ほーむへ 人物へ戻る    


最終更新 2011/04/10



何  點







2011/04/10 開始

01

 何點、字を子ルと言い、廬江はの人である。祖父の何尚之は、宋朝で司空にまで昇っている。父の何鑠は、宜都太守であった。しかし、その鑠は精神に問題を抱えていた。ある時、妻を突然殺してしまう事件を起こし、死刑に処された。點は年十一になると、たびたび異常性が見られるようになった。更に成長した時、これが家系的な禍であると感じるようになり、結婚も仕官もすまいと心に決めた。しかし、尚之に琅邪の王氏との結婚話が持ち上がった。禮が終わり、親迎を行おうとした時、點は涙をとどめる事の出来ない自分に気づいた。本志を貫くべきだと、この話を破談にしてしまった。


第二回更新

02

 點の容貌は上品さが漂っており、群書に通じていて、談論を好んでしていた。家系は元々が甲族であったため、親戚には多くの貴仕に達していた。點は城府に入ろうとはせず、物見遊山をして回りをしていた。簪する事も無く帯する事も無く、時には柴車に乗り、草履を履くなどして、心の赴くままにどこでも行っていた。酔っ払って帰ってくる事もあったが、士大夫の多くが點を敬慕して、通隱と呼んだりもした。兄に何求がいたが、同じく呉郡の虎丘山で隱居していた。その求が死んだと知ると、點は食事を菜食に変えて、飲酒を止めた。服喪の三年を終えた時には、腰周りが半分近くになっていた。


第三回更新

03

 劉宋の泰始の末年(471)、太子洗馬に任命されている。また、南齊が成立してすぐ、中書郎や太子中庶子に任命された。だが、どちらも受けていない。陳郡の謝、呉國の張融、會稽の孔稚珪とは、莫逆の友であった。從弟の何遁は、東籬門園に居していたが、稚珪が室を築いた。その園内には卞忠貞(東晉・卞壼)の冢があった。點は花卉を冢の側に植えて、酒を飲む時は必ず酒を挙げてした。建元元年(479)、淵と王儉が宰相に任じられると、これを聞いた點は人に


 私は『齊書』を既に書き終えてしまった。この二人の贊は、『淵は既に世族であり、儉も亦た國華である。舅氏にョる事無く、遑して國家を恤した。』としたよ。


と語った。王儉の耳にこれが達すると、點と一度会ってみたいと思ったが、会う事が出来ないと知って止めた。豫章王の蕭嶷が駕を出して點の下を訪れようとすると、點は後門から遁去してしまった。司徒で竟陵王の蕭子良が会ってみたいと、點はこの時、法輪寺にいたが、自ら赴いた。點は角巾姿で席に着いた。子良の欣スようは今までに無いものであった。帰りに點に叔夜の酒杯、徐景山の酒鐺を贈った。


第四回更新

04

 點は若い時に渇痢を患ったが、何年経っても完治しないままであった。その後、呉中の石佛寺に講を建てて、その講所で昼寝をしていた時、夢に一人の道人が現われ、その形貌は常ならざるものがあったが、丸一掬を授けられ、そのまま服した。夢から覚めると、渇痢は治癒していた。點が渇痢に悩まされていたのを知っていた人達は、淳徳に感じたからであろうと言った。


第五回更新

05

 點の正確は通脱で、何でも人に施してしまった。遠近から物を贈られても、その一切を受け取らず、置いていかれもすぐに誰かにやってしまった。ある時、朱雀門街に出たが、車の後から點の衣を盗んだ者がいた。點はその現場を見たのだが、何も言わなかった。そのため、往来の一人がこの盗人を取っ捕まえて、衣を點に返した。しかし點は、その衣を盗人に与えた。盗人も、捕まって取り上げられた物を、また与えられて受け取るわけにもいかなかった。すると點は、有司を呼んでくるよう人に頼んだ。これに盗人は慌てて、これを受け取った。點はすぐに立ち去るよう促した。

06

 點は人倫識鑒を有していて、多くの人を甄拔してきた。幼童であった呉興の丘遲を見い出し、寒素の出の濟陽の江淹を称賛した。二人ともに世に名を知られた人物となっている。


第六回更新

07

 點は既に老境に差し掛かっていてが、魯國の孔嗣の娘を娶った。嗣も同じく隱者である。點は結婚したとは言うが、妻と見みえる事は無く、別室を築いて住居とした。人がその理由を悟る事は無かった。呉國の張融が若かりし頃、免官された時に詩を作したが、高尚の言が見られた。點はこれに答詩して


