![]()
追悼
![]()
大人逝く
![]()
平成十一年三月二十五日午後一時、死亡。享年五十九歳。二十七日葬式。
昭助は死んだ。火葬の骨を拾いながらそう思った。あの小さな骨壷の中に、あの骨太な昭助がぎゅうぎゅうに押し込められて蓋をされたとたん、終わったと思った。
昭助は不幸であったと皆が言う。貰われっ子で、両親を知らず、貰われた先には兄がいて、結局は家を出て独立しなければならなくて、中学卒業と同時に集団就職列車で都会に出かけ、その門出に際しては、二度と実家には戻らないと固い決意をして、終にはそうなった昭助を、人は不幸せであったという。しかし、私はそうは思わない。
昭助は小学生の頃は泣き虫でひ弱な子であった。何で喧嘩になったか忘れてしまったが、かんしゃくを起こした私は昭助の帽子を田んぼの中に投げ捨てて帰ってきたことがあって、その翌日、昭助の婆さん(育ての母が正しいだろうが)からこっぴどくしかられたことがあった。
昭助は中学生になると、野球部に入った。そして、みるみる体が頑丈になり、足が速くなった。そうしているうちに、昭助の周りには人が集まるようになり、昭助は一勢力の旗頭に祭り上げられていた。私はというと、昭助との過去の喧嘩のことに拘り、素直に彼を取り巻く輪の中に入って行けずに、取り巻きから一歩身を引いて空意地を張っていた。
中学二年生のあるとき、どんな悪いことをしでかしたのか自分では忘れてしまったが、生徒玄関前で、担任のS先生にこっぴどく殴られたことがあった。そのとき私の周りには人垣が出来たことと思うが、途方にくれていた私の側にやってきて鼻血を拭いてくれた3年生の女の子を鮮明に記憶している。このとき、どういうわけか、昭助が家まで付き合ってくれて、門前の川に二人で入り、これで親に見破られなくてすむと思うから黙っていろと言ってくれた昭助を思い出す。しかし、このことで二人の関係がよくなったというようなことはなかったように思う。どんどん逞しくなっていく昭助がうらやましく、また、恐かった。
中学を卒業して、昭助が東京に(実際は横浜だったと後で聞いたが、当時集団就職列車で出かけた友は、行き先は皆東京とわたしは思い込んでいた)門出の時にはどういうわけか、多くいた取り巻きは誰も来ずに、私だけが見送った。「俺の分も勉強せ。太一」といった意味の言葉を残して昭助は出かけた。映画のせりふにでも出てきそうな洒落た言葉をひょいと吐いて、私の返答などまるで当てにせずにそのまま車内に消えていった。別れにこんなせりふがあったんだと感嘆しながらも、私は黙って別れた。
私が大学二年生の夏、昭助が3日間故郷に帰ってきたことがあった。養子先の家には二度と戻らないと言い残して都会に出かけた昭助は、これもまた如何してかよく分からないが、養子先とは100メートルと離れていない我が家に泊まった。そのときは、若い女と二人連れであった。世話好きの私の母が、養母を迎えに行ったり、忙しく世話を焼いていたが、それがうまくいったかどうか、全く私の記憶にない。「これ、俺のかがだ」と今の正子さんを紹介した。当時、女を見ればすぐ上気してしまっていた私は、そのときどんな顔でどんな挨拶を交わしたか少しも思い出せない。先日も、昭助の奥様は、意識不明の昭助の枕元で、私にはあの頃の面影があると言ってくれたが、私は、昭助の枕元の白髪の婦人を見ても何も思い出すことがなかった。昭助よりだいぶ年上だったんだなあと思った。看病疲れで昭助より先に参りはしないかととんでもない心配までした始末であった。
今から十五年程前のことであったと思うが、故郷を捨てたはずの昭助が秋田に帰ってきておって、ひょっこり大曲の我が家に現れたことがあった。大曲で、タクシーの運転手をしていると聞いてびっくりしてしまった。『バーボン』を一本下げてきて、長々とその講釈をして、もし気に入ったら俺に言ってくれ、横浜に手に入れるルートがあるんだというようなことを話して、帰って行った。美味しかった。
