余湖 太一(よご たいち)

 

 

 馬鹿でかい夕陽が真野湾のはるか沖合いに沈む頃、茜色の空に朱鷺色のトキが飛ぶ。相川の鹿野浦あたりから、雀を追う安寿と厨子王の母の声が、ホーヤレホ、ホーヤレホと渡って来る。呟くような、歌うようなその声は、北西の風に乗って、真野御陵の木立にざわめく。

ももしきや 古き軒端の忍ぶにも なほあまりある むかしなりけり(百人一首・順徳天皇)

と、繰り返しさんざめく。

1221年、承久の乱に破れ、父、後鳥羽上皇は隠岐島へ、兄、土御門上皇は土佐へ、そして、順徳天皇は佐渡へ配流となるのである。24歳でこの地に渡り、47歳の若さでこの世を去った天皇の声が松籟となって、(くん)(なか)平野の葦を揺るがす。

トキがねぐらを目指す。暮れ行く空に、法華の御題目「南無妙法蓮華経」が鬼太鼓(おんでこ)と海鳴りをかきたて、加茂湖に憩う水鳥をざわめかせ、怨むがごとく、くどくどと繰り返される。1271年、北条時宗の勘気を受けてこの地に流罪となった日蓮の声が、太鼓を励まし、太鼓に促され、闇のまにまに高鳴りゆく。

日がとっぷりと暮れると、足利義教に疎まれて、佐渡配流となった世阿弥(観世元清)の羽衣の舞が両津港(江戸時代は(えびす)港)の篝火にほのめきながら、荒海の中に舞う。海よ騒げ、雨よ来いと舞い続く。

いまぞ知る 聞くだに遠き 佐渡の海に 老いの波路の 船の行く末(観世元清)

トキもねぐらに羽を落とし、ことりともせぬ静寂(しじま)には、カタリ、コトリと機を織る。ギー、ガタン、ギー、ガタンと夜明けまで。与ひょうと運ずを眠らせて。

 

私は、1939年、母の実家である、秋田県平鹿郡雄物川(旧・沼館)町石塚に生まれた。父の実家は新潟県佐渡郡畑野町小倉であるが、父は海軍軍人として南洋諸島に転戦を続けていたので、私を身ごもっていた母は物騒な都会を捨てて自分の郷里に帰って私を出産したのである。そんな背景があって、私の生まれは秋田だが「古里は佐渡島だ」と人にはずっと言い続けていた。こんな言い方が正しいかどうか、これまでに何回も自分に問いただしながらも「私の古里は佐渡だ」といい続けてきた。家長制度の古い常識で言えば、父の古里が佐渡で、母は父に嫁いだのだから、長男である私の古里だと言えそうでもある。しかし、父はと言うと七人兄弟の五番目とかで、別に家を継ぐ人でもなかったのである。口減らしの意味もあったのか、父は職業軍人として若くして家を出て一人立ちしたのである。

自分が生まれ育った土地、あるいは、かつて住んだことのある土地というのが辞書による古里の意味である。そうすると、私の記憶にある限りでは、佐渡島に渡ったのは7回しかないので、「私の古里は佐渡島だ」などとはとても言えたものではないのである。父の古里というのが正しい。それでもなぜか誇らしい気持ちで、「私の古里は佐渡だ」と言い続けてきたような気がするのである。本当の古里、母の実家の沼館には申し訳ないように思うが、荒波を隔てた孤島のイメージだとか、順徳上皇の流されたところだということとか、日蓮のことだとか、良寛の母のことだとかを父から聞かされ続けていたので、私のロマンは佐渡島を駆け巡り、古里は佐渡だと確信するようになってしまったのである。-----もしも、佐渡が私の住処であったなら、おそらくは母の古里である秋田の沼館の地に八幡太郎義家を思い、阿部貞任に思いをはせ、平安の香り漂う陸奥の古里を思い描いていたことであろう。

 

私の中の佐渡島はどうしても中世・鎌倉時代に遡る。都を追われた人たちが肩を寄せ合って、過去を語り継ぎ、言い継ぎ生きる中世の片田舎になってしまう。

245歳の頃だったと思う。私が自慢げに「古里は佐渡島だ」というのを聞きつけた職場の同僚に、「先祖は金山に眠る無縁仏だろう」とからかわれた。父の実家は小佐渡の山の中なので、大佐渡の金山のことなどは考えてみたこともなかったので、私は虚を突かれたような感じで、一瞬不安になり、また、そのことを密かに恥じもした。むきになって、「真野の順徳天皇御陵の隣町、畑野の出身だ。琵琶湖の北端辺の余呉湖から、天皇について流されたのだ。我は麿なるぞ」と力んだものだった。

