第1回 ―紫式部と明石―
「源氏物語」は言うまでもなく、日本古典の最高峰の作品です。しかしその作者の紫式部は生没年すらきちんと分かっておらず、またその作品の出来方にも諸説があり、非常に謎めいています。私はこれからいくつかの史実を基に紫式部の生涯を辿り、彼女がどのように「源氏物語」を創作していったかを推測していきたいと思っています。
最初に誕生ですが、式部生年には天禄元(970)年説(今井源衛)、天延元(973)年説(岡一男)、天元元(978)年説(与謝野晶子)の3つが有力です。私は今井源衛氏の説を取りたいと思います。
その理由としてまず、私は式部が「明石」に並々ならぬ特別な想いを持っている様な気がしてなりません。「源氏物語」を読んでいても、光源氏が須磨に自分から流されていって、やがて明石に移り、そして明石の君と結婚する。その間に生まれた明石の姫君はやがて中宮となり、東宮それから匂宮の母となり全盛を誇る。
実は式部の父、藤原為時は968年に播磨権少掾に任じられています。これも着任か遙任(現地には行かないこと)かで意見が分かれるところなのですが、当時22歳くらいの為時が16,7くらいと推定される藤原為信の娘と結婚したばかりで播磨に同行していったとすると、969年に長女が、そして翌970年に次女(式部)が生まれたというのは根拠があります。4年で任期が切れて京に戻ってから弟惟規が生まれたか、惟規自身も明石で生まれたかまでは定かではありませんが、「紫式部は明石で生まれた」というのは可能性があると、私は信じています。
成長してからも式部は明石へ行った可能性があります。生母を幼くして亡くした式部には為時の長兄の為頼という優しく博学な伯父がいました。その為頼が正暦三(992)年摂津守となったのです。そして式部は翌年摂津に半年以上も逗留しているのです。(970年生まれとすると24歳の時) その頃、京では疫病が流行していてその難を避けるという意味合いもあったのでしょうが。半年もいて、もちろん式部が尊敬する在原業平の兄行平が須磨に流されたという伝説は信じていたでしょうし、そして自分自身が生まれた明石に立ち寄った、それでなくても柿本人麻呂の詠んだ歌「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島がくれゆく舟をしぞ思ふ」(明石高校の校歌に一部使われていて嬉しい!)もあるので、景勝の地、明石を見たいというのは充分可能性があることだと思います。式部自身が明石の君となって、身分高い公卿の妻となりたいというのは、当時の中流貴族の夢であったし、事実、摂関家の藤原師輔、兼家などの妻は受領層の出で嫡子、後宮に上がる姫を産んで確かな地位を築いていました。
明石で生まれた式部姉妹は京に帰ってきます。その記憶はいくら才女といっても、数え年3,4歳の女の子にはなかったでしょう。なお、式部の本名ですが、角田文衛氏の「香子」(かおりこ、たかこ)説に賛成します。
話は変わって、江戸時代に藩主がえらく「源氏物語」を気に入って、光源氏が明石の君に通ったという「蔦の細道」それから源氏が月を見たという「月見の池」などを造りました。(明石フェリー乗り場の近くの朝顔光明寺)もちろんフィクションですが、先日友人の奥さんが信じて疑わないというのを聞いて面白かったです。言い分は「だって江戸時代の昔からあるのよ」という事らしかった。もちろん江戸時代に造られたから間違いはないですが・・・
明石は菅原道真が大宰府に流される時、立ち寄った所としても有名です。式部が生まれる約70年前の901年の事です。光源氏のモデルと考えられる人はたくさんいて、道真もその1人です。「菅公旅次遺跡」というのが太寺2丁目のところにあって、「駅長よ、驚くことなかれ、時の変わり改まるを。一栄一落、−これ春秋」の碑があります。私は明石高校まで歩いて行き帰りする時、よく見たものでした。それから山陽電鉄人丸前の近くに「休天神社」というのがあり、学生の時はそれこそ何と読むのかもわからなかったけれど、後年、道真が流される時、そこで休憩したところなのだという伝説を知りました。境内には今も道真が座ったと伝えられる石が保存されています。
「菅公怨霊」はその頃、定着していた筈だし、式部自身も知っていたでしょう。彼女は「生霊」「死霊」というのを物語でも充分使っています。