2011/02/01 開始
01
苻登、字を文高と言い、苻堅の族孫に当たる。父の苻敞は、苻健の治世にあって、太尉司馬、隴東太守、建節將軍に任じられていたが、その後、苻生に殺されている。苻堅が即位すると、右將軍、涼州刺史が追贈されている。登の兄である苻同成が、家督を継いでいる。毛興が上

に鎮すると、長史に任命されている。登は若くして雄勇さを示し、壯気を有していた。しかし、粗暴で細部を蔑ろにする傾向があり、その性格も陰険な部分があったため、堅から可愛がられる事は無かった。ところが、成長するとその性格を改め、謹み深くなっていき、書傳を熱心に読むようになっていった。殿上將軍に任命され、羽林監、揚武將軍、長安令に遷されたが、事に連座して狄道長へと左遷された。
2010/02/02
02
關中が混乱に陥ると、任地である狄道縣を去って、毛興の下へと身を寄せた。興の下で働いていた兄の苻同成は、登を司馬に任命して、營部に常駐させるよう興に頼み込んだ。登の度量は人並みで、奇略を好んでいた。そのため同成は、常日頃から
「
お前も聞いた事があろう。『不在其位,不謀其政(其の位に在らざれば、其の政を謀らず)。』と。無数に時に関わろうとしても、博識の者からは快く思われないぞ。弟だからな、俺はお前をそんな風に思いはしないが、その妄りに何にでも首を突っ込もうとする姿勢は、人から反感を買うんじゃないかと危惧している。そこは自制しろよな。お前がその政事を預かってから、やりたいようにやればいいんだから。な。
」
と注意していた。この苻同成の言を聞いた人々は、その多くが、登を憎んでいたから、抑えつけようとしたんだ、と噂した。当の登はこれを聞き入れて、妄りに首を突っ込むような事はしなくなった。毛興は事が起きると登を呼び出して、物は試し程度に
「
小司馬は評事に座してもいいのではないか。
」
と言った。これを受けて、登は事案について見解を述べた。その見解は、事理を的確に解析したものであったため、興は心から感服した。しかし、敬意を抱いたものの、憚る気持ちの方が大きかったため、任を委ねる事は出来なかった。大安二年(386、太元十一年)の四月、姚萇が長安で自立を図った。後秦である。萇は弟の姚碩コに兵を与えて、毛興を攻撃させた。両軍は長い時間に分かって相対峙した。興は死の間際に苻同成に
「
卿と累年に渡って逆羌を撃ってきたが、事を成し得ないままに、この命尽きようとは、何と恨みの深なるかな!後事は卿の小弟の司馬に付託せよ。碩コを殄する者は、必ずやあいつになろう。卿は弟に代わって、司馬の仕事をなせ。
」
と言い残した。
2010/02/03
03
七月、登が衞平に取って代わると、軍事に重点を置く事とした。この時、旱魃の影響で兵を飢餓に苦しめられた。遂に道で行き倒れる者も出始めた。この事態に登は、賊を殺すたびに、その死体を熟食と名づけ
「
お前達は朝から戦ってきたが、暮れには、ほれこのように飽きるほどの肉を食らう事が出来るんだ。飢えの憂いなど無いわな!
