独り言&日記 (2009年)


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更新日付 2009.09.20



スランプ  春近し   フォカッチャ名誉挽回  イギリス山形パンの怪  光陰矢の如し  煎餅パン「ホブス」  「米粉パン」
  「野菜の収穫その1」  「草との戦い」  「フランスパンの味」  「野菜の収穫その2」  「呉服屋とパン工業会」


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スランプ

2009.02.24

   長いスランプが続いたが、パン作りをやめていた訳ではない。
ポンコツの”パソコン”が2台とも機嫌が悪くなッたことなど、
パソコンに向かい合うことが一寸疎遠になってしまったためで
ある。

 勿論スポーツクラブに通うかたわら、パン愛好家のためにせっせと
パン焼きにも励んでいた。
ただ、パン好きでないため、食べてもらう人を頭に描きながら焼くため、
ついリピートが幅を利かす羽目になり
新しいパンを焼くことがなかったことも要因の一つであろう。

   近頃、スポーツクラブでのエアロビクスやステップ等など、体力の衰えを
実感してきている事も事実である。
年々体調を維持すること、気力を持続することも難しい年齢になってきている。
ともあれ、ボケ防止のためにも、もう一踏ん張りしたいものである。

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春近し

2009.02.24

 塀代わりに植えた山茶花の花が峠を過ぎ、今は庭に5〜6本植えてある椿の花に毎日
いろいろな鳥たちが花の蜜を求めて訪れる。
     中でも、「メジロ」が乱舞するように大量に飛来して来て、花の蜜を吸っている。
    一方、畑では自然に零れ落ちた種から自生した小松菜が、いたるところに生えており
     その小松菜に黄色い花が咲きはじめた。若いつぼみを摘み取り食卓に春の彩を添えている。
 また、庭の片隅に生えている「ふき」をよく見ると"ふきのとう"が頭を出している。
       これも油で揚げられ、我が家の食卓に登場する日も間近であろう。


畑 小松菜


 昨日は、ジャガイモの種を4キロほど買い込み、畑に植え込んだ。
ところが、その農作業を始めると、名も知らぬ一羽の鳥が何処からか飛んできて3〜4m位
離れた杭などにとまり、つかず離れず1日中作業を見ている。

畑仕事をしっかりやれと監視されているように思えてならない。とにかく1日中である。

 作業を中断すると何処かへ飛び去り、再開するといつの間にか近くの杭に止まっている。
写真を撮って、図鑑で名前を調べようと近づくと、さっと離れ写真撮影に応じてくれない。
 2日目も作業を始めると何時の間にか、何処からかやって来ている。


鳥




よく観察したらその理由がわかった。
畑を耕すと地面の中にいるミミズが掘り
起こされる。
そのミミズが狙いであったことがわかった。
  冬の間は虫も少ない。
その虫を掘り出してくれるのだから 離れないのは当然といえよう。

 そんな庭の畑にも春の息吹が日増しに感ぜられる今日この頃である。



     ***** 都会暮らしでは経験のできない一齣であろう。*****

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フォカッチャ名誉挽回

2009.03.01

   イタリアといえばパスタの国、パンでは先ず「パネトーネ」と「ピッツァ」が
日本では良く知られている。
最近ブログの「パンの仲間たち」に、シリーズで登場させた「フォカッチャ」は、
日本で見るピッツァに比べて何とも質素で、
トッピングに塩だけとか、ニンニクを差し込むだけの、見た目が
あまり美味しそうでもないことから焼きたいという気持ちが起こらなかった。
たとえ焼いても食べてもらえる人はいないだろうと見向きもしなかった。

   たまたま買い求めたフランスパン専用粉が棚奥から出てきたのを機に、何となく焼いてみた。
ところが、これが意外と好評で、シリーズとして4種類焼いてしまったのは、イタリアのパンも満更 捨てたものではないなという思いからである。(写真は「パンの仲間たち−その78-1〜4−)