次には、マムシの骨粉を持って来てくれた。「お前みたいな、なまっちょろいやつは、これでも飲んで体を養え」といったような、あるいは、もっと気の利いたセリフであったかもしれない、そんなことを言いながら、またマムシの効能の講釈を長々として、帰って行った。嬉しかった。それ以来、三年ほど、昭助に紹介してもらったマムシ屋から、その骨粉を買って飲んでいたが、マムシ屋の老夫婦が入院してしまって、不在がちになったのを機にやめてしまった。その間、私も仲間にマムシの効用を説いて薦めていた。
昭助が我が家に寄るときは、いつも商売用のタクシーであったので、二人で飲み交わしたことは、ずっと後までなかった。我が家で彼はあれこれと説教をした。「学校の先生は生活態度がしっかりしていなくてはだめだ」「生徒を裏切るようなことをしてはだめだ」という。かと思うと「体が資本だよ」とも言う。どれもこれももっともで、反対するようなことではないので、「んだが。んだが」と聞いていると、「お前みたいに、人の言うことを、んだが、んだがとただ聞いているのは、自分がないということだ」と叱られた。それもその通りだったので、「んだが」とまた応えることになってしまう。「タクシーを運転しておれば、人間がよく見えてくる。太一、いい気になるもんでないよ」と教える。これも全くそのとおりのことなので、また、「んだが」と応えてしまう。読者には、「んだが」の「が」は疑問の助詞ではなく、「納得」の感嘆詞のつもりであることを、断っておかなければならない。
昭助は更に語る。あるとき、中学時代のC組の生徒で(我々の中学校はA/B/Cの3クラス編成で、我々はB組だった)今は、高等学校の校長をしているKがまだ平職員の頃昭助のタクシーに乗せたことがあったそうである。仲間と何人かで乗ってきたそうであるが、懐かしくて、「俺、昭助だ」と言ったら、「どこの?」と聞かれたので、二度と応えなかった、そんなことがあったという。------けっして、Kが悪いのではない。昔の面影がほとんどないぐらいにぶよぶよ太ってしまった昭助自身のせいなのだと思いながらも、一度形成されてしまった彼の心象はどうにも変えようがないので、やはりただ「んだが」と応えておいた。
私は字が下手で、いやになってしまうが、昭助は私より下手だった。(こういいきっても死人には反論のしようがないことであろう。だから、早く死んではだめなんだよ)私は日ごろの無沙汰を詫びながら、彼に年賀状を出していた。彼からは一度もハガキは来なかった。しかし、元日の正午ごろになると、決まって、「おめでとう。今年もよろしくな。年賀状ありがど」と電話をくれた。ある年、その電話を息子が受けた。「昭助だ。や、元気だが」といきなり話し掛けられて、びっくりした息子は、「どちら様ですか」と応えたそうである。すると「なに気取ってる。昭助だ。ばがにするな」と言う声が返ってきたので、息子は「父に電話ですか」と答えたら、へなへなと力を無くし、モゴモゴと言い訳を言い出したので、息子は憤慨して、「父さん、、電話だ」と私に取り次いだ。「や(二人称の呼びかけ・君)の息子、やさそっくりな声してる 、わりがった。わりがった」とくどくどと詫びる。子のない昭助には、可哀相なことをしてしまったと思う。次の年からは、たとえ私が電話口に出ても、「太一さんですか」と、標準語で確認をしてから話し出す。
子がない昭助は、シェパード犬を飼って、その犬を、猫っ可愛がりに可愛がって、無聊を慰めていたようである。