後年、司馬遼太郎の『街道を行く』シリーズの中の「佐渡の道」を読んで無宿人たちの無縁仏のことを知り、人知れずほっとした次第である。

「無宿」と言うのは、戸籍の無い人間のことである、と司馬さんが言う。農村から土地を捨てて、生きるために江戸に出てきた連中は皆無宿人である。そんな時、「無宿を佐渡へ送って水替人足にすればどうか」と提案したとんでもない勘定奉行がいたそうだ。水替え作業は大変な作業で、佐渡の農民も尻込みして、働き手に窮したとのことである。司馬さんはいう。

 

要するに、三年前後で死ぬのである。こう言う労働を、事情に明るい佐渡の農民が、いかに賃金が高かろうと、するはずがなかった。江戸幕府は、同時代の地球上のいろんな政府に比べ、ほめられるべき点も多い。しかし最大の汚点は、無宿人狩りをやっては、彼らを佐渡の水替人夫に送ったことである。しかも犯罪者ではない。無宿の中でも犯罪者は原則として送らない。犯罪を犯すような猛々しい連中の管理は、佐渡奉行所の能力を越えると言う理由である。罪のない-----いわばおとなしい-----無宿人を選んでは捕まえ、一人ずつ唐丸籠に入れ、五十人、百人と送った。

 

さらに、流人の島と言うことに関して、司馬さんは次のように言う。

 

江戸幕府では、()という言葉はあまり使わず、公用語は遠島であった。ただし佐渡と言う島は充分食ってゆけるために、流罪人にとっては、八丈島、三宅島、御蔵島などに送られるよりは、楽であった。このため佐渡をもって遠島の地とするというのは、江戸期でも早い時期(元禄十三年・1700)に、廃止された。

 

司馬さんの本を読む前から、私にとっての佐渡のイメージは、冒頭のイメージ描写のごとく、鎌倉期のそれに決まっていたのである。

佐渡は四十九里波の上、と佐渡おけさにあるが、おいそれとは行くに行けない荒海の孤島を表現した句であろう。実際は四十九里ではなくて、越後の出雲崎か、寺泊から佐渡の南の小木港まで45キロほどだそうである。

とにもかくにも、佐渡島に無理やりに鎌倉時代の背景を重ねて、その上、まだ飛んでいる姿を見たことのないトキまで配置して、私はここが我が古里と独りごちていたのである。

 

余湖なる姓を受けて、秋田の地に生まれ、今は秋田の地に骨を埋めることを覚悟している。子供の頃、めずらしい名前だと人に言われるたびに、自分は他と違うんだ、将来は何になるか分からないがひとかどの何かになるはずだと信じていた。しかし何にもなれなかった。

父、母、二人の妹と私の五人が、母の実家から二反歩の田んぼを貰い、汲々の生活を長いこと強いられていた。そのころから、余湖なる苗字は、父の実家の佐渡郡畑野町小倉に数軒あるということは聞いていたが、秋田の地ではどこに行っても、この苗字に会うことができなかった。秋田における、たったの五人のうち、1964年、母が死に、そのうち、妹二人は嫁に行き、------あるいは、秋田の「余湖」は絶滅か、などと考えるようになった。1967年には、私が結婚をして、その後、息子が二人でき、やれやれと思っているうちに、1977年には父が死に、息子二人は長じて、北海道に、仙台にと勝手に飛び去ってしまった。1998年、私が本荘へ単身赴任することになった。秋田における「余湖」は二代目で尽きることを予感させた。そんな我が家の衰退にあわせるように、佐渡のトキは絶滅の危機に瀕していた。

1981年、佐渡に残る野生のトキ5羽を、種の保存のため一斉捕獲。1983年には、「ミドリ」と「キン」の二羽しかいなくなってしまった。1995年、「ミドリ」が死んで、ちょうどそんな時に、我が家も家内と二人きりになってしまい、1998年にはその家内を残して自分が本荘に赴任することになってしまったので、絶滅の危機に瀕したトキと、そのトキの住む佐渡から秋田に来て生活している我が家の行く末がイメージとして重なって、妙に寂しい思いをしたことを思い出す。

さて、一羽になってしまったメスのキンに関して言えば、トキの絶滅の危機などとのんびりした感傷に浸ってはいられない状態だったのである。なにしろ、キンの推定年齢は35歳(2002年)で、人間でいうと百歳をとうに超えた年齢だったのである。危機どころか、純日本種は疾うに絶滅していたのである。

1999年、中国から、友友、洋洋のペアが贈られ、同年5月には優優が生まれた。このペアから2002年までに12羽が誕生した。優優と中国から贈られた美美のペアから10羽が生まれた。このうち2羽は約束により中国に送り返された。しかし、この春(2003)からは佐渡生まれのトキ同士による繁殖も始まり、ベビーラッシュを迎えるようになるとのことである。私は、まるで我がことのようにホッとしている。

我が家でも、長男夫婦に子供が二人授かり、次男夫婦に一人授かり、お盆、正月には我が家も、家内の母も入れて10人の賑わいになる。将来、息子たちの家族が秋田に帰ってくるかどうかは分からないが、絶滅寸前の秋田の「余湖」があちこちに繁殖しだしたような気がして胸をなでおろしているような次第である。

