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最終更新 2011/01/30



苻  丕




2011/01/18 開始

01

 苻叔、字を永敍と言い、苻堅の長庶子である。幼い頃から聡明で学問好きだったため、經史に広く通じるまでに至った。堅と大將としての兵略について語らうと、堅はその内容を高く評価し、ケ羌に兵法を教えるよう命じた。文武の才幹は苻融に次ぐまでに至り、將として士卒の情を巧みに操れるようになっていった。の鎮を任され、東夏はこれによって安んじられた。


2010/01/19

02

 建元二十一年(385、太元十年)の二月、苻堅が長安に退却した。前年の正月から、丕の守るは、後燕の慕容垂の攻勢に晒されていた。の兵糧が底を突いてしまったため、四月、枋頭へと兵糧を求めて移動した。七月、堅が五將山で捕えられ新平で幽閉された頃、丕は再びに戻ると、趙魏の兵を収拾して、西の長安へと向かおうとした。さて、この年の正月から、幽州刺史の王永、平州刺史の苻沖の守る薊は、後燕の寧朔將軍の平規らの攻撃を受けていた。そのため永は、昌黎太守の宋敞に命じて、和龍、薊城の宮室を焼き払わせると、兵三万を率いて壺關へ拠点を移した。そして、八月、使者を派遣して丕を招き寄せようとした。これを受けて丕はを去る事にした。男女六万余口を引き連れると、西の川へと向かった。驃騎將軍の張、并州刺史の王騰がこの一行を迎え、晉陽へと入って拠点とした。ここで初めて、堅が死去した事を知らされた。そのため、晉陽で挙哀すると、三軍には縞素を纏わせた。永は沖を留めて壺關を守りを任せると、自らは騎兵一万を率いて丕の下に馳せ参じて、丕に尊号を称するよう進言した。丕はこれを聞き入れ、晉陽の南にて皇帝位に即いた。堅の行廟を建てると、境内に大赦を発し、建元二十一年を以って太安元年と改めた。九月、百官を置くと、張を侍中、司空に任命して、上黨郡公に封じた。王永は使持節、侍中、都督中外諸軍事、車騎大將軍、尚書令に任命して、清河公に進封させた。王騰を散騎常侍、中軍大將軍、司隸校尉に任命して、陽平郡公に封じた。苻沖を左光祿大夫、尚書左僕射に任命して、西平王に封じた。倶石子は衞將軍、濮陽公に、楊輔は尚書右僕射、濟陽公に、王亮は護軍將軍、彭城公とされた。強益耳、梁暢は侍中に、徐義は吏部尚書に任命され、縣公に封じられた。この他も、各々封授された。


2010/01/21

03

 この時、安西将軍の呂光が西域から帰還の途につき、宜禾まで到達していた。涼州刺史の梁熙は、光軍が国境を超えないように封鎖する謀議をなした。これに対して、高昌太守の楊翰は熙に


 呂光は西國を平定したばかりで、兵は強く士気も先鋭のままだ。鋒を合わせるべきではない。その事意を推し測れば、異図を有しているのは、誰にでも分かる。そして今、關中は擾乱の最中にあり、京師が存するか亡するか、そのどちらに振れるかは誰も予測がつけられない状態にある。河以西から流沙までの地方は万里である。そこに、帶甲の將士が十万を有せば、鼎峙の勢として今日にも自立できよう。その勢を以って、光が流沙から出てきたとなれば、敵し難いものとなろう。そこでだ。高梧谷口は水険の要害であり、ここを先に抑えてしまえば、光軍の水を断つ事が出来る。彼らも渇きが窮まれば、自ずと戈を投じてこよう。その遠きがために守れないと言うのであれば、伊吾の關でもいいのだ。しかし、この二要を図ろうと言うのは、如何に子房(前漢、張良)の策を以ってしても難しいであろう。地には戦うべき所があり、そこが真の機だ。


と異を唱えた。しかし、梁熙はこれに耳を貸さなかった。今度は、美水令で為郡の張統が


 主上は國を挙げて南討したが、敗北を喫して戻ってこられた。慕容垂は河北で兵をほしいままにし、泓(慕容泓)、沖(慕容沖)が京師を逼迫し、丁零の雜虜(氏)が關洛で跋扈し、州郡の姦豪が至る所で扇動しているため、王綱は絶えようとしており、人は利己に走り始めている。今、呂光が軍を返してきたが、將軍はどうやって抗しようというのか?