一番暇な私が主催して、昭助と、雄治と、啓治と、京子の四人(故郷を離れてしまったが、大曲市近在に住んでいる中学時代の同級生)で酒飲みの会を開いたことがあった。「いがったなや。いぎでで、いがったなや」と昭助は大げさに喜ぶ。カラオケが好きで、啓治や、私が歌うと、「おや、学校で音楽の勉強したごどあったが。やなばへだだごど、教科書どおりで、メリも、ハリも、なにもね」と、マイクを取り上げ、延々と一人で歌っていた。「そただ、ネコバッタ演歌なんか聞きだぐね」と私にからかわれても、とにかく歌い続けては、一番先につぶれてしまうのであった。四十二の厄払いのときもそうであったが、「おもしれな、太一。還暦までいぎでで、まだやろぢゃ」といいつつ、最初につぶれてしまうのであった。その昭助が、あれほど待った還暦の年祝いを待ちきれずに死んでしまったのである。
昭助が亡くなった。奥様には横浜の実家に身寄りがないという。昭助は田舎を捨ててしまって、実家がない。実際には、田舎に帰りたくて、帰りたくて、わざわざ秋田県まで帰ってきて、そのくせ、片意地を張って故郷の実家に帰らず、大曲に居を構えたり、横手に家を建てたりしながら、実家の周りをうろちょろしておったのだ。
その、昭助の枕辺にいるのは、奥さんだけであった。奥さん自身、看病疲れから入院を勧められながら、他に代わる人とてなく、我慢をし通して、ついには、医者に、知らせるところがあったら知らせなさいという段になって、遠慮しながら、しぶしぶ私のところに電話したのである。そのときには、すでに彼の脳は停止状態であったのである。せめて、「昭助、なんとした」と私が言い、「やあ、や、来てけだが、わりな」と言い合いたかった。
昭助は、いくら呼んでも応えなかった。応えない昭助にいまさらいくら誠を尽くしても空しいだけである、と考えることが、すでに不遜な考えではあるが、どうしようもない侘しさだけが募ってくる。実は、教育の原点も、「呼べば応える」というあたりにあるのだ。呼んでも応えない者に、なにを呼びかければいいのだ。
啓治に電話したら、晩酌後だということであったが、奥様の運転で飛んできた。「昭助、なんだもんだけな」「目をあげれ」啓治がしきりに揺り動かすが、応えがない。啓治も私と同じ教育者として、応えのないものへの無常をこれまでに多く経験してきていたことであったろう。自分の声が受け止める相手を失って静寂の空間に吸い込まれていく虚しさ。
雄治はタクシー運転手であるが、夜勤に当たり、手が離せなかったようであるが、夜勤明けの朝一番に駆けつけたそうである。世故に長けた雄治は、奥様にいろいろ力づけの話をしてくれたようで、次の日、奥様は、雄治さんに元気づけていただいてありがたかったと話していた。
昭助の友人メモにはこの三人の名前しかなかった、頼る人もなく、どうしたらいいかも分からなかったので、申し訳ないと思ったが電話をしたと、奥様は何度も詫びた。我々三人にすれば、なぜ今ごろ、もっと早く教えてくれなかったのだと悔やまれてならなかった。プライドが高くて、なかなか友を作れなかった昭助は、いつも頼りなく危なっかしく見えるこの三人を心配してくれていたのであろう。あいつら、俺がいないと何も出来ない。困ったやつらだ、とでも考えていたことであろう。そういえば、私が退職したときも、新聞発表と同時に電話をくれたのは昭助であった。「や、なにした。体でもわりが----」という。「なんも」と応えた私に、「なんもと言うごどにゃべ、三年も早ぐやめでおいで----」とごしゃがれだっけ。結局、その後、一度も意識が戻らないまま、彼の枕もとに駆けつけてから2日後に脳溢血の診断で亡くなってしまった。
昭助が霊柩車で家にたどり着いたとき、啓治と私とで家の中に運び入れ、住みなれた彼の部屋に北を枕に安置した。心電図機も点滴も人工呼吸器も脳波計も排尿の管も胆汁の管も生への格闘の履歴書みたいな煩わしい器具は、皆取り外されていて、体はきれいにアルコールで拭き清められていた。ホッとした。「もういいから、休め」と心の中で言っていた。
