ほーむへ 人物へ戻る    


最終更新 2011/10/08



赫連 勃勃







2011/09/26 開始

01

 赫連勃勃、字を屈孑と言い、匈奴右賢王の去卑の子孫で、劉淵の族である。曾祖父の劉虎は、前趙の劉聰の治世にあって、永嘉四年(310)の十月、宗室と言う事で樓煩公に封じ、安北將軍、監鮮卑諸軍事、丁零中郎將に任命した。これも手伝って、虎は肆盧川に勢力を築く事が出来た。太興元年(318)の七月、代王の拓跋猗盧に打ちのめされ、塞外へ逃亡せざるを得なくなった。咸康七年(341)の十月、虎が死去した。祖父の劉豹子は種落を結集させて、諸部の雄として台頭すると、後趙の石虎は使者を派遣し、平北將軍、左賢王、丁零單于とした。升平四年(360)の四月、父の劉衞辰が塞内に戻ってきた。太元元年(376)、前秦の苻堅は西單于に任命し、河西の諸虜を督攝させるため、代來城を衞辰に与えた。太元十一年(386)、前秦が混乱に陥ると、十月、遂に朔方の地を勢力化に収め、控弦の士は三万八千を数えるまでになった。太元十六年(391)の十一月、北魏が侵攻してくると、衞辰は子の劉力俟提に迎撃を命じたが、北魏軍に撃ち破られてしまった。北魏軍はこの勝ちに乗じて河を渡った。衞辰は代來城を守り切れず、逃亡を試みたが、その途中で、部下によって殺されてしまった。衞辰の少子の勃勃も逃亡を図っていて、十二月、叱干部まで落ち延びていた。叱干他斗伏は勃勃を北魏へと送った。他斗伏の兄子の叱干阿利は、これ以前から大洛川の守りを任されていたが、勃勃を北魏へと送る聞くと、他斗伏の下に馬を飛ばし


 鳥や雀が人に投じてきても、人はそれを殺したりはしません。まして勃勃となれば、國は破れ家は亡したために、我らに帰命してきたのですぞ?もし受け入れる事が出来ないのであれば、その行くままに任せるべきでしょう。今、これを執えて送るとは、仁者の挙とは到底呼べませんぞ。


と諫めた。しかし叱干他斗伏は、このまま勃勃を逃がしてしまっては、北魏に責められるのではないかと恐れ、これを聞き入れなかった。聞き入れられなかったため、叱干阿利は、秘密裏に勁勇の士を送って、その道中で勃勃を確保させ、そのまま後秦の高平公である沒奕于の下へと送らせた。沒奕于は娘を妻とさせた。


第二回更新

02

 勃勃は身長が八尺五寸で、腰帯は十囲であった。聡明でそれを言葉にする事に長け、美しい容貌をしていた。後秦の姚興は、勃勃を一目見て奇として、深く禮敬を加えた。そして、勃勃を驍騎將軍に任命して、奉車都尉を加え、常に軍國の大議に参加させるようになった。その寵遇ぶりは、勲旧を超えるものがあった。興の弟の姚


 勃勃の天性は不仁であり、親近させるのは無理です。陛下の寵遇が大いに甚だしい事に、この、不安で胸が満たされています。


と忠告したが、姚興は


 勃勃は、済世の才を有している。私はその藝用を取り込んで、正に共に天下を平らげんとしているのだ。どこに不可なる理由があろう!


と言って取り合わなかったばかりか、勃勃を安遠將軍に任命して、陽川侯に封じた。高平を鎮する沒奕于の援護として、三城、朔方の雜夷と父の劉衞辰の部兵を合わせた三万を配して、北魏討伐のための偵候の任に就かせる事にした。これにも姚は、不可であると強く諫めた。これに姚興は


 卿は何を以ってその性格や気質を知ったのだ?


と尋ねた。すると姚


 勃勃は、上に奉(仕)えれば慢(怠慢)であり、兵を御すれば殘(残酷)です。貪暴にして無親であり、去就を考える事を何とも思っていません。これを分を踰えて寵していれば、終には辺害を為さしめるでしょう。


と答えた。これに納得した姚興は、この配置を取り止めにした。義熙三年(407)の五月、勃勃は持節、安北將軍、五原公とされ、三交城の五部鮮卑と雜虜の二万余落を配されて、朔方を鎮する事となった。この時、河西鮮卑の杜崘が、馬八千匹を後秦に献上してきた。河を渡って大城に到達した所で、勃勃はこれを引き留めた。兵三万余に召集を掛けた。表向きには、高平川で猟をするためとしたが、その実、沒奕于を襲殺するためであった。事を果たし得ると、その兵を吸収した。これによって、兵は数万を数えるまでに増えた。