 そこで、イタリアのパンについて調べてみた。
 先ず「ピッツァ」であるが、地方によりかなりの種類のピッツァがあり、トスカーナ地方には風味をつけるために ローズマリーを使っただけのピッツァ(ローズマリーのパンと呼ばれる)が存在するなど、各地方・町で 多種多様な、地方色に満ちたピッツァが食べられていることが判った。
ただし、その背景には新鮮で豊富なオリーブ油やワイン、多種類の美味しいチーズの存在があるのであろう。
 因みに,我が家のピッツァは生地にイタリアンハーブやバジルを練り込んだピッツァ台に、その時に応じ自由にトッピングを のせて焼くというスタイルでファンも多い。
(作り方は「パンの仲間たち-その9-」他、別館のブログでどうぞ!)
pizza台
  ホイロ後のピッツァ。 これを仮焼きし冷凍して置けば何時でもピッツァが作れます。








 フォカッチャは”おふくろの味”と言われるそうだが、このフォカッチャは各家庭のおふくろの数だけ在ると 見た方がよいのかも知れない。

 イタリアの食事用の代表的なパンの一つ「ミケッタ(又はロゼッタ)」は皮の硬い塩味のあっさりしたパンで、 中はほとんど空洞で、パリッとした皮を食べるとのこと。またパスタ料理と一緒に食べるのが細長いグリッシーニ、 スティック状の塩味のきいた香ばしいパン。これも焼いてみたいと思わなかったパンの一つである。

 10年一昔とよく言われるが、10年経てば人の味の好みも変化する。勿論一朝にして変化するわけでは無いが 嗜好が変わってきていることは事実であろう。
 歴史のいたずらか? 幕末にイギリス軍を味方にした薩長軍が幕府に勝利したためにイギリスパンの影響を受け? 甘いパン一辺倒であった日本のパンも、フランスパンなどの普及等で塩味に変わりつつあるのであろうか・・・・・・。

    これからは、フォカッチャなども食べられる時代が来るであろう。

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イギリス山形パンの怪

2009.03.04

 「食パン」と言う言葉に相当する外国語は存在しない。日本にのみ通用する所謂造語である。
一般的には食パンといえば四角い箱にはめられ、蓋をされて焼かれた「プルマンタイプ」の ものが思い浮かぶのであろうか。
 しかし、手作りパンを趣味とする人は、プルマンより、あのもっこりと山形に膨らんだ「イギリス山形パン」を連想する人が多いような気がするが如何なものであろうか。
私も「プルマン」形に比べ、遥かに多く「山形食パン」を焼いており、食パンといえば「イギリス山形パン」。もっこりと膨らんだ山を持つ山形パンをこよなく愛する「イギリス山形パン」(俗に山食)愛好家の一人である。

(我家で日常朝食用に焼いているイギリス山形食パン)1斤2山












 プルマンはイギリス山形パンがアメリカに渡り、製パンの効率化、機械による量産化を意図したために, 型に蓋をするようになったと聞いている。その為に中種法が主流であり、品質の均一化が狙いであることに主眼が置かれているはず。
 それに比べ、家庭で我々が焼くものは直捏法がほとんど、焼く量も精々3斤くらいであろう。 しかも食パンにはバラエティが数多くある。山食と呼ばれるものにもワンローフもあればツイスト、 スパイラル、双子など・・・・・・・。

 何よりも、あの”もっこり”とした山の出気具合、焼くときの窯伸びの伸び具合など、目に見える楽しさ、 面白さがあるからではなかろうか。
その代表格である「イギリス山形パン」がイギリスでは焼かれていないと言われる。
 そんな馬鹿な話が・・・・・・。

日本では、いろいろな本を見ても、もっこりと山に膨らんだ写真が掲載されている。まして日本はイギリスパンの影響を受けていると聞かされて来た。

   既にご存知の方もあろうが、パン研究家の竹野豊子さんの「美味しいパンの秘密の話」という書籍に以下のように 書かれている。その一部を引用させて頂くと
・・・・丸一日捜し求めても、ロンドンのパン屋や地方のパン屋をいくら捜しても、あんな大きな山形の パンにはお目にかかった事が無い。
 その答えは簡単。
日本で売られているイギリスパンは、誰か日本人が独自に考えたものだそうだ。
本家のイギリスパンは小さく、パウンド型より大きめの上面が平らなパンがスタンダード な型だと言う事だ。このパンをブランチの時などではサンドイッチにして食べるそうだ。

