2012/02/11 開始
01
江總、字を總持と言い、濟陽郡は考城縣の人である。西晉の散騎常侍であった江統の十世孫に当たる。五世祖の江湛は、劉宋の左光祿大夫、開府儀同三司で、謚号を忠簡公とされている。祖父の江

は、梁の光祿大夫で、当代にあって名を知られた。父の江

は、南徐州迎主簿に任命されたが、若くして父を亡くすと、そのまま毀卒してしまった。この事は、『梁書』「孝行傳」に見える。
第二回更新
02
梁の普通六年(525)、父の江

が死去すると、時に總が七歳であったが、母方の家に引き取られた。總は幼かったが、聡明で機転が利く子で、天賦のものと言える品性を有していた。總を引き取った舅は、呉平光侯の蕭

と言い、その名を知られた人物であった。その

は、總に格別の愛情を注いでいて、ある時
「
お前の操行は、今ですら既に殊に異であるが、その神(精神)も采(風采)も英拔したものとなろう。行く行くは名を知られるところとなり、そうなれば、我が右に出よう。
」
と總に言った事があった。果たして成長すると、熱心に学問に取り組み、文才を有すにまで至った。蕭家には歴代に賜された書が数千卷が蔵されていて、總は昼夜を問わずそれらを読み耽り、その読む手を止める事は無かった。大同二年(536)、年十八になった總は、宣惠武陵王府法曹參軍として初出仕した。中權將軍、丹陽尹の何敬容が開府すると、佐史を設置した。それらには高位の子弟が充てられ、總はその敬容府の主簿に任命された。尚書殿中郎に遷される。梁の武帝(蕭衍)が『正言始畢』を撰して、述懷詩を製しると、總もこの作を共にした。武帝が總の詩を覧じると、深く感嘆の声を漏らした。侍郎に転じられる。範陽出身で尚書僕射の張

、琅邪出身で度支尚書の王

、南陽出身で都官尚書の劉之

は、いずれもが高才にして碩学として知られた人物であるが、總が年少ながらも名を知られるようになると、

らは推重するようになり、年齢差を超えて交友した。之

は總に酬詩して
「
上位居崇禮 上位は崇禮を居とし、
寺署隣栖息 寺署の隣に栖息す。
忌聞曉

唱 忌むは曉に

唱を聞くを。
毎畏晨光

毎(つね)に畏るは晨光の

なるを。
高談意未窮 高談の意は未だ窮まらず、
晤對賞無極 晤對の賞は極まる無し。
探急共遨遊 探急して共に遨遊して、
休沐忘退食 休沐して退(の)くも食すも忘る。
曷用銷鄙吝 曷(いつ)か用(以)って鄙吝を銷し、
枉趾覯顏色 枉(いたずら)に趾して顏色を覯(見)ん。
下上數千載 下上より數千載、
揚

吐胸臆 揚

して胸臆を吐かん。
」
と陳べた。通人に欽

される事は、このようであった。太子洗馬に遷されたが、臨安令として中央を逐われた。中軍宣城王府限内録事參軍として中央に呼び戻され、太子中舍人に転じられた。
第三回更新〜第五回更新
03
太清二年(548)、東魏國と通好すると、總に詔が下されて、徐陵と共に攝官として報聘を命じられたが、總は病気のために行く事が出来なかった。侯景が京都(建康)に侵攻してくると、權兼太常卿として、小廟を守るよう總に詔が下された。臺城が陥落すると、總は崎嶇へと逃げ込んで、辿り辿って會稽郡へとたどり着き、龍華寺に身を寄せた。そこで修心賦を製して、序に時事を記した。その内容は
「
太清四年(550)の秋七月、會稽は龍華寺に避地してきた。ここの伽藍は、余(私)が六世祖、宋の尚書右僕射にして州陵侯(江夷)が元嘉二十四年(447)に構えし所なり。侯の王父たる晉の護軍將軍の

は、昔にこの邦に莅(臨)み、卜して山陰の都陽里に居すと、厥(そ)れ子孫に貽す事を、終焉の志とした。寺域は則ち宅の旧基であり、左に江、右に湖、面に山、背に壑があり、東西に連跨し、南北に紆

しているが、聊か名僧と苦節を共にし、同に日用を銷かし、曉には經戒を脩め、夕には圖書を覽じ、風雲を寢処として、水月に憑棲したと言う。しかし、意せずして華と戎の辨(分)する莫く、朝市は傾淪し、此を以って傷情したと言うが、その情は知るべし。啜泣して翰を濡らし、鬱結を