第三回更新

03

 六月、勃勃は天王を称して、大單于となると、境内に恩赦を出した。龍昇と建元して、百官を設けた。匈奴の夏后氏の苗裔であるとして、國号を大夏と定めた。長兄の劉右地代を丞相に任命して、代公に封じ、次兄の劉力俟提を大將軍に任命して、魏公に封じ、叱干阿利を御史大夫に任命して、梁公に封じた。その弟の劉阿利羅引を征南將軍、司隸校尉に、劉若門を尚書令に、劉叱以を征西將軍、尚書左僕射に、劉乙斗を征北將軍、尚書右僕射に任命し、その他もそれぞれ任命した。


第四回更新

04

 十月、鮮卑の薛干など三部に攻撃を仕掛け、これを撃ち破り、兵一万数千を降服させた。そのまま進軍を続け、後秦の三城以北の諸戍に攻撃して、楊丕、姚石生の首級を挙げた。ここで諸將が険阻な地を固めるべきだと諫めたが、勃勃は聞き入れなかった。そのために、再び勃勃に


 陛下は正に宇内を経営する事を欲しておられるのでしょう?それならば、南の長安を取るためにも、先に根本を固めるべきではないでしょうか。そして人心を憑係させ、然る後に動けば、大業は成し売るでしょう。高平は険固であり、山川は沃饒です。ここを都とすべきでしょう。


と進言した。しかし勃勃は


 卿はただにその一を知っているだけだ。その二を知らない。我らは大業の草創にあるが、軍旅は未だ多くない。姚興は一時の雄であるが、その興も關中を未だ図っていない。諸鎮が用命しており、我らが一城を固める事しか出来ないと知れば、彼方は必ずや力で我らを呑み込もうとするであろう。勢力差は歴然であり、亡ぶのを立って待つようなものだ。しかし、我らが雲騎を以って風馳したらどうなる。その不意を突いたらどうなる。前を救えばその後を撃ち、後を救えばその前を撃てばどうなる。彼方はその命に奔走するだけで疲弊してしまうであろう。我らは何もせずして自若としていても、十年もしない内に、嶺北、河東の全てを我らの掌中に出来るであろう。後は興が死ぬのを待って、おもむろに長安を取ればいい。姚泓は凡弱の小兒であり、これを擒える方略は、既に我が計中にある。その昔、軒轅氏も遷居して留まる所を定めぬまま、二十余年を費やした。これをやるのは、私だけではないと言う事だ!


と言って、聞き入れなかった。そして、嶺北へと進攻を開始した。嶺北の諸城門は、昼でも開かれる事は無くなった。これを知った姚興は歎いた。


 私が黄兒の言を用いなかったばかりに、事態をここに至らせてしまったか!


と。黄兒は、姚の小字である。


第五回更新

05

 勃勃が大夏天王号を称するとすぐ、禿髮檀と婚姻を求めたが、檀はこれを聞き入れなかった。これに勃勃は怒りを覚えて、十一月、騎兵二万を率いて討伐に乗り出した。楊非から支陽に至る三百余里の間、一万余人を殺傷し、二万七千口を連れ、牛馬羊数十万を略奪して帰還した。檀が兵を率いて追撃に乗り出すと、その配下の焦朗が檀に


 勃勃は天姿にして雄であり、御された軍は軍律を守っており、未だ軽々に対すべき相手ではありません。今は抄掠の資を有し、思帰の士を率いています。人は自と略奪品を守るために、帰るために戦いに望むため、これと鋒を争うのは難しいと思われます。ここは温圍を北渡して、萬斛堆に向かうべきでしょう。水に沿って營を結び、その咽喉を制する事こそ、百戦百勝の術です。


と言うと、これに賀連怒が


 勃勃は死亡の余であり、烏合の衆を率いているに過ぎません。順を犯し禍を結んでおり、幸(行幸)すれば大功を挙げられるでしょう。今、牛羊が路を塞ぎ、財宝は山の如く積んでいます。加えて窘弊の余となれば、人は貪競を抱くようになり、士兵を督獅オて我らに抗する事など、出来はしません。我らが大軍を以ってこれに臨めば、必ずや土崩魚潰するでしょう。ならば今、軍を引いてこれを避けたとなれば、敵に弱なると示すようなものです。我が兵の士気は鋭く、速追するのに何の不足もありません。


と反論した。この言葉に禿髮檀は


 追計する事に決した。それでも敢えて諫する者は斬る!


と声を挙げた。勃勃がこれを聞くと、大いに喜んだ。そして、陽武の下陝で氷を鑿ち車輪を埋めて路を塞ぎ、決戦に備えさせた。禿髮檀は射に長じた者に、勃勃目掛けて一斉に射させ、その一矢が勃勃の左臂に当たった。しかし、勃勃は動じる事無く、兵を率いて反撃に出た。檀軍を撃ち破ると、八十余里に渡って追撃を掛け、殺傷した数は一万を超え、大將の首級十余を挙げた。京觀を築くと、「髑髏臺」と名付けた。そして、嶺北へと帰った。


