おりおりの思索

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禅的思考

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エホバ

 

   禅的思考

 

(一)      「即」について

 禅を理解するにはどうしても禅における「即」なる関係を理解しなければならない。「大我即無我」といい、「空即是色」というときの「即」なる関係のことである。

 岩波の『広辞苑』に「即」の項を見ると、「二物がそのまま同等で差別のないこと」とある。「空即是色」と言うとき「空」は絶対の世界、「色」は特殊の世界と言った説明がよくあるが、この理論的には両極にある二物が「即」なる関係で結ばれると、「色」はそのままで「空」、「絶対」はそのままで「特殊」ということになるのである。理論でいくらその間のことを埋め合わせようとしてもとても成立しないような二物であるが、禅の世界では「即」を媒介としてそれがそのまま立派になりたつのである。

 禅の哲学などと言う言葉をよく耳にするが、哲学などと言う「学問」の体系の中に禅は入りえないのではないかと思われる。「空」と「色」、「典型」と「具体」、「大我」と「無我」などといった言葉の概念はそれぞれ両極の存在であって、禅の世界に於けるように「即」なるか関係に結ばれて成立しうるような非論理の容認は哲学の世界ではありえないことである。何もないということは、すなわち全てが存在することであるとか、美が醜であるというようなことがそのまま成立するとすれば、理論化され、整理統合された学問的体系はたちどころに崩壊してしまうことであろう。

 「知的作用という外側のものに向かわずに心がその注意を内側に向けるとき、一切は空から出て空に帰することを知覚するのである。而してここに往還といえば往くと還るとの二つの方向があるかのごとく考えなければならなぬが、その実はただ一つの動きであることを知ってほしい。」と鈴木大拙はその著『禅と日本文化』の中で言っている。「往」も「還」も一つの動きの中に包括される「動態的同一作用」とかと言い習わしたりしているが、我々個々の体験の上に禅は成立するもので、学問的体系化からは程遠いもののように思われる。

 加藤周一はその著『日本の庭』の中で『室町時代に、竜安寺の庭を造った相阿弥は、自然を表現するために、自然を模倣せず、自然の提供する素材そのものの力に寸毫もたよらなかったのである。西芳寺の苔は苔であり、修学院離宮の樹木は樹木であった。しかるに、竜安寺の石は石ではない。石についた苔も苔ではないし、敷きつめた砂も砂ではない。』と言っている。先日、その竜安寺に同僚の絵の先生と行って来た。寺のサービスであろう、テープレコーダーに吹き込んだ石庭の石組みの説明が、見物者の好悪に関係なくガンガン耳に飛び込んできた。あの石は島で、あの苔は平野で、あの砂は波で、隣のあの石は鯨で------−といった具合に真に丁寧に具体的に説明がなされていた。我々個々の体験の上に成立する世界を、克明に、具体的に解釈を観客に押し付ければ押し付けるほど、どんどん本質から遠ざかってしまうような気がして、早々に退出してきたことであった。

 禅に「不立文字」という言葉がある。言葉は万能ではない、言葉に頼るなということだそうだ。幾千万語を弄してみたところで説明のつかないものはつかないのである。竜安寺の石組みはまさにそれであろう。無心に石に見入る者の心に、一つの形を強引に押し付けることは罪にも似た愚行ではなかろうか。他人は他人、我は我といおうか、一の石は人それぞれの心にそれぞれの思いを写し、一の石はそれぞれの心に異なった多の容相、あるいは様相を写す。それでいいのだ。「一即多」とはこのことを言うのであろう。

 芸術家は一つの典型を描き出す。我々はそこから個別の問題を探り出す。あるいは芸術家の個別の興味の中に、我々にとっての普遍の真理を会得するのである。「特殊な自然が問題ではなく、唯一の自然が問題であり、どこやらの海が問題ではなく、唯一の海が問題である」と加藤周一は言う。唯一を絶対と置き換えてもいいだろう。

 この間の鍵を説くもの、それは「即」なる関係である。「即」は永遠のパラドックスである。

 

(二)      「自己本位」と「則天去私」

 夏目漱石は『私の個人主義』と題した講演の中で「自己本位」とは「自己が主で、他は賓であるという信念」であると説いている。こう書けば、簡単なことのようであるが、「私は始終中腰で隙があったら自分の本領へ飛び移ろう移ろうとのみ思っていたのですが、さてその本領というのが、あるようで無いようで、何処を向いても思い切ってやっと飛び移れないのです。」というように「自己本位」以前に、他と独立して存在する自己そのものの確立が問題であったことを漱石自身が告白している。大文豪夏目漱石ですら、己の本領はということが悩みの種であったという。そうしてみると、この問題は明治時代の一知識人の悩みというよりは、多様化した社会の中で自己を見失ってしまっている現代人により強く問題を提起して来るように思えてならない。