(広)げたと思われるが、庶うは後に君子を生まん、と。余はこの概に憫さる。
04
南斗の分次を嘉して、東越の靈祕を肇む。檜風を韓什に表して、鎮山にて周記を著す。大禹の金書を蘊して、暴秦の石字を鐫す。太史が來たりて探穴し、鍾離を去りて笥を開き、竹箭の珍と為すを信とし、何ぞ


が罕なる値であろうか。盛コの鴻祀を奉り、安禪の古寺に寓し、豫章の舊圃を寔(實)して、黄金の勝地を成した。そして、寂默の幽心を遂げると、鏡中の若く遠尋し、曾阜の超忽に面し、平湖の迥深に邇(近)づいた。山條は偃蹇し、水葉は侵淫し、挂猿は朝に落ち、飢

は夜に吟ず。菓が叢する藥苑、桃が蹊(渡)る橘林は、梢雲が日を拂(被)う事により、暗を結びて陰を生ず。自然の雅趣を保ち、人閧フ荒雜を鄙とす。島嶼の

回するを望むれば、江源の重沓するに面して、流月の夜迥するを泛(浮)かべており、光煙の曉に匝(巡)るまで曳(惹)かる。風は蜩を引きて嘶譟とさせ、雨は林を鳴して

颯とさせ、鳥は稍(次第)に狎(戯)れて來たるを知り、雲は情無う自と合す。
05
野に靈塔を開き、地に禪居を築き、園の迢

なるを喜び、樹の扶疎なるを樂とす。經行して草を籍(踏)み、宴坐して渠に臨む。持戒せんと振錫してきたが、影に度(居)して蔬を甘(食)してしまう。堅固の林は喩している。寂滅の場は

(速)く如(行)くべきであると。曲の終わりて悲しみの起こるとは異とし、木(葉)の落ちて悲しみの始まるに非らず。志を降して身を辱しめ、才を露わさずして己を揚げざる事ではないか。風雨の如晦(暗さを増す)に鍾(当)たり、鶏鳴の聒耳なるを倦みて、避地に幸(行)きて高きに棲み、調御の遺旨に憑いた。四辯の微言を折りて、三乘の妙理を悟り、十纏の繋縛を遣(払)い、五惑の塵滓を

(散)らし、久しく勢利より遺榮して、庶うは妻子に累するを忘れ、意気を疇日に感じて、知音の來祀(後年)に寄らん事を。何ぞ客の遠くを悲しもう。自憐するその何已(何以)を知る。
」
と言うものであった。總の第九舅である蕭勃が、これ以前から廣州刺史として赴任していたため、總は會稽から頼って向かった。大寶三年(552)の四月、湘東王の蕭繹が、十一月に即位して元帝となるが、侯景の叛乱を平定した。總を明威將軍、始興内史として中央に呼び戻して、郡秩を米八百斛とし、總に行裝も支給した。承聖三年(554)の十二月、江陵が西魏によって陥落させられ、元帝が殺されてしまったため、遂に赴く事が出来なかった。總は再び流寓の身となり、嶺南で数年を過ごす羽目となった。時代は陳へと移り、天嘉四年(563)、中書侍郎として中央に帰還する事が叶い、侍中省に当たった。司徒右長史、掌東宮管記、給事黄門侍郎、領南徐州大中正と累遷した。太子中庶子、通直散騎常侍に任命された。東宮、中正はそのままである。左民尚書に遷され、太建八年(576)の六月、太子・事に転じられた。中正はそのままである。太子の陳叔寶と長夜の飲を為すと、良

の陳氏を嫁にやった。また、太子が總の舍に微行したりなどしたため、宣帝(陳

)が怒って太子・事から罷免した。程無くして侍中に任命され、領左驍騎將軍とされた。左民尚書に復帰し、領左軍將軍とされたが、その拝命の前に、また公事によって免じられた。しかし、すぐさま散騎常侍、明烈將軍、司徒左長史に任命され、太常卿に遷された。
第六回更新
06
太建十四年(582)の正月、宣帝が病没すると、太子の陳叔寶が皇帝位に即いた。後主である。祠部尚書に任命され、領左驍騎將軍とされ、選事に參掌した。至コ元年(583)の正月、散騎常侍、吏部尚書に転じられた。至コ二年(584)の五月、尚書僕射に遷された。參掌はそのままである。至コ四年(586)、宣惠將軍が加えられ、佐史を置いた。五月、尚書令に任命され、鼓吹一部を給され、扶が加えられた。策において
「
於戲、そも文昌(尚書)は政の本であり、司會は經を治むるものだ。故に韋彪(後漢)がこれを樞機と謂い、李固(後漢)がこれを斗極に方(類)した。その五曹がこれを綜べ、百揆が是れ諧しており、冢宰の司と同じであり、臺閣の任を専らにしている。道業の標峻にして、

