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最終更新 2012/02/05



段  韶







2012/01/28 開始

01

 段韶、字を孝先、小名を鐵伐と言った。若い頃から騎射に巧みであり、將領としての才略を有していた。北齊の高祖は、高歡の事であるが、武明皇后の姉、婁氏の子であった事もあって、大いにその才能に目を掛け、常に傍近くに置いて、腹心のようにしていた。


第二回更新

02

 建義元年(528、梁の大通三年)、領親信都督に任命された。中興元年(531、中大通三年)の十月、高歡は韶を麾下に置いて、爾朱兆を迎え撃つべく、廣阿に布陣した。歡は韶に


 彼方は衆(多)であり我方は寡である。さて、どうやって打開すべきか。


と問うた。これに韶は


 衆と言う事は、衆人の死(死力)を得ていると言う事です。強と言う事は、天下の心を得ていると言う事です。爾朱は狂狡であり、行路から見えるのは、冠が裂かれ冕は毀たれており、本は拔かれ源は塞がれています。今の山の会に、紳に何の罪がありましょうか?また、主を殺して君を立てたため、旬朔もしない内に、天下で乱を考えるようになったのは、十室に九室に至っています。王が躬(自)ら徳義を昭らかにし、君側の悪を除こうとしているのです。どうして勝てない事がありましょうか!


と答えた。高歡は更に


 私は順を以って逆を討ち、辞を奉じて罪を伐たんとしているが、如何せん、弱小が強大の間に在っては、天命が無いのではないかと恐れている。卿、これをどう考えるか?


と問いを重ねると


 この韶が聞きましたところでは、『小能敵大,小道大淫(小の能く大に敵するや、小道あり大淫なればなり)』です。『皇天無親,唯コ是輔(皇天は無親にして、唯だ徳をして是れ輔く)』です。爾朱は外にあっては天下を賊し、内にあっては善人を失しています。そのため、知なる者は謀を為さず、勇なる者は闘を為そうとしていません。不肖や失職の者を、賢なる者がこれを取れば、勝ちは疑う事の無きものではありませんか。


と答えた。この言葉に、高歡は遂に爾朱兆との決戦を決断した。歡は兆軍は潰滅させた。十一月、劉誕の守るに攻め込んだ。中興二年(532、中大通四年)の三月、韓陵山での戦いでは、韶は兵を率いて、先鋒として敵陣に突撃し撃ち破った。永熙二年(533、中大通五年)の正月、高歡に従って晉陽を出ると、兆を赤嶺まで追撃して、これを平らげた。この軍功によって、下洛縣男に封じられている。また、夏州を陥落させると、斛拔彌娥突を生け捕りにした。これによって、龍驤將軍、諫議大夫が加えられ、累遷して武衞將軍となった。後に父の爵位である姑臧縣侯が賜され、以前の下洛縣男の爵位は、同母弟の段寧安に譲るよう上表した。

03

 東魏の興和四年(542、大同八年)、高歡が山に布陣して、宇文泰を、北周の文帝とされる人物だが、迎え撃つのに従った。行軍中の歡が、西魏の將の賀拔勝に発見されていた。勝が精兵を率いて、接近してきた。韶は、歡の傍らにいたが、馬を馳せ、馬を返しざまに矢を射掛けると、その一箭が勝の前駆を射抜いた。追撃してきた騎兵は、この弓術に恐れ震え上がり、それ以上の追撃を試みようとする者はいなかった。これもあって、西魏軍は退却していった。この戦功により、馬と金が下賜され、進爵して公とされた。


第三回更新

04

 武定四年(546、中大同元年)の八月、高歡に従って玉壁攻撃に向かい、九月、包囲陣を布いた。十月、歡が不豫に見舞われてしまった。しかし、攻城すること五十日前後も、未だ下す事が出来ずにいた。そのため諸將を召集され、進止の宜が論じられた。歡が大司馬の斛律金、司徒の韓軌、左衞將軍の劉豐に


 私は、いつも段孝先と兵を論じてきたが、殊なる英略を有している。もしその謀を用いていたらば、今日の労も無かったかもしれんな。私の患勢は危篤であり、恐らくは不虞となろう。そこで孝先に以下の事を委ねようと思っているんだが、どう考えるか?


