は皆南面だからである。そこには、窓がたくさんあり、明るくて、活気があり、暖かそうで、陽だまりと人だまりが自然にできている。そこを、北向きの部屋から眺めて暮らすのである。日ごろ気がつかなかったもろもろの物事が、音を伴わない絵となって私の目の前を流れきては流れ去るのである。
でも、そろそろ退院である。もう窓を閉じなければいけない。病室の中に目を移す。前の入院患者の影がいたるところに染み付いている。取り忘れられたままのカレンダー、ハンガーを吊るす鉤、セロテープの跡、その他壁や床に染み付いた無数の染み。この白い館に入院して、いろんな染みを刻みながらもここから出るには、快癒するか、逃げて出るか、死んで帰るかしかないのである。その喜びと苦悩と悲しみの跡がさまざまな影になって染み付いて白い館の歴史を築いているのである。
今回こうして病の床に倒れて、互殺の和の世界から放り出されて、体のあちこちを洗いざらい調べられ、ぼろきれのようになった自分の肉体と共に敗北の底に存在してみて、心から健康の大切さを知り、健康であることの社会的な責任ということまでも自覚させられた。一人の人間のわがままが家族に思わぬ苦労をかけ、不安に陥れ、職場に多くの迷惑をかけ、朋友に心配をかけてしまったことを。
私はいいふりこきである。外見が整って見てくれがよければ、内はどうでもよい方である。自分だけの不都合は自分だけが我慢すればそれで済むからである。そんな具合だから内なる病は隠しに隠してきてしまい、今回どうにも我慢できないところまで押してきてしまってとうとう車で強引に病院に連れて来られ、医者にすべてを委ねることになってしまったのである。胃カメラが胃の中を縦横に駆け回る。これまで、内なる自分をさらけ出したことのないいいふりこきの私の腹の中を医者の意のままにカメラが走る。‐‐‐‐どうかこの機会に、日ごろ隠しに隠しておったもの、それは腹黒さ、卑怯な生き様かもしれないが、とにかく残らず映し出して欲しい。隠してきた諸諸の不都合なことを白日のもとにさらけ出して欲しい。今は羞恥心も自尊心もない。ただ完全な敗北があるだけである。退院までまだ三日ある。さあ、眠ろう。
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雪の中で4ヶ月も暮らさなければならないと思うと、雪国に住む我々にとっては毎年のことではあるが、うんざりしてしまう。このうっとうしい冬季を、家の周りに頑丈な冬囲いをしてじっと春を待つことになるのである。外敵の侵入を防ぐ要塞のようにものものしい武装を我が家に施し終えると、まずはホッと一息つくことになる。それは、ついでに自分自身にも囲いをしてしまったといった感じの消極的な安堵感からだろうか。こじんまりしたマイホーム主義とか言われている感情からだろうか。
とにかく、このようにして自分の城を築いてしまうと、コタツにもぐり込み、横になってテレビにかじりつき、じっと春を待ち続けることになるのである。考えてみれば、一年の3分の1にも当たる長い期間を不平たらたらではあるがじっと春を待つ忍従の姿は驚嘆すべきことではある。
寒を避けるために家中に取り込んだ盆栽は、その養分がもうすっかり根のほうに回ってしまったのだろう。幹枝の葉を落としてしまって冬眠状態に入っている。それでも梅だとか木瓜だとかは室内において水を絶やさずに丹精を続けていると、みるみるつぼみが膨らんで花をつける。当たりまえといえば当たりまえのことだが、自然の神秘とでも言おうか、なんとなくロマンチックな気分になってしまう。
しかし、よくよく鉢物を観察してみると、冬の間に鉢の土が妙にざらざらした光沢のない粒子状に変化していることに気づく。秋口の腐植土のつやのある粘っこい感触はすでになくなってしまっているのである。
ある植木職人が「冬だって、松は土を食って生きているんだ」といったような表現で、冬期間の盆栽の手入れの大切さを説いていた。「土を食う」というダイナミックな表現が面白かったのでいまだに記憶している。眠っているように見える盆栽の松は、実は冬期間でも土中から栄養分を摂取していたのである。じっと休んでいるかに見える松の外観の樹姿に反して、人目につかぬ土中では、やがて来る春の日のために準備おさおさ怠ってはいなかったのである。そういえば、春先に軒下に出した鉢物の土がいくぶん減っていることに気がついたこともあった。
----私は、「春を待つ」という姿勢の中に漫然とした休息ではない、内面の激しい「行動」を感じるのである。
世阿弥はその書「花鏡」の中で「せぬひま」ということを説いている。能楽の舞台の上でシテが何もしないでじっとしているその「ひま」のことである。そしてこの静止状態のときにこそシテの内面界は充実の気にみなぎっていなければならぬというのである。
世阿弥は「せぬひま」の中に至芸の境地を説くのである。もし「せぬひま」が何もない空疎な暇であったなら、それはもう芸などというものではなくなってしまうのだ。
同じことを剣の道に例をとってみると、何もない平穏無事なときにこそ剣豪の心はすきなく八方に動いていなければならぬということになるのであろうか。何もせぬ暇が文字通り完全な心身の休止状態であったならば、これはもう一刀のもとに切り捨てられる命運を背負いながら束の間の安逸な生をむさぼっているとしか言いようがないことになる。
剣豪の「静中」にこそ「動」がなければならないのである。----私はこのような意味において「待つ」という静止の姿勢の中に「行動」の世界を要求したいのである。
深雪の中で春を待つという生活の中に積極的に待つという姿勢をとりたいものである。無為に冬がこいの中で自己防御の姿勢をとり続けることなく、いつでも「行動」の世界に 飛びだせるように、その日のために自己を保持し続ける静かな燃焼の日々を持ちたいものである。
「ミネルバのフクロウは黄昏時に飛ぶ」そうな。昼の世界を反省のときに過ごし、右に飛ぼうか左に飛ぼうかと思い悩み、黄昏時に姿を隠しながら用心深く飛び回るそうな。これでは悲しすぎる。理性でもってあれこれ考えて全てを理解し尽くしたような気持ちになれたとしても、そこ に「行動」がなければ、生きた、そして死んだというような確実な人生の証は得られない。過去にだけとらわれることなく、明日のために、やがて来る春のために生き抜くエネルギーを蓄えたいものである。
だいぶ以前のことになってしまったが、私は田舎から大都会に出かけて行って、そこで4年間過ごした。啄木ではないが、周りの人がみんな自分よりえらく見えてやりきれなかった。そんな時よく映画館に入り長いこと時間を費やした。
自分を暗い観客席に置いて、スクリーンに映し出されるさまざまに人生模様を居ながらにして眺めていると不思議に落ち着くものだった。自分のほうは誰からも見られることがないという前提のもとにスクリーンの上の物語を批評家の目で観察しておればよいのだから気楽なものであった。そうして鬱積した劣等の意識をスクリーンの上の悲喜こもごもの人生に転嫁しては、ささやかな満足を味わい、そっと映画館を出てきたものである。
自分を常に第三者の暗い立場に置いておいて、他に冷徹な批評眼を向けるのはごく易しいことではあるけれども、自らがことの当事者として行動する立場には決してなれないのである。
ささやかな満足感など、映画館を出て明るい街路にでたとたんに消え失せる存在でしかないのだ。----どうも、テレビの前に横になっている自分に、ミネルバのフクロウと化した消極的な人生を見てしまうのだ。これではいけないと思う。
チューリップの球根の春蒔きはやめにしよう。
秋に土中深く伏せておこう。
長い冬を、春を迎える試練のときに過ごさせ、
百花繚乱の季節を待とう。 1979.11