居間の、昭助愛用のサイドボードを見ると、民間健康薬・サプリメント食品とか言うものがいっぱいにあった。マムシの粉末・キチンキトサン末・ドグダミ・根昆布・その他彼が良かれと判断した民間薬が所狭しと並んでいた。それなのに、病院で出した薬は、紙袋に入ったままちっとも減っていない様子であった。また、温泉などによく備え付けてある電動マッサージ付き椅子とでも言うものであろうか、それが、六畳の部屋の大半を占めていた。体に対して勝手な判断をし、自己の病に対する処方だけをかたくなに信頼し、勝手な民間治療を繰り返しながら、自信と不安の狭間で必死で病魔と戦っていた昭助を垣間見ることが出来た。
昭助は、「人は--------」とか「世間は---------」といった言葉を話の枕に置くのが好きなようであった。その後に、二、三の警句とともに、彼の人生訓を聞かされると、反論のしようがなくなるものであった。「人は生きでいで人だど、太一」とやられると、「んだ、んだ」としか返事のしようがなかった。警句で身を律していた昭助は、かたくなに自己の生き方を守り、かたくなに自己を管理していたようであった。だから、医者の言うことよりも、自己の経験から生み出された身の処方を信じ続けたのであった。
昭助は、幸せであったと私は思う。片意地張って、強がって、そのことを粋がって、そして死んでいった昭助。寝るときは「どんぶく」でなければならない。夏の夕方は浴衣に団扇でなければ様にならない。夏の夜は蚊帳を吊って窓を明けて寝なきゃいけない。-----やせ我慢の不自由なんて、粋の美学に比べたら全くなんでもないことなんだろう。森鴎外のあの意固地な、やせ我慢を思い浮かべるが、今の私には、昭助の方がはるかにインパクトがある。色即是空。空即是色。
昭助よ、坊主がつけた戒名を聞き逃してしまったよ。昭助はやはり昭助がいいよ。私よりずっと強かったのに、小学校の頃のあの喧嘩をいつも意識していて、私には不思議に控えめであった、そして礼儀正しかった昭助よ。寂しいよ。
あの世では、さらいっこ(駆けっこ)でも、喧嘩でも、もう君には決してかなわないと思うよ。 見則直下便見、擬思即差。
1999・5
![]()

高橋旭兵氏が死んだ。いつも、吃驚させるようなことを枕に話を始める人だった。家内の友人から、彼の死の一報が入ったとき、旭兵氏自身の悪い冗談だと思った。
旭兵氏とは、お互いに教員生活を退職間近に控えた2年間を同じ学校で過ごした。退職後、同じ学校に勤務したことのある者同士で、年に二回、10月と3月に親睦の会を開いている。私はその会の常任幹事を務めさせられている。常任幹事なんて大げさな役目に聞こえるが、他にお前ほど暇なものはいないと言う大方の判断で、いつもお前が段取りをつけよと無理矢理に常任なる幹事にさせられたのである。
3月3日に、3月25日の親睦会開催の電話を旭兵氏にいの一番にかけた。いつも二つ返事で、「待ってました。いつ?ご苦労さん」という威勢のいい賛意をいただいていたので、今回もその声を弾みに他の仲間たちに気持ちよく電話をしようという私の魂胆からのことであった。
今回は、意外にも「ちょっと都合が悪い」との返事であった。どことなく力のない返事に聞こえたので、「どうかしたの?」と思わず聞いていた。彼は、ちょっとためらったあと「胃癌だど!」とはっきりと言った。てっきり私は、彼のいつもの伝で、私に虚仮威しを食らわせたのだと判断し、次に何か得意の本題を話し出すものと待っていたら、「そういうことで今回は欠席させてもらう」との返事であった。
彼の話では、一月にひどい胃痛に襲われて病院に行って、胃癌だと宣告され、入院による癌退治治療と、退院による体力の回復治療を交互に続ける医療行為を受けることにしたということであった。「そういうことで悪いけれども今回は会には出席できない」とのことであった。
次の日、歌人でもある彼には花が慰めになるのではないかと勝手なことを考えて、花屋の花を持って早速お見舞に出かけた。少しやつれた影が顔に現れていたが、概して元気そうであった。上がって話をして行けとしきりに勧められたが、もっと元気になってからゆっくり来るといって、早々に退出した。