と尋ねると、これに斛律金らは


 臣を知ること君に如からざるも、実に孝先より出づる無し。


と答えた。これを受けて高歡は韶に


 私はその昔、卿の父と共に険艱を冒渉し、同じく王室を奬して、この大功を建ててきた。今、病疾がこの如くなれば、もはや治癒する見込みもあるまい。そこで、善く翼佐して、この負荷に打ち勝ってくれ。


と言うと、韶にその場で二子の高洋に、後に北齊を建國した顯祖であるが、従ってに鎮するよう命じ、長子の高澄を呼び出して、後に世宗とされる人物だが、軍に赴かせる事にした。十二月、高歡の病状が重篤になると、澄に顧命して


 段孝先は忠亮にして仁厚であり、智勇を兼備している。親戚の中では、そのような人物はこの子ただ一人だ。軍旅の大事は、共にこれと籌(図)せよ。


と陳べた。武定五年(547、中大同二年)の春正月、高歡が晉陽で死去すると、高澄はその死を隠して喪を発しなかった。侯景が乱を構えたため、四月、澄はに戻る事に決め、韶は晉陽の留守を任された。六月、澄が晉陽に返ってくると、そこで初めて喪を発した。韶は女樂十数人、金十斤、鋤蛯燗ッ等の物が下賜され、長樂郡公に封じられた。武定七年(549、太清三年)の四月、澄が西魏領の潁川に遠征すると、韶は晉陽の鎮を預けられた。また、別に真定縣男に封じられ、州刺史の職務を執行した。武定八年(550、大寶元年)の五月、高洋が禪譲された。北齊の顯祖である。天保と建元された。これに伴い、六月、朝陵縣に別封され、また霸城縣に封じられ、特進が加位された。朝陵公に戻すよう求めると共に、繼母の梁氏を郡君に封じる事を求めた。顯祖はこれを嘉として、別に梁氏を安定郡君とした。また、霸城縣侯を繼母弟の段孝言に譲った。論者はこれを美とした。


第四回更新

05

 天保三年(552、大寶三年)、冀州刺史、六州大都督に任命されると、恵政を布き、吏民の心を掴んだ。天保四年(553、承聖二年)の十二月、梁將の東方白額が宿預に潜入して、辺民を招誘して、長吏を殺害した。これによって、淮、泗は擾動した。天保五年(554、承聖三年)の二月、韶に詔が下され討伐を命じられた。韶が至った時には既に、前月の正月に出陣していた梁將の嚴超達などの軍が、州に迫っていた。また陳霸先も、後の陳の武帝であるが、軍を率いて廣陵に攻撃を仕掛けようとしていた。刺史の王敬寶は、使者を派遣して急を告げた。六月、また尹思令が兵一万余を率いて、を襲撃する動きを見せていた。この事態に、三軍は戦意を喪失し始めていた。これを感じた韶は諸將に


 梁氏が喪乱してより、國に定主がいなくなり、人民は去就を考えるようになり、強者がこれを従えようとしている。霸先らは、智が小にもかかわらず謀が大であるがため、政令が統一されておらず、表面的には同徳を託しているが、内心では離心が生じ始めている。諸君が憂う必要は無い。私に万全の策がある。


と言うと、儀同の敬顯儁、堯難宗に宿預を取り囲むように配置し、守備を任せると、自ら歩兵騎兵の数千を率いて、州へと強行軍で向かった。そして、尹思令が動くよりも早くに到達した。思令は大軍の到来を、全く想定していなかった。そのため、韶軍の旗を見るや、北へと逃げるように退却していった。韶はそのまま進軍を続け、嚴超達軍と干戈を交え、これを大破すると、舟艦や器械を尽く鹵獲した。そして諸將士に


 呉人は軽躁であり、本より大謀などありはせんのだ。今、超達を破ったが、霸先も必ずや走(逃)げるだろう。


と言い、即座に軍を返して廣陵へと向かった。これを知った陳霸先は、包囲を解いて遁去していった。韶はこれを追撃して楊子柵まで至ったが、揚州城が望める位置であるが、ここで軍を返した。軍資や器物を鹵獲して、宿預に軍を返した。韶は辯士を東方白額の下に派遣して、白額に禍福を諭させた。白額はこれを受けて、開門して盟を請うた。韶は行臺の辛術らと議した結果、盟を受け入れる事にした。盟が締結されたが、白額は用を為さないと判断され、捕えて斬首した。また、諸弟も斬首され、その首は京師に送られている。これによって江淮は帖然とし、人民は皆な安輯を取り戻した。顯祖はこの功を嘉として、呉口七十人を賞し、平原郡王に封じる詔が下された。天保六年(555、承聖四年)の正月、清河王の高岳が郢州を陥落させ、梁の司徒の陸法和を捕えた。韶も赴いており、魯城を築き、新蔡に郭默戍を建てて帰還した。皇建元年(560、天嘉元年)、領太子太師に任命された。