第六回更新

06

 勃勃は後秦の張佛生と青石原で干戈を交えると、ここでも勝利を収め、俘斬は五千七百を数えた。龍昇二年(408、義熙四年)の五月、姚興が齊難に兵二万を与えて侵攻させてきた。これを知ると、七月、勃勃は河曲へと退いた。難は勃勃が既に追いつけないほど遠くに去ったと判断し、兵に略奪の許可を出した。勃勃はこれを待っていた。潜ませていた軍を一斉に発した。俘獲七千余人は数え、戎馬や兵杖を鹵獲した。難軍が退却を始めると、勃勃は木城まで追撃を掛けて、遂に潰滅させ、難を生け捕る事に成功した。將士一万三千を捕虜とし、戎馬一万匹を得た。これが嶺北に知れ渡ると、夷夏で降附してきた者は一万を数えた。勃勃は守宰を置いて、これらを慰撫させた。龍昇三年(409、義熙五年)の四月、勃勃は騎兵二万を率いて高岡に入り、五井に達すると、平涼の雜胡七千余戸を連行して後軍に送ると、そのまま依力川まで軍を進めた。


第七回更新

07

 九月、後秦の姚興が侵攻を開始し、貳縣城まで軍を進めてきた。斥候の報告によって、興の諸軍が集結しきっていないと知った勃勃は、騎兵を率いて奇襲を仕掛けた。興は大いに慌てながらも、姚文宗を繰り出してきた。勃勃は退却したと見せかけて、伏兵を配して追撃を待ち受けた。そうとは知らずに、興は姚楡生らに追撃を命じた。伏兵を一斉に発して挟撃を掛け、皆な捕えた。後秦の王奚が羌胡三千余戸を敕奇堡に集めて、攻撃に備えていた。勃勃はここに攻撃を仕掛けた。奚は驍悍にして膂力の持ち主で、接近戦に長じていた。接近戦に持ち込まれた勃勃軍は、兵の多くが負傷させられた。勃勃は干戈を交える事を控えて、堰を築いて水を遮断する作戦に出た。堡兵は困窮していき、遂に奚を捕えて降服を願い出た。勃勃は奚に対して


 卿は忠臣である!朕は卿と共に天下を平定する事を願う。


と言った。しかし王奚は


 お前の大恩を蒙るよりだったら、さっさと死んだ方が幸せだ。


と言い、親とする数十人と共に自刎して果てた。勃勃は金洛生の守る黄石固、彌姐豪地の守る我羅城と立て続けに攻撃を仕掛け、いずれも陥落させている。七千余家を大城に移住させると、丞相の劉右地代に幽州牧の職務を与え、これを鎮させた。


第八回更新

08

 龍昇四年(410、義熙六年)の三月、尚書の金纂に騎兵一万を与えて、平涼に攻撃を命じた。後秦の姚興が救援に掛け付けると、纂はこの興軍によって撃ち破られ、纂は戦死した。勃勃の兄子で左將軍の劉羅提が歩兵騎兵の一万を率いて、後秦の姚廣都が守る定陽を陥落させると、將士四千余人を生き埋めにした。女は軍に賞として分け与えられた。廣都は太常に任命されている。勃勃は今度は後秦の姚壽都が守る清水城に攻撃を仕掛け、壽都は上へと敗走した。一万六千家を大城に移住させている。この年、齊難、廣都が叛乱を企てたため、二人とも誅殺されている。

09

 龍昇五年(411、義熙七年)の正月、後秦の姚詳が杏城を放棄し、南の大蘇へと逃亡を試みた。勃勃は平東將軍の鹿奕于にその行方を追わせ、詳を生け捕った。手勢の兵を全て捕虜とした。詳が勃勃の前に引き出されると、勃勃はその罪を数え上げた後、詳の首を刎ね飛ばした。


第九回更新

10

 勃勃は騎兵三万を率いて安定に攻め込み、後秦の楊佛嵩と青石の北原で撃ち破ると、兵四万五千を降服させて、戎馬二万匹を鹵獲した。そのまま軍を進め、東郷を守る後秦の党智隆を降服させると、智隆を光祿勳に任命して、三千余戸を貳城に移した。後秦の鎮北參軍の王買コが亡命してきた。勃勃は買コに対して


 朕は大禹の後であり、代々幽朔に居してきている。祖宗は重暉であり、常に漢魏の敵國であった。しかし中世には競わず、制を人に受けた。朕は不肖のために、先構を紹隆する能わず、國は破れ家は亡び、流離して虜を漂している。今、運に応じて興し、大禹の業を復さんと思っている。卿、そのために何をすべきと思うか?