」
と軍人に言った。士兵はこの言葉に従うしかなく、死人の肉を口にした。これによって空腹が満たされ、戦うに十分な体力を維持できていた。後秦の姚萇がこれを聞きつけると、姚碩コの下に早馬を出してを
「
お前が来なければ、我らは苻登の食料にされ尽してしまう。
」
と呼び寄せた。これを受けて、姚碩コは下隴から姚萇の下へと移った。
2010/02/04
04
十月、苻丕が東晉の揚威將軍の馮該によって殺されてしまった。十一月、尚書の寇遣は、丕の子である渤海王の苻懿、濟北王の苻昶を連れて、杏城から南安にいる登の下へと逃げ込んできた。登は遣から、丕の死についての詳細な報告を受けた。そして、丕の喪を発して服を改めると、三軍に縞素を纏わせた。登は懿を新たに主に立てる事を提議したが
「
渤海王は先帝の子とは言えども、年はまだ幼沖であり、多難に堪えるのは無理であろう。國が乱れた時は長君を立てるのが、春秋以来の義であろう。三虜(姚萇、慕容垂、慕容永)が跨僭してる今、寇旅は殷強であり、豺狼や梟鏡が隙を窺っているような状態と言わねばなるまい。古えからの厄運の極で、今より甚しきは無かったであろう。大王は西州にて剣威を示し、秦隴にて鳳翔して、偏師ながらも短期間で姚萇を潰滅、敗走させている。この一戦の功は、光が天地に至ったような事である。龍驤して武奮し、旧京を奪還して、社稷宗廟を奉じるのを第一とすべきであろう。曹臧(春秋・曹)、呉札(春秋・呉札)の一介の微節を顧ていては、図運の機を失ってしまい、中興の業を建つる事も出来はしない。
」
と登を推す意見が出たため、登が皇帝位に即く事となった。境内に大赦を出すと、大安二年を以って太初元年と改めた。
2010/02/05
05
十二月、苻堅の神主を軍中で造らせ、輜

に載せると、羽葆を垂らした青蓋を立て、車には黄旗を建てると、武賁の士三百人を以って衛させた。そして、戦いに際しては必ずその旨を告げ、また、為そうとする事は、神主に申し上げてから後に実行に移した。甲を修繕して兵を招集するなど、東へと進軍する準備を始めた。そして堅の神主に
「
これなるは、曾孫にして皇帝の臣たる登なり。太皇帝の靈を以って恭しく寶位(皇帝位)を踐する者なり。その昔、五將の難にて、賊羌に聖躬をほしいままに害させてしまったのは、実にこの登の罪です。今、義旅を合わせ、兵は五万となりました。精甲と勁兵があらば、功を立てるに足るものであります。また年穀も豊作となり、資贍も十分にあります。これは即ち、日星が電邁せよと言うものであります。すぐにでも賊庭に至り、奮戦するに命を顧りみず、隕越させるを期とせん。庶くは、上は皇帝の酷冤を報し、下は臣子の大恥を雪がん事を。これ帝の靈よ、この誠を降監されたし。
」
と告げると、歔欷と流涕した。これを聞いていた將士で、悲慟しない者は一人もいなかった。そして、皆な鉾鎧に「死」「休」の字を刻み込んで、戦死してでも志を成し遂げる意思を示した。戦闘になると、長

や鉤刃を手にして方円の大陣を布き、陣に薄い所があると分かると、厚い所から分配して補った。この陣形によって、向かう処敵無しで勝利を重ねていった。
2010/02/06
06
建元二十一年(385、太元十年)の五月、長安が西燕の慕容沖の猛攻を受けていた時、中壘將軍の徐嵩、屯騎校尉の胡空はそれぞれ兵五千を率いていたが、険要の地に堡を築き、守り抜いていた。この後に、後秦の姚萇から官爵を受けていた。八月、その萇によって堅が殺害されると、嵩らは王禮を以って堅の亡骸を二堡の間に埋葬した。時ここに至って、登がその後継に立ったと知ると、嵩と空の二人は、それぞれ兵を従えて登に帰順した。嵩は鎮軍將軍、雍州刺史を、空は輔國將軍、京兆尹を拝命した。そして登は、堅の亡骸を天子の禮を以って改葬した。太初二年(387、太元十二年)の正月、妻の毛氏を皇后に立て、弟の苻懿を皇太弟とした。苻纂の下に使者を出して、纂を使持節、侍中、都督中外諸軍事、太師、領大司馬に任命し、魯王に進封させ、纂の弟の苻師奴を撫軍大將軍、并州牧に任命し、朔方公に封ずる旨を伝えた。これに纂は使者に
「
渤海王(苻懿)は世祖の孫にして先帝の子であろう。それにもかかわらず、南安王(苻登)は何の由を以ってこれを立ずして、自尊してしまったのだ?