 図書館で何気なしに手にした書籍、初めて知ったものにとっては、何か夢を壊されたとような 複雑な思いである。むしろ知らない方が良かったのかも・・・・・・・・・。

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光陰矢の如し

2009.04.01



毎年のことだが、一昨日庭の垣根からの鶯の鳴き声に目を覚まされた。 近くの公園からやってくるのであろうか。いまどきの泣き声はまだミスが多い。 それ故に”ホーホケキョ”と鳴いた時は、よくやったという感動でもある。
 ふと庭を眺めたら、いつの間にか桜の花が咲き出している。   この桜も、もう10年くらい前であろうか、ミャンマー人の考古学者や 留学生が我が家をお訪れていた。その記念に植えたもの。 今では4〜5mに成長し、花を咲かせている。   8〜9人いたミャンマーの人達も帰国したり、外国へ移住してしまった。    そのミャンマーの人たちの食卓に欠かせなかったのがコリアンダー(香菜)    以前にも写真を掲載したが、この香菜の可憐な花が当時のままのように 庭の畑や空き地のあちこちに咲き乱れているだけである。  日本で生まれ、病院通いで悩まされた子供も、もう小学校に通う年頃になり、         大きく成長した写真がメールで送られてきた。             まさに光陰矢のごとしである。             いつの間にか古希を過ぎ、高齢者運転免許証の講習連絡書が届く 歳になってしまった。 この講習も次はボケの検査も加えられると聞く。       そのボケ防止も兼ねてパン焼きに勢を出してきた。      ミャンマーからも何時ミャンマーへ来るかとお誘いが絶えない。    まだまだ「ボケ」てなどいられない。               その為にも、まだまだパン焼きは続く。


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煎餅パン「ホブス」

2009.05.18

先にも記述したが、煎餅パンはパン屋さんの店頭に並ぶことの少ないパンである。 イラン、インドに代表される「ナン」や中東からアメリカに渡り知られるように なった「ピタパン」を除けば、メソポタニア文明発祥の地で、パン誕生の地と言わ れる割にはパンはあまり知られていない。       そんなパンの一つ。ピタに良く似た煎餅パン「ホブス」。  そのせんべいパン「ホブス」を知る機会を得たのは10年位前のことであろうか。     当時はパンなどまったく関心も無かったし、興味も持たなかった。            必然的に見たことも無ければ食べたことも無いパン。又パンを焼くように     なってからも一度も焼いたことも、焼きたいと思ったことも無いパン。 勿論パン屋さんの店頭にも無いパン。    そんなパンを今回始めて焼いてみたのが写真の「ホブス」である。 ホブス
このパンを知ったのは大学にエジプト人の先生がいた。その先生が机の引出し からこのパンを数個取り出し、それにぷすっと穴をあけ、その日に持ってきた 弁当箱の物を詰めては美味しそうに食べていたそうである。     家庭で焼いたホブスを数日分机の引出しにストックしておき、   中身だけを毎日持参して詰めてはお昼の弁当としていたわけである。          知人の奥さんの旦那さんである教授が興味を示し、そのパンを焼いている      エジプト人の奥さんからそのレシピを教えて頂いたとのこと。   エジプトをはじめとする中近東で焼かれる原始的なパン「レイシ」とも 相通じる。「レイシ」よりはやや進化して、一寸スマートでもある。     エジプトの家庭で日常焼かれ、家庭の食卓にのぼる”食事パン”であること  を知り、又お弁当としても中々合理的であることもあり、焼いてみたくなった。              牛乳で練ったピンポン球くらいの生地を、平たく延ばして焼くだけ、       プーと膨らんだ薄い皮、空洞にはどんなものでも詰められる。    「ピタ」よりもかりっとした生地は香ばしい。日持ちもよさそうである。  レシピには塩を使っていなかったので、ベーカーズ%で1%だけ加えて焼いてみた。        あくまでも皮は具の引き立て役である。         今日は食パンを焼きながら並行して焼いたもの。                     時間のない方にはお薦めかも。