と問い質した。これに梁熙は


 誠にそれが頭の痛いところだ。まだ良計が出てこないのだ。


と返した。そのため張統は


 光は雄果に勇毅であり、経略に明るいこと並ぶ者無き男だ。今、西域の威を払い除いた事により、帰師は鋭のままだ。その気勢は、野原を焼き尽くす猛火の如くであり、敵すべきではない。將軍は何代に渡って殊恩を受けており、その忠誠は早くから著しく、王室に勲を立てるなどして、今がある。行唐公の洛(苻洛)は、上の從弟であり、その勇なるは一時に冠たるものがある。將軍の計を為すとは、盟主の為に奉ずるようなものであり、衆望を汲み取り、忠義を推されて群豪を統率したとなれば、光とて異心を抱く事はしないだろう。その精鋭の力を借り、東の毛興と共同し、王統、楊璧と連合すれば、四州の兵を集結する事が出来ます。そうすれば、諸夏の凶逆を掃討する事も、關中で帝室が安んずる事も可能となろう。これは、桓文(春秋・齊の桓公、春秋・晉の文公)の挙に等しかろう。


と進言したが、梁熙はこれも聞き入れなかった。それどころか、張統がその名を挙げた苻洛を、西海で殺してしまった。そして、子の梁胤を鷹揚將軍に任命して兵五万を与え、酒泉で呂光を迎え撃たせる事にした。しかし、敦煌太守の姚靜、晉昌太守の李純は、共に光に降服して郡を明け渡してしまった。胤軍と光軍が安彌で干戈を交えると、光軍が胤軍を撃ち破った。武威太守の彭濟は熙を捕らえると、抗戦する事無く光を迎え入れた。光は熙の首を刎ねた。建威將軍で西郡太守の索、奮威將軍で督洪池已南諸軍事、酒泉太守の宋皓は、共に光に殺されている。


2010/01/22

04

 尚書令で魏昌公の苻纂が關中から逃げ込んでくると、太尉に任命して、東海王に進封させた。十一月、中山太守の王を平東將軍、平州刺史、阜城侯、苻定を征東將軍、冀州牧、高城侯、苻紹を鎮東將軍、督冀州諸軍事、重合侯、苻謨を征北將軍、幽州牧、高邑侯、苻亮を鎮北大將軍、督幽并二州諸軍事とし、それぞれ郡公に進爵させた。定と紹は信都に、謨と亮は常山に拠点を置いていたが、慕容垂が城に包囲攻撃を仕掛けた際、皆な垂に降服していたが、丕が尊号を称したと聞きつけると、使者を派遣して謝罪を請うていた。この時、は博陵を固守して、垂軍と相対峙していた。左將軍の竇衝、秦州刺史の王統、河州刺史の毛興、益州刺史の王廣、南秦州刺史の楊璧、衞將軍の楊定は、皆な隴右に拠点を築いていたが、丕に使者を派遣して、共に後秦を討伐するよう請願した。丕はこの求めに大いにスび、定を驃騎大將軍、雍州牧に、衝を征西大將軍、梁州牧に、統を鎮西大將軍に、興を車騎大將軍に、璧を征南大將軍に任命して、皆な開府儀同三司として、散騎常侍を加えた。廣は安西將軍に任命されている。皆な州牧に進位されている。