昔聞東都日,  昔、東都の日に聞くも
不在簡書前.  簡書の前なるもの在らず。


と陳べた。融は悪ふざけの戯言のつもりだったが、張融は長く心穏やかならざる感情を抱き続けた。そして、今、點が再婚すると、融は詩を作して點に贈った。


惜哉何居士,  惜しい哉、何居士、
薄暮遘荒婬.  薄暮に荒婬を遘うとは。


と。點もまた恨みに思い、消す事は出来なかった。


第七回更新

08

 梁の高祖(蕭衍)は、點とは旧知の仲であった。四月、禅譲を受けて皇帝位に即くと、天監元年(502)と改元した。自ら詔を書き上げ、


 その昔、まだ暇が多かった頃、逸なる軌を追い求めようと、脩竹に座し、清池に臨んでは、今を忘れ古えを語っていたな。何と楽しかった事よ。しかし、急に丘園を離れる事となって、十有四載、人事は艱阻に包まれ、言するに足る事など無かった。天に在りし機運に応じてきたが、いつも思うは相い見みえる事であり、物色に密邇しては、労は山阿を甚しくす。厳光は九重に排し、九等を踐して、天人に談じ、故旧を叙して、不臣たる所の有らば、何して高きを傷めるだろうか?文先(楊彪、字文先)は皮弁を以って子桓(曹丕、字子桓)に謁した。伯況(周黨、字伯況)はを以って文叔(劉秀、字文叔)に見みえ、これに往策を求めたと言う前例がある。そして、今、卿に鹿皮巾などを賜す。数日後、入る事を望む。


と会う事を約束した。點は巾褐姿で華林園に向かった。高祖のスびようは甚だで、詩を賦し、酒を用意させた。その恩禮は、昔と何の変わりも無かった。そして、詔を下して


 前徴士の何點、道に高尚にして、志は容膝を安んずるにあるが、そのために形骸を脱落させ、冥に栖志している。朕は日昃に思治して、前哲を想い尚んでいる。まして時を同じゅうするを得て、為政に与せざる者をや。喉脣の任の頻りなるには、必ずや邦良を待たねばならない。恵然なるを誠に望んでおり、居士なるを屈して献替されたし。ここに侍中に任命する。


と朝廷に迎えようとした。しかし點は、病気を理由に辞して赴かなかった。そのため再び詔が下され


 徴士の何點、貞にして物表に居し、心は塵外に縱にしている。夷坦の風は、始めから遠くからである。往時は素志のため、幾度と無く讌言にて申してくれたが、それは彼の子陵(嚴光、字子陵)を眷するようであり、情は惟旧を兼している。その昔、仲虞(鄭均、字仲虞)は邁俗していたが、俸を漢朝より受けた。安道(戴逵、字安道)は逸志を抱いていたが、晉の祿を辞さなかった。これは蓋し前代の盛軌であり、往時の賢なる者の同じゅうする所である。議によりて資給を加える事とし、また、在所を出づる時、日費や必要とする所は、太官より別に給す。既に人は卿を高曜しており、故に事を垣下と同じゅうす。


と伝えた。


第八回更新

09

 天監三年(504)、死去した。享年六十八。これを知った高祖は詔を下して


 新除侍中の何點、衡泌に栖遅して、白首なるとも渝(変)せず。奄ち殞喪するに至りて、傷惻の思い倍さる。ここに第一品材一具を給し、錢二萬、布五十匹を賻す。喪事に要する所は、内監が経理する。


と伝えた。また、敕點の弟の何胤にも


 賢兄徴君は、弱冠にして衣を払い、華首なるまで一操を守り、心は物表に遊して、近跡に滞らず。形骸を脱落するも、これを遠理に寄す。性は勝致にを情(思)い、興に遇していよいよ高し。文は酒徳に会(適)い、際を撫すこといよいよ遠し。朕はを膺して圖を受けて、長く聲教を思ってきた。朝(朝廷)に君子の多かれど、既に貴は雅と俗を成す。野(在野)に外臣の有るも弘これを広げるに難進あり。方は清徽にョり、式は大業を隆す。昔は布衣に在り、情は早著を期せば、資するに仲虞の秩を以ってし、待するに子陵の禮を以ってした。暇日に聴覧しようと、角巾にて引見し、然とした汾射は、ここに託を有す。一旦から万古まで、実に震悼を抱いている。卿は純至を友とし、親は凋亡に從い、偕老の願いは、反奪されるに至れば、永恨を纏綿とし、これに堪えられるであろうか。これより長きに渡って、どうすればよいと言うのか!


と弔意を示した。點に子は無く、宗人は從弟の何耿の子である何遲任を世継ぎとした。


2011/04/10  終了。


『晉書』「處士」 何點 - 732〜734 -


第一回更新    開始 残り08段 全09段  2011/04/10
第二回更新    更新 残り07段
第三回更新    更新 残り06段
第四回更新    更新 残り05段
第五回更新    更新 残り03段
第六回更新    更新 残り02段
第七回更新    更新 残り01段
第八回更新    終了


2009/04/10 終了。