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米粉パン

'2009.06.01

  先進国の中にあって食料の39%(カロリーベース)しか供給できていないのが 日本の現状である。
 そんなことからも、食料の自給自足率の改善が指摘されて久しい。又短期的には 米価の下落など多くの問題を抱えている農水省は、異常事態として米緊急対策を打ち 出してはいるが、思うように実効が上がっていないのが実情であろう。

 数々の広報活動やイベントなど農水省としては活動しているつもりであろうが、 紙面上で喚いているだけでは国民に浸透するはずもない。

その一つに小麦粉の代わりに米粉の利用による消費拡大が切り札として 叫ばれている。 最近では、近年の技術革新による製粉技術の向上で小麦粉以上に細粉化が可能になり ケーキ、パン、パスタ、クッキーなど等、用途拡大の兆しがないわけではないが。
その中の一つに米粉パンがある。この「米粉パン」の普及にも力を入れて いるようだが、     食料用小麦の需要量約530万トンに対して、増加したとはいえ 高々6千トンと0.1%程度が現状である。      食生活の変化に対応した施策がないがしろにされてきた無策の結果と 言われても仕方ない。ところが、輸入小麦の価格高騰に端を発した 追い風を受けて、やや見直された。しかし    米粉パンの認知度はと言うと、66%の人が知らない、         関心度を見ると  69%の人が関心がないと  ただし、   購入意向は    66%の人がありと答えている。 -農水省HPより-    農水省のHPを見ると   一人が1日に食べる食事のうち、小麦粉食品を約7g(ロールパン 1個の1/5)を米粉食品に代替すれば、食料自給率は1%上昇すると試算 されるとのこと。    その「お米パン」を焼いてみたのがこの写真である。
米粉パン
食糧難を経験してきた年代の「ごはん党」には、わざわざパンにする 必要もないので、今まで焼きたいと言う気にもならなかったが、 焼いてみた結果は良好であった。 お米離れをした年代の人にお米を食べてもらうには、有効な手段でも あろう。しかし、現在市販されている米粉パンミックスの値段は小麦粉の 約3倍である。 これでは「お米パン」を普及させるのは至難の業。結果は見えている。 そんなことも解らない者が国の舵取りをしているのだから押して知るべし。


 パンに限って言えば、スイスが小麦粉パンにライ麦粉を8%以上加えると言う 法律まで作って自給率を維持する努力が払われていると聞くが、パン用小麦粉の生産が 出来ない日本でも例えば特殊なパン以外は米粉を10%程度加えることを義務付け るとか、そのためのパンの研究をする。

 一方減反で草畑と化した遊休地を小麦の生産に振り向け、国産小麦で出来るパンの 開発を国主導で行うなど、強い指導力を発揮すべきではなかろうか。
今や日本のパン業界のレベルは世界のトップクラスにいる。
その人達の総力を結集すれば出来ないことではない。日本人の味覚に合った「米粉パン」 が出来ること請け合いである。

 今回初めて焼いたこのパンも、上新粉30%を混ぜ焼いたもの。 パンとしてまったく遜色のないものが焼き上がったと確信している。 むしろ和食にも洋食にも合う、子供にも老人にも好まれるパンに 焼きあがったと言えよう。