」
と怒気の声で問うた。これを横で聞いていた長史の王旅が
「
南安は既に立ってしまわれており、これを改めろと言うには理がありません。しかも、賊虜は未だ平らげられておらず、宗室の中で仇敵の関係を為している場合ではありません。願わくは、大王には遠く光武が聖公を推した義を蹤しされる事を。二虜を梟した後、それからこれを図ればよいではないですか。
」
と諫めると、苻纂は怒りを解いて命を受けた。これによって、貳縣の虜帥の彭沛穀、屠各の董成、張龍世、新平の羌の雷惡地らが、皆な纂に呼応した。総勢十余万に達した。纂は苻師奴に上郡の羌酋の金大K、金洛生を攻撃させた。大Kらはこれを迎え撃ち、首級五千八百を挙げた。
07
三月、登は竇衝を車騎大將軍、南秦州牧に、楊定を大將軍、益州牧に、楊璧を司空、梁州牧に任命した。
2010/02/07
08
四月、苻纂は後秦の姚碩コを陽で撃ち破ったが、姚萇が陰密から救援に駆けつけ、纂軍の前に立ちはだかったため、纂は敷陸まで軍を退いた。竇衝が後秦の

、雍の二城に攻め込み、共に陥落させると、將軍の姚元平、張略らの首級を挙げた。立て続けに萇と

東で干戈を交えたが、萇の返り討ちに遭った。七月、登が瓦亭に軍を進めた。萇が彭沛穀の堡を攻め落とすと、沛穀は杏城に退却した。ここで萇は、太子の姚興に長安の守備を任せて、自らは軍を返して陰密に戻った。八月、征虜將軍で馮翊太守の蘭犢が、兵二万を率いて頻陽から和寧へと進み入り、苻纂と首尾の関係をなすと、長安を図るための謀議を交わした。この時、弟の苻師奴が纂に尊号を称するよう勧めたが、纂はこれを聞き入れなかった。そのため師奴は纂を殺した。そして、自立して秦公を自称した。これを知った犢は、長安攻略を諦めたばかりか、師奴との関係も絶った。このため、九月、師奴軍は萇によって潰滅させられた。
2010/02/08
09
登が胡空の築いた堡に拠点を構えると、戎夏で帰順してきた者は十有余万を数えた。十二月、後秦の姚萇は、將軍の姚方成に徐嵩の堡を攻撃させた。方成はこれを陥落させ、嵩を三斬にして殺し、戎士も全て生き埋めにして殺した。太初三年(388、太元十三年)の二月、登は兵を率いると、隴を下って朝那へと進入した。これに対して、萇は武都に布陣して相対峙した。七月に至るまで何度も干戈を交えたが、互いに勝負を決するような戦果は得られなかった。登の軍内では兵糧が底を突いてしまったため、桑の実を取ってきて兵士に供して凌いだ。萇も戦闘が長期に及んでいたため、ここで安定に引き返した。八月、子の苻崇を皇太子に立てると、苻弁を南安王、苻尚を北海王とした。十月、萇が安定に戻った頃、登は新平で兵糧を確保していた。そして、本軍を胡空堡に留めて、自ら騎兵一万万余を率いて萇の營を包囲しすると、四面から大哭させた。この哀声は、城内の兵を動揺させた。萇はこの情況を嫌って、三軍に同じように哭すよう命じた。これに登は、軍を返した。
2010/02/09
10
太初四年(389、太元十四年)の正月、後秦の姚萇は、登が戦況を有利に進めたのは、苻堅の神験があったからだと言い、同じように軍中に堅の神主を立てて
「
往年の新平の禍は、この萇の罪ではありません。この萇の兄である襄(姚襄)が陝から北渡して、西に向かうために道を借りようとしました。狐が死した時に首を故郷の丘に向けるように、郷里に暫見せんがためでした。しかし、陛下(苻堅)が苻眉(苻黄眉)と共にその途中で道を塞いだため、遂げられる事無く没してしまいました。その襄が萇に殺を行うように敕したのであって、この萇の罪ではありません。苻登は陛下の末族であるがために、なお復讐しようと思ったように、この萇も兄の恥に報いようとしたまでです。情理に何をか負う事がありましょうか!その昔、陛下はこの萇に龍驤の号を假された時、『朕は龍驤を以って業を建てた。卿も勉めよ!』と仰られました。この明詔は昭然としており、その声は今もなお耳に残っております。陛下は世を過ぎて神となられましたが、どうして苻登に味方されてこの萇を図ろうとしているのですか。前の征時の言をお忘れになられたのですか!今、陛下の神象を立てました。どうぞ、ここにてお休みくださいませ。そして、この萇を過ちと計る事の無きを。この萇の至誠に耳を傾けられるよう願います。
」
と申し述べた。登が軍を進めて姚萇に攻勢を掛け、樓に登って萇に対して
「
古えより今に及ぶまで、君を殺したにもかかわらず、神象を立てて福を請い、有益を望むような事をした者がいたであろうか!