3月17日、病院に、ある友人を見舞いに行った時に、旭兵氏の奥様に会った。彼女は、「今主人を再入院させたところだ」といった。車を混雑している道に置きっぱなしにしてきているので急いでいると、アタフタと去っていった。私も、他人の見舞いついでに寄るのではなく、落ち着いてから、日を改めて会いに来ようと、その日は、そのまま帰ってしまった。
こうして私は、旭兵氏と話す機会を二度にわたって失ってしまったのであった。
旭兵氏の症状を、私は簡単に考えていた。医者が本人に、癌だ、手術をしないで薬で治療しようと言ったとすれば、きっと治る癌なんだと考えてしまった。また、それを裏付けるように、本人がいとも無造作に(私にはそう思われた)「胃癌だど!」と言ったので、直る確信があるなと思ってしまった。もっと体力がついてからゆっくり話しに来るといったら、喜んで頷いていた。万事にうかつな私は、彼が直ることを少しも疑わなかった。ただ、病院で奥様が「再入院」と表現したことに、かすかな不安を抱いた。いや、むしろ自分の微かな不安を打ち消すために、奥様の表現が適切でなかったのではないか考えた。治療のために、入院、退院を繰り返すという治療の一環であるならば、「また入院しました」ぐらいでいいのではないかと考えたのであった。-----うかつにも程がある、いや、人事に対するうかつと言うか、この鈍感さほど恐いものはないと、つくづく今にして慙愧の臍を噬む思いである。
3月25日、高橋旭兵氏を抜きにして、予定通り親睦会を開いた。「こういう会は、毎度、集まって酒を酌み交わしているだけでは長く続かないよ」という旭兵氏の助言を入れて、今回からは何か一つイベントを入れて、その後に共通の話題で酌み交わそうと計画した親睦会であった。午前中に横手の近代美術館に出向いて絵画を勝手に批評して、昼には横手名物になった「横手焼きそば」を食べて普通の焼きソバとどう違うかを真剣に議論しながら、夜には一杯酌み交わそうと言う、とにかく飲めばいいというふざけたものであった。
その席で、幹事からの報告として、旭兵氏の病状をみなに報告した。次の会からはまた元気に参加してくれるであろうと言う私の報告の締めくくりを聴いて、多くの会員から、いや、お前が言うほど病状は軽くはないのではないか、もしかして、胃癌の末期的な症状ではないのか、との声があがった。間抜けな私は、友として冷ややかで大げさな受け止め方だと密かに憤慨していたのであった。
3月31日、旭兵氏死亡の一報が入ったのは、妻の友人からであった。葬儀は4月2日であった。
死も時に安けかるもの墓洗ふ水汲む川の澄みて流るる
墓石を洗ひし水の骨箱に流るる音を母と聞きをり
骨壷に納められたる父を囲みうからは心定まりて飲む
旭兵氏がお父上を失ったときの歌のようである。悲しみの奥に清澄な氏の心境を感じる。読売新聞紙上で、上記一首目の歌の選者、太田青丘氏は、「永遠の生命に帰する諦観」と選評し、朝日新聞紙上で、上記二首目の歌の選者、樋口秀子氏は「むだなく澄んだ作品」と評している。三首目の歌は、選に洩れたのであろうか、旭兵氏自薦の一首として、彼の作品集「砂の砦」(第三集)の中にある。どの句も、旭兵氏の心情が素直に伝わってくる。特に第三首目の、「うから(親族)は心定まりて飲む」には、深い愛惜の念と、悲しみを越えた広い慈悲の心みたいなものが伝わってくる。心定まりて飲む彼の酒は、いつものように自分で調合した焼酎カクテルに違いない。
死者を大悲、大慈のうちに送って、超然として死者を「歌」で弔った彼は、もうすでに自ら冥界にいるのである。歌などどうしても作れない私は、彼自身の歌を、今、彼に贈る。
考ふとは「か向ふ」ことと教へらる死にゆく君の向へるは何