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野菜の収穫 その1

2009.06.18

 昨年の11月ごろ庭の畑に植えつけた玉葱が、見事な成長をとげ10日 ほど前収穫をした。前年は何故か成長が悪く、小さなものばかり。 ところが、今年は丸々と太ったモノばかり。気候の関係なのか、苗なのか 肥料が良かったのか。毎年同じように植えつけているのに大きな差が出来 るのはどうしてであろうか?  今年は草取りに勢を出し、農家で頂いた稲藁を短く切って防に努める     など例年よりは若干手を加えたような気がするが、  さして特別のことをしたとは思えないのに・・・・・・・       結果良しであった。    onion
   写真は収穫した玉葱の一部である。(総数約500) 又 、数日前からは「キュウリ」や「なす」が少しずつ食卓に上るよう になった。と思ったら昨日の朝収穫した「キュウリ」と「ナス」は バケツに一杯位。 ただし、中身は色々、曲がったものあり、虫に食われたものありと 様々。しかし無農薬の野菜を食前に取ってくるのだから、新鮮さに ついては折り紙つき。  ハウス内で過保護で育てられた野菜と違って、路地で太陽をいっぱい 浴びて育った野菜の味は多少曲がっていても美味しさにおいては比較 にならない。 キュウリ 又、完熟したキュウリは、昔ながらの懐かしい味がする。ハウス内で 未成熟のうちにもぎ取られたキュウリでは本当の味は分かるまい。 急に収量が多くなり、しかもアッという間に大きくなる。 二人では食べきれないのでご近所に・・・・・。 歳と共に農作業はきつくなるが、収穫するときの喜びは又ひとしお である。    「なす」などは秋口まで、毎日食卓に彩りを添えてくれる。

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草との戦い

2009.08.08

 今年は天候不順、梅雨の長雨で玉葱やじゃが芋が値上がりして、家庭の   台所に影響を与え始めているとか。  今年の梅雨の長雨は、我が家の畑にも大いなる影響を及ぼした。 と言うのは入梅の前にしっかりと取っておいた草が、雨のために何時の間に か畑中に生え、 野菜が草の中に埋もれてしまっている有様。           何とも手の施し様が無い。     畑内は除草する気も起こらないので放置と決め込んだ。  年々体力が衰えていると言うのに、草の勢いは益々盛んである。畑以上に 庭や駐車場などひどい状態に陥っている。  今まで環境破壊に荷担するのを嫌って、コンクリートや除草剤の使用を拒否 してきたが、寄る年波には勝てず心が揺れ動いている。畑以外のところは 除草剤をと・・・・・・・・・・・。   ところが、彼方此方に花等が毎年顔を出したり、ハーブが至る所に  自生している。   今年も、駐車場や畑の片隅などで「花オクラの大輪」が、毎日咲き乱れて  道行く人や散歩の人の目をに大い楽しませてくれている。         花オクラ 花オクラ
この時期は畑ではオクラの小さい花が毎日咲き実をつける。写真の花オクラは そのオクラの花の5倍以上の大きさで、サラダなど食用にも供せられるとのこと。 オクラで思い出した。 真冬のニューヨーク、ハドソンリバーが凍るほどの寒さであった。その  ニューヨークを離れて飛ぶこと6時間ほど、西インド諸島の最南端、南米大陸 からわずか34キロのカリブ海に浮かぶ小さな島。「トリニダード・トバコ」 (ベネズエラに近い島)の首都ポート・オブ・スペインの空港に降り立つ。 勿論、赤道に近いこともあり、気温は高く汗がどっと出てくる。  その空港から街中までの移動中に目に飛び込んできたのは道端の野菜売り場。 売っている野菜といえば、ほとんどがこのオクラ、オクラ。オクラしかない。    そのオクラの花が彼方此方に咲いている。殺風景で汗が噴出す      暑さの中では、一服の清涼剤でもあった。   除草剤を使えば、夏の風物詩の花オクラや、秋口にかけて畑に面した空き地    などに一面に咲くコスモスの花など消え失せてしまうであろう。           草との戦いは尽きることが無い。           何時まで続ける事が出来るのであろうか?

