2011/04/10 開始
01
何胤、字を子季と言い、何點の弟である。八歳の時に父親を亡くしたが、その哀毀は成人のようであった。その後、学問好きに成長した。沛國の劉

に師事して、『易』を始め『禮記』、『毛詩』を手解きを受けた。また、鍾山の定林寺に入って、内典を聴講した。これらの業に、皆な通じた。しかし、勝手気ままな性格のため、これが人の知る所とはならなかった。ただ、師匠である

と汝南の周

だけが、深くこの才能を認めていた。
第二回更新
02
南齊の時、祕書郎として初仕官し、太子舍人に遷された。建安太守として中央を離れたが、その為政は恩信を有していて、人民は反抗的な態度を見せる事は無かった。伏臘祭の日には、囚人を釈放して家に還えらせ、期日を定めて戻らせた。尚書三公郎として中央に呼び戻されたが、拝命しなかった。そのため司徒主簿に遷された。『易』に注を附し、また、『禮記』を解釈すると、卷にこれを裏書して、隱義と呼んだ。中書郎、員外散騎常侍、太尉從事中郎、司徒右長史、給事黄門侍郎、太子中庶子、領國子博士、丹陽邑中正を歴任した。尚書令の王儉に新禮を撰するよう詔が下されたが、永明七年(489)の五月、完成させる事無くこの世を去った。その後任に特進の張緒が充てられたが、緒も同年中に死去してしまった。司徒で竟陵王の蕭子良に引き継ぐよう命が下されたが、子良は胤にその役を譲った。そのために、學士二十人が置かれ、胤の撰録の輔佐に当たった。永明十年(492)、侍中、領歩兵校尉に遷され、その後、國子祭酒に転じられた。永明十一年(492)、武帝が崩御すると、鬱林王の蕭昭業が皇帝位に即いた。胤は皇后の何氏の從叔だったため、大いに親待を受ける事となった。累遷して左民尚書、領驍騎、中書令となると、臨海、巴陵の王師を配された。
第三回更新
03
胤は貴顕になると、もうこれで充分だと思うようになっていた。建武元年(494)までに、郊外に室を築き、小山と呼んだが、その内でいつも學徒と遊処していた。遂に園宅を購入して、東山へと向かう事とした。出発の数日前、謝朏が呉興太守を辞めて去ったと知ると、胤はこれに遅れを取るまいと、辞職の上表をした。そして、その返答を待たずに、去ってしまった。そのため、明帝(蕭鸞)は激怒して、御史中丞の袁昂に胤を捕えさせようとしたが、程無くして胤の辞職を許可する詔を下した。胤は會稽山に多霊が多いと聞きつけ、そこへと向かい、若邪山の雲門寺に居した。胤には二兄がいたが、何求、何點はどちらも、この時既に栖遁していた。先に求は死去してしまっていたが、胤もここに至って隱遁する事を選んだ。點は世間から大山と呼ばれていた事から、胤は小山、亦た東山と呼ばれるようになった。
第四回更新
04
永元年間中(499〜501)、太常、太子・事と二度に渡って任命を受けたが、どちらも就く事は無かった。蕭衍が霸府を建てると、胤を軍謀祭酒として招き入れようと、書を送って
「
想いは常に清豫にあり、情を林壑にほしいままにして、歓たるに致っている。既に内では心戦を絶つも、外では物役を労し、道を以って養和せんとするも、候を履して爽なる無し。若邪は東區にて擅美であり、山川が相い連なっており、前世から嘉賞されていて、正に楽土であろう。僕は簿官に推遷されて、東に西に行っては戻っている。素対と悟言したくなるも、


されているため、傾首して東顧するも、どうも叶えられそうにも無い。疇昔、歓遇せんとして、裾を曳して儒肆に赴き、誠に千載に臥遊して、百氏を畋漁せんと欲するも、一たび吏と為らば、この事は遂に乖された。世道が威夷するにかこつけ、屯を離れて、投袂すること数千、釁禍を黜した。卷を矚して款を諮する得るを思い、情を古昔に寓そうと、これを叶えるために、事に与する事を謝するを願う。君は清襟を素より抱き、栖は近くに寄っていない。人世に中居しているも、殆ど隱淪と同じである。既に青組を俯拾するも、また、