と問うと、王買コは


 皇晉が統を失してより、神器は南移し、群雄が岳峙するようになり、人は問鼎を抱いております。まして陛下は、奕葉に載徳して、朔野に重光されているのです。その神武は漢皇(前漢・劉邦)を超え、その聖略は魏祖(三國・魏、曹操)を邁(過)ぎています。天は啓しているのです。この機に大業を建成されよと!今、秦政が衰えてきているとは言え、藩鎮は猶お堅固のままです。ここに深く願わくは、力を蓄して時を待ちて、その後に挙するのです。


と答えた。勃勃はこの答えに満足し、王買コを軍師中郎將に任命した。


第十回更新

11

 龍昇七年(413、義熙九年)の三月、境内に恩赦を出すと、龍昇七年を以って鳳翔元年と改めた。そして、叱干阿利を領將作大匠に任命して、嶺北の夷夏十万人を動員して、朔方水の北、K水の南に都城を造営させた。これに当たって勃勃は


 朕は正に天下を統一し、万邦に君臨せんとしている。統萬を以ってこの名とする。


と言った。叱干阿利は工に最も巧みな人間であったが、しかし、その性格は残忍にして刻暴であった。蒸土や築城はおろか、錐が一寸でも狂っていたら、その場でその製造担当者を殺して、それを壁の一部に塗り込むほどであった。勃勃はこれを忠の現われとし、営繕の任を委ねられたのであった。また、五兵の器も製造させたが、こちらの精鋭さも他に類を見ないほどであった。完成品が呈された。ただ、この作業にあっても、工匠には必ず死者が出ていた。その例を挙げるならば、甲に弓を射掛けて、その性能を試す実験が挙げられる。甲を射抜けなければ、弓の製造者が斬られた。甲が射抜かれれば、鎧匠が斬られたのである。また、百錬剛刀が造ると、龍雀の大環をあしらった。号して曰わく「大夏龍雀」。その背には


 古の利器は、呉楚の湛盧なり。大夏龍雀は、名を神都に冠たり。遠を懐し、逋を柔し得よう。風が草を靡さすが如く、九区を威服せしめん。


と銘が刻まれていた。世から甚だ珍なる物と称された。銅を以って大鼓を鋳造すると、飛廉、翁仲、銅駝、龍獸があしらわれ、全て黄金で造られていた。これは宮殿の前に並べられた。殺された工匠は数千を数えたが、器物はその精麗さで及ぶ物は無かった。


第十一回更新

12

 乞伏熾磐の討伐を議した。そこで王買コが


 明王の行師とは、軌物するに徳を以ってするものであり、暴を以ってしてはなりません。それに、熾磐は我らの與國ではありませんか。しかも、大喪に遭ったばかりであり、今、これを伐ったとなれば、理に乗っ取って動いたとは思われないでしょう。上が靈和の義を感じられるでしょうか!苟衆力を恃みにして、人の喪難を因するとなれば、匹夫ですらこれを為すのを恥とするでしょう。まして万乘となれば尚の事でしょう!


と諫めると、勃勃は


 甚だ善きかな。卿なかりせば、朕はこの言を聞く事が出来たであろうか!


と感嘆した。

13

 鳳翔三年(415、義熙十一年)の三月、後秦の姚逵が守る杏城に攻め込み、二旬してこれを陥落させると、逵を始め姚大用、姚安和、姚利僕、尹敵を生け捕りにし、戦士二万人を生き埋めにした。


第十二回更新

14

 五月、御史中丞の烏洛孤を沮渠蒙遜に派遣して


 金晉の命数は尽きてより、禍が九服を纏っている。趙魏が長蛇の墟を為し、秦隴が豺狼の穴を為した。二都、神京は、鞠が草を茂らせて、蠢爾なる羣生(人民)は、憑ョを知る無し。上天は禍を悔いて、運を二家に属した。封疆は密邇であり、道は義親である。こおは和好を敦くして、世難を弘康すべきではないか。終古より、國有り家有りて、盟誓に非ずして神祇の心を昭らかにせざるは無く、断金に非ずして終始の好を定むる無し。晉楚の成、呉蜀の約は、いずれも口血の未だ乾かざるに、間も無くしてこれに背している。今、我らが二家は、殊なる曩日に契し、言には未だ発せざるも篤愛の心を有し、音の一交するに傾蓋の顧を抱き、風塵の警に息し、克済の誠を同じゅうし、力を一心に勠し、共に六合を済わん。天下に有事が起きたらば、則ち双つながらに義旗を振らん。区域が既に清されれば、則ち並びて魯衞を敦くせん。夷險には相い赴き、交易の有無は、ここより子孫に及ぶまで、永しえにこの好を崇とせん。


と盟を求めた。沮渠蒙遜は沮渠漢平を派遣して、盟を結ぶ事を伝えた。


第十三回更新

15

 鳳翔四年(416、義熙十二年)の六月、勃勃は後秦の將姚嵩が王の楊盛と対峙していると知ると、騎兵四万を率いて上の虚を突いた。上に至る前に、嵩は盛によって殺されている。勃勃が上に攻撃を開始し、二旬で陥落させると、後秦の秦州刺史の姚軍都の首級を挙げ、將士五千人を殺した。城を破壊してから軍を返した。そのまま陰密に進攻して、後秦の姚良子を始めとして將士一万余人を殺した。そして、子の赫連昌を使持節、前將軍、雍州刺史に任命して、陰密に鎮させた。後秦の姚恢は安定を放棄して、長安へと逃亡を図った。安定人の胡儼、華韜は戸五万を擁して安定に拠すと、勃勃に降服した。勃勃は儼を侍中に、韜を尚書に任命すると共に、鎮東將軍の羊苟兒を留め、鮮卑兵五千を配して安定を鎮させた。そして、後秦の姚ェが守る雍城に進攻した。ェは長安へと逃亡した。勃勃は進軍を続けて城に達したが、後秦の姚泓が迎撃を命じた姚紹に対して劣勢となり、勃勃は安定まで退き下がった。この時、儼は苟兒に襲い掛かって殺すと、城ごと後秦に降服してしまった。勃勃は安定に入れず、杏城に帰っていった。鳳翔五年(417、義熙十三年)の九月、笑いながら群臣に