 マイホームか出世かなどというライフスタイルの問題にばかり踊らされて、常に中腰で周囲の動向を気にかけている現代人は、その本領は定まらず、自己はすんでのことどこかに置き忘れられているのにそのことにも気がつかずにいるのである。外面の自己の形骸にすがりついて右顧左眄している存在だけが残っているのである。漱石は言う「貴方がたは自分の個性が発展できるような場所に尻を落ち着けて、自分とぴったりあった仕事を発見する迄邁進しなければ一生の不幸である。然し、自分がそれ丈の個性を尊重し得るように社会から許されるならば、他人に対しても其の個性を認めて、彼らの傾向を尊重するのが理の当然になってくるでしょう。」と。

 上記傍線の部分は、民主主義の根本の理念だと思うが、私がここで問題にしたいことは、その前段の、個性の確立そのことについてである。「自己本位」にいたる苦悩の過程を問題にしたいのである。「何をどうしてもそれが目的にならないばかりでなく方便にもならない。」ただ不安である。従って凝としていられなくなると漱石は言う、落ち着いて寝ていられないから起きると、起きるとただ起きていられないから歩くと、歩くとただ歩いていられないから走ると、すでに走り出した以上何処まで言っても止まれないと、止まれないばかりならいいが刻一刻と速力を増していかなければならないと。漱石はこのような苦悩の過程の中から、頼れるものとして最後に残る自己、どうにも動かしえない自己鉱脈にガチリと鶴嘴を打ち下ろしたのである。我々は、何かというと個性だの、自分らしさだのと言うが、はたして、困ったときの最後の拠り所となれるような本位となるべき自己に遭遇していることであろうか。

 さて、本題の「自己本位」と「則天去私」についてであるが、「自己」とは言い換えれば「我・エゴ」のことである。死か、狂か、宗教か、などと血をはくようなの懊悩の末に辿りつくのが大我の境地である。しかしまた、大我の世界とは「則天去私」の世界でもあるのである。

 自己執着の「自己本位」の世界を登りつめたその果てに、天に則って私を去る、というような平安な境地が開けるとはなかなか考えられないことではある。多くの論者によって、漱石の「自己本位」と「則天去私」は切り離されて論じられているようである。宗教への逃避、宗教への超越としてその間のことを説明しているのである。が、しかし、「則天去私」なる境地は自己への長い執着の歴史がなければありえなかった境地である。確かに執着の漱石と去私の漱石は、両極にあるように思われがちであるが、「執着即去私」「大我即無我」と置き換えてみれば説明がつくような気がする。

 〇 秋の江に打ち込む杭の響きかな

 〇 生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉

 〇 風流人未死  病裡領清閑

   日々山中事  朝々見碧山

 上の俳句、漢詩からは、自我を捨てて、他力本願の世界に遊ぶ悠悠自適の漱石を想像するが、実はこれは修善寺大患直後のかなり肉体的にまいっていた時の作品である。自活のために戦う勇気は無論、戦わねば死ぬと言う意識さえ持ち得ず、ただ仰向けに寝て、わずかな呼吸を敢えてしている状態だったと漱石自らも言っている。病床を取り巻く外の社会を「互殺の和」の世界と言っている。血みどろの自己と自己とがぶつかり合い、戦い合い、その上に築かれている和の世界のことだと言っている。

 「病気が床のぐるりを屏風のように取り巻いて寒い心を暖かに」していた段階の病気療養中の漱石。「互殺」の世界から病気のために脱落してしまい、そこにむしろ不思議な安らぎを感じている漱石を感じるのである。上記の俳句、漢詩にみえるような澄んだすがすがしい平安な雰囲気は、完全に社会から敗北してしまったことを認めざるを得なかった病床の漱石の姿なのである。

漱石はこの病床から自力で再び立ち上がるのである。そして、体力の回復とともに再び「自己本位」の道を登りつめ、「神は自己だ」「僕は絶対だ」と叫び続け、ついには「大我は無我と一なり、故に自力は他力に通ず」(日記及断片)と言うに至るのである。

 大昔、どこにも道がなかった時代、どこを歩いてもいいのだから原野はすべて道だったといってもいいであろう。そこに人間は自分たちが常に歩く道をつけた。それ以来、常には歩かないところは道ではなくなったのである。この論でいくと、もともと道はなかったとも、もともと道だらけだったとも言えることになる。将来、縦横に道路網が張り巡らされれば、いずれが目的に到達する道かを人間は見失うことになるかもしれない。ここにも、禅の方で言う「色即是空」なる関係が生じてくる。あまたの道の中で、漱石が登りつめた「自己本位」の道、つまり「色界」はそのまま「則天去私」の道、つまり「空界」になっているのである