と朱黻を脱ぐ。理は用捨に存し、義は時に隨うを貴とするも、往時に禍の萌ずるを識るは、誠に先覺と言え、超然にして独善であり、欽嗟を識った。今は邦と為り、貧賤は皆な恥じ、仁を好むこと己のようであれば、幸は凝滞する事は無かろう。具白するに及ぶも、未だ言を尽せざり。今、候を遣して音息を尋ねる。首を矯して翰の還りを待つ。この引領を慰されたし。
」
と陳べたが、胤が至る事は無かった。
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05
蕭衍(梁・高祖)が禅譲を受けて、四月、皇帝位に即くと、天監元年(502)と改元した。そして、詔を下して胤を特進、右光祿大夫に任命した。その文面を自ら書いて
「
私は畏れ多くも期運に当たり、この樂推に応じようとするも、己を顧れば蒙蔽にして、治道に昧し。日昃に劬勞するも、思いは隆平に致るにあり、先王の遺範は、なお方策を蘊し、息挙の用は、その人に存している。世道が澆暮になってより、爭詐が頻繁に起きるようになり、俗は改まり風は遷するも、良なるは未だ変わらない。もし、儒雅が朝廷に弘がらず、高尚が万物を軌せないのであれば、汨流(急流)は至る所に流れ、その限りを知る事は出来ない。治人は治身であり、独善は兼済であり、得失去取は、誰が多くを用いられるであろう。私は学は無いが、博古の士が好んでいる。なお高塵を想い、撃節を抱いてきた。今、世務は紛乱し、憂責に当たるも、道を巖阿に屈せざるを得ず、共に世美を成してくれまいか。必ずや深を望み往懐に達し、濡足するを吝せず。今、領軍司馬の王果を遣して宣旨諭意させる。面する日の近くにあるを願う。
」
と陳べた。王果が到着すると、胤は単衣に鹿巾姿でこれを迎え、經卷を受け取ると、牀を下りて詔書を跪受し、席に着いて伏読した。読み終えると胤は、果に向かって
「
私は昔、齊朝にあって二、三の条事を陳べようとしました。一つ目は郊丘を正さんと、二つ目は九鼎を新たに鑄さんと、三つ目は雙闕を建てんとするためです。代々伝えられてきたところでは、晉室を闕を立てようとしましたが、王丞相(東晉、王導)が牛頭山を指差して『これ天闕なり』と言ったそうで、未だ立闕の意を明らかにしていません。闕は、象魏とも言います。縣象(天象)は上を法するものであり、浹日してこれを收めます。象とは法です。魏とは、当塗にして高大な貌です。鼎は神器であり、國に先んじて有り、故に王孫滿(春秋・周)は斥言し、楚子は頓尽されました。圓丘と國郊は、旧典では同じとされていません。南郊は五帝靈威仰の類を祠する所であり、圓丘は天皇大帝、北極大星を祠する所です。往代、郊丘を同一としてしまったのは、先儒の巨失と言えます。今、梁徳の始まりを告げたばかりであり、前謬に拠ってはなりません。卿が闕を詣して、この事を陳べたいのですが。
」
と言うと、これに王果は
「
僕は鄙劣であり、軽々に國典を議す事など出来ません。叔孫生(前漢・叔孫通)を敬俟するしかありません。
」
と答えた。胤は
「
卿はどうして詔を伝えたのですから、還朝して拜表されるのでしょう?それならば、私を一緒に連れて行ってもらえませんかな?
」
と尋ねた。王果はこれに愕然として
「
古今にそのような例を聞いた事がありません。
」
と答えると、胤は
「
「檀弓」(『禮記』の篇名)の兩卷は、皆な物の始まりを陳べています。卿より始めればよいではありませんか。どうして前例を必要とされますか?
」
と言った。これに王果は
「
今、君は遂に

然として絶世です。それでも、なお致身の理を有されているのですか?
」
と問うた。これに胤は
「
卿は、ただ、事を以って推したのでしょうが、私の年は既に五十七です。月に四斗の米も食べ切れません。何で宦情を抱きましょうか。その昔、聖王の眄識を荷いました。そして今、また旌賁を蒙りました。そこで、闕を詣して恩に謝する事を切に願ったまでです。ただ最近、足腰の調子が思わしくないため、この心が遂げられずにいるのです。
」
と答えた。
第六回更新
06
王果は帰還すると、胤の意を奏聞した。これを受けて、白衣と尚書の祿を給するよう勅が下されたが、胤は固辞して受けなかった。また、山陰庫錢として月に五万を給するとされが、これも胤は受けなかった。天監四年(505)の正月、胤に敕が下され
「
この頃、学業が淪廃され、儒術も風前の灯となり、閭閻からも