第五回更新

06

 大寧二年(562、天嘉三年)、州刺史に任命される。七月、平秦王の高歸彦が冀州で乱を起すと、東安王の婁叡と共に詔が下され、兵を率いて討伐を命じられ、同月内にこれを平定した。この戦功によって太傅に遷され、女樂十人が下賜された。また、歸彦が所有していた果園千畝も賞与された。州に赴任すると、政事では大綱を旨として、小さな事はそこまでこだわらなかったため、大いに民和を得るに至った。

07

 河清二年(563、天嘉四年)の十二月、北周の武帝が、宇文あるが、羌夷を率いると、突厥と連合して晉陽に迫ってきた。世祖はから強行軍で救援に向かった。突厥は城の北側に布陣すると、東は汾河、西は風谷にまで及んだ。事態は急を告げていたが、兵馬は未だ整えられていなかった。世祖はこの情況を見て、東へ向かってこれを避けるべきと考えた。そこで、河間王の高孝の要請を聞き入れて、趙郡王の高叡の指揮下に、全ての諸將を置いた。時に大雪の後であったため、河清三年(564、天嘉五年)の正月、北周軍は歩兵を前鋒に立てて、西山から城二里の所まで迫ってきた。諸將は皆な迎撃に出るべきだと訴えた。しかし韶は


 歩兵の気勢には限りがある。今、積雪は既に厚くなっており、迎撃には不向きな情況だ。これは、どちらも同じ情況であり、しっかりと陣立てをして待ち受けるべきであろう。彼方は疲れるが、我方はそれを免れる。そうなれば、これを破ぶるは必定であろうぞ。


と言った。北周軍が更に接近してきたところで、精鋭部隊を繰り出して迎撃に出た。北周軍をさんざに撃ち破ると、敵の前鋒である歩兵を潰滅させ、生き残った兵はいなかった。後続部隊は、夜通しで退却を続けた。韶は騎兵を率いて追撃するよう命じられたが、塞から逃げ出られるまでに追いつけなかったため、そこで軍を返した。世祖はこの戦功を嘉として、懷州武コ郡公に別封し、太師に進位させた。


第六回更新

08

 北周の冢宰である宇文護の母、閻氏は晉陽に残されていたため、朝廷は身を中山宮に置いていた。六月、護が閻氏が生存していると聞きつけ、書を送ってきた。その内容は、母の返還と共に、通好を求めるものであった。この時、突厥に国境を脅かされていたため、韶は塞下に配されていた。九月、世祖は黄門の徐世榮に乗伝させ、北周からの書について韶の意見を求めた。これに対して韶は


 北周人は裏切り易く、本より信義を置ける存在では無いことが、今回の晉陽の役で知る事が出来ました。護は体裁上は相を託されていますが、その実は王と言えます。今、母の為に請和してきたとの事ですが、一介の使すら寄こさず、その情理を陳べるのに、移書を以ってしました。ここですぐさまその母を送り返してしまっては、やつらに弱を示めす事になりかねません。この韶の管見を申し上げるのであれば、とりあえずこれを聞き入れる形を示しておきつつ、時期を待って送り届けさせても、遅くはないかと。


と返答したが、聞き入れられなかった。遂に禮を以って送り返される事となった。


第七回更新

09

 宇文護は母の閻氏を受け取ると、十月、尉遲迥らを洛陽強襲のために先行させた。この動きに、十二月、蘭陵王の高長恭、大將軍斛律光に詔が下され、兵を率いて迎え撃つよう命じられた。山の下まで来た所で、北周軍に恐れをなして、それ以上は進もうとしなかった。そのため世祖は韶を呼び出して


 今、包囲されている洛陽に、王を救援として送ろうと思っているのだが、突厥が北にいる。こちらも鎮禦する必要にあるのだが、王よ、どのようにしたらよいであろうか?


と尋ねた。これに韶は


 北虜が侵辺していますが、その事は疥癬に過ぎません。今、西羌が窺逼しており、こちらは膏肓の病になりかねません。奉詔して南行するべきではないでしょうか。


と答えた。この言葉に世祖は


 朕の意も亦た同じである。


と言うと、韶に精騎兵千を与えて、晉陽を出発させた。五日後、河を渡り終えると、大將と共に進止を図った。韶は夜明けと共に帳下二百騎を率いて、諸軍と共に阪を登って、北周軍の形勢を確認した。大和谷に至った所で、北周軍を視界にとらえた。そこで諸營に早馬を出してこれを報告し、兵馬を集結させた。そして、諸將と共に陣を結んで、北周軍を待ち受けた。韶が左軍、高長恭が中軍、斛律光が右軍となり、それぞれ北周軍と対する事とした。韶は遙か向こうの北周軍に大呼して


 お前ら宇文護は、望み通りに母を得たであろう。恩に懐し徳に報いる事は出来んのか。今日の来たるは、何の意があっての事だ?