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フランスパンの味

2009.08.20

 既に何度かご紹介したように、フランス国立製粉製パン学校のレイモン・カルベル教授が、最初に日本に訪れたのが1954年(昭和29年)のこと、日本に本場のフランスパンを紹介した。
 それから10年後再来日、翌年弟子のフィリップ・ビゴ氏を日本に送り込んでフランパンの普及に努めた。
フィリップ・ビゴ氏は白髪になったとは言え今尚健在で、神戸を拠点に活躍して居られることはご存知の方も多かろう。
   そのカルベル教授が1970年(S45年)来日したときの講演会で、次のように述べられている。

----よく言われる事があります。「日本のフランスパンは、本場のフランスパンんよりしばしば美味しい」と評価 されていることです。私(カルベルさん)も同じ意見です。と述べられている。


その理由とは?
 フランスでもパン業界における人手不足は深刻で、生産の合理化とか、工程時間の短縮など、仕込み 過ぎたり、ビタミンB、Cを入れすぎたり、膨らみすぎたりと昔ながらの基本の作り方をするところが減ってきている事で、本来のフランパンの味がしばしば損なわれて来ていた。

 それに対し日本では、正統なフランスパンをと、多くのパン関係者が地道な努力を重ねていた時期であった。更には日本では味を良くすると同時に,(日本の食習慣は3時間以内に食べると 言う事ではなくて、翌日でも食べる事などから)長く持たせる必要が有ったなど、中身の美味しさの追求に+アルファーがこの様な評価に繋がったのであろう。
又その背景には、美味しい正統なフランパン作るための製粉業界の研究・努力が 有ったことを忘れてはならない。

 しかし、カルベルさんは講演の中で、これからは日本にも欠陥の有るフランスパンが  出ないように、今後は味を落とさないようにして欲しいと締めくくっている。
 日本のフランスパンの味は、本場フランスパンの味を超えていると言わないまでも、フランスのレベルに 追いついた。と言われてからもう40年位を経過している。

 レイモン・カルベルさんが日本に本格的なフランスパンを伝えてから既に半世紀を過ぎて、日本のパンの 技術も世界的に冠たる領域に入っていることは、既に2002年のWBC(ベーカリー・ワールドカップ) 「ユーロパン2002」で優勝していることからも実証出来よう。

 又、最近のフランスパン等ハード系のパンの進歩は目覚しいものがあり、ここ4〜5年位前から日本の パンも摸倣から創造へと大きく変革している様が顕著になってきたように思えてならない。
 このことは取りも直さず、日本人がより美味しいパンを焼くための探究心が旺盛であることを 示すものであろうし、今後も留まることも無かろう。
 しかし、その一方でフランスが辿ったと同じような危惧が無いわけては無い。日本の現状に対して、カルベルさんと同じ ような警鐘を鳴らす人たちが一方には居ることを忘れてはならない。
このことは、プロの人たちに対する警鐘だけではない事を、肝に銘じておく必要があるのではなかろうか。

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野菜の収穫 その2

2009.08.20

   今日はスポーツクラブがお休みの日であるが、そういう日に限って早く目が覚める。
 そろそろ秋野菜の準備が必要であるが、畑には草が一面に我が物顔で生い茂っている。その上、既に 子孫繁栄のための種をつけ始めている。
しかし、暑さに加えてこのところの日照り続きで草が抜けない。熱中症に耐えられる年齢でもないし、 気が乗らないので体が動こうとしない。畑仕事は今日もご無沙汰と決め込んでパン焼きに。

 ところが、家内が草の中から収穫してきた野菜群の多さにびっくりである。草だけでなく野菜も結構 頑張ってくれているんだと。

 最近の野菜の値上がりは、年金生活者としては大いに気になるところ。少々形が悪かろうが、曲がっていようが、ハウスの中でホルモン剤でブヨブヨに育てられたものに比べ、露地で太陽の光をたっぷりと浴びた野菜の味に勝るものは無い。
しかも、もぎ立てを料理するのだから鮮度は抜群、ある意味では贅沢な話であろう。写真は今日収穫した野菜たちである(本日の1/3程)。