 

(三)      と夏目漱石吉田兼好

 「世はさだめなきこそいみじけれ」

 鴨長明が「いづ方よりきたりていづ方へか去る」と嘆いた人間の無常を兼好は積極的に肯定している。この世に生を得たものはすべからく死ぬ、咲いた花は散る、そこにそのもの本来の価値があるのであって、ことさら嘆く必要のないことだと言っているのである。「愚かなる人はこれを悲しぶ。常住ならむことを思ひて、変化の理を知らねばなり」と無常を悲しむものは愚者であるとまで断言している。死は前より来たらず、かねて後ろに迫れり、人の命あると見るほども、下より消ゆること雪のごとし、と言うのが兼好の論理である。死は偶然の出来事として突如人間の前に出現するのではなくて、必然のこととして、人間の背後よりじりじりと迫って来るものだといっている。

 兼好は現象界の一歩外に自分を置いて第三者の立場から現象界をはるか下方に見て、生死流転の人間群を冷静に観察しているようである。眼下にあくせくしているうごめいている人間群を、ほとんど感情の高ぶりを示さず眺めやり、うなずき、無常でいい、淋しくていいと平然としているようである。偉大なるニヒリストとでも言おうか。

 しかし、いったいどうして、この兼好が『徒然草』の序段で「あやしうこそものぐるほしけれ」などと言ったのだろうか。

 現象界の諸相を眺め渡し、それぞれに批評を下し、自分の死でさえも第三者的に扱って、評を下し得る彼の自己、つまり、自分を含む世の中のことを克明に解剖して見せてくれる兼好その人の自己は一体どこに存在しているのだろう。

 映画館の暗い座席に自分の身を置き、スクリーンに映し出される映画をどんなに的確に批評し、理解することが出来ても暗い席に本人が留まる限り、Criticにはなり得ても、Actorとは成り得ない。兼好と漱石の生き方の違いをそんなふうに感じて論を進めている。人間界を遠く見下ろしてあれこれ批評している立場と「互殺の和」の世界に「自己本位」の棹をさし、「則天去私」なる境地まで登りつめた漱石の立場は、そこに血みどろの生活が存在したか否かにかかっていたのである。

 兼好は大批評家に違いないが、はたして自分の足で巷を逍遥しているかどうか疑問である。「ものぐるほしさ」は、彼のこの立脚点に起因していたのではないか。理知の人間が、理で持って物事を割り切ることができても、そこに生活がなければ、生きて、そして死んだという一人の人間の確かな生の証がなければならないと思うのだが、いかがなものであろう。水の泡のごとく生を得て、水の泡のごとく消え去る運命ならば、そこに水の泡なりの生活がなければならない。

 漱石は歩いた。無常の世界に何度も何度も棹さして、智にくじけ、情に流されながらなお歩いた。どこを歩いたかというと、そこは世間であると同時に、「我」の世界だったのである。どこまでも、どこまでも「我」の世界を登りつめ、我執の塊と成るところまで歩いた。そこが即ち無我の世界だったというのである。「自由に絶対の境地に入るものは自由に心機一転を得」「一度絶対の境地に達して又相対に首を出したものは容易に心機一転が出来る」と漱石は言う。

 松尾芭蕉に「向上帰下」と言う言葉があった。「向上」は、心を高く持つことで、つまりは、兼好の立脚点からものごとをくまなく見ることを言っているのではないか。しかし、それだけではなりゆかない。「帰下」というか「帰俗」というか、そこにそれなりの生活がなければならない。生活のない「向上」の生き方には、「ものぐるほしさ」がついて回るのではないか。

 「超越」の境地などというものも、確かに理論で割り切れない境地には違いないが、そこを埋め合わせるものとして「即」なる関係があるのである。「向上即帰下」である。

 

(四)     

 『見則直下便見、擬思即差』 道悟

                              

                              1978/10/25

 

 

エホバ-------彷徨える魂

 

 家内の伯母が亡くなった。米寿にあと一ヶ月とかで、子、孫、曾孫まで集まって、ある温泉で祝いの会を開いていた最中に、大喜びの中で突然心臓が停止してしまったそうである。個人にまつわるそれぞれの思い出と、突然の別れの悲しさを埋ずみ火のごとくに、くすぶるままに胸の奥にしまい込みながら、「大往生だ、大往生だ」とあたかも合唱のごとくに唱えあっているところに、伯母の妹である家内の母と家内を連れてお悔やみに駆けつけたのであった。