」
と痛罵すると、兵も大呼して
「
君殺の賊の姚萇よ、出て来いや!我らと決せよ。これ以上、無辜の者が枉害されてたまるか!
」
と言った。姚萇は憚れて応じようとはしなかった。萇が苻堅の神象を立てて以来、戦闘で勝利を得られなかったばかりか、軍中では毎夜のように驚恐の事象が起きた。そのため、激しく鼓をを打ち鳴らして、象の首を斬り落とすと、それを登に送りつけた。
2010/02/10
11
將軍の竇洛、竇于ら謀反を企てていたが、事が発覚したため、後秦へと亡命していった。登は彭池を攻撃したが落とせず、そこで、彌姐營を始め繁川の諸堡に攻撃目標を変え、これらを全て陥落させた。姚萇は連戦連敗を喫していた。局面打開のため、五月、中軍將軍の姚崇に、登が輜重を置いていた大界に攻撃を仕掛けさせた。これを知った登が、軍を返して崇軍を迎え撃った。登は崇軍を安丘で潰滅させ、俘斬二万五千を挙げた。この勝利に乗じて、七月、後秦の呉忠、唐匡を平涼で撃ち破った。そして、尚書の苻碩原を前禁將軍、滅羌校尉に任命して、平涼の戍を任せた。八月、登は苟頭原に軍を進めて、安定に接近した。ここで萇は、騎兵三万を率いて輜重の置かれてある大界營に夜襲を掛け、これを陥落させると共に、皇后の毛氏を始め、子の苻弁、苻尚を殺し、名將数十人を生け捕りにすると、男女五万余を連行して軍を返した。
2010/02/11
12
登は敗残兵を収拾して、胡空堡まで戻ってきた。十月、使者に書を持たせて派遣すると、竇衝に大司馬、驃騎將軍、前鋒大都督、都督隴東諸軍事を、楊定に左丞相、上大將軍、都督中外諸軍事を、楊璧に大將軍、都督隴右諸軍事を加える旨を伝えた。そして、衝に全兵を率いて先駆として、繁川から長安に向かうよう命じた。登は兵を率いて、新平から新豐の千戸固に拠点を構えた。定には隴上の諸軍を率いて、後継につくよう命じた。璧には仇池の留守を任せた。また、并州刺史の楊政、冀州刺史の楊楷には、全兵を率いて長安で合流するよう命じた。後秦の姚萇は、將軍の王破虜を秦州に侵攻させた。定は破虜軍と清水の格奴坂で干戈を交え、これを返り討ちにした。登は張龍世の守る鴦泉堡に攻め込んだが、萇が救援に向かっていると知ると、軍を引いた。十二月、萇は秘密裏に東門將軍の任

、宗度と計略を練っていた。その計略とは、

が登に内応するとの使者を派遣し、登がこれに騙されて、のこのこと城にやってきた時に、門を開いて中に誘き入れると言うものであった。登はこの詐計に乗ってしまった。東門將軍とは、後秦において、安定の東門の守備を任された者である。征東將軍の雷惡地は、城外に軍を置いていたが、これを聞きつけて登の下へと馬を飛ばし
「
姚萇は計略に巧みな奴で、人を御する事に長じています。必ずや姦変を為そうとしています。願わくは、ご再考されます事を。
」
と言った。この言葉に登は、行くのを取り止めにした。姚萇の下に雷惡地が登を詣でたとの報がもたらされると、諸將に向かって
「
この羌は姦智に長けており、今、登を詣でたと言う事は、事が成る可能性は無くなってしまった。
」
と言った。登は姚萇が懸門して待っていると聞くと、大いに驚き、左右の側近に
「
雷征東は聖ではないか!この公のなかりせば、朕は豎子に誤たされるところであった。
」
と言った。太初五年(390、太元十五年)の三月、姚萇に新羅堡を陥落させられると、守りを任されていた扶風太守の齊益男は、登の下へと逃げ込んできた。しかし、將軍の路柴、強武らは、兵を引き連れて萇に降服してしまった。登が後秦の張業生と隴東で戦っていると、萇が救援に駆けつけたため、勝てないと判断して兵を退いた。四月、將軍の魏褐飛が姚當成と杏城で戦っていたが、萇によって殺された。
2010/02/12
13
七月、馮翊の郭質が廣郷で挙兵して登に応じると、三輔に檄文を発して
「