トキの話に戻るが、環境省はトキが100羽を越えた段階で、野生復帰に着手する計画であるとか。その間の事情を200314日の朝日新聞の記事から拾ってみる。

 

06年度から自然に近い環境を再現した『順化ケージ』で餌捕りや巣作りの訓練をした後、ケージの外と行き来ができる開放型の『オープンケージ』で徐々に野生に慣らす。----中略-----巣作りができる大きな松の確保、天敵のからすの対策も課題だ。地元の関心も高まっており、『トキが舞い降りる田んぼを』と、無農薬栽培に取り組むコメ農家も増えてきた。環境省野生生物課は『現在のペースで繁殖すれば、トキが空を覆う日も夢ではない』と話している。

 

トキの餌はドジョウやサワガニ、タニシなどであると聞く。減反で荒れた田んぼを耕し、水をひき、農薬を使用しない水稲農業を営むことはさぞや大変なことだろうと思う。トキ営巣地となるように林を整備するとしたところで、大変な事業であろう。はたしてうまく行くだろうか。佐渡の人たちの多くの犠牲の上に、結果、ひょろひょろ飛び上がって、途中墜落と言った事態にならないことを祈る。21世紀、人間が、環境と折り合いをつけて、どう生き延びるか、そんな大きな課題が実はこの問題にはかかっているのである。

私は、自分が生きてあるうちに、一度でいいから、トキが佐渡の空を朱鷺色に染めて羽ばたく姿を眺めたい。「余湖」の先祖がそうしたように。

 

佐渡の空にトキを飛ばしておいて、私の空想は、先祖の先祖、琵琶湖の北端からちょいと余ってできたような「余呉湖」に飛ぶ。

余呉の地名と、余湖の関係について、家内の友人(広島)とその娘さん(大津)がわざわざ余呉町役場まで足を運んで調べてくださった。それによると、余呉湖に伝わる天女伝説を記した帝王編年記には、「余胡」、近江輿地誌略には「余湖」と書かれているそうである。その他の古文書による余呉の地名は上記の他に、「余郷」「余戸」「余語」などがあるそうである。

「余胡」説は、「余」は「われ」を意味し、「胡」は異民族・外国をさし、外来のものに冠する語だと言う。また、呉音では「ゴ」と発音するそうである。そうなると、「我は異民族である」と言う意味になる。

「余湖」についてはもっと分かりやすく、余呉湖に結びつく。余呉湖は琵琶湖と同じ時代に土地の陥没によってできた湖だそうである。この湖を余りの湖、「余湖」と名づけたのには素直に頷ける。「余呉」はむしろ、「余湖」を原名とすると言う考え方である。

しかし、私は、「余呉」説を取る。実は、この湖には天女伝説が伝わっている。余呉町観光協会のパンフレットから、その箇所を抜粋してみる。

 

その昔、余呉の庄は湖の西の里に桐畑太夫と言う男が一人で暮らしておりました。ある日のこと、湖に船を浮かべ漁をしていると、どこからともなくいい香りがしてきました。その香りのする方に船をこぎ寄せると、美しい女性が水浴びをしています。そばの柳の樹には、今まで見たこともない羽のような衣がかけられており、そこからいい香りがしています。

太夫は忍び寄るとそっと手を伸ばして、樹にかけられていた衣を自分のふところに隠してしまいました。

何も知らないその女性は、湖から上がると衣がなくなっているのに気づき嘆き悲しみました。

そこへ太夫が現れ、「どうしたのか」と尋ねると、「私は天上に住むものです。この湖が余りに美しいので年に一回水浴びにくるのですが、羽衣をなくしてしまったので天に帰ることができません。」

途方にくれる天女に、「私の家にある着物を差し上げましょう。」と自分の家に連れて帰ってしまいました。

ほどなく二人は夫婦になり、元気な男の子が生まれ、幸せに暮らしておりました。

しかし、ある日天女はなくしたはずの羽衣を藁の下から見つけると、それを身にまとい子供と夫と余呉湖に心を残しながら涙ながらに天に帰ってしまいました。

その後、この子供は菅山寺で勉学を納め、後には右大臣になった菅原道真公であるということです。そして、天女が水浴びをした時、羽衣をかけた柳の樹は今も余呉湖畔に残されています。

 

余呉町内には、新羅の王と言われる天の日槍(ひぼこ)を祭神とした、鉛錬比古神社や、新羅の神を祭った新羅崎神社がある。

これらを総合して考えると、どうも、新羅から、技術を持って渡ってきた人々が我が祖先であるような気がしてくる。「余湖」なる姓は、余呉の地を出た者達が、名乗ったのであろう。「余語」も「余吾」も「与語」もこの地を出た者達が附けた姓であろう。

家内の友人が、余呉町の役場の人からコピーしてもらったと言う、おそらく町誌からのものであろう、その中に次のような記述を見て、吃驚してしまった。「ヨゴ」姓は、余呉町から出ていることは明らかだと記した上で、

 