と言うと、北周軍から


 天が我らを至らせたのだ。何にを問う事があると言うのだ。


と答えが返ってきた。これに韶は


 天は善を賞し悪を罰すと道(言)う。ならば、お前らを送死に至らせたのであろうな。


と言った。北周軍は歩兵を前に置いて、上山を一気に駆け下ってきた。、北周軍は歩兵で自軍が騎兵で構成されていた事から、韶は戦っては引き、引いては戦う作戦に出た。この繰り返しによって、北周軍に疲弊の色が濃くなってくると、騎馬から下りて、白兵戦に移るよう指揮した。接近戦になったが、疲弊した北周軍に戦う余力は残されておらず、一気に潰滅させられた。中軍の戦いでも、一気に瓦解した。溪谷に追い詰められ、身を投じて死んだ者が多数に上った。洛城を包囲していた軍も、雪崩を打ったように奔遁していった。營幕を回収する暇も無かったほどである。山から穀水に至るまでの三十里の間、逃げる際に放棄された軍資や器物が、そこかしこに落ちていた。車駕が洛陽に到着すると、自ら將士を慰労すると共に、河陰で盛大な酒宴を催した。策勲の命賞として、太宰に任命され、靈武縣公に封じられた。天統三年(567、光大元年)、左丞相に任命され、永昌郡公に封じられると、食邑を滄州幹とされた。


第八回更新

10

 武平二年(571、太建二年)の正月、晉州道を出て定隴に至ると、威敵、平寇の二城を築いて、帰還した。二月、北周軍が侵攻してきた。そのため、韶は右丞相の斛律光、太尉にして蘭陵王の高長恭と共に、防禦に派遣された。三月の暮、西境に達した。この地には栢谷城があり、北周が天険に築いた石城で、その高さは千仞とも言われた。諸將は攻めるも包囲するも、共に否定的であった。しかし韶は


 汾北、河東は、その勢は國家の有である。もし栢谷を通過できなければ、痼疾となってしまいかねない。計るに、彼方には援軍が出ており、今であれば南道に位置しているであろう。であれば、今、その要路を断って、援軍が来たるのを不能にしてしまえばいい。城勢が高いと考えているだろうが、その中は甚だ狭いものである。火弩を以って射掛けてしまえば、一旦にして陥とす事が出来ようぞ。


と戦術を陳べると、諸將はその緻密さに恐れ入り、一転して攻撃に乗り気になった。そして、遂に鳴鼓して攻撃に掛かり、城を潰滅させた。北周の儀同の薛敬禮を生け捕りにし、挙げた首級と捕虜の数はかなりの数に上った。華谷に城を築くと、戍を置いて帰還した。この戦功により、四月、廣平郡公に封じられた。


第九回更新

11

 この月、北周が再び侵攻してきた。これに、右丞相の斛律光が軍を率いて、真っ先に討伐に向かった。韶も出陣の許可を求めた。五月、服秦城を攻撃した。北周の郭榮が姚襄城の南に、新たに城鎮を築いた。東は定陽に接する位置で、深い堀が作られて、行道を断絶させていた。韶は壯士を選抜して、北からこの城を強襲する事にした。また、別部隊として密かに渡河させて、姚襄城中に潜り込ませて、内と外から攻撃を仕掛ける作戦であった。千有余人が渡河したところで、北周軍の発見されたが、既に十分な数であり、外から韶が攻撃を仕掛け、これを大いに撃ち破った。儀同の若干顯寶らを生け捕りにしている。諸將は皆な、新城を攻撃する事を求めた。しかし韶は


 この城は一面が河に阻まれており、他の三面は険阻に拠っているから、攻撃すべきではないであろう。仮に陥落させたところで、得られるのは一城の地に過ぎない。ここは新たに一城を築いて、その路を壅(塞)いでおき、服秦を先に陥落させて軍を合わせ、定陽を包囲すると言うのが、計の長なるものであろう。


と言った。將士は皆な賛同の意を示した。六月、定陽に包囲攻撃を仕掛けたが、城主の開府儀同の楊範が固守したため、陥落させられずにいた。そのため韶は、山に登って城勢を望んだ。そして、出陣してこれを急攻した。七月、外城を屠ると、多数の首級を挙げた。この時、韶は軍中で病気を発していた。子城が未だ陥落させられていなかったため、蘭陵王の高長恭に