2010/01/23

05

 王永は州郡に檄を発布して、


 大行皇帝が万國を棄背されたため、四海は主無き状態にあった。しかし、征東大將軍なる長樂公(苻丕)は、先帝の元子にして、その聖武を天より授かり、荊南にて受命された。その威は衡海を振わせ、東都を分陝し、道は夷夏を被し、仁沢は宇宙を光し、徳声は下武にrしい。この永は、司空の(張)らと共に謹んで天人の望に順い、季秋の吉辰を以って、公が大統を紹承するを奉じて、銜哀しつつも事に即き、谷に栖みて戎を総し、戈を枕にして旦を待ち、志は大恥を雪ぐにあり。慕容垂は關東で暴虐をなし、泓と沖は続けざまに京邑にて凶をなしたため、乗輿は播越し、宗社は淪傾するに致った。羌賊の姚萇は、我らが牧士であったが、釁(隙)に乗じて滔天し、大逆を行うなどして、巨賊を生むに至った。この永は累葉に恩を受けており、何代にも渡って將相を荷ってきた。驪山の戎に与せず、澤の狄と共に皇天を戴き、共に厚土を履まん。諸牧伯、公侯、或いは宛沛の宗臣、或いは四七の勲旧よ、どうして破國の醜豎を放置して、殺君の逆賊にほしいままにさせていられようか!主上が飛龍九五(皇帝)に即くと、実に天心に適い、靈祥や休瑞は、史官が暇無く書き続けても追いつかないほどに報告されている。投戈效義の士は三十余万を数え、少康、光武の功も、旬朔もすればなせるであろう。今、衞將軍の倶石子が前軍師に、司空の張が中軍都督に任命された。武將や猛士は、風烈雷震し、志は元兇を殄するにあり、義は他を顧る無し。この永、謹んで乗輿を奉じ、天罰を恭行するものである。君臣は終始の義にて、三忘躯の誠に在り、勠力してこれを同じゅうし、晉鄭の美を共に建てん。


と決起、協力を促した。


2010/01/24

06

 この少し前に、後燕の慕容が王の守る博陵に侵攻してきた。軍は兵糧も矢も尽きてしまった。すると、郡功曹の張猗が城を抜け出して、兵を集めて軍に呼応してしまった。これを知ったは城壁に登って


 卿は秦人であろう。私は卿の君なるぞ。兵を集めて賊に応じて、自らを義兵と称しているが、何と名実の相違の甚だしきかな!卿の兄は郷宗に、親は城主に逐われ、天地に容れられず、世に大戮されよう。身の滅するに幾ばくならざるに、卿もまたこれに続く事になろう。卿は私の吏とされながら、干戈の時に及んだならば、真っ先に戎首となった。汝の君となるは、何と難しいことか!今、人は卿の一切の功を取り上げるべきと考えているだろう。いや、むしろ、卿の不忠不孝の事を忘れる事は出来まい!古人は言っている。『求忠臣を求めるのであれば、必ず孝子の門を出でた者にせよ。』と。しかし、卿の母は城に在る。不能これを顧ずして、どうして忠義の者と言えようか!悪は世に絶えざると言うが、卿の事を言うのであろうな。中州禮義の邦を図らざるは、卿の門風がこのようであるためであろう。卿は老母を見捨てるの脱するようなやつに、私がこれ以上、何をか論ぜんや!


と張猗を罵倒した。しかし、翌十二月、城は慕容によって陥落させられ、王と固安侯の苻鑒は捕えられ、その首を刎ねられた。

07

 丕は再び、王永を司徒、録尚書事に、徐義を尚書令に任命して、右光祿大夫を加えた。


2010/01/25

08

 この年の二月、王廣が成都から隴西へと逃げ帰り、兄で秦州刺史の王統を頼った。太安二年(386、太元十一年)の二月、長安の守りが不在となったと知ると、廣は河州牧の毛興が守る枹罕に攻撃を仕掛けた。興は建節將軍にして臨清伯の衞平に宗人千七百を与えて、廣軍に夜襲を掛けさせ、大きな打撃を与える事に成功した。これを知った統は、二月、廣の救援のために軍を出した。興はここで城の守りを固める事にした。四月、廣は興軍の攻撃によって敗北を喫したため、廣は秦州へと背走を余儀無くされた。しかし、隴西鮮卑の匹蘭によって生け捕られ、後秦の姚萇の下へと送られてしまった。興は廣を撃退した勢いに乗って、統を討伐して上を平定しようと図った。しかし、枹罕の諸は、息つく暇も無い軍事に嫌気が差して、興を殺害した。そして、衞平を使持節、安西將軍、河州刺史に推して、使者を派遣して請命を待った。