 亡くなった伯母は、佐竹北家の武家の流れをくむ父親と佐竹南家の武家のお嬢さんとの間に生を受け、長男の早世により、婿殿を貰い、その婿殿は太平洋戦争に無理やり連れ出され、終戦と同時に帰還するも昭和四十年には他界してしまい、没落士族の難儀と、戦後の悲惨な生活を一手に担い、当家の柱石として奮闘なさった方であった。

 お悔やみに駆けつけた我々三人は、多くの縁者でごった返す中を掻き分けるようにして死者の安置場所にたどり着いたのであるが、どうも様子が違っている。仏様の前には、禅宗につきものの線香も抹香もない。死に水を取るコップが一個あるばかりである。とりあえず、喪主(伯母の長男)に向かって、ご愁傷様でしたと言ったら、曖昧で聞き取りにくい返事が返ってきた。その後、仏様に向かって三人で合掌していると、伯母の次男に当たる人が、やや興奮気味に、「実は、母はアーメンで、生前、死んだらアーメンで送ってほしいと言い残しておったので、この通りどうしていいのか分からず、この始末です。遠いところありがとうございました。しかし----」と言い訳とも挨拶とも取れることを、モゴモゴ話しかけてきた。

 アーメンならば、キリスト教のことであろうと勝手に判断して、何時ここの家は宗旨替えをしたのだろうと不思議には思ったものの、個人の末期の様子について、あれこれと話を伺っていたが、それにしても、彼らの語る言葉の端はしに腑に落ちないものが残るのであった。

 よくよく回りの話を聞いて、それを総合してみると、伯母は「エホバの証者」に入信していたのである。死者の復活を信仰の根源においているエホバの証人に、ご愁傷の挨拶をしたり、合掌して心の中で南無阿弥陀仏を唱えたり、うろうろ、木魚と鉦を探したり、死者の偶像に過ぎない写真をきょろきょろ探して落ち着かないままに死者の霊前に額ずいていた我々三人は、滑稽といえば、実にこっけいな姿であった。しかし、喪主を筆頭に居並ぶ皆が我々の行為を笑うでもなく、否定するでもなく、肯定するでもない、曖昧な表情で待機していたのは一体どうしたことだったのであろうか。

 伯母さんは一体何時頃から「エホバの証者」に入信しておったものであろうか。また、古い歴史を持つ旧家の主が、先祖代々の供養を仏式で滞りなく祭ってきたこの人が、なぜ他宗の信者に人知れずなりおおせていたものであろうか。伯母と同居の長男と孫たちは、「だいぶ以前からアーメンだった」と曖昧に答えるばかりである。苦渋に満ちた喪主の口から聞き得たことは、次のようなことであった。

 「女学校を出ている母は、知的な好奇心の強い人だった。一人静かに読書をしていることが多かった。そんな母の周囲のそこここに「ものみの塔聖書」冊子を見つけたのは4〜5年前のことであったか、もっと前のことであったか-----。また時々、その冊子を母に届に来る人がいることにも気がついていた。しかし、別になんとも思わなかった。私も時に、暇に任せて何度かその冊子を手にして、瞥見したことがあった。自分には全く興味を示すようなものではなかったが、母に関しては、なんにでもよく興味を示す人だとむしろ好意的に受け取って、学習することはいいことだと思っていた。

 新聞などで、信教の自由と生命の尊厳、などといった題で、輸血拒否の問題や、体育の授業に関する武道拒否の話題で、エホバの証者のことを扱った記事に接した頃から、なんとなく不思議な不安に駆られたことであった。そこで、母にエホバのことを質してみて、母がかなり強くエホバの証者に惹かれていることを知ったのであった。それでも、それはそれで別に悪いことではないと言うのが私の判断であった。だから時には、母の学習している『神』について話し合ったりしていたものである。

 ある日、全く突然に、母が「エホバの証者」に入信したいと言い出したのである。これには困ってしまった。我が家は代々禅宗で、しかも檀家筆頭にもなるべき家柄である。絶対にいけないと言った。それに対して母は特別反論するでもなかった。先祖代々を先祖代々からのしきたりで供養を続けることに何の異論もなかった。また、親戚縁者への配慮を忘れないようにと言う私の忠告にも素直に頷いていた。しかし、その後しばしば、家族が揃った夕食後などに、何気なくエホバへの入信のことを口に出した。皆に反対されても、強く反論するわけでもなく、自分の心の内を詳しく語らないまま、話題を引っ込めてしまっていた。

 こういうおおらかな他の意見の受容も「神」の存在を信じ、自らを神の子とする信者の寛容の態度であったのであろうか。他者への寛容と自己への厳しさこそが宗教者の信条であろうことなど私は全く失念しておったのだ。