さらに驚くことは、佐渡島の畑野町大字小倉地区である。ここは小さい集落に余湖の姓の家が三十戸近く集中している。昭和五十八年、畑野町の町誌編纂委員会の人達十数名が、小倉地区の人たちの先祖の地、余湖をよく知りたいとわざわざ訪ねてこられたことがあった。余呉町からどうして遠い佐渡島にこれらの人は移り住んだのであろうか。この畑野町は敦賀の気比神宮と関係が深い。敦賀気比神宮領に「浮免」と呼ばれる田地が各地に十二町歩あったが、その三町歩が佐渡にあった。また、佐渡の羽茂上山田、椿尾、長畝、馬首にはそれぞれ気比神社がある。現在、敦賀気比神宮の高さ十一メートルの大鳥居(正保二年(1645)に建立され、国の重要文化財)の木は佐渡にあった気比神宮の神領鳥居ケ原という所から奉納された榁の木であると記されている。このように、敦賀の気比神宮と大変深い関係にあるので、そうした関係から余呉町からも佐渡へ移ったのではないかとも考えられる。

 

断定はしてないが、かなりはっきりと佐渡の我が先祖について書いてある。分かってみれば、力が抜けたような、神秘性が失せてただの人になってしまったようななんだか寂しいような気がしてしまう。それにしても、本当のことは、やはりまだまだ霧の中である。

佐渡の畑野町小倉から秋田の地にやってきた父はさぞ心細かったであろう。田舎の祝い事の席では、皆におだてられて歌いだすのが佐渡おけさであった。父が歌ったこれ以外の歌を私は知らない。子供心に、父の佐渡おけさは私の自慢でもあった。村人は、皆うまいとやんやの拍手を贈った。私も、実際にうまいと思った。いつもきちんと正座して、正調佐渡おけさと名乗ってから歌いだしていた。朗々と、ゆったりと、膝に置いた手で拍子を取りながら、瞑目して歌っていた。小木の波が、相川の潮が、両津のうねりが、父の脳裏を()ぎっていたことであろうか。

畑作業の間に、低くうなるように佐渡おけさをハミングしていることもしばしばであった。父は、私の知っている限りこの歌しか歌わなかった。そしてそれが哀調を帯びてうまかったと、私は思っている。残念ながら、トキを懐かしむような話を父から聞いたことがなかった。

 

私は佐渡の地を今でも憧れている。やはり私の古里ということにしておこう。私の思いは佐渡の空を翔け、さらには先祖のルーツまで遡っていく。この年齢になると、人間はどこから来てどこへ行くのかと人間存在の意味を悩むより、ただ、どこから来たのかがゆかしく思えてくる。そんな思いが、私を余呉湖に誘い、さらには新羅まで連れ出したような気がする。

 

新羅王朝は紀元前57から935年まで、約、1000年にわたって栄えた。日本の天皇家へ遣使を送り(飛鳥時代)交流を深めておったが、第56代敬順王の代に高句麗に王朝を譲り渡すことになる。その新羅の古都慶州(キョンジュ)19948月訪ねたことがあった。奈良市と姉妹都市であるが、半円形の王侯の古墳群が立ち並び、仏国寺に代表される完成度の高い仏教建築が建ち並ぶ。あの建築の技が、海を渡りわが国に伝わったのであろう。慶州の町には日本文化の源流がある。慶州が姉で奈良は妹だとその時に思った。

古代朝鮮が日本に与えた影響は計り知れないほどである。農耕技術、仏教文化、漢字、-----これらはすべてこの半島から日本へ伝えられた。その頃か、それよりももっと早くにか、私の先祖の集団も日本にたどり着いたことであろう。飛鳥、天平の文化には色濃く新羅人の足跡が残っている。日本の大和朝廷を支えたものは半島からの渡来人であったことであろう。聖徳太子ですら帰化人であったと言う説まである。とにあれ、何らかの技術を持った集団が、余呉の地に住みついたのであろう。それが白鳥飛来説や天の羽衣の伝説となって語り継がれたものに違いない。さらに、この一握りの集団が気比神社の氏子として、佐渡に渡ったことであろうか。

 

私は、順徳天皇に従って佐渡の地に来たと(うそぶ)く。かなわぬ過去に未練を残し、鎌倉殿の武家治世に背いて、あえなく破れて北に向かって落ちて行き、鳥も通わぬ佐渡島の小倉の地に羽を落として、密かにふるさと余呉湖を慕い、余湖と変えて名乗ったと嘯く。なんだか、彼らが落ちて行く姿が、夕暮れ時に朱鷺色の羽を広げてねぐらに舞い降りるトキの姿と重なるのである。一度も見たことのないトキの飛ぶ姿であるが、なぜか朝日に向かって飛び立つよりも、夕陽に染まって帰る姿が懐かしい。

2003/1/31

 

 

参  考

トキ保護の歴史

            佐渡トキ保護センター

 

