2011/09/10 開始
01
沮渠蒙遜、臨松は盧水の胡人である。その祖先は何代にも渡って匈奴の左沮渠であったため、その官をそのまま氏としたのである。蒙遜は群史を広く読み漁り、天文に精通していた。雄傑にして英略を有し、弁舌に長け機に応じて如何様にも対応できた。そのため、梁熙、呂光から才能を認められると共に憚られた。そのためか、いつも游飲して、自分の性質が目立たないようにしていた。
第二回更新
02
隆安元年(397)の四月、伯父の沮渠羅仇、沮渠

粥が後涼の呂光の河南(西秦)の征伐に從軍した。光の前軍が大敗を喫すると、

粥が兄である羅仇に
「
主上は荒耄したのか、傲慢の度が過ぎてる。諸子や朋党は互いに牽制し合い、讒人は見て見ぬ振りだ。今、軍は敗れ將は死しているが、これは正に智勇が猜さる日では、恐るべき事ではないか!我ら兄弟は、素より憚られる存在であり、このままでは共に溝

に経死する事になりかねません。しかし、兵を勒して西平へ向かい、


に出でて、奮臂して大呼すれば、涼州は定められようぞ。
」
と陳べた。しかし沮渠羅仇は
「
理はお前の言の通りだ。しかし、我らが家は代々忠孝として知られてきた。一方に帰される所であり、人が我らを負すとも、我らが人を負すような事は出来ん。
」
と言って聞き入れなかった。しかし、この後すぐ、敗軍の罪を擦り付けられた二人は、呂光によって殺されてしまった。宗姻や諸部で葬儀に参列した人は一万余を数え、蒙遜は哭しながら
「
その昔、漢祚が中微した時、我らが祖先は竇融を翼奬して、河右を保寧しました。呂王は昏耄してしまい、その荒虐は無道と言わねばなりません。ですので、先祖安時の志を継ぐべきではないでしょうか。二父をして黄泉にて恨を抱かせてはならないと思うのです!
」
と参列者に陳べた。この言葉に、皆な万歳を称した。そして、後涼の中田護軍の馬邃、臨松令の井祥を殺害して盟を誓いとすると、一旬の間に一万余の人が集ってきた。金山に拠点を築き、從兄の沮渠男成と共に後涼の建康太守の段業を使持節、大都督、龍驤大將軍、涼州牧、建康公を推し、後涼の龍飛二年(397、隆安元年)を以って神璽元年と改めた。業は蒙遜を張掖太守、男成を輔國將軍に任命して、軍國の任を委ねた。
第三回更新
03
神璽二年(398、隆安二年)の四月、段業は蒙遜に西郡の攻略を命じた。しかし、兵は皆な気後れしてしまっていた。これを見た蒙遜は
「
この郡は拠嶺の要である。取らねばならんのだ。
」
と鼓舞した。これに段業は
「
卿の言、正にその通りである。
」
と言って、蒙遜に出陣させた。蒙遜は水を引き込んで、城を水浸しにして城を潰滅させると、西郡太守の呂純を生け捕りにして帰還した。これによって、王コが晉昌を、孟敏を敦煌を以って段業に降服した。業は蒙遜を臨池侯に封じた。六月、後涼の呂弘は張掖を放棄して、東へと逃れていった。業はこれを追撃すべきか、議を起こした。ここで蒙遜は
「
帰師は遏(止)める勿れ、窮寇は追わずとは、兵家の戒です。そのまま逃げるがままにさせておくべきです。後で図ればよいではありませんか。
」
と諫めた。しかし段業は
「
一日、敵をほしいままにさせれば、その悔いは取り返しがつかんのだ。
」
と言って取り合わず、遂に自ら兵を率いて追撃に掛かった。果たして蒙遜の諫言の通り、段業は呂弘軍に返り討ちにされた。業は蒙遜を頼って逃れつき
「
孤(私)は子房(前漢、張良。子房は字)の言を用いる事が出来なかったばかりに、ここに至ってしまった!
」
と歎じた。段業は西安城を築くと、臧莫孩を太守に任命する事とした。しかし蒙遜は
「
莫孩は勇なる者ですが、謀に足りません。進を知るも退くを忘れるきらいがあります。これでは築冢であって、築城とは似ても似つかぬものです。
」
と反対した。段業は耳を貸さなかった。間も無くして、臧莫孩は後涼の呂纂に撃ち破られた。蒙遜は業が自分を容れる事は出来ないと見限り、これ以後は智を匿して避けるようになった。
04
神璽三年(399、隆安三年)の二月、段業は涼王に即いた。北涼である。神璽三年を以って天璽元年と改めると、蒙遜を尚書左丞に、梁中庸を右丞に任命した。
第四回更新
05