 劉裕が秦(後秦)を伐つべく、水陸から進んでいると言う。裕は高世の略を有している。姚泓ごときが自ら固められるわけが無かろう!私は天時人事を以って動くが故、必ずこれに克てよう。また兄弟が内叛しており、どうして人を距す事が出来ようか!裕は既に長安を陥している。利は速返するに在り、正に子弟や諸將を留めて關中を守るべきであろう。裕が軫を発するのを待っていれば、私はこれを取ること芥を拾うが如くであり、再び我が士馬を労させる必要も無いわ。


と言った。そして、秣馬歯コすると共に、士卒に休養を与えた。程無くして安定へと移ると、後秦の嶺北の鎮戍郡縣は、尽く降服してきた。これによって勃勃は、嶺北の地を掌握するに至った。


第十四回更新

16

 東晉の劉裕が後秦を滅亡させ、長安に入ると、勃勃に書を携えた使者を派遣して、和好を通じると共に、兄弟の約を求めてきた。勃勃は中書侍郎の皇甫徽に文を作成するように命じ、これを淀み無く言えるまで暗記を繰り返した。そうしてから裕の使者を前に呼び出して、舍人に口述して書を為させ、封をして以って裕への答書として渡した。裕はこの文を一読すると、その内容を奇とした。使者はまた、勃勃の容儀が偉であり、英武は並ぶ者が見当たらないほどであったと付け加えた。これに裕は


 私の及ぶ所ではないな!


と歎じた。勃勃が統萬に帰還した時、劉裕も子の劉義真に長安の鎮を任せると、十二月、長安を離れて帰還した。閏十二月、勃勃がこれを聞くと、大いにスんで、王買コに


 朕は長安を進図しようと考えている。卿、試しにこれを取る方略を陳べられよ。


と尋ねると、王買コは


 劉裕は秦(後秦)を滅したのは、いわゆる乱を以って乱を平じただけであり、未だ徳政によって蒼生(人民)を済したわけでありません。關中は形勝の地ですが、弱才の小兒を以ってこれを守らせようとしており、経遠の規とは呼べません。そうまでして狼狽したかのように取って返したのは、すぐにでも簒事を成さんがためです。中原に意識を集中させている暇は無かったのです。陛下は順を以って逆を伐っており、義は幽顕を貫いておりますが故、百姓は陛下の義旗の至るを待ち望むこと、日を以って歳と為すほどです。青泥、上洛は、南師の衝要です。ここに遊兵を置いて、その去来の路を断っておくべきでしょう。然る後に潼關を閉じ、陝を塞いで、その水陸の道を絶つのです。陛下は長安に檄文をやって、恩沢を布すると伝えれば、三輔の父老は皆な壺漿を並べて、以って王師を迎えるでしょう。義真は独り空城に坐すだけで、逃竄する所も無ければ、一旬の間に必ずや麾下に面縛してきましょう。いわゆる兵不血刃とはこの事であり、戦わずして自と定せられましょう。


と答えた。勃勃はこれに満足し、子の赫連を都督前鋒諸軍事に任命し、撫軍大將軍とすると、騎兵二万を与えて南の長安へ向けて出撃させた。前將軍の赫連昌を潼關に配し、王買コを撫軍右長史に任命して、南の青泥を遮断させ、勃勃も大軍を率いて後続についた。鳳翔六年(418、義熙十四年)の正月、が渭陽に至ると、降服を願い出る者が道に続いた。劉義真は龍驤將軍の沈田子に兵を与えて、迎撃を命じた。しかし、戦況が不利な展開となったため、劉迴堡まで退いた。この田子は、義真の司馬である王鎮惡と険悪な関係にあった。そのため、鎮惡と共に出撃した時、鎮惡を殺してしまった。その田子も、義真によって殺されている。十月、義真は外軍を城中に全て呼び入れ、閉門して固守の構えを見せた。關中の郡縣は、尽く勃勃に降服した。が長安に夜襲を掛けたが、攻め落とすには至らなかった。勃勃が咸陽まで軍を進めてくると、長安は樵採して路絶した。劉裕に長安の現状が伝えられると、大いに慌てふためき、義真の鎮を東の洛陽に移し、朱齡石を雍州刺史に任命して、長安を守らせる事にした。十一月、義真は大規模な略奪をしながら東へと移動し、上に至った頃、百姓が齡石を長安から追い払い、勃勃を長安に迎え入れた。は兵三万を率いると、義真の追撃に乗り出した。東晉軍は撃ち破られ、義真は単騎で逃げるのがやっとだった。この追撃で、買コは寧朔將軍の傅弘之、輔國將軍の恩、義真の司馬の毛脩之を青泥で生け捕りにした。勃勃は人頭を積み上げて京觀を作った。ここで勃勃は、長安で將士を集めて盛大な酒宴を催し、觴を挙げて買コに


 卿の往日の言、一周にして功を果した。その算に遺策の無きと言えようぞ。宗廟社稷の靈のお蔭もあろうが、卿の謀猷の力も大であった。この觴が集うところ、卿に非ざれば誰があろう!