2010/01/26

09

 六月、西燕の雲が、皇帝である慕容忠を弑殺して、慕容永を使持節、大都督中外諸軍事、大將軍、大單于、雍秦梁涼四州牧、録尚書事、河東王に推して、後燕の慕容垂に称藩した。征東將軍の苻定、鎮東將軍の苻紹、征北將軍の苻謨、鎮北將軍の苻亮は、皆な慕容垂に降服した。


2010/01/27

10

 丕は王永を左丞相に進位させた。また、苻纂を大司馬に、張を太尉に、王騰を驃騎大將軍、儀同三司に、徐義を司空に、苻沖を車騎大將軍、尚書令、儀同三司に、倶石子を衞大將軍、尚書左僕射に任命した。永は再び州郡に檄文を発して


 その昔、夏は窮夷の難に見舞われたが、少康がこれに立ち上がった。王莽が平帝を毒殺した時は、世祖が漢道を復興した。百六(災難)の運が、何代も続く事は無かったのだ!天は喪乱を下し、羌胡が夏を猾(乱)したため、先帝は賊庭にて晏駕された。これによって、京師は戎穴となり、神州は蕭條となって、生靈(人民)は塗炭の苦しみを味合わされている。しかし、天は未だ秦(前秦)を亡ぼしておらず、社稷を奉ずる事が出来る。主上は聖徳にして恢弘であり、道は光武にr(等)しく、至る所を帰心させたばかりか、天人をも味方につけた。これで必ずや中興の功を挙げ、配天の美を為し得るだろう。姚萇は残虐であり、慕容垂は凶暴であり、その過ぎたる所では戸は滅し煙は絶え、丘墓は発かれている。その毒は存するに亡するに拠らず、その痛は幽なるも顯なるも及んでいる。黄巾が九州を害し、赤眉が四海を暴れ回ったと言うが、ここまで甚しきものではなかったであろう。今、素秋が正に至ろうとしており、行師の令辰(吉日)は近い。公侯や牧守、壘主の郷豪、或いは國家に勠力する者よ、王室に忠誠を尽す者たちよ、各々が統ずる所を率いられよ。そして、孟冬の上旬を以って、臨晉にて大駕と合流せよ。


と述べた。この檄文を受けて、天水の姜延、馮翊の寇明、河東の王昭、新平の張晏、京兆の杜敏、扶風の馬郎、建忠にして高平牧官都尉の王敏らが兵を挙げた。それぞれ数万の兵を擁し、使者を派遣して丕に応じる旨を伝えた。この報を受けた丕は、それぞれを將軍、郡守に任命して、列侯に封じた。冠軍將軍のケ景は、兵五千を要して長安の西、彪池に布陣し、長安の東南、茲川に布陣していた竇衝と首尾の位置をなすと、後秦の平涼太守の金熙に攻撃を仕掛けた。七月、安定北部都尉で鮮卑の沒奕于が、善王の胡員、護羌中郎將の梁苟奴らを率いて、後秦の左將軍の姚方成、鎮遠將軍の強京と孫丘谷で干戈を交え、方成軍を大いに撃ち破った。


2010/01/28

11

 枹罕の諸は、衞平が年老いていたため、事業を成し得ないと思い、廃そうと議し始めた。しかし、平の宗族が強大な事に畏れ憚って、何日経っても決しきれないでいた。の啖青と言う者が諸將に


 大事は定するに宜きがある。東の誂萇を討つに、躊躇している暇は無い。一旦にして事が発覚すれば、却って人に害される恐れがある。諸軍は衞公に衆將を集めるよう頼んでおいてくれ。この青が諸軍の為に切り出してくれよう。