四月、後涼の呂光は、呂紹、呂纂の二子を以って段業に侵攻させた。そのため業は、禿髮烏孤に救援を求めた。烏孤はこれに応じ、弟の禿髮鹿孤と楊軌を救援に差し向けた。紹は業軍が盛んなるを見て、三門關から山を援護にして東へと向かおうとした。しかし纂が
「
山を頼みとする事は弱を示めす事であり、取敗の道に他ならん。ここは陣を結んでこれを衝つべきであろう。さすれば、彼方は必ずや我が方を畏れて、戦おうとはすまい。
」
と諫めると、呂紹は軍を南へと移す事にした。段業がこれに攻撃を加えようとすると、蒙遜は
「
楊軌は虜騎の強なるを恃みとし、窺覦の志を抱いています。紹、纂は兵を死地に置いており、必ずや決戦する事によって生を求めてくるでしょう。今、戦わないと言う選択は太山の安を生みますが、戦うと言う選択は累卵の危を生み出してしまいます。
」
と諫めた。これに段業は
「
卿の言の通りであるな。
」
と言って、軍を留めて戦う事をしなかった。呂紹もこれではどうしようもなくなり、それぞれ軍を返していった。
第五回更新
06
段業は蒙遜の雄武を畏れ、密かに遠ざけようと、天璽三年(401、隆安五年)の四月、蒙遜の從叔の沮渠益生を酒泉太守に、蒙遜を臨池太守に任命した。門下侍郎の馬權は雋爽にして逸気を有し、武略は群を抜くものがあった。業は權を蒙遜に代えて張掖太守に任命するなど、大いに信任を置いていた。その逆に蒙遜は軽んじられていった。蒙遜も權に一目を置きながらも、怨みを抱くようになっていった。そのため業に
「
天下は慮とするに足りません。ただ、馬權だけは憂としなければならないでしょう。
」
と讒言した。段業は遂に馬權を殺した。蒙遜は沮渠男成に
「
段業は愚闇であり、済乱の才ではありません。讒を信じ佞を愛すなどは、鑒断の明の無きを証明しています。憚る所は索嗣、馬權だけでしたが、今や共に死しています。この蒙遜、業を除いて兄を奉じたいと考えておりますが、如何でしょう?
」
と問うと、沮渠男成は
「
業は羇旅にして孤飄であったのを、我らが建立させたのではないか。我らが兄弟を、魚にとって水の有るが如くしていた。人は我らを親としており、これに背くのは不祥であろう。
」
と言ったため、この話は無かった事にされた。蒙遜は既に段業の警戒心に気づいており、そのため不安に駆られていた。そこで、西安太守に任命するよう求めた。業は業で、蒙遜が大志を抱けば、朝夕に変をなすであろうと不安で仕方なかった。そのため、これは許可された。
第六回更新
07
蒙遜は沮渠男成と蘭門山で祭するよう期した。しかし、その裏で司馬の許咸を段業の下に遣って
「
男成が謀叛を起こそうとしています。休暇を取った日に逆乱するつもりです。もし蘭門山で祭する事を求めてきたらば、この蒙遜の言が確かと言う証拠です。
」
と告げていた。その期日が至ると、果してその通りとなった。段業は沮渠男成を捕えると、自殺するよう命じた。これに男成が
「
蒙遜が謀叛を起こそうと、先にこの男成に言ってきたのです。この男成は兄弟の故を以って、隠忍して言わなかったのです。この男成が今あっては、恐らく部人が從わないであろうと思ったのでしょう。この男成と祭山する期日を決めておいて、その裏で誣告したのです。この男成が朝に死せば、蒙遜は必ずやその夕に発するでしょう。乞ここは男成が死し、罪悪が暴露されたと詐言すれば、蒙遜は必ずや逆乱をなすでしょう。そこに、この男成が投袂して討てば、事は成し得ましょう。
」
と言ったが、段業は耳を貸さなかった。蒙遜は沮渠男成の死を聞くと、泣きながら兵に
「
男成は段公に忠を示してきたと言うのに、無実の罪にもかかわらず、屠害されてしまったと言う事だ。諸君、報仇せずにいられようか?州土は兵乱に見舞われているが、業には済する能力は無い。私がこれを奉じたのは、陳(陳勝)、呉(呉廣)と思っていたからに他ならない。しかしどうだ。讒を信じ忌とするところの多く、忠良を枉害するではないか。そんな奴に、枕に安んじて臥したままに観させていられようか。百姓をして塗炭に遭わせていられようか。
」
と語った。沮渠男成は素より恩信を示していたため、兵は皆な憤怒と涙を浮かべ、蒙遜の言葉に從った。

