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最終更新 2012/02/05



段 孝言







2012/02/05 開始

01

 段榮の第二子の段孝言は、若い頃から頭の回転の速さは群を抜いたものであり、風儀も有していた。東魏の武定末(武定八年、550。梁の大寶元年)、司徒參軍事として初出仕する。同年の五月、高洋が禅譲を受けて北齊を建国すると、天保と改元した。兄の段韶が別封された霸城縣侯が、孝言に譲られた。儀同三司、度支尚書、清都尹と累遷された。


第二回更新

02

 孝言は勲戚の緒余と言う事で、高位と名声を得たのであったが、ここに至って驕奢かつ放逸となるようになり、畏れる事も憚る事もしなくなっていた。ある夜に外出して、賓客の宋孝王の家で一宿した時、坊民を防援のために呼びつけた。すぐさま坊民が駆けつけたが、孝言はこれを拷殺した。また諸淫婦と密遊していたが、その夫に発覚してしまった。すると、官勢を頼みにして、拷掠を加えた末に殺している。時に苑内に果木が植えられる事となると、民間を始め僧寺に果木を供出するよう割り当てたが、その全てを私宅に植えてしまった。また殿内や園に置く用に石が必要となると、車牛を用いて河から運搬させたが、またしても自分の物にしてしまった。これらの事が全て発覚してしまったため、海州刺史に左遷されてしまった。しかし、兄の段韶のおかげもあって、すぐさま都官尚書として中央に呼び戻されたばかりか、陽城郡幹を食邑とされ、開府儀同三司が加えられている。太常卿に遷されると、齊州刺史に任命されたが、賄賂を受け取ったとして御史に弾劾されている。しかし、天統四年(568、陳の光大二年)の十一月、世祖(高湛。565年に帝位を譲っている)が崩御した。この時に出された恩赦によって、赦免されている。太常卿に任命され、食邑を河南郡幹に転じられ、吏部尚書に遷された。


第三回更新

03

 祖が実権を握ると、趙彦深を追い落とそうと、孝言を引き入れようとした。兼侍中に任命して、内省(門下省)に入れると、機密を預けた。程無くして、吏部尚書とされた。孝言には深鑒は無く、また人の待遇に公平さは見られなかった。抽擢された徒は、賄賂を贈らなかった者以外は、昔からの知り合いであった。將作丞の崔成が、衆中から忽然と立ち上がり


 尚書とは天下尚書であり、どうして段家だけが尚書であろうか!


と抗言した。孝言は無言を以って返答し、そのままどうもせずに下がらせた。しかし、顔色は怒気を示していた。間も無くして中書監に任命され、特進が加えられた。また、武平四年(573、太建五年)の五月、祖と対立していた韓長鸞と結託して、の悪事を上奏した。これによって、祖は侍中、僕射の任を解かれ、北徐州刺史に左遷された。に代わって、孝言が尚書右僕射に任命され、選舉を一任された。そのため、思いのままに人事を操って、請謁や大行をした。京城の北隍を浚渫するよう勅が下されると、孝言が監作とされた。儀同三司の崔士順、將作大匠の元士將、太府少卿の孝裕、尚書左民郎中の薛叔昭、司州治中の崔龍子、清都尹丞の李道隆、縣令の尉長卿、臨令の崔象、成安令の高子徹らが、孝言の部下に置かれた。典作の日、別に酒を置いて盛大に酒宴を催すと、諸人が膝行跪伏して、称觴上壽したり、或いは自らの屈滞を陳べ、更に転官を求めたりした。孝言は意色揚揚として、これを聞き入れる事が自任であるとばかりに、全てに報答して、加授がある事を約束した。富商や大賈の多くが銓擢され、思いのままに人士を進用するなど、全て粗険放縱の流であった。程無くして尚書左僕射に遷された。特進、侍中はそのままである。


第四回更新

04

 孝言は富貴にして豪侈で、女色を好むこと甚だであった。後に婁定遠の妾であった董氏を娶り、大いにこれを溺愛した。このため内外に不和を招き、更に相次いで糾弾されるなど政争に破れ、免官されて光州に左遷された。隆化元年(576、太建八年)の十二月、北周に敗れると、召還された。孝言は強欲なまでに賄賂を受け取り、酒色に溺れる傾向があったが、それでも挙止は風流であり、名士を招致しては、美景を良辰に見て回り、賦詩の奏伎は、歓洽を尽した。草の士で、文藝に粗閑であったとしても、多くを賓館に引き入れて、興賞を同じくした。貧躓の者からも、時に乞遺された。世論はこれを多とした。承光元年(377、太建九年)の正月、北齊が滅亡すると、そのまま北周に入り、開府儀同大將軍に任命され、後に上開府が加えられている。


2012/02/05  終了。


『北齊書』 段榮/子孝言 - 214〜216 -


第一回更新    開始 残り03段 全04段  2012/02/05
第二回更新    更新 残り02段
第三回更新    更新 残り01段
第四回更新    終了


2012/02/05 終了。