『小説を読むときの脳の働き』
近頃みょうに脳の働きにつ
いて考えるようになった。
なぜそんなことを考えるのかと言うことだが、その要因として大きいのは、「小説が書きたい」という自分の秘めたる(別に秘めていないが)想いだろう。自
分は昔はよく物語を読んだもので、何かおもしろい物語を読むたびに、「自分もこんな物語が書きたい!」と思っていた。その願いは今もつづき、何か書いてみ
ようと思って書いてみては、失敗したり、おもしろくなかったり、書くのに疲れたり、自分には物を書く才能がないのかなぁーなんて思ってがっかりしたり、し
ている。
やはり自分が物語を書くときの書く速さ、文章量はプロの人と比べると非常に遅く、少ないのである。テレビで三谷幸喜を見たのだが、彼の話によると彼は四
時間ぶっ続けで脚本を書くのだそうだ。(そして四時間ぶっ続けで寝るらしい。) でも自分は四時間ぶっ続けで文章を書くなんてとうてい出来ないし、おもし
ろい話を書くのも難しい。(読むのなら出来るかも。)そういうことを聞くと、どうしても「脳のしくみが違うのではないか!?」と思うのである。
何か用事を忘れたり、思い出したりしたときも、脳の働きについて考えたりする。何か用事を思いだそうとするとき、脳の中ではなにが起こっているか? た
ぶんこうなんじゃないかと思う。つまり脳の中には短期的に情報を保存しておくところがあって、思いだそうとするときは、脳がそこを参照するのではないか、
ということだ。もしそこに情報が残っていれば「思いだし」、情報が消失していれば「忘れる」のだ。
小説の話に戻るが、題の『小説を読むときの脳の働き』はなにかということについて話そう。自分は今日(2004年11月6日)、短編小説を探すために
ネットをいろいろと検索してみた。この短編小説というやつがなかなかおもしろいのが見つからないのである。結果的に長い時間ネットをさまようことになっ
た。まあ、おもしろいかはともかくもそれなりなやつをいろいろ読んだわけである。そしていろいろなやつを読んだあと、パソコンの前から席を立ったのだ
が…。なんか頭がぼけーっとするというか、何とも言い難いが、まわりの物を感じる感覚が微妙に違ったのである。感覚が違うと言うことは、脳の状態が違うの
ではないかと思い、脳が今どうなっているのか?について興味を持った次第である。
状態といえば、疲労したかあるいは頭がこなれてきたかの二つなのだが、どこがそうなったのか考えてみようと思い、考えてみた。まず小説を読むのにはじめ
に必要なのは、本(この場合はWebブラウザかテキストビューワー)の「画面」を画像として認識する力であろう。そして次にこの画像の中から文字を認識す
るわけである。そしてその文字を頭の中で読み上げる、つまり音声に変換して、そしてやっと意味を人間は理解するのだ。最後に意味から、感覚を合成し、
(「寒い」と書いてあれば寒さを思い出すと言った具合)すべての工程(?)は完了するのである。それぞれ「画像を認識する目」、「画像から文字を認識する
ためのエンジン(脳の部分)」、「文字を音声に変換するエンジン」、「音声を意味に変換するエンジン」、「意味から感覚を合成するエンジン」があると言う
ことがおわかりいただけるだろう。小説を読みまくるといった行為は、こういう作業を脳が長い時間やるということなのだ。
さて、ぼけーっとしているのはよくないので、自分はヨーグルトを凍らせたやつを食べたり、風呂に入ったりしていた。そのまましばらくしているうちに平常
の感覚がだんだんと戻ってきた。ところでぼけーっとした先ほどの感覚がなぜいけないかということだが、その「ぼけーっ」が、何かを書いたりすることや、デ
ザインの感覚など、クリエイティブワークを邪魔するのではないかと、無駄な心配をしたからである。平常の感覚に戻ったおかげで今はこの文章を書いてるが、
やはり疲れてきたので、ここらでもう筆を置こう(正確にはタイピングをやめよう)。
(ちなみに今は“テキスト(形式の文)”をWord使って書いてます。)
【2004年
11月10日wed.】
※自分は「新撰組!」が好きなので、三谷幸喜には注目している。「三谷幸喜のありふれた生
活」(朝日新聞連載のエッセイ)
もおもしろい。
※プログラムや人間(の脳)はすべて情報を変換するエンジンなのではないか、というのが最
近ちょっと思ったことである。
※「もう、ここらでよか」は西郷隆盛の死ぬ直前のことば。
※ヨーグルトには、ブルーベリーも入れて凍らせる。
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v2.0.2(Last Updated 2004.11.6)