 母は母なりに考えに考えたことであろう。私たちには何もいわずに、入信してしまったのである。信教の自由と言うこの一点だけは頑として曲げなかった母であった。そのことを、ずっと後で、朝の挨拶程度な気軽さで母に告げられたときは本当にびっくりしてしまった。

 それでもまだ私の心の中にはいささかの余裕があった。一時の熱が冷めれば、息子の説得にはいつか従うだろうと。年も年だし、いささか耄碌してきている、私が我が家のすべてを取り仕切るのだから何もそう焦ることはないとたかをくくっていたのである。しかし、ここ一年ぐらい前からは、ことある毎に母はこの話題を私に吹きかけてくるようになってきた。以前は私に入信のことは言っても、議論を吹きかけてくることはなかったのであるが、私を説き伏せようとしているようであった。

 死んだら神のもとに行き、神の証言者として永遠の生命を得るのだと言う。たいへん申し訳ないが、先祖代々の墓には入りたくないと言う。事実としての『死』は『死』だが、実は、死は復活のための一時の休息であり、その後永遠の生命に生きるのだと言う。しまいには、私の死後、エホバの教会に送ると言うことはしっかりと守ってくれと言う。

 私にはどうもよく飲み込めないことであった。そんな無責任なことを言ってはだめだ。我が家のことをよく考えてくれと突き放すのが常であった。そして、更にだめを押すように、俺は長男として先祖を祭り、家を護っていくつもりだ。だから、俺に任せてくれと言うことを繰り返して、話を打ち切ると言うか、話から逃れることにしていた。母は私を頼りないと思ったのであろう。最近は、孫にも、その嫁にも自分の思い通りにさせてくれと頼み込む始末であった。

 母は八十八歳になるが、精神的にも、肉体的にも、まだまだしっかりしているし、あやふやな態度で時を稼ぐのが一番いいことだ、そのうち何とかなるだろうと曖昧にしながらその場を凌いできていた。実は、私自身、この問題を結論づけるほど自分の考えに自信があるわけではなかったのである。先祖を持ち出し、家の事情を持ち出し、無理やり説得するのは如何なんだろう、親の思いをかなえてやることこそが親孝行ではないかなどと考え込んでしまうようになっていた。このように問題を先送りしておきながら、ごくごく親しい人たちには、母はアーメンに凝ってしまって、困ったなどと、暗に相談をもちかけていた。相談をもちかけられた相手も、ほとんどが、それはいいことだ、なんにでも興味を持つことはいいことだよ、第一呆けないよ、といった受け答えが返ってくるのであった。そんな答えを得ると、ごくごくなんでもない出来事のように思えてきて、しばらくはその問題からはなれることが出来るのであった。

 それにしても、「エホバの証者」と言わず、ついついアーメンと言ってしまうのは如何したことだろう。過去において、日本人は、キリスト信者をアーメンとひとくくりにいい、異教徒としてさげすんだときの名残の響きを感じるが、どうしてもはっきりエホバと言えなかった。そこでアーメンといいかげんに対象を濁していたが、私の相談を受けた多くの人は、キリスト教と理解していたことであろうし、私も半分はそのように受け取ってほしいと願っていたような気がする。

 その母が突然亡くなってしまった。そのとき、驚きと、悲しみと同時になぜか「しまった」と思ったのである。未解決のまま、曖昧にしてきたもろもろのことに対する「しまった」である。母は、強い調子で死後のことを私に依頼したことはなかった。しかし、静かに語りかける母の決意にはどうしても変わらないと言う強いものがあったように、今は思える。母は、私が曖昧に過ごした代償として、母の死後のすべてが私の決定の中にあると言う、重い責任を私に背負わせ、私をして「しまった」と言わしめたのであった。

 結局、使者に捧げる私の真心は、死者の意志に従うことではないかと考えて、こう言う次第となったのである」-----これが喪主の語ったおおよそである。

 母の意志を受けて「エホバの証者」による葬儀にすることにしたのは、当主にとっては大きな決断であった。兄弟縁者からの不満の声が満ち満ちている葬儀の打ち合わせの部屋での当主の困惑はいかばかりなものであっただろうか。このようなギクシャクした雰囲気の支配する場面に私たち三人は駆けつけたのであった。

 さて、葬儀の日取りは翌日の一時と決まったのであるが、どのように葬儀を執り行うかについては誰もわからない。そこで、エホバの教会の人を呼んで具体的な相談に入った。私は、死者との関係において全くの第三者なので、葬儀の相談には預からなかったが、妻の母は死者の妹であるが少し呆け気味なので、死者の姪に当たる妻が相談に加わっていた。