明治25 「狩猟に関する規則」で保護鳥(33)が定められる。

41       保護鳥にトキが加えられる。

大正11 「日本鳥類目録」で学名Nipponia nipponを採用、以降定着

  15 「新潟県天産誌」でトキ濫獲の為め其の跡を絶てりとされる。

昭和02 佐渡支庁、トキ発見を懸賞で呼びかける。

  04 能登でトキ一羽誤殺される。

  06 佐渡金沢村(現・金井町)2羽のトキが確認される

07 佐渡新穂村他に農林省がトキ捕獲禁止の標柱を立てる。

09 トキ、天然記念物に指定

15 新潟県がトキの生息調査を実施

27 トキ、特別天然記念物に指定

28 3月佐藤春夫氏、負傷したトキ(ハル雄)を両津高校で飼育。4月上野動物園に移す。11月、佐渡トキ保護会設立。

29 2月、ハル、上野動物園で死亡。

34 新穂村、両津市でトキの給餌を開始。4月、新穂トキ愛護会設立。5月佐渡トキ愛護会を解消し、佐渡トキ保護会を設立。

35 トキ、国際保護鳥に指定。

40 3月新穂村村有林の一部を国有林として買い上げ。7月負傷した「カズ」を保護、新穂村行谷小学校で飼育。9月、トキが「新潟県の鳥」になる。

42 新穂村清水平にトキ保護センター建設し、「フク」「フミ」「ヒロ」の飼育開始。

43 3月「キン」が宇治金太郎氏に捕獲され、トキ保護センターで飼育開始。

44 3月クロトキ2羽の飼育開始。

46 4月「両津市トキを保護する会」が発足。

51 12月トキ保護対策委員会が発足。

53 5月トキの卵3個を採取、上野動物園で人工孵化を試みるが、無精卵と判明。

56 1月野生トキ5羽を一斉捕獲。

57 3月国設小佐渡東部鳥獣保護区設定。3月「ミドリ」「シロ」のペアリング開始。

58 4月「シロ」死亡、「ミドリ」「キン」のペアリング開始、S62/4まで断続的にペアリングを継続。

60 10月「ホアホア」を中国から借用。〜H元年11

平成02 3月「ミドリ」を北京動物園に貸し出し。〜H/9

05 2月トキを種の保存法の国内希少野生動植物に指定。11月新穂村長畝に佐渡トキ保護センター開設。

06 9月「ロンロン」「フォンフォン」借入。12月「ロンロン」死亡。

07 4月「ミドリ」死亡。6月「フォンフォン」返却。

10 11月江沢民国家主席がトキのペア贈呈を表明

11 130日「友友」「洋洋」のペアが到着。521日「優優」誕生。

12 5月「新新」「愛愛」誕生。1014日「美美」を中国から「優優」のペアリングの相手として借用。

13 4月〜5月にかけて「優優」「美美」ペアからメス2羽、オス4羽「友友」「洋洋」ペアからオス2羽、3羽誕生。

 

 

     1939:10月27日、秋田県平鹿郡雄物川町会塚字石塚・母の実家で誕生。父=新潟県佐渡郡畑野村(現在は畑野町)小倉。職業軍人。母=看護婦。

     1944:千葉県館山市から秋田県の母の実家に疎開。館山での防空壕避難を記憶。秋田の土崎空襲時の防空頭巾着用を記憶。

     1945:8月14日、ポツダム宣言を受諾。15日、敗戦の詔。昭和天皇の敗戦の詔があった日は、よい天気であった。隣近所の人も交えて、大人たちが大勢家に集まっていたので、庭で一人遊びをして時間を過ごし、頃合を見て家に入っていくと、大勢の大人が箪笥の上に据えられたラジオの前で、木像のように固まっていた。暗い屋内に目が慣れないままにこの光景を見て、何か不吉なものを感じたように思う。急いで母の傍らに座り、恐る恐る顔を見上げたら母の顔に涙があった。

     1946:秋田県平鹿郡沼館町立沼館小学校に入学。何日か前から、入学式の名前点呼に備えて、母と返事の練習を繰り返した。「ヨゴ タイチさん」と母が点呼する。「ハイ」と大きな声で応えて、私は勢いよく立ち上がる。何度か練習を重ね、着飾った母と入学式に臨んだ。しかし、私の名前は最後まで呼ばれなかった。ただ一人座ったままで入学式は終わった。母は「自分の名前が呼ばれなくても、みんなが立ったら黙って立ったらよかったのに」と悔やむ。幼い私は「ヨゴタ ハジメさん」と呼ぶ声に反応することが出来なかった。それは、断じて私の名前ではないのだから。

     1949:戦争犯罪者として、公職追放を食らっていた父は、佐渡の実家から竹細工を取り寄せて商いをした。孟宗竹の生えない秋田では竹細工文化といったものがほとんどなく、おかげで、一時大繁盛であった。この年、家を建てて、母の実家から独立。父、母、妹二人と私の5人家族が「狭いながらも楽しい我が家」を実感。

