2012/01/28 開始
01
段榮、字を子茂と言い、姑臧は武威の人である。祖父の段信は、北涼の沮渠氏に仕えていたが、後に北魏へと入っている。この時、豪族を北辺へ引き連れて、五原郡に移住している。父の段連は、安北府司馬に任命されている。榮は若い頃から暦術を好み、その中でも星象に一番興味を引かれた。正光元年頃(520、梁の普通元年)、榮は人に
「
『易』に云う。『觀於天文以察時變(天文を觀て以って時變を察す)』とある。そして、また『天垂象,見吉凶(天は象を垂れ,吉凶を見(示)す)』とある。今、玄象を見て、人事を察するに、十年に及ばずして、乱が起こるだろうな。
」
と語った。これを聞いたその人は
「
どこで起きる?避けられるのか?
」
と問うた。これに榮は
「
構乱の源は、この地が始めと為り、恐くは天下はこれに流される。避ける所は無いだろうな。
」
と答えた。しばらくせずして、果してその通りとなった。榮も乱に巻き込まれたため、郷里の知人と共に妻子を引き連れて、南の平城へと避難を開始した。杜洛周が乱を起すと、武泰元年(528、大通二年)の二月、榮は高歡と共に、後に北齊の高祖とされる人物だが、洛周を謀誅しようとしたが、事に失敗してしまい、共に爾朱榮の下に逃げ込んだ。
第二回更新
02
普泰元年(531、中大通三年)の六月、高歡が山東で挙兵すると、榮は贊成その大策に賛成した。行臺右丞に任命され、西北道慰喩大使として曉喩のために巡方し、行く先々を自陣営に引き入れていった。十一月、歡が南の

討伐に乗り出すと、榮は留められて信都の鎮を命じられ、鎮北將軍、定州刺史に任命された。翌年の普泰二年(532、中大通四年)の正月に、歡が

を陥落させるまでの間、必要な軍資は、榮がしっかりと輸送したおかげで、不足する事は無かった。四月、歡が洛陽に入ると、論功によって姑臧縣侯に封じられ、邑八百戸とされた。瀛州刺史に転任される事となったが、榮の妻の婁氏は、歡の妻、つまり後に皇后のとなる婁氏の姉であるが、榮は歡が私親の議を招ねくのではないかと恐れて、頑なに別の將に赴かせるべきとして、遂に任地の瀛州へ赴く事は無かった。間も無くして相州事を行う事になり、後に濟州刺史に任命されている。東魏の天平三年(536、大同二年)、泰州事へと任地替えをされた。榮の性格は温和そのもので、歴任した各所で、誰に対しても仁恕を以って対したため、民からも吏からも愛された人物であった。歡が關右を図ろうとした時、榮と共に密謀を重ねたが、榮はまだその時ではないと、決して賛成しなかった。渭曲の利が失われるに及ぶと、歡はこれを悔んで
「
俺が段榮の言を用いられなかったばっかりに、この事態に至らせてしまった。
」
と言った。天平四年(537、大同三年)、山東大行臺、大都督に任命された。ここでも、大いに民心を得ている。元象元年(538、大同四年)、儀同三司に任命された。元象二年(539、大同五年)の五月、死去した。享年六十二。使持節、定冀滄瀛四州諸軍事、定州刺史、太尉、尚書左僕射が追贈され、諡号を「昭景」とされた。皇建元年(560、陳の天嘉元年)、高祖の廟庭に配饗される事となった。皇建二年(561、天嘉二年)、重ねて大司馬、尚書令、武威王が贈られている。長子の段韶が家督を継いだ。
2012/01/28 終了。
『北齊書』 段榮 - 207〜208 -
第一回更新 開始 残り01段 全02段 2012/01/28
第二回更新 終了
2012/01/28 終了。