川崎あかね(AKANE KAWASAKI)

1968年のころ
目次
・生い立ち
・大映時代
・松竹時代
・フリーの時代
・高樹蓉子との共演
生い立ち
生年月日:1948年
11月10日
本名は川崎ときゑ、父親は東映の映画撮影監督の川崎新太郎の次女として京都で生まれた。その関係上、京都の撮影所にはよく出入りし、子連れ狼に主演した萬屋錦之介にはかわいがってもらったそうである。その影響も彼女の女優人生に大きな影響を与えたのだと思われる。また、6歳のときから日舞(若柳流)を習い、大映でデビューした18歳の時には若柳緑風と名乗り、幼い弟子を持つまでになった。
高校は京都にある洛陽女子高校で、高校を卒業後、大映京都のフレッシュフェイス第5期生として大映に入社した。大映に入るきっかけは、高校へ帰りのバス停でいつも同じ人が立っており、その人が大映のプロデューサーだったためである(今だったらストーカーと疑われるが)。
しかし、父親の川崎新太郎は俳優の裏については詳しかったため、川崎あかねが女優になるのを強く反対した。彼女の出世作である「妖怪大戦争」を父親と一緒に見に行こうと彼女は誘ったが、父親は一緒に行かなかった。しかし、映画が終わり、明かりがつくと父親が前の席にいるのが見え、見に来てくれた父親に対してありがたい気持ちだったそうだ。
川崎あかねの「あかね」は美しく燃えるあかね色のようにと川崎あかねの父の友人の伊藤大輔監督が付けた。
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大映時代
大映に入社後の川崎あかねは約1年間、大映の演技研究所で学んだ。そのときの川崎あかねの印象を研究所で講師をしていた黒田義之監督(この監督は高樹蓉子が「狼無頼控」に出演したときの監督でもある)は「人一倍の負けん気の強さと、ひたむきにレッスンに励んでいる女性だ。」と評価されていた。
1968年に「陸軍中野学校・開戦前夜」にちょい役でデビューし、同年に「妖怪大戦争」で本格的にデビューした。その後、順調に階段を上り、ついには「東海道お化け道中」で主演し、1970年にはテレビ映画「女三四郎・炎の巻」でヒロインの安田道代に次ぐ役を与えられた。このころ、東京の大映では渥美マリが有名で、川崎あかねも西の渥美まりで売り出す考えだったようだ。
しかし、多くの大映のスターが抜け、映画などの売り上げが落ち、関根恵子や松坂慶子などの新人が台頭してくると、次第に出番が少なくなってしまった。
しかし、お酒のCMに出演し、話題を呼ぶと、作品にも恵まれるようになり、準主役、主役作品にも恵まれるようになった。
だが、大映は1971年に倒産してしまい、川崎あかねは1972年1月に松竹に移る。
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松竹時代
川崎あかねは松竹に移籍したことにより、住み慣れた京都を離れ、東京で単身住む事になった。東京に1人で住んでいる寂しさからか、1日1回は必ず両親に電話をしたそうである。また、東京と京都との環境の違いからかやはり川崎あかねにとって戸惑いは多かったに違いない。
松竹時代は森崎東監督の「女シリーズ」の第4作目の「女生きています・盛り場渡り鳥」に主演(この作品で京都市民映画祭の新人賞を受賞している)し、「喜劇・怪談旅行」、「必殺仕掛人」などに出演したが、松竹の”清潔感”が川崎あかねの体質に合わず1973年に退社し、フリーとなる。フリーとなる前に「助け人走る」で高樹蓉子と共演した。
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フリー時代
フリーになってからはテレビ時代劇の「狼無頼控」に出演し、日活の「主婦の体験レポート・おんなの4畳半」、大映の「金環触」などの映画にも出演したが、専らテレビの出演が多くなった。
現在は京都の東映撮影所の近くにある居酒屋を経営されている。
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高樹蓉子との共演
高樹蓉子との共演は今のところ「助け人走る」の4回目で共演しただけで、貧乏武士の生まれで、呉服問屋近江屋に嫁いだ娘おりょうの役で出演した。武家の娘が町人に嫁いだがために、島流しにあう。

左が川崎あかね、右が高樹蓉子(助け人走る4回目より)
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