     1951?:父は繁盛した竹細工屋の事業に失敗。あまりの繁盛に、事業を拡張しすぎたことと、(ふご)でも籠でも、戦後の不況期に一度買ったら大切に長く使うし、その需要は想像を越える速さで無くなってしまったのである。その後魚屋もやるがすぐに失敗。40歳になる父が、なれない野良仕事の後、夜遅くまで受験勉強を続けて、警察予備隊に入隊(52年には、保安隊に改編、54年に自衛隊となる)した。

     1952:沼館中学校入学。

     1953:社会科の教材に平和憲法が載る。憲法九条を勉強しながら、父のことを思う。我が家の生活事情のことはさておいて、以来、長いこと父に反発。

     1955:秋田県立横手美入野高等学校に入学(すぐに、横手高校となる)。足駄を履き、腰に手ぬぐいを下げ、肩掛けのズックのかばんを背負い、卵と小麦粉の調合で光らせた学帽を冠った高校生の最後だったような気がする。

     1958:明治大学入学。中村光夫・唐木順三・木下順二・舟橋聖一・平野謙といった教授陣を見てどうしても受験してみたくなった。父の紹介で防衛庁東京学生寮に入寮。入学式の2日ほど前に、寮で食中毒が発生し、入学式には出席できなかった。

     1960:60年安保闘争。ノン・ポリ(non-political)学生であったが、それでも連日のようにデモに出かけていた。樺美智子さんが亡くなった時には、国会の南通用門の前にいた。浅沼稲次郎さんが刺された時には、日比谷の公会堂にいた。歴史の現場に居合わせた興奮といったものを感じていた。

     19622月20日、秋田県教員採用試験に合格。  33日、母、高血圧で倒れた。  3月、明治大学卒業。卒業式には母の看病のために出られなかった。明治大学では、入学式にも卒業式にも出なかったことになる。  4月1日付、秋田県立大曲農業高等学校定時制過程の教諭に採用される。  4月27日、母死亡。42歳。4月の給料1万3000円ほどの中から5000円を母に渡して大曲の下宿に帰って来たその晩に、「ハハキトク」と同時に「ハハシンダ」の電報を受け取る。2月の末に母を襲った脳溢血が軽くすんで良かった、もう少し養生を続けていれば後遺症もなくすっかり直る、と医者に言われて喜んでいた矢先のことであった。27日の昼、息子から貰った5千円を隣近所に見せびらかして歩いていたと言う。強くて優しい母であった。

     1964:大曲農業高校全日制過程に転勤。

     1966:大曲農業高校陸上競技部顧問となる。前年の地区大会で入賞者が一人もいなかったという弱い部であった。おかげで、頑張れ、頑張れと怒鳴ってさえいればどんどん強くなった。

     1967324日、同じ陸上部の顧問であった奥山裕子(1942・8・13)と結婚。妻が西仙北高校に転勤になったので、西仙北町刈和野に家を借り、大曲に通勤することにした。

     1968:7月13日、長男久智誕生。部活動の指導で出産に間に合わず。妻は実家に帰って出産したので、義父に飛び切り上等のウイスキーを持って駆けつけ、祝杯。

     19703月3日、大曲農業高校卒業の陸上競技部員は、この年が昭和45年であることにちなんで、私の苗字とかけて、45(ヨゴ)の会を結成。この日以後、毎年会合を開き、10年毎の記念すべき日には、家族連れの会合を開き、冠婚葬祭、諸諸のことにお互いに力になり合っている。これを羨んだ、46年卒業の競技部員が、強引に参加、会の名称は「4・5・6・の会」(し・ご・ろくの会)となる。恩師も生徒もない、今では人生を共に生きる大切な仲間である。

     19723月、普通自動車免許証取得。  4月、秋田県立大曲工業高等学校に転勤。  6月22日、次男明智誕生。夜中、長男と一緒に病院に駆けつけ、徹夜を覚悟で車の中に待機していたら、朝4時40分出産。またも男の子。一人で祝杯。

     1974:妻が大曲高等学校に転勤を機に、大曲工業高校の官舎に入る。

     1976〜7:大曲工業高校の伝統行事、田沢湖畔から、学校まで、48キロメートルの強歩大会に生徒に混じって出場。2年連続完歩。

     1977:10月10日、新築の我が家に引越した。大曲市戸蒔松ノ木81−6

     19795月20日、父死亡。64歳。死の原因=肺気胸。 肺気胸の誘因=肺化膿症。 肺化膿症の誘因=筋肉炎(膠原病)。  12月7日、空き巣に入られる。カメラ・計算機・ブルーチップ・グリーンスタンプ・子供の貯金箱の小銭等盗まれる。冷静に考えればつまらないものばかりで、子供の仕業と分かるのだが、興奮したまま警察に届け出る。12月9日、ブルーチップの引換所で犯人が捕まる。警察で、被害届と出てきた物の照合があった。カメラの名前が違うし、その他、気がつかなかったいろいろなものが盗まれていた。警察にもう少し正確に届けてくれと叱られながら、盗難品を17日、貰い下げた。犯人は、近所の子供であった。ぼんやり抜けているものだから、泥棒の標的になりやすいのだろう、これが3回目であった。