と言った。そして、王買コを都官尚書に任命して、冠軍將軍を加えて、河陽侯に封じた。


第十五回更新

17

 赫連昌が東晉の朱齡石と龍驤將軍の王敬が守る潼關の曹公故壘に攻め込み、これを陥落させると、齡石と敬を生け捕りにして長安へと送った。群臣が進位するよう勧めたが、勃勃は


 朕は撥乱の才も無いため、広く兆庶(人民)を済する事も出来ぬまま、自と戈を枕とし甲のままに寢ること十有二年、四海は未だ同じとならず、遺寇は尚お熾であり、何を以って當年に責を謝したらいいのか、これを來葉(後世)に垂らしたらいいのか知らない!今なすべき事は明揚仄陋であり、王位を以ってこれに譲る事だ。然る後は朔方に帰老して、琴書に親しみながら卒歳を迎えたいのだ。皇帝の号など、薄徳で応じられようか!


と固辞した。しかし、群臣が強く求めてきたため、これを聞き入れた。上に壇を築くと、皇帝位に即いた。境内に恩赦を発して、鳳翔六年を以って昌武元年と改めた。昌武二年(419、元熙元年)の正月、叱奴侯提に歩兵騎兵の二万を与えて、東晉并州刺史の毛コ祖が守る蒲坂を攻撃させた。コ祖は洛陽へと退却した。侯提を并州刺史に任命して、蒲坂を鎮させた。


第十六回更新

18

 勃勃が長安に戻ると、二月、隱士で京兆の韋祖思を召し出した。その祖思が至ったが、恭懼にして過禮であったため、勃勃は怒りを露わにして


 私は國士として汝を召したのだ。それがどうして、非類の者として私の下に来たか!お前はその昔に姚興に拜さなかったと言うが、どうして俺には拜したと言うのだ?俺は今、未だ死していないが、お前が俺を帝王と認めていないと言うのか。俺が死んだ後、お前らは筆を弄して、俺を何の地に置こうとしているか!


と言って、韋祖思を殺した。


第十七回更新〜第十九回更新

19

 勃勃は統萬に戻ると、宮殿を大成させると、境内に恩赦を出し、昌武二年を以って真興元年と改めた。都の南に刻石して、その功徳を頌した。その内容は


 そもそも大徳の盛んなる者は、必ず不刊の業を建つる。道を以って慶隆を積む者は、必ず無窮の祚を享く。その昔、陶唐の世にあって、幾度と無く厄運が鍾(集)まりしに、我が皇祖の大禹は至聖の姿を以って、經綸の会に当たり、龍門を鑿して伊闕を闢(開)き、三江を疏(通)して九河を決め、一元の窮災を夷し、六合の沈溺を拯い、鴻なる績は天地にr(等)しく、神なる功は造化を邁(過)ぎ、故に二儀(天地)は祉(福)を降し、三靈は贊を叶(協)し、揖讓されて受終し、有夏を光啓された。傳世すること二十、歴載すること四百、賢辟は相い承け、哲王は軌を継ぎ、徽猷は玄古に冠たり、高範は疇昔に煥たり。而れども道は常夷(平)ならずして、しばしば或いは屯険に遭い、王桀(桀王)が綱せざるがために、綱は殷氏を漏し、金暉が中天に絶され、神轡が促路に輟された。純曜は未だ渝(溢)れざるも、慶は万祀に緜(連)なり、龍は漠南に飛して、鳳は朔北に峙した。長轡にて遠を馭すれば、則ち西は崑山の外を罩(覆)う。密網にて遐を張れば、則ち東は滄海の表に(張)れる。爰(ここ)に始まりて今に逮(及)ぶまで、二千余載、三統は制を函に迭(替)えられ、五徳は運を伊洛に革(改)められ、秦雍は簒弑の墟を成し、周豫は爭奪の藪と為ったと言えども、幽朔は謐爾として、主は上を常尊する有り。海代は晏然として、物は下を異望する無し。故に控弦の衆は百有余万に上り、躍馬は長駆し、鼓して秦趙に行き、中原をして奔命に疲させ、諸夏は高枕するを得ざるは、日久と為る。是を以って偏師は暫(俄)かに擬し、陽は隆周の鋒を摧した。赫斯が一奮し、平陽は漢祖の鋭を挫いた。霸王が継蹤したと言えども、猶お朝日の扶桑に升るが如し。英豪が接踵したと言えども、夕月が濛に登るが如し。開闢より以来、未だ始めを聞かざるはなし。夫に非ざれば卜世は乾坤と長なるを比し、鴻基は山嶽と固なるを齊(等)しくし、孰れか能く千葉を本枝にし、万祀に重光するに、寒霜を履みて榮を踰え、重氛を蒙りていよいよ耀する者のあらんや!