 えてして、神剣にならざるを得ないような場面で、滑稽なことが起こるもので、エホバの人が、弔辞の内容についてまであれこれ指示をするものだから、困り果てた当主が、家内に、「チョウジ」を頼むと言った。家内はいとも簡単に「はい」と答えている。これは厄介なことになったと内心思いながら家内の方を見ると、「それじゃあ、旦那と一緒にいますぐやります」と馬鹿に威勢がいい。私はびっくりして、何を言い出すんだと目でたしなめたのであるが、一向に気にする様子もなく、「障子紙はどこにあるか」と言う。ここに至って、回りも、私も家内の勘違いに気がつき笑い出したことであった。家内は「障子」と「弔辞」を聞き違えてしまったのであった。葬儀を明日に控えて、障子を張り替えるという発想は至極もっともなことではあるが、間違いに気がついた家内は、頑として、いつまでも弔辞を固辞するのであった。しかしこういうことをいつまでも固辞していることも死者に対する失礼な行為と考えたのであろう、しぶしぶ了解したのであった。

 故人を悼み、ご冥福を祈る、式の弔辞ではいけないとエホバの教会からきたと言う人から何回も注意を受けた。「死」は仮のもので、やがて死者は復活する。永遠の真理の前に偶像を尊崇してはならない。キリストの千年統治の証人として永遠に生きるのだから、「御霊の安らかな眠り-----」「永遠の別れ------」「死を悼む-----」等の言葉を使わないようにと事細かな注意があった。 

 家に帰り、妻の弔辞の稿を作る手伝いにかかったが、何しろ「エホバの証者」についての知識がほとんどなかったので、平凡社の世界大百科事典(1968年初版第2刷)を引いてみた。項目「エホバの証者」の抜粋。

 『キリストの再臨を信じ、現実の制度をすべて否定する〈狂信的な〉宗派。1870年の頃、ラッセル(1852〜1916)を指導者としてアメリカの小市民の間で発生し、ニューヨークに本部を置く。1914年にキリストの再臨がはじまったと称し、二度の大戦を機会に大発展して諸国に広まった。近く黙示録のハルマゲドンの最終戦争がおこって〈現在の腐敗したサタンの組織制度〉が滅び、至福のキリスト千年統治が来る、と説く。死んでも忠実を守った〈証言の長〉イエスのように、信者は神の証人として絶対にうそをいわず、国旗にも人にも敬礼せず、伝道師は軍務を拒む。帝国主義のもとで絶望的になり外界と断って小集団にとじこもろうとする小市民、農民の気分に投じ、強力な宣伝によって世界各地に広まり190以上の国ないし地域に100万人をこえる伝道師が活動していると言う。日本には、四八年に渡来し、50名余の外人宣教師を中心に、五三年〈ものみの塔聖書冊子教会〉を設立した。---------------特異の政治性のために諸国で問題を起こし、反共的な方向で支持、利用されてスパイにも使われるなどのため五0年頃多くの社会主義国やドミニカなどで禁止された。』

 あの世と言い、この世と言い、常世と言い、浮世と言い、厳然と生と死の世界を区別してきた仏教徒にとっては、なかなか合点の行かないところである。仏教でも『三千世界』といい、エホバに似た永遠の世界を唱っているが、違いはこの「現世」観にある。仏の世界では、現世は仮の世ということで、我々は現身を借りて、仮に存在しているのであって、やがて本姿に還るというのである。永遠に続く過去と未来の狭間で仮に、不確かな、はかない浮世に存在しているのが我々だというのである。夢の世・仮の世から醒めてみれば人間は本然の姿に還り永劫に生きると言うことになるのである。エホバはその点に関しては、現世の姿こそ本然であり、死は一時の仮の姿であってやがて本姿に復活すると説いているのである。違うと言えば全く違うのである。-------だから、死を悲しんではいけない、やがて来る復活の日をひたすら祈りなさいと言うことになるのである。

 確たる宗教的信念などといったもののかけらも持ち合わせていない、私のようないいかげんなものにとっては、こんなことはどうでもいいことであって、明日に迫っている妻の弔辞の方が気がかりなのである。当家を辞して、早速弔文にとりかかることにした。

 

 弔辞

 「おばちゃん」-------突然のご逝去に万感の思いが募り言葉もありません。例年になく、早く過ぎ行く春に誘われるように、悲しみ、惜しむ間もなく突然に永遠の生命に帰せられた御身を思うとき、ただ寂しく、虚ろなるわが身を思い知らされます。