量の弘深、勝範の清規なるを惟んみれば、風流は以って准的と為り、辞が學府を宗(尊)すれば、衣冠は以って領袖と為る。故に師長や六官が、具瞻を允塞させ、明府や八座が、儀形を遠くに載かせ、それらが朝(朝廷)を端(正)して揆を握るのが、朕の望むところである。往(往時)の欽なるかな、この徽猷を懋建して、我が邦國を亮采したるは。慎しまれよ!
」
と陳べたのであった。禎明二年(588)、中權將軍に進号された。禎明三年(589、隋の開皇九年)の正月、隋が京城を陥落させると、そのまま隋に入った。四月、上開府儀同三司に任命された。開皇十四年(594)、江都で死去した。享年七十六。
第七回更新
07
總は自序を書いた。その内容は
「
朝を歴して清顯に升り、その備(尽)くで朝列に位したが、世利を邀(求)めず、權幸に渉(関)わる事はしなかった。嘗て躬を撫して天を仰ぎ、太息して言った事がある。『莊青

(前漢)は位が丞相に至たるも、迹で紀(記)すべき事は無い。趙元叔(後漢、趙壹。元叔は字)は上計吏と為り、列傳に光たり。』と。陳に官して以来、未だ嘗て一物に逢迎した事も、一事に干預した事も無い。悠悠たる風塵、流俗の士には、頗る怨憎を致し、榮枯や寵辱は、意に介さない。太建の世(569〜582)にあって、權は羣小に移り、諂嫉が威を作すようになり、何度も摧黜されたが、どうして命(運命)であろうか。後主がその昔、東朝に在った時、文藝に留意され、夙(昔)から昭晉を荷い、恩は契闊を紀した。嗣位の日、時は謬隆に寄っていたが、天府を儀形し、庶績を釐正した事により、八法も六典も、統せざる所は無くなった。その昔、晉の武帝(司馬炎)は荀公曾(荀勗、公曾は字)に策して『周の冢宰とは、今の尚書令である』と言ったと言う。加えて、才は未だ古えの半ならざれば、尸素なることこの如きである。晉の太尉であった陸玩が『我を以って三公と為すとは、天下に人の無きを知る』と言ったと言う。軒冕は儻來の一物であり、どうして是れ預め要(求)められようか?
08
弱歳にして釋教(仏教)に帰心し、年二十余にして、鍾山に入りて靈曜寺に就きて則ち法師より菩薩の戒を受(授)かった。暮齒(晩年)に陳に官してしまった。攝山の布上人と遊款する事によって、深く苦空を悟り、更に練戒を復し、善を心に運び、慈を物に行し、頗る自勵するを知るも、蔬菲する能わず、尚お塵勞に染まってしまい、平生を負愧する事しきりである。
」
と言うものであった。總の自敍を見た人は、これは実録であると言った。
第八回更新
09
總は行義に篤く、寛和にして温裕であった。向学心に厚く、文章をよく作した。その中でも、五言七言に最も長じていた。浮艷な表現が流行をしている事を傷み、それが後主の知る所となり、愛幸されるに至った。作品の多くは側篇を有していたため、好事家によって伝え、諷翫されているため、今も絶える事が無いでいる。後主の治世にあって、總は權宰に当たっていたが、政務に当たろうとはせず、ただ日に後主と共に後庭を遊宴していた。陳暄、孔範、王瑳ら十余人と共に、狎客と呼ばれた。このため、國政は日を追うごとに廃れ、綱紀も立たなくなっていった。有言の者は言っていた。
「
罪を以ってこれを斥しなければ、君臣は昏乱してしまい、滅に至るであろう。
」
と。文集は三十卷で、世に広がった。
第九回更新
10
長子の江溢は、字を深源と言い、頗る文辞を有していた。だが、その性格は傲誕であり、勢力を恃みとして驕物であったため、近属や故友であったとしても、詆欺を免れなかった。著作佐郎、太子舍人、洗馬、中書黄門侍郎、太子中庶子を歴任している。隋朝に入ると、秦王文學とされている。
11
第七子の江

は、陳朝では

馬都尉、祕書郎、隋朝では給事郎、直祕書省學士に任命されている。
2012/02/20 終了。
『陳書』 江總 - 343〜347 -
第一回更新 開始 残り10段 全11段 2012/02/11
第二回更新 更新 残り09段
第三回更新 更新 残り08段
第四回更新 更新 残り07段
第五回更新 更新 残り06段
第六回更新 更新 残り05段 2012/02/20
第七回更新 更新 残り03段
第八回更新 更新 残り02段
第九回更新 終了
2012/02/20 終了。