20

 ここにおいて玄符は徴を告げ、大猷は会を有し、我が皇は命世の期に誕し、天縱の運に応じ、仰しては時來に協い、俯しては時望に順った。龍が北京に升れば、則ち義風が九区を蓋う。鳳が天域に翔すれば、則ち威声は八表を格した。姦雄が鼎峙の秋に、群凶が嶽立の際に属(連)なり、昧旦(未明)に朝に臨み、日(日暮)に膳を忘れ、運籌の命將は、挙げるに遺策の無し。六戎を親御すれば、則ち征の有れど戦は無し。故に偽秦は三世の資を以って、魂を關隴に喪した。河源は旗を望みて質を委し、北虜は風(風化)を欽し納款した。徳音は柔服を著しくし、威刑は伐叛を彰らかにし、文教は武功と共に宣されて、俎豆は干戈と共に運ばれた。五稔(五年)の間、道風は弘く著しくなり、七載に至り王猷は允洽した。乃ち遠く周文(周・文王)を惟(思)いて、經始の基を啓(開)いた。近くは山川を詳らかにし、形勝の地を究めて、遂に都城を営起し、京邑を開建した。名山を背にし洪流に面し、左に河津、右には重塞がある。高隅が日を隠し、崇は雲を際し、石郭や天池は、千里を周緜している。それらは独守の形、険絶の状を為し、固なるは咸陽を遠く邁(過)ぎ、周洛を超美した。五郊の義を広げて、七廟の制を尊し、左社の規を崇し、右稷の禮を建てるに至り、太一を御して以って明堂を繕い、帝坐を模して路寢を営し、闔は霄を披(開)いて山亭とし、象魏は虚を排(配)して嶽峙とし、華林や霊沼、崇臺や祕室、通房や連閣、馳道や苑園は、以って蔭は萬邦を映し、光は四海を覆うに可なれば、鬱然と並び建たざるは無く、森然と畢備されて、紫微の皇穹を帯びるが如く、風の后土を跨ぐが如し。宰司や鼎臣、群黎や士庶は、僉(皆)な以って重威の式を為し、闕前の王の有り。ここにおいて王爾に奇工を延べさせ、班輸に妙匠を命じ、文梓をケ林に搜し、石を恒嶽に採り、九域は貢ぐに金銀を以ってし、八方はその寶を献し、神奇を親運し、規矩を參制し、離宮を露寢の南に営し、別殿を永安の北に起(建)てた。高構は千尋であり、崇基は万仞である。玄棟の鏤は、騰虹の揚眉の如し。飛簷の舒咢は、翔鵬の矯翼に似る。二序が啓(開)かれて、五時の坐が開かれた。四隅が陳設されて、一御の位が建てられた。温宮の膠葛、涼殿の崢エは、絡みて以って隨珠となり、戟i交)わりて以って金鏡となる。曦望(日月)が互いに表に升ったと言えども、中に昼夜の殊は無し。陰陽が迭(互)いに外を更(改)めると言えども、内に寒暑の別は無し。故に善目なる者でもその名を為す事は能わず、博弁なる者でもその称を究める事は能わずして、これ蓋し神明の規模とする所であり、人工の經制する所に非ず。名を尋ねて以って類を求って、状を跡(追)って以って真を効し、質に拠して以って名を究め、形の妙出に疑するに及べば、如來須彌の寶塔、帝釋利の神宮と言えども、尚お未だその麗を喩うるに、その飾を方(比)するに足りず。

21

 その昔、周宣(周・宣王)が考室して詩人を詠し、宮は(静寂)であり頌声はここに作さる。況んや太微は制を肇め、清都が建て啓かれ、軌は文昌と一とし、旧章は唯だ始められ、咸(皆)な百神を秩し、賓は万国を享け、群生(人民)はその耳目を開き、天下はその來蘇を詠み、亦た何ぞ得不これを管弦にて播せざるを、これを金石に刊せざるを得んや!乃ち都邑に樹銘し、碩美を敷讚し、皇風をして來葉を振わせ、聖庸をして不朽に垂らしめん。その辞に曰く



於赫靈祚,配乾比隆.  於赫たる靈祚は、配乾と隆に比す。
巍巍大禹,堂堂聖功.  巍巍たる大禹は、堂堂たる聖功。
仁被蒼生,コ格玄穹.  仁は蒼生(人民)を被い、
            徳は玄穹を格す。

帝錫玄珪,揖讓受終.  帝は玄珪を錫とし、揖讓するも受終す。
哲王繼軌,光闡徽風.  哲王は軌を継ぎ、徽風を光闡す。
道無常夷,數或不競.  道に常に夷(平)なること無く、
            しばしば或いは競わず。