 この城は三面が険阻に守られていますが、裏を返せば、そちらには賊も向かう事が出来ないと言う事です。ですから、東南だけに集中すればいいのです。賊が包囲を突破しようと図れば、必ずここから撃って出てきます。ここは、精兵を選抜して専守させれば、自と擒に出来ましょう。


と策を伝えた。これを聞き入れた高長恭は、壯士千余人を選んで、東南の澗口に伏兵として配した。その夜、果して策の通りに、北周軍が城を出てきた。伏兵がこれに奇襲を掛けて、潰滅させた。楊範は面縛して降服し、兵は全て捕虜とされた。


第十回更新

12

 韶の病状が重篤化したため、軍より先に帰還した。今回の戦功によって、樂陵郡公が別封された。九月、そのまま病没した。この訃報に、後主(高緯)は東堂で挙哀し、贈物千段、音明祕器、車が下賜された。軍校の士の陳衞が平恩墓所に移送して、冢が造営された。假黄鉞、使持節、都督朔定趙冀滄齊梁洛晉建十二州諸軍事、相國、太尉、録尚書事、朔州刺史が追贈され、諡号を忠武とされた。


第十一回更新

13

 韶は出ては軍旅を総し、入りては帷幄に参した。その功は既に高いものとなっていたが、婚媾を大切にしていたため、朝野から望傾された。計略、御衆に長じており、將士の心を掴んでいた。そのため、臨敵の日ともなれば、兵は競うように奮戦していた。また、温和で慎み深い性格で、宰相の風を有していた。子弟を教え訓じ、閨門(家庭)は雍肅であり、継母に事えること孝であると、世に聞こえていた。北齊の世にあって、勲貴の家で及ぶ者は無かった。しかし、好色の癖があって、要重に身を置いていたにもかかわらず、微服で間行する事もあった。皇甫氏と言う女性がいたが、北魏の黄門郎であった元の妻であるが、の弟の元謹が謀逆を為したため、皇甫氏は沒官される事となった。韶は皇甫氏の容質に目をつけて、上表して、身請けするよう申し出た。世宗は重ねてその意を退けたが、結果、皇甫氏が下賜された。けちな性分で、親戚や旧知の仲と言えども、金を施与する事は無かった。子の段深が公主を娶った時である。その時、州から丞郎が家に来て十余日ほど手伝いをした。事を終えて帰る事となったが、それぞれに一盃の酒が賜されただけだったと言う。長子の段懿が家督を継いだ。


第十二回更新

14

 段懿、字をコ猷と言い、立ち居振る舞いを身に付けていた。音樂に造詣が深く、また、騎射を得意とした。天保元年(550、梁の大寶元年)、潁川長公主を妻に迎えている。累遷して行臺右僕射までになり、殿中尚書を兼任したが、州刺史として中央から離れされた。死去すると、子の段寶鼎が家督を継いだ。寶鼎は中山長公主を娶り、武平末(七年。576、太建八年)、儀同三司に任命されている。隋の開皇年間中(581〜600)には、開府儀同三司、驃騎大將軍に任命され、大業元年(605)に、饒州刺史で死去している。

15

 韶の第二子の段深は、字をコ深と言った。美しい容貌に、父の韶を思わせる寛謹を有していた。天保中(550〜559)、父の封号の姑臧縣公を授けられる。大寧元年(561、天嘉二年)、通直散騎侍郎に任命されている。大寧二年(562、天嘉三年)、永昌公主を降嫁する詔が下されたが、未だ婚せざる内に、その永昌公主が死去してしまった。河清三年(564、天嘉五年)、再び詔が下され、東安公主が降嫁された。父の頻著なる大勲により、累遷して侍中、將軍、涼州大中正となり、食邑を趙郡幹とされた。韶の病気が重篤になった時、深を濟北王に封じる詔が下されて、その意が慰された。武平末(七年。576、太建八年)、徐州行臺左僕射、徐州刺史に任命された。北周に入ると、大將軍に任命され、郡公とされたが、事に連座して処刑された。


第十三回更新

16

 韶の第三子の段コ舉は、武平末(七年。576、太建八年)、儀同三司に任命された。北周の建コ七年(578、太建十年)、城で高元海ら謀逆したが、誅殺された。

17

 韶の第四子の段コ衡は、武平末(七年。576、太建八年)、開府儀同三司に任命され、隆化元年(576)の十二月、濟州刺史に任命されている。北周に入り、儀同大將軍に任命されている。

18

 韶の第七子の段コ堪は、武平中(570〜576)、儀同三司に任命された。隋の大業元年(605)、州刺史に任命され、汝南郡守で死去している。


2012/02/05  終了。


『北齊書』 段榮/子韶 - 208〜214 -


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第十二回更新   終了


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