野菜軍

 雨の多い頃は元気溌剌だった胡瓜や茄子も、この所の日照りで元気が無い上に、露地での胡瓜は終わりを向かえ、茄子も秋茄子に備えて枝払いしている。
又、草の中から出てきたカボチャは、小さいが美味しいし「坊ちゃんカボチャ」に、坊ちゃんカボチャの4〜5倍位大きい西洋カボチャ、最近出てきた名前も分からない細長いカボチャ?と「ニガウリ」、次々と実をつける「ピーマンの京みどり」、これから毎日実をつける「オクラ」に、11月くらいまで採れる真っ赤な「タカノツメ」と、草の中に隠れていた。
結構なラインアップである。

 そういえば今年は、毎日食卓に上る程「トマト」が収穫できたし、毎年烏に襲われる「小玉スイカ」や黄瓜も被害は最小限に食い止めた。(昨年は全部カラスに穴をあけられ虫のえさと化した〉

1本だけ頂いて植えた「ズッキーニ」は、何時取ってよいのか分からずに随分だめにしてしまったが、慣れないせいかあまり美味しいとは言い難いもの、頂いた苗が多く、出来て見なければ分からない、一寸スリルに満ちた今年の春野菜でもあったと言えよう。

 忘れていたたが、ミャンマー(旧ビルマ)の留学生が蒔いた「ひょうたん」とも「かんぴょう」とも思しき 瓜状の野菜?が毎年自然に芽を出し、白い花を咲かせ、この時期デッカイ実をつける。彼らが去った今、食べる人もいないし、畑の片隅で大きな図体を横たえている。

 ともあれ、最盛期は毎日バケツに1〜2杯も取れるのだから大変であった。勿論ご近所さんの食卓へも。胡瓜などは二人では消化は出来ないので「きゅうりのきゅうちゃん」に化けて、今尚食卓に上るほどである。

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呉服屋とパン工業会

2009.09.20

呉服屋がパン工業会の産みの親

 日本におけるパンの発祥は江戸時代にさかのぼる。
江戸時代の天保13年(西暦1842)に伊豆の韮山の代官で、蘭学者であった江川太郎左衛門が戦場で 御飯を炊いていたのでは、煙が出て敵に覚られる。兵糧としてはパンの方が優位であるとの考えから 韮山にパン窯を作り焼いたのが日本のパンの始まりとされることは先にも記述した。 が実際に窯を築いてパンを焼いたのは、長崎町年寄・高島秋帆組下の職人作太郎であった。

 ポルトガル語の「パン」が日本語のパンになったように長崎の港が内外人雑居のパン食文化の拠点であったことがうかがわれる。
その長崎から職人を招き、伊豆の韮山に日本初のパン窯を築かせ、兵糧用のパンを焼いたのが天保13年4月12日。兵糧として使われたという話は聞かないから実際には利用されなかったのであろう。
 毎月12日をパンの日としているのはここから来ている事も先に記述した。。

 時が過ぎ明治に入り、明治5年(1872年)には日本人初の株式組織のパン屋・浜田紀平合資会社が長崎市内に誕生したように、安政6年の開港後多くのパン屋が店を出していたことが伺われる。

 明治22年(西暦1889)の経済恐慌と翌年の米騒動などにより、パン食というものが注目され、 食パンに味噌や醤油をつけたものが売られるなどした。その後は砂糖をつけたりハチミツをつけたものも 食べるようになったそうである。

 更に時が過ぎ、大正7年の夏のこと、富山県の魚師町に端を発した米騒動が、約1ヵ月後には一都三府、三十八県に飛び火し、軍隊を出すほどの騒動となり、時の寺内内閣が倒れると言う事態が発生した。
 そのきっかけは第一次大戦(アヘン戦争)により米が一挙に倍位の値段にはねあがったためで、政府は日本人が米ばかり食べているから米騒動がおきるのだと、農商務省を中心に”パン食奨励”運動が展開された。パン食が以前に増して見直されてきた。