金精南邁,天輝北映.  金精が南邁し、天輝が北映す。
靈祉踰昌,世葉彌盛.  霊祉は昌を踰(超)え、
            世葉はいよいよ盛んなり。
惟祖惟父,克廣休命.  惟祖惟父は、休命を克く広める。

如彼日月,連光接鏡.  彼の日月の如く、連光は鏡に接す。
玄符瑞コ,乾運有歸.  玄符瑞徳は、乾運の帰る有り。
誕鍾我后,應圖龍飛.  我后に鍾(集)まりて、
            應に龍飛を圖らんとす。

落落神武,恢恢聖姿.  落落たる神武、恢恢たる聖姿。
名教内敷,羣妖外夷.  名教は内に敷かれ、
            羣妖は外に夷(滅)さる。
化光四表,威截九圍.  化(教化)は四表を光し、
            威は九圍を截(治)める。

封畿之制,王者常經.  封畿の制は、王者の常なる經なり。
乃延輸爾,肇建帝京.  乃ち輸爾を延べ、帝京を建て肇む。
土苞上壤,地跨勝形.  土は上壤を苞(包)み、
            地は勝形を跨ぐ。

庶人子來,不日而成.  庶人子が來たれば、
            日せずして而して成る。
崇臺霄峙,秀闕雲亭.  崇臺は霄峙たり、秀闕は雲亭たり。
連隅,萬閣接屏.  千は隅に連なり、万閣は屏を接ぐ。

晃若晨曦,昭若列星.  晃は晨曦の若ぐ、昭は列星の若し。
離宮既作,別宇云施.  離宮は既に作され、
            別宇は云施(雲施)す。
爰構崇明,仰準乾儀.  爰に崇明を構え、
            仰いでは乾儀に準(なぞら)う。

懸甍風閲,飛軒雲垂.  懸甍は風を閲(集)め、
            飛軒は雲を垂らす。
温室嵯峨,層城參差.  温室は嵯峨たり、層城は參差たり。
楹彫獸,節鏤龍.  楹は獸を彫り、節は龍を鏤む。

瑩以寶璞,飾以珍奇.  瑩するに宝璞を以ってし、
            飾するに珍奇を以ってす。
稱因褒著,名由實揚.  称に因りて褒は著しく、
            名に由りて実は揚げらる。
偉哉皇室,盛矣厥章!  偉なるかな皇室、盛なるかな厥章!

義高靈臺,美隆未央.  義は靈臺より高し、美は未央より隆し。
邁軌三五,貽則霸王.  軌は三五を邁(過)ぎ、
            則を霸王に貽(残)す。
永世垂範,億載彌光.  永世に範を垂れ、億載にいよいよ光す。


と。


と言うものであった。祕書監の胡義周による辞である。南門を朝宋門、東門を招魏門、西門を服涼門、北門を平朔門と命名した。高祖の劉訓兜を元皇帝と、曾祖父の劉虎を景皇帝と、祖父の劉豹子を宣皇帝と、父の劉衞辰を桓皇帝と追尊し、廟号を太祖とすると、母の苻氏を桓文皇后とした。


第二十回更新

22

 勃勃の性格は凶暴で殺すのを好み、順守の規と言うものは無かった。城上に居る時はいつも、弓と剣をすぐ横に置いていて、ちょっとでも嫌忿する事があると、これらを手に執って殺していた。群臣で忤視する者がいればその目を毀し、笑う者がいればその脣を切り裂き、諫める者がいれば謂れを誹謗であると言って、先にその舌を切り落とし、その後で斬り殺した。これにらによって、夷夏は囂然とし、人は生を頼みとする所を失った。在位十三年の時、真興二年(420、元熙二年)に劉宋が受禪している。真興七年(425、元嘉二年)の八月、死去した。子の赫連昌が皇帝位を継いだ。真興七年を以って承光元年と改めた。承光四年(428、元嘉五年)の二月、昌は北魏に捕えられた。弟の赫連定が平涼で皇帝位に即いた。承光四年を以って勝光元年と改めた。勝光四年(431、元嘉八年)の六月、北魏に滅ぼされた。勃勃から定に至るまで、およそ二十五載で夏は滅亡した。


2011/10/08  終了。


『晉書』「載記」 赫連勃勃 - 3201〜3214 -


第一回更新    開始 残り21段 全22段  2011/09/26
第二回更新    更新 残り20段
第三回更新    更新 残り19段
第四回更新    更新 残り18段
第五回更新    更新 残り17段
第六回更新    更新 残り16段
第七回更新    更新 残り15段
第八回更新    更新 残り13段      2011/09/30
第九回更新    更新 残り12段
第十回更新    更新 残り11段
第十一回更新   更新 残り09段
第十二回更新   更新 残り08段
第十三回更新   更新 残り07段
第十四回更新   更新 残り06段
第十五回更新   更新 残り05段
第十六回更新   更新 残り04段
第十七回更新   更新 残り03段      2011/10/08
第十八回更新   更新 残り02段
第十九回更新   更新 残り01段
第二十回更新   終了           2011/10/08


2011/10/08 終了。