紳からも、好事を聞く事は稀になっている。私は常日頃から獎を弘げる事を思ってきたが、その風は未だ移らず、

に当たるも口から出てくるのは歎きばかりである。卿には屈してもらって出てきて、後生を開導して欲しい。既に学業が廃されたが、この思いは未だ遂げられず、延佇の労は、夢にまで出てくるまでになってしまった。舟を理して席を虚し、來秋を俟って、望む所は恵然として宿抱を申す事だけだ。卿の門徒は經明の行脩に当たっているが、その数はいかばかり有るか?また、彼の堂堂を瞻したいところだが、ここに周行を置くゆえ、具すに名聞を以ってし、その勞望に副わんとす。
」
と陳べられた。また
「
ここ数年、學者は殊に寡少となり、聚徒が増える気配は無く、故に明經は廃れる一方である。これをいつも思うが、その度に慨然となっていた。卿は儒宗に居しており、加えて徳素を有している。そこで、後進で意向を有している者に、卿の業を授けてもらいたい。深思誨誘を想い、この文より興されたし。
」
と陳べられた。そして、何子朗、孔壽ら六人が遣わされて、東山で學を授けられた。
第七回更新
07
前年に会稽郡太守として赴任した衡陽郡王の蕭元簡は、胤に深く禮敬を加えていて、月内に一度は駕を出させて式閭し、談論すること終日であった。胤は以若邪山が狹かった事から、生徒を受け入れる事が出来なくなり、秦望山へと移った。山には飛泉があり、その西に學舍を建てた。林に接して援護とし、巖に寄って堵とした。別に小閤室を造って、その中を寝床とした。胤が自ら開閉していたため、僮僕は至る事が出来なかった。山側には營田二頃を有していたが、講義の合い間を見ては、生徒を連れて遊していた。胤が移り住んですぐの頃、室を築こうとしていたら、玄冠を被った二人が、どこからともなく現われた。その容貌は甚だ偉であり、その一人が胤に
「
君、ここら辺に居すおつもりかね?
」
と問い、ある場所を指差して
「
そこが殊吉ですぞ。
」
と言うと、忽然とその姿を消してしまった。胤はこの言に従って、ここを場所と定めた。数日後、山で洪水が発生し、樹や石は皆ななぎ倒されてしまったが、胤の居室だけは無傷のままで残った。これを知った蕭元簡は、記室參軍の鍾エに命じて、瑞室頌を作させ、石に刻ませてこれを旌した。天監十三年(514)、元簡は郡を去る事になると、入山して胤に別れを告げた。都賜

まで見送りに出ると、郡を去ること三里の場所だが
「
僕は自ら人事を棄して、交遊の路を断ってきました。普通であれば、貴山の藪を降りるだけでも容れられないところですが、君であらばこそです。しかし、それでも、城邑を望む事までは容れられません。今、この

までの遊で、お別れとしましょう。
」
と言って手を握ると、涙をこぼした。
第八回更新
08
何氏が長江を渡り、東晉の司空であった何充より以来、呉西山に埋葬されてきた。胤の家系は、皆な短命であった。ただ、祖父の何尚之が七十二歳に至ったくらいであった。胤の年もその尚之の享年にまで達すると、呉へと戻る事を決心した。別山に詩一首を詠んでいるが、その言は甚だ悽愴であった。呉に戻ると、虎丘山の西寺に居して經論を講義した。學徒も胤の移動に従った。また、東境で守宰で經を志す者で、至らなかった者はいなかったと言われる。胤は殺生を禁じていた。虞人に逐われた鹿が、胤の下へと駆け寄ってきて、伏せてじっと動かなかった。また、鶴のような形状の異鳥が、色は紅色であった、講堂に集まってくると、その馴れ親しむ様は家禽のようであった。
第九回更新
09
開善寺の藏法師が、胤と秦望山で行き会った事があった。この後に都に帰り、鍾山で死去している。その死去した日、胤は般若寺にいたが、一人の僧が現われ、胤に香爐奩と函書を手渡した。表書きには「呈何居士(何居士に呈す)」と書かれてあった。用件を終えると、その僧は姿を消してしまっていた。胤は函を開いてみると、『大莊嚴論』が納められていた。世にまだ存在していない書物である。また、寺の境内に明珠柱を立てると、七日七夜に渡って光を放った。呉郡太守の何遠が、この事を上奏した。昭明太子(蕭統)はその徳に敬を覚え、舍人の何思澄に手令を持たせて派遣し、これを褒美として与えた。
第十回更新
10
中大通三年(531)、死去した。享年八十六。これより以前、胤が病床に伏せていた時、妻の江氏が夢を見た。神人が現われ
「
お前の夫は寿命が尽きようとしている。既に至徳を有しているがため、期を延ばしてもよいぞ。代わりにお前の寿命が尽きるが。
」
と告げたと言うのだ。江氏は目覚めると、すぐにこの事を胤に話した。この日の以後、病気を発症し、そして死去したのだが、胤の病状が落ち着いていた時期があった。その時、胤の夢に一人の神女が現われた。八十人ばかりを引き連れていて、皆な衣

を身に着けていた。その行列が前に至ると、皆な牀下にて拝すのであった。ここで目が覚めたのだが、それでも、その姿が見えていた。そして、凶具(棺)を用意せよと命じたのであった。これ以後、病状が再び進行し、終ぞ治る事は無かったのである。
11
胤は『百法論』、『十二門論』に注を附して、それぞれ一卷をなした。『周易』の注を附した物は十卷、『毛詩總集』六卷、『毛詩隱義』十卷、『禮記隱義』二十卷、『禮答問』五十五卷を残している。
12
子の何撰も仕官しなかった。廬陵王の蕭續から主簿に任命されているが、就く事は無かった。
2011/04/10 終了。
『晉書』「處士」 何點/弟胤 - 735〜739 -
第一回更新 開始 残り11段 全12段 2011/04/10
第二回更新 更新 残り10段
第三回更新 更新 残り09段
第四回更新 更新 残り08段
第五回更新 更新 残り07段
第六回更新 更新 残り06段
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第八回更新 更新 残り04段
第九回更新 更新 残り03段
第十回更新 終了
2011/04/10 終了。