 おばちゃんと私の縁を思うとき、決まって、私が三歳のとき、祖母と、妹を身ごもる母とに連れられて、横須賀から、当家に疎開した日に記憶は遡ります。昭和二十年三月から、父が終戦で復員してきた同年の秋の日までお世話になりました。当時、ご当家には、空襲により追い出されたり焼け出された三家族九人がお世話になっており、ご当家の方々とあわせて十五人の大世帯だったわけです。ご主人が復員する前のおばちゃんは、一家の大黒柱として、薪としての柴引き、食料調達のための畑仕事、銃後の家族の家事一切切り盛りしておいででした。当てにすべき長男がまだ十代の前半の頃だったと思います。

 三歳で引っ越してきた当初は、夕方になると訳もなく寂しくなり、めそめそ泣いている私でしたが、おばちゃんには、厳しくしかられました。今、厳しくしかってくださったあの頃のおばちゃんの年になって、あの暗く、混乱した世の中で、大勢の人のお世話をし、その上しゃんとしていなければいけなかったおばちゃんの気持ちが痛いほど分かる気がいたします。泣くことの許されない大家族の統率者だったのですから。

 厳しく、強い人でした。立居振舞の一挙手一投足に至るまで目の行き届いた、凛とした方でした。自己に向ける、厳しさと激しさ。多くの家族を守り抜く限りない強さと優しさ。私はおばちゃんのそういう姿から今日まで生き抜く力と知恵と勇気をいただきました。ありがとうございました。

 明治・大正・昭和・平成の激動の世の中を毅然たるお姿でお歩みになった伯母様、女学校時代テニスをたしなまれたと言うモダンな伯母様、暇さえあれば読書に時をお過ごしになっていた心優しく、慈愛に満ちた伯母様、やがて来る永遠の生命のため、しばし御安息ください。ご当家の礎の磐石に安堵なさり、静かにお休みください。

   平成十年五月七日        伯母様の妹〇〇〇〇の長女〇〇〇〇

 

 当り障りのない文言を連ねた弔辞を携えて、「エホバの証者」主催の伯母様の葬儀に、義母と妻は出かけた。

 驚いたことに、葬儀後十日ぐらいの頃だったろうか、義母と妻に伯母様の仏送りの案内が舞い込んだ。三七・二十一日で仏を送るという案内であった。驚いた。

 ことの顛末はこうである。

 葬儀終了後から、親戚・縁者の不満は大変なものであったそうである。親戚縁者の反対を押し切って母の希望通りの葬儀を行った喪主は、その彼の優しさが、今度は親戚の要望に応えるということになったのである。菩提寺では他宗教の下で葬儀を行った者の葬儀を当寺で改めて行うなんていうことは出来ないと息巻く始末。そこで、親戚・縁者とともに再三再四頼み込み、やっと、仏式の葬儀と仏送りを同時に執り行うことでなんとかお寺さんの許可を得たようである。

 妻から聞いた話ではあるが、当日は、まず、仏門への帰依の儀式を行ったそうである。その後、葬儀を行い、しかる後に仏送りを行ったそうである。

 仏門が何時からこれほど形式的になったのか分からないが、この形式こそが、仏教を支えてきたのかもしれない。面倒くさい形式にこだわっているように見えて、一日にして、仏門への帰依から仏送りまでを済ませて出席者の心を和ませるなんて、合理的といえば実に合理的である。衆生の煩悩を救うと言うことでいえば真に無駄のない利口な済度と言える。しかし、ここで済度されたものは、一体誰であろうか。伯母さんは一体どこへ言ったのであろうか。六人兄妹の最後に残された、私の義母は呆けてしまい、現実の把握がままにならないまま、エホバも仏様も識別できないまま、ひたすらに姉の死を拝み続けている。

 二ヶ月も経ってからであろうか、義母と妻と私の三人で伯母さんに花を手向けに寄った。伯母さんは、立派な仏壇の中に、先祖代々の位牌に戒名まで刻まれて安置されていた。遺影、さまざまな供物、線香、抹香、鉦、木魚の中で、手厚く供養を受けているのであった。

 伯母さんの長男の当主は、妻に先立たれ、息子は一人前になって家を出て所帯を持っているので、広い家に一人である。畑仕事をしても報告する人がいないってことは寂しいね。仕方がないから自分で自分にご苦労と言っているよと力なく笑っていた。応えが返ってこないということは寂しいことである。我々は自分の行動に応えてくれる何かを期待するが故に生きているようなものであるのだから-------

 親戚の反対を押し切り、エホバの葬儀を行った彼。親戚の要望に応えて仏式の葬儀を行った彼。すべてがすんだ祭壇の前にしょんぼり座り続けている。伯母さんは、本当にどこへ行ったのだろう。

 

 夏目漱石は明治四十三年八月六日から修善寺で胃潰瘍の療養に努めていたが、八月二十四日大吐血をして危篤に陥った。そのときのことを作品『思ひ出す事など』に克明に書いている。今書いておかなければ原体験が永遠に消えてしまうとでも思ったからであろう。