     1980四月、秋田県立角館南高等学校に転勤。女子高。男子校に18年勤務の後の女子高。女子の扱い方が分からず、登校拒否気味になる。朝起きると勤務したくなくなる、学校が見えるところまで来ると吐き気がしてくる。約半年間続く。  4月、戸蒔子ども会会長を引き受ける。 1121日、自動車事故にあい、生まれて初めて救急車に乗って病院に運ばれた。乗用車を運転して戸地谷地区を走行中、わき道(農道)より交差点に突っ込んできた車と激突。双方の車が大破、メガネを壊し、額から血が出ていたので、周りの勧めで救急車に乗るも、全く大丈夫。危なかったと心に呟きながら、初めての救急車の進路方向を見ていたら、見事なほど他の車は一時停止して待機してくれるし、交差点では交通信号よりも救急車が優先であった。無法の荒野を突き進む西部劇の主人公を思い出していた。

     19831111日、次男、手の平大の子犬を拾ってきた。生れ落ちたばかりで、まだ目が開いてない。家族全員必死で育てた。「虞美」と名づけて可愛がるも、1992年321日、プイと家を出て行ってしまった。

     1984122日、平鹿郡雄物川町字石塚29番地の我が家を解体。父母ががんばって建てた家。妹と私が育った家。今は住む人もなく、空屋のままでは物騒ということで、解体する。敷地跡は、町に使い道があったら使ってほしいと管理を依頼し、田んぼは(3反歩)は、母の実家から貰ったものなのでそのまま返した。

     1989:9月25日〜10月16日、妻子宮筋腫で仙北総合組合病院に入院。

     1992224日、胃潰瘍で仙北総合組合病院に入院。  323日、退院。 12月28日、佐渡の父の姉・矢部千恵さん死去。12月29日、佐渡に向かう。ジェットホイールとか言う、新潟と佐渡を結ぶ快速船に乗る。錆色の空から鉛色の海に雪が舞っていた。真冬の日本海に吸い込まれる雪景色を始めてみた。とてつもない寂しげな景色にとてつもない静けさと、安堵の気持ちが起きた。寂しくていい、そんな気持ちであった。

     19948月16日〜19日、韓国旅行。秋田〜韓国国際航空路の開発計画の促進のため、秋田県が計画した、高校教員の韓国訪問計画に選ばれて参加。交通費まで出していただいて、これでいいのかなと疑問を抱きながら参加。  10月8日、長男久智、札幌の田村峰子さんと結婚(岩見沢サンプラザホテル)

     19954月、秋田県立本荘高等学校定時制教頭に任命される。

     1996112日、明智、斎藤新奈さんと結婚(秋保=リゾートホテル・クレセント)。  11月8日、久智・峰子の長女香於里生まれる。予定日より約2ヶ月早く生まれる。体重・1600グラム。

     19973月、秋田県立本荘高等学校定時制課程教頭を最後に退職。57歳。3年早く退職した。

     199811月26日〜122日、平禄寿司のお客様感謝企画、イタリア・ローマ旅行に次男夫婦が応募して当選、彼らには出かけるための金がなく、その権利をいただいて旅に出た。寿司食い仲間の、無関係な関係は気持ちのいいものであった。

     1999:1月31日、中国から、国際保護鳥・朱鷺の友友(ヨウヨウ)と洋洋(ヤンヤン)が佐渡に到着。私の故郷である佐渡に、もう繁殖能力のない一組の番しかいなくなったとき、佐渡の地から父の代で秋田にやってきて、2代目の私の代で、長男は北海道に居を構え、次男は仙台に居を構えて、妻と二人秋田に残された姿が、私の実家の畑野町のすぐ隣の新穂村の朱鷺を連想させたのである。秋田における余湖家は私の代で絶えるのだと。日中友好の証よ、繁殖・繁栄してくれと祈るばかりである。5月21日、友友と洋洋の子誕生、7月、優優と命名される。朱鷺の学名は日本を代表するような恐れ多いものである。江戸時代、美しい鳥「トキ」をシーボルトが大英博物館に送り、そこで「ヒッポニア、ニッポン」と名づけられたのである。

     20006月、還暦同期会。  7月25日〜8月6日、ハンガリー・チェコ旅行。  9月5日、明智・新奈の長女誕生。 10月12日、久智・峰子の長男誕生。  1212日、義母(妻の母・同居)介護老人施設・緑泉に週2回デイサービスを受けることになり、今日から通所。

     20011月13日、次男の勧めで、パソコンと周辺機器を買い求む。  213日、息子と孫に向け、初めてメールを発信。着いたかどうか電話で確認。  10月8日、ホームページ「おりおりの記」開設。