義は君子を感じさせ、利は小人を動かす。我らは生まれながらにして、先帝(苻堅)による堯舜の化に逢い、何代にも渡って恩を受けきた。常伯(侍中)、納言(尚書)の子にはあらねど、卿校、牧守の胤であろう。豺狼が君父を忍害するのを座して見ていられようか!裸尸には棘が薦かれ、痛みは幽泉を結び、山陵に松隧の兆は無く、靈主に清廟の頌は無きとは、賊臣の莫大の甚しくは、古えより未だ聞いた事が無い。茹荼の苦、銜蓼の辛とは言うが、これを喩えるに足りようか!姚萇は凶を窮め害を肆しいままにし、その毒は人神に及んでいる。圖讖や暦数の万に一分も無いにもかかわらず、妄りに重名を名乗っている。厚顔が一時でも息をさせていては、日月は固より照らさず、二儀は実に生まれはしない。皇天はこれを絶するを欲しているが、忠節の士が手を貸さないでいられようか。凡百の君子は、皆な神化していったものだ。義方を抱くか、恥を含みて存するか、どちらが蹈道して死する者であろうか!
」
と決起を促した。皆なこれに感銘を受けた。ただ一人、鄭縣人の苟曜はこれに従わなかった。そして、兵数千を集めると後秦の姚萇に応じてしまった。登は郭質を平東將軍、馮翊太守に任命した。質は部將に、曜の討伐を命じたが、さんざに打ちのめされて退却してきた。質は東から楊楷を引き寄せて、互いに援護関係をなした。十二月、曜と鄭東で干戈を交えたが、曜に返り討ちにされた。曜は遂に萇に帰順し、萇から將軍に任命された。質軍は潰滅させられた。
2010/02/13
14
太初六年(391、太元十六年)の三月、登は雍から後秦の金温と范氏堡で戦い、これを撃ち破ると、遂に渭水を渡った。そして、そのまま後秦の京兆太守の韋范と段氏堡で戦ったが、范は堡を守り切った。そのため、曲牢へと進路を改めた。四月、苟曜は兵一万を率いて逆萬堡に入ると、秘密裏に登に内応する旨を伝えた。これを受けて、登は曲牢から繁川へと向かい、馬頭原に布陣した。後秦の姚萇が騎兵を率いて迎撃に出てきたが、登はこれを大いに撃ち破り、後秦の尚書である呉忠の首級を挙げた。七月、新平に進攻した。萇がこれの救援に駆けつけると、登は劣勢な展開に陥り、ついに軍を退いた。十二月、再び安定に攻め込んだが、萇に返り討ちにされ、路承堡まで退き下がった。
2010/02/14
15
太初七年(392、太元十七年)の三月、姚萇が疾病に罹ると、苻堅の祟りではないかとの噂が立った。七月、登にこの情報がもたらされると、馬に秣を与え兵の士気を挙げさせると、苻堅の神主に
「
曾孫たる登、任を受けて戈を執りましてより、幾將にて一紀になりますも、未だ嘗て上天より錫祐されざる事は無く、皇鑒によって垂矜されると、至る所で必ず勝ち、賊旅は冰摧されました。そして今、太皇帝の靈は災

を逆羌に降されました。形類を以ってこれを推しますれば、醜虜は必ずや不振となりましょう。この登、その隕斃に当たって、天誅を順行して、梓宮を拯復しまして、謝罪清廟いたしましょう。
」
と申し上げた。ここで境内に大赦を出し、百僚を進位二等とした。そして、後秦の姚崇と清水にて麦の収穫を争ったが、崇にその多くを持っていかれた。安定へと進攻を開始した。そして、城を去ること九十余里に迫った。八月、姚萇の疾が小康状態になると、兵を率いて迎撃に出てきた。登もこれに応じて軍を出した。萇は麾下の姚熙隆を別働部隊として前秦の營を急襲させた。登はこれに驚いて、急いで軍を返した。夜の闇に紛れて、萇は軍を率いて登の營三十余里を通過して、登の後についた。翌朝、登の斥候が
「
賊の諸營は既に空です。その行方も、現在分かっておりません。
」
と報告すると、登はこれに驚いて
「
やつらは何者か。去るに我られに知られず、来たるに我らに覚られず、その將に死せんと言うに、忽然としてまた来るとは。朕はこの羌と世を同じくしているとは、何とその厄たるかな!