と提議すると、皆なこれに賛同した。諸將と酒宴を催すよう衞平に働きかけ、これ実現させると、啖青が剣を抜き払って前に進み出ると


 今、天下は大いに乱れ、豺狼が路を塞いでいる。吾曹(我々)は今日、休戚を同じゅうすべきである。そのためには、賢明の主に非ざれば、艱難を払う事は出来はしない。さて、衞公は朽耄であり、大事を成すには不足している。ここは初服に返る事こそが、避賢の路ではなかろうか。狄道長の苻登は、王室の疏属ではあるが、その志略は雄明である。共に立つように求め、以って大駕に赴こうではないか。諸君で同意せざる者は、今すぐ異議を唱えよ。


と声を張り上げた。そして、剣を揮って袂を払うと、異を唱える者は斬り捨てると言う姿勢を見せた事もあり、満座はこれに従い、誰も顔を上げようともしなかった。これによって苻登を帥に推して、丕に使者を派遣してその請命を待つ事にした。これを受けた丕は、八月、登を征西大將軍、開府儀同三司に任命し、南安王に封じた。また、持節を始め州郡督は、その称する所を授けた。また、徐義を右丞相に任命した。


2010/01/29

12

 丕は王騰を留めて晉陽の守りを預けて、楊輔に壺關の戍を任せると、兵四万を率いて平陽に進軍を開始した。九月、王統は秦州ごと姚萇に降服した。十月、西燕の慕容永は、丕が平陽に至ってしまうと、恐らく固守できなくなるであろうと判断し、丕に使者を派遣して、還東するために道を通らせて欲しいと申し出た。しかし、丕はこれを許可しなかった。それどころか、王永と苻纂に永の攻撃を命じて発した。倶石子を前鋒都督として、慕容永と襄陵で干戈を交えた。王永は慕容永に返り討ちにされたばかりか、石子と共に戦塵で斬られてしまった。


2010/01/30

13

 苻纂が逃げ込んできた時、その部下の壯士は三千余人であった。丕は嫌って遠ざけていた。しかし、王永が敗れた今、纂に命を取られるのではないかと恐れを抱き、騎兵数千を率いて、南の東垣へと逃亡した。東晉の揚威將軍の馮該が、陝からこれを迎え撃った。丕はこれに潰滅させられたばかりか、首を斬られてしまった。太子の苻寧、長樂王の苻壽は生け捕られ、京師(建康)へと護送された。東晉の孝武帝(司馬曜)は、二人を赦免して誅す事無く、前年の七月に東晉に亡命してきていた苻宏の下へと送った。徐義は慕容永に捕えられた。その足に械をはめられた上で土に埋められ、窒息死させられそうになった。土の中で、義は觀世音經を誦していた。夜中に至ると、土が開き械が外れた。厳重な警戒が敷かれていたにもかかわらず、正体不明の者に導かれて脱出に成功し、遂に楊期の下へとたどり着く事が出来た。義を受け入れた期は、洛陽令に任命した。纂と弟の苻師奴は、丕の残兵数万を率いて、杏城に逃げ込んで体勢を整えた。十一月、苻登は尊号を称し、丕に哀平皇帝の諡号を贈った。丕の臣佐は、皆な慕容永によって殺された。永は上黨の長子に拠点を移すと、十月、後燕への称藩を取り止めて大号を称して独立を果たし、中興と改元していた。丕は在位二年で倒された。


2011/01/30 終了


『晉書』「載記」 苻丕 - 2941〜2947 -


2011/01/18 開始 残り12段 全13段
2011/01/19 更新 残り11段
2011/01/21 更新 残り10段
2011/01/22 更新 残り09段
2011/01/23 更新 残り08段
2011/01/24 更新 残り06段
2011/01/25 更新 残り05段
2011/01/26 更新 残り04段
2011/01/27 更新 残り03段
2011/01/28 更新 残り02段
2011/01/29 更新 残り01段
2011/01/30 終了