     20021月3日、我が家の落葉松の枯れ木に「赤ゲラ」がやってきた。  3月18 日、〜3 月28日、南    フランス・ニース〜パリまで旅行。 1月16日、小野吉平氏(69)死去。 6月9日、田村昌国氏(51)死去。小野氏は私の尊敬する大先輩先生であった。自宅軒先の雪を落とそうとして脚立から転落、ブロック塀に頭を打ち、頚椎損傷で死亡。氏は石橋を叩いてもなお渡るに躊躇するぐらい慎重なであった。体の管理に関しても医者が大丈夫だから来なくてもいいといっても、あらゆる知識を動員して自らの体の健康チェックをしてはせっせと医者に通っている人だった。このような不慮の事故からは最も遠い人だと思っていた。田村氏は長男の嫁のお父さんである。私より一歳若く、活発な人であった。札幌市郊外の手稲の原野に家を立て、少しずつ増えていく住宅の自治会、互助会、など相互助け合いの基礎を築いた人であった。今では田村氏の近辺は過密に近い住宅の密集地になってしまった。丈夫で迫力のある行動人、田村氏は突然逝ってしまった。毎年毎年、ポロリ、ポロリと大切な人々が身の回りから欠けていく。寂しい。----いや、寂しいという感情も通り一遍のもので、その感情すら薄れてきているような気がする。実はそのことが一番寂しい。 8月13日、妻、還暦。

20031月15日、インターネット、ADSL加入のときNTTをやめて、Yahoo BBに加入。 2月16日、妻の伯父永松進氏死去。99歳。最後までしっかりした人で、妻のよき文通の相手であった。  3月31日、高橋旭兵氏死去(65)。尊敬する先輩であった。HPの「おりおりの別れ」に『大人逝く』と題して追悼の文を書いた。  4月18日、水洗トイレ工事の浄化槽を埋めるため、前庭の落葉松を切った。20年ほど前に、義父のつれづれにと、千円で5〜6本の落葉松の苗木を買い、鉢植えにして落葉松林のミニチュアー版を作り、無聊を慰めてはと、勝手な私の趣味で贈ったものであった。その義父が死んでもう13年になる。贈った松は、義父が入院していた2年間ほど、ひとつの鉢に寄せ植えされていて、義父の死後、からからに干上がった鉢の中で息も絶え絶えな様子で見つかった。家に持ち帰って、庭のあちこちに地植えした。立ち直れずに2〜3本は死んでしまった。結局、根づいたのは3本であった。そのうちの一本は落雷で枯れ、一本は根腐れのようになって死んでしまい、1本だけ前庭に残った。のびのびと生育し、幹の太さは29センチに達し、高さは我が家の二階をはるかに越してわれわれを睥睨しているかに見えるほどになっていた。義母のためも考えて、下水道も通らないうちにトイレを水洗にすることにしたのだが、義父の落葉松が犠牲になってしまった。工事人が焼却所に運び込むのを見かねて、幹を60センチほどに切ってもらい、庭のあちこちに配置してみた。誰にもほめられず、ほとんど誰の目にも留まらないぐらい庭に溶け込んでしまっている 。 10月10日、日本産最後のトキ・キン死ぬ。推定年齢36歳。人間に例えると優に百歳を超えているとか。寂しい。11月10日〜11月14日、妻と京都旅行。京都市内見学のため一日に2万歩から3万歩歩いた。旅行の中身については後日文にまとめようと思っている。

・ 20041月3日、息子と家内が「携帯電話」を買ってくる。私はこれを素直に受け入れることにした。現在ではいろいろな人がいろいろな目的で携帯電話を持っていて、いわば時代の必需品である。持っていれば便利で、あらゆる緊急事態に対応できて、更にいろんな情報を瞬時のうちに自分のものとすることも出来る。------それで本人は持つことにしたのであるが、私に持たせた息子は、どうやら私の緊急事態に対する対策のためだったようである。「いつも持ち歩きなさい、何かあったらすぐ電話しなさい」という。どうやら私の安全確認のためであり、それによって息子自身が安心しようという魂胆のようである。あえて反対するほど自分には自信がない。素直に、首にぶら下げて散歩している最近である。 暮れに、清水寺の管長が2004年を「災」の字で表現した。まさに今年はその字のとおりであった。8月20日、台風15号日本海から津軽半島、下北半島を通過、襟裳岬に再上陸。8月30日、台風16号、九州上陸、日本海秋田沖通過、苫小牧へ。9月7日、台風18号長崎上陸。9月27日大風21号、鹿児島上陸。10月9日、台風22号静岡沖から関東東北へ。10月18日、台風23号、24号、日本を伺う。10月23日、5時56分、震度6強を記録する強い地震が、新潟中越で発生。震度6強の余震が続いて3回も発生。12月26日、インド洋スマトラ島沖地震発生。M.9.0を記録する巨大地震。地震のみならず津波により死者20万人を超す大参事 であった。豪雨も日本中いたるところに災いをもたらした。来年こそは良い年でありますようにただ祈るばかり。 12月1日から12月6日まで家内と二人で京都旅行。 12月21日、中学時代の同級会、わらび座で開催。