池縣に至った頃には、兵は一万を越すまでになっていた。鎮軍將軍の臧莫孩は、部兵を引き連れて蒙遜に附いた。羌胡の多くも、挙兵して蒙遜に呼応した。蒙遜は侯塢に壁した。
第七回更新
08
段業はこれより以前、右將軍の田昂を警戒するあまり、昂を幽閉していた。しかし、ここに至って、昂を解放して謝すと共に、赦した。そして、武衞將軍の梁中庸らと共に、蒙遜を攻撃させた。王豐孫が業に
「
西平の諸田氏は、代々反しています。昂は表面上は恭順を示していますが、その心はねじけています。志は大ですが情は険であり、信じてはなりません。
」
と言うと、段業が
「
私は長らく警戒しており、今も変わってはいない。ただ、昂に非ざれば蒙遜を討つ事が出来ないからに他ならない。
」
と返した。王豐孫の言は無視された。田昂は侯塢まで至ると、騎兵五百を引き連れて蒙遜に帰順してしまった。五月、蒙遜が張掖に至ると、昂の兄子の田承愛は、内側から關を押し開いた。段業の側近は皆な離散した。蒙遜は大呼して
「
鎮西、いずくに在るや?
」
と言うと、兵の一人が
「
ここに在り。
」
と呼応した。段業は
「
孤(私)は一人拠ん所の無かったのを、貴門に推され、余命を求められて、嶺南に投身したのだ。今は東還させてもらいたい。妻子と相い見みえさせてくれ。
」
と望んだが、蒙遜は遂に段業を斬り捨てた。
09
段業は、京兆の人であった。広く史傳に通じ、尺牘の才を有していた。杜進の記室となると、塞表の遠征に從った。儒素に長じていたが、他にさしたる権略は無かった。また威禁は行われず、群臣にも好き勝手にやらせていた。そして最も信用していたのは、卜筮、讖記、巫覡、徴祥であった。そのため、姦佞によって誤たされたのであった。
第八回更新
10
六月、梁中庸、房

、田昂が蒙遜を使持節、大都督、大將軍、涼州牧、張掖公に推した。境内に恩赦を出し、天璽三年を以って永安元年と改めた。從兄の沮渠伏奴を鎮軍將軍、張掖太守、和平侯に、弟の沮渠

を建忠將軍、都谷侯とした。また、昂を鎮南將軍、西郡太守に、臧莫孩を輔國將軍に、

、中庸を左右長史に、張

、謝正禮を左右司馬に任命した。そして、賢才を抜擢していったので、文武官は皆なスんだ。
11
七月、後秦の姚興は、姚碩コに姑臧にいる呂隆を攻め込ませた。碩コが優勢な戦況となると、蒙遜は從事中郎の李典を興の下へと派遣して、和好を通じた。九月、蒙遜は呂隆が既に後秦に降伏した事と、酒泉、涼寧の二郡が離反して西涼の李玄盛に附いてしまった事を知ると、建忠將軍の沮渠

、牧府長史の張潛を姑臧に派遣して、碩コと面会させた。そして、軍を迎接するために、郡人を率いて東遷する許可を求めた。碩コは大いにスんで、潛を張掖太守に、

を建康太守に任命した。潛は蒙遜に東遷するよう勧めた。

が蒙遜に
「
呂氏はなお存しており、姑臧も未だ陥せてはおりません。碩コは兵糧が尽きれば返っていくでしょう。長くいそうにはありません。何の故に桑梓(故郷)を違離して、人に制を受けねばならんのでしょう!
」
と言うと、輔國將軍の臧莫孩が
「
建忠の言の通りです。
」
と後押ししたため、蒙遜は張潛を斬り捨て、書を下して
「
孤(私)は虚薄ながらも、猥りに時運を忝くしたが、、未だ能大猷を広げる事も、群