」
と言って、遂にこれ以上の進攻を中止して、雍へと帰還した。
2010/02/15
16
竇衝を右丞相に任命したが、太初八年(393、太元十八年)の六月、その衝が秦王を自称し、元光と建元して自立を図った。七月、登は衝の守る野人堡に攻め込んだ。衝は姚萇に救援を要請した。萇は太子の姚興に胡空堡を攻撃させ、登軍の分断を図る事によって、救援をなそうとした。興軍の動きを知った登は、軍を引き返して胡空堡の守りに回らざるを得なくなった。衝は遂に後秦と手を結ぶ事となった。
2010/02/16
17
太初九年(394、太元十九年)の正月、登の下に、後秦の姚萇が先月に死去した、との報がもたらされた。これを聞いた登は喜びの表情を浮かべ
「
姚興が小兒なぞ、我が杖を折って笞くれてやるわい。
」
と言い、大赦を出すと共に、全兵を挙げて東へ向かう命を下した。二月、屠各の姚奴、帛蒲の二堡に攻め込み、これを陥落させた。そして、甘泉から關中へと向かった。後秦の姚興が追撃するも、数十里及ばなかった。四月、登は六陌から廢橋へと向かった。興は尹緯を橋に配して、登軍を待ち受けさせた。登は飲み水を得ようとしたが叶わず、十人に二、三人が渇死した。その状態で緯軍と決戦したため、緯軍に返り討ちにされ、夜に至る頃には、登軍は潰滅していた。登は単騎で雍に逃げ帰った。
2010/02/17
18
登が東へ進軍した時、弟で司徒の苻廣に雍の留守を預け、太子の苻崇に胡空堡を守らせた。ここで登が敗れたとの報がもたらされると、廣、崇は守りを棄てて逃亡した。指揮官を失った兵は、皆な散り散りに去った。そこに登が至ったが、どこにも身を寄せる存在がいなかったため、更に平涼城へと落ち延びて行った。そこで敗残兵を収拾して、馬毛山へと入った。姚興が兵を率いて攻撃に乗り出した。六月、登は子で汝陰王の宗苻を隴西鮮卑の乞伏乾歸に人質として行かせ、その妹を嫁がせる事によって、援軍を要請した。これを受けた乾歸は、前軍將軍の乞伏益州に二万を与えて登の援軍に向かわせた。七月、登は軍を伴ってこれを出迎えた。そして、興軍と馬毛山の南で干戈を交えたが、興軍に撃ち破られた。登は捕えられ、首を刎ねられた。在位すること九年、享年五十二であった。崇は湟中へと逃亡し、そこで後継に立った。太初九年を以って、延初元年と改めた。登に高皇帝の諡号を贈り、廟号を太宗とした。しかし、その崇も乾歸に逐われ、逃亡先の楊定と共に崇は殺されている。
19
苻健が穆帝の永和七年に立って以来、苻登に至るまでの五世、凡そ四十有四年、孝武帝の太元十九年に前秦は滅亡した。
2011/02/17 終了
『晉書』「載記」 苻登 - 2947〜2954 -
2011/02/01 開始 残り18段 全19段
2011/02/02 更新 残り17段
2011/02/03 更新 残り16段
2011/02/04 更新 残り15段
2011/02/05 更新 残り14段
2011/02/06 更新 残り12段
2011/02/07 更新 残り11段
2011/02/08 更新 残り10段
2011/02/09 更新 残り09段
2011/02/10 更新 残り08段
2011/02/11 更新 残り07段
2011/02/12 更新 残り06段
2011/02/13 更新 残り05段
2011/02/14 更新 残り04段
2011/02/15 更新 残り03段
2011/02/16 更新 残り02段
2011/02/17 終了