 胸苦しさに、仰向けの位置から右を下に寝返ろうとした。「強いて寝返りを右に打たうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、1分の隙もなく連続してゐるとのみ信じてゐた。其間には一本の髪毛を挟む余地のない迄に、自覚が働いて来たとのみ心得てゐた。」と漱石は書いている。実は、右に寝返りを打とうとした漱石と枕元の金盥に鮮血を認めた漱石との間には、三十分もの「死」の状態があったのである。連続していたと主張する漱石の「生」の間に脳貧血による人事不省の状態が三十分間も存在していたわけである。カンフル剤を射ち、心臓をマッサージをしてその蘇生に周りが懸命に立ち働いていた三十分間が存在していたわけである。

 漱石は言う。「余は眠りから醒めたという自覚さへなかった。陰から陽に出たとも思わなかった。微かな羽音、遠きに去る物の響き、逃げてゆく夢の匂ひ、古い記憶の陰、消える印象名残-----すべて人間の神秘を叙述すべき表現を数え盡して漸く彷徨すべき霊妙な境界を通過したとは無論考えなかった。」「生死二面の対照の、いかにも急激で且没交渉なのに深く感じた。」

 死は夢とは違う。夢に感じる心地よさ、気持ち悪さ、長短の経過時間の感覚、死にはそれがないのだ。脳震盪・気絶は経験したことがないので何ともいえないが、少なくとも漱石が経験した三十分間には、時間も空間も存在しなかったようだ。絶対の「無」ばかりが存在していたようだ。絶対の無を仮に死と考えると、死は、救いの場所でも、魂の彷徨する場所でもなさそうである。

 

 伯母さんは、どこに行ったのかの疑問に回答が与えられるかと思って、漱石の絶対「無」の世界を引き合いに出してみたが、やはり私には解けない。エホバの復活の世界と、仏教の死後の世界と、漱石の絶対「無」の世界。私たち人間にとっての「死」とは一体何なんだろう。

 この問題は私の手に余ることなので、擱いておいて、母の魂を母の意思通りにエホバの葬儀に付し、先祖と、親戚と、自分の魂の平安を祈って仏式の葬儀に付した、伯母さんの長男のことを書いてみよう。

 葬儀は他者(ここでは自分以外のものすべてを言うことにする)の死を通じて、自分の生を考えるための儀式なのではないのだろうか。私の場合、死者にしがみつき、再び目覚めよとばかり号泣する姿を、痛ましい悲しいことには感じるが、それは、死者に対してではなく、泣いている、死者に取り残された本人に対して感じるのである。百万言の哀悼の言葉を投げかけても、全く届かない、届かないと分かっていてもなおなき悲しまずにはいられない悲しみの主体は、取り残された者である。自己の生の悲しみをこそ泣けと言いたい。私の母は四十二歳の若さで亡くなった。妹は母にすがりついて泣き叫んでいた。私は、その妹の姿がいじらしく、情けなく、可哀相でたまらなかった。まだ十四五歳で母に残されたものが哀れでならなかった。そうして思うとき、葬儀などは、死者に見放されたわが身のいきざまを考える儀式に過ぎないと考えてしまうのだ。

 さて、伯母さんの魂のことであるが、今どこを彷徨っているのであろうか。私は、間違いなく伯母さんの目指した、至福のキリスト?の御許に到着していると考える。死が生の総決算だとすると、伯母さんが積み重ねた道は伯母さんだけのものであり、誰がどうあがこうと死者の意思のごとくになるであろう。エホバさんも、お寺さんも、あるいは長男の願いも、煩悩のとりこになった人間の解脱をひたすら祈っているように見えるが、実は、生きているものの慰めのための儀式を大真面目で執り行っているに過ぎないように思われる。一条の光明にひたすら縋って生きて、そして死んだ伯母さんは、人間のなす生真面目な、馬鹿げた親切な行為に困惑のにがわらいをしているにちがいない。そして、我々煩悩衆生に出来ることは、ただひたすら祈ることだけだろうと思われる。ただひたすら己のために-------

 伯母さんの長男、あなたの寂しさと悲しみは、あなたの祷りそのものであり、その祷りは、あなた自身の心に帰するものだと思う。

 

 どちらかと言えば、漱石信者である私には、死は絶対「無」の世界として、私の理解の外にある。だからとにかく生きられるだけ生きてみようと思うだけである。生を登りつめて、その果てに生とは全く違う死の世界にぱっと飛躍するのであろうか。「ぱっ」の一飛びもなくあの世とやらへ移行するのだろうか。色即是空。空即是色。

                          1998・6