を戡蕩する事も出来ず、桃蟲(桃氏)をして東京を鼓翼させ、封豕をして西裔を烝渉させている。戎車を何度も動して、干戈を未だ

(収)められず、農事は三時の業を失し、百姓の戸は粒食し得ない情況にある。そこで、百徭を免除して、南畝にする事とした。そして、科条を明設するので、地の利を尽くす事に努めよ。
」
と陳べた。
第九回更新
12
永安二年(402、元興元年)の十二月、梁中庸を西郡太守に任命したが、その中庸は西涼の李玄盛へと走ってしまった。蒙遜がこれを聞くと
「
私は中庸と義を深く一体の物としてきたつもりだ。しかし、我は信用されていなかったとは。私の勝手な思い込みだったのか。だが孤(私)は怪したりはしない!
」
と一笑に付した。そして、梁中庸の妻孥を皆な送ってやった。
13
蒙遜は令を下して
「
養老乞言して、晉文(西秦・司馬昭)は輿人の誦を納めたのは、英奇を招禮するためであり、時

の美を致すためである。まして孤(私)は寡徳であり、智は遠くに及ばない。であるからこそ、

言に耳を傾けて以って自らの鏡とすべきであろうな!内外の群僚よ、各々が賢雋を搜揚せよ。芻蕘を広進せよ。以って孤の逮(及)ばざるを匡されたし。
」
と陳べた。
第十回更新
14
輔國將軍の臧莫孩に山北の虜を強襲させると、これを大いに撃ち破った。永安三年(403、元興二年)の七月、後秦の姚興が齊難に兵四万を与えて呂隆を迎えに行かせた。八月、隆はその難に蒙遜を討つように勧めると、難はこれに從った。莫孩にその前軍を攻撃させて、これを撃ち破ると、難は盟を結んで帰っていった。
15
蒙遜の伯父で中田護軍の沮渠親信、臨松太守の沮渠孔篤は、どちらも驕奢で侵害していたため、百姓は苦しめられていた。これを知った蒙遜は
「
我が國を乱すのは、この二伯父である。これ以上、百姓を綱紀させられようか!
」
と言って、二人を自殺に追い込んだ。
16
蒙遜は襲番禾の狄洛磐を襲撃したが、勝ちは収められなかった。五百余戸を引き連れて帰還している。
第十一回更新
17
後秦の姚興は、梁斐、張構を使者に立て、蒙遜を鎮西大將軍、沙州刺史、西海侯とする旨を伝えさせた。時を同じくして、禿髮

檀を車騎將軍に任命して、廣武公に封じていた。蒙遜はこれを聞くと、不愉快になり、二人に
「

檀は上公の位で、私が侯であるが、その差は何の理由からだ?
」
とその理由を問うた。これに張構が
「

檀は軽狡にして仁ならざる者であり、款誠は未だ顕著ではありません。聖朝が重爵を加える所以は、その帰善即敍の義を褒するためです。將軍の忠なるは白日を貫き、その勲は一時に高く、諧を鼎味に入れ、帝室を匡贊しているではありませんか。どうして信待されない事がありましょうか。聖朝の爵は必ず功を称すものであります。官は徳を越える事はありません。尹緯、姚晃は基を築いた佐命であり、齊難、徐洛は元勲の驍將ではありますが、いずれも位は二品であり、爵は侯伯どまりです。將軍は何を以ってこれに先んじるというのですか?竇融(後漢)は殷勤に固く辞退し、旧臣の右に居す事を欲しませんでした。未だ將軍がこの問いをなされた事を解す事が出来ません!
」
と答えた。それでも蒙遜は
「
それでは朝廷が、張掖を以って封さず、更に遠い西海に封じたのだ?
」
と重ねて問うた。これにも張構が
「
張掖は、規画の内です。將軍は既にこれを有されているではありませんか。遠く西海を授けた所以は、將軍の國を広大とせんがために他なりません。
」
と答えた。蒙遜はこれに大いに満足し、これを受拜した。
第十二回更新
18
時に地震が起こり、山が崩れ木が倒れた。これを見た太史令の劉梁が蒙遜に
「
辛酉は金です。地は金を動かし、金が動けば木を刻します。これは、大軍の東行無前の徴です。
」
と言った。時を同じくして、張掖城で光色が見える日が続いた。これを見た蒙遜は
「
王気が正に成ろうとしている。百戦百勝の象である。
」
と言って、永安七年(407、義熙三年)の九月、日勒を守る夏の西郡太守の楊統に攻撃を仕掛けた。統が降服してくると、右長史に任命した。その寵は、功旧を超えるものがあった。
19
張掖太守の句呼勒が西涼へと亡命していった。從弟の沮渠成都を金山太守に任命した。沮渠羅仇の子である。沮渠

を西郡太守に任命した。沮渠

粥の子である。その句呼勒が西涼から舞い戻ってくると、以前と変わらぬ待遇