この句は、まったく、そのまま、そっくり、あなたに捧げる。あなたは死の直前の入院中も、痛さをこらえて、見舞い人や看護婦(看護 師)さん達に盛んに笑いを振り撒いていたと聞く。あなたは、気の利いた、相手をホッと和ませる言葉を選んでは、出し抜けに相手に話しかけて、明るい笑いを誘って、その効果を確かめながら、ウ・フ・フと笑っていたに違いない。さすがに歌人である。これ以上言い換えようのないぴたりとその場の雰囲気を掴まえた言葉を吐き、ウ・フ・フとテレながら、人を煙に巻いて楽しそうに笑っていたことであろう。人に優しい人だった。
あらためて君に問う。死にゆく君の向へるは何、と。
浸したる鍬をめぐりてふるさとの古井は花を浮かべ流るる
水底の泥に肌擦る鴇色の金魚の腹に陽はくれのこる
口づけて山の泉を飲まんとす少女の首にゆるるロケット
私の趣味から言えば、上記の三首が、艶めいていいというか、旭兵さんの一面がよく出ていて好きな句である。
読売新聞紙上で、上記第一首目を選出した岡野弘彦氏は古井のことを、「古く井というのは泉はもちろんのこと、川の一部を石や板でかこったのも石井、板井といって井でした。それは共同で使われて、村の女たちが集まって物を洗い、水をくみ、楽しい世間ばなしをする憩いの場でもありました。」と説明を加え、さらに選評で「外からの旅人もまず、村の井をおとずれて水を飲み、汗をぬぐいました。この歌を見ていると、そういう昔の村の井の持っていた生活のうえの安らぎとはなやぎが、よみがえってくるようななつかしい気持ちがするではありませんか。」と続けている。たしかに選者の言う通りかも知れないが、生前の彼を知る私には、ミレー描くところの「オフィーリア」の絵を思い出してしまうのである。なまめかしく美しいのである。美しくて澄んでいて、寂としているのである。旭兵氏に、そこら辺の事を聞いてみたかった。
二首目は、特に私のお気に入りである。水底でときおりゆらりと反転する、黄昏の静寂の金魚の、鴇色の腹に艶めいたものを感じる。暮れなずむ中で、自家製焼酎カクテルを飲みながら、奥様の帰りを待ちわびる作者の姿を想像してしまう。人前では奥様を「愚妻」「愚妻」と呼んではいるが、愛妻家の彼のテレ隠しであることが、空威張りの声の調子ですぐに分かる。そんな彼が、暮れなずむ光が金魚の腹に残るこの時に、自分自身も、やはり鴇色に染まりながら、帰りの遅い奥様を待ちわびているのである。含み笑いのうちにごまかしてしまうに違いないが、そこらあたりを氏に聞いてみたかった。
三首目について、毎日新聞社の選者、高野実氏は「清冽な情景に加えて、少女の息づかいまで聞こえてくるような一瞬を巧みに活写してみずみずしい一首となった。」と言っている。旭兵氏にある生々しい粋な魅力は、こう言う一瞬を逃さずに捉える感性であると私は考えている。ウ・フ・フとごまかして逃げてしまいそうであるが、このこともまた、旭兵氏にぜひ聞きたいことであった。
誰よりも話をしてみたい人であったが、氏の大きさに怖気づいて、何も話をせずに永久に別れることになってしまった。
サクランボを新聞紙に包んで、「ハイ、これ」と我が家に持ってきてくれた。リンゴをビニール袋に入れて、「ハイ、これ」と持ってきてくれた。私は恐縮してしまっているし、彼も変にテレながらそそくさと帰ってしまった。
私もお返しのつもりで、「ハイ、これ」と旅行土産の温泉饅頭みたいなものを持って何度か彼の家に行ったことがあった。彼は恐縮しているし、私も変にテレながらそそくさと帰ってしまった。------二人で、このような淡白な交流を二三年続けたことになるが、彼が時おり我が家にやってくるときの姿はいかにも垢抜けていたように感じている。おどおどと彼の家を訪問した自分はいかにも田舎くさい姿だったことだろうと思っている。
洒落の本義は、洒洒落落の内にあると思うが、旭兵氏は洗練されていて飄々とした洒落人であった。光風霽月、一切放下、無執着、と禅の言葉を並べてみる。------まさに氏だ。死してますます自由人となり、大我即無我、無限に広がる境地を彷徨していることであろう。
最後に、重ねて問う。
考ふとは「か向かふ」ことと教へらる死にゆく君の向へるは何 (旭兵)
2003/4/23