 おりしもその時期に「パン食奨励」に共鳴した、一人の近江商人がいた。木下彌三郎さんで呉服屋の店主(20才代前半)である。呉服屋として大成功を収めていたが、世の中は洋服を主にした生活に移行しつつあった。

そこで呉服屋の主人であることは一切触れず見習いとして、大阪の木村屋パン店に入った。
 しかし当時は見習いなどに教えてもらえる状況にはなく、やり方を観ながら盗むしかすべのない時代のこと。まして、当時のパンはイーストなどなく、パン種は酢酸発酵の酵素が使われていた。(他の菓子パンや食パンは甘酒種、ビールに使うホップ種など使っていたが)そのパン種作りの秘法や焼き方などの技術を盗む(覚える)ことが至難の時代のこと、1日2〜3時間の睡眠しか取れない重労働に絶え、作り方や焼き方を呑み込んで木村屋を去り、計画通りパンと菓子の「神崎屋総本店」の看板を掲げ、木村屋のあんパンより安くてうまいパン作りがスタートした。

 当時はコークス窯が使われていたが、宇治川ダムの電気の普及に便乗して、日本で初めて電気窯を使った。
何事にも先見性に長けた彌三郎さんは打つ手が悉く当たり、評判が評判を呼んで、小売店などに看板を貸して販売と陳列まで指導した。今で言う所のフランチャイズ方式の先駆けである。
若くして近江商人の真髄を究めた高材疾足の人であった。

 そして、パン屋を始めて3〜4年後には、グリコの社長を担ぎ出し、大阪の菓子商組合を作ったのが若干28歳のとき、大阪の市議会を上回るほどの規模で、5千人の会員を持つパン・菓子屋組合を組織し、更にその経験を生かし大日本製パン工業会を組織。その理事長を務めた。
 この団体の目的は、如何にして良いパンを作るかを最大の目的にし、国内ばかりでなく当時の満州をも含めたものであった。

先にも触れたようにそれまでの日本のパンは酢酸発酵のすっぱいパンであったが、第一次世界大戦の時、国民の常食に困った ドイツが苦心研究を重ねて作り出した「コンプレスト・イースト」に彌三郎さんは目をつけ、パン種に使えば品質の安定した風味豊かなパンが出来るのではないかと、研究に没頭して、そうして改良したパンを作り上げた。
出来たパンのうまさは格別で、風味豊かな現在のようなパンに作り上げたのは、ほかならぬ呉服屋の店主彌三郎さんの努力の結晶であったわけである。

 早速この技術を全国のパン業界に指導して普及、日本中に風味豊かな美味しいパンが食べられるようになった。

そんな中でこんな話がある。
 おりしもアメリカでパンの博覧会が開かれると聞いた彌三郎さんは 自作のパンを特別出品したそうである。
 しかし当時は船便で送るしか方法がなく、届くまでに約1ヶ月を要したそうである。 しかし、審査の対象は窯から出して1週間以内のものが審査対象であったから賞を受ける資格はなかったが、1ヶ月もたった日本のパンを味わって「いつの間に日本は、こんな素晴らしいパンを作るようになったのか」と審査員一同を驚嘆させたそうである。

 その背景には、パンの後進国日本は、風味第一のフランスパンと、栄養本位のアメリカのパンを研究し、両者の長所を ミックスした美味しいパンを作っていたからである。日本人の面目躍如足るものが、既にこのころから発揮されていた 訳である。こういった資質が各分野でも発揮され、戦後の日本を大躍進させた原動力となっていることは 明白であろう。

 その彌三郎さんはパン屋を始めて15年後、自分の商売を省みず働いた各種の要職を辞し、パン屋をやめ次の夢に 向かって船を漕ぎ出した。
 しかし、この時に組織したパン工業会は、色々変遷はあったであろうがその名は今尚健在である。その趣旨は脈々と 受け継がれていると言えるのではなかろうか。
そういう基盤があればこそ、パンの世界杯 2002(WBC)に優勝するまでになったのであろう。
彌三郎さんの志が報われた時でもあったわけである。 (参考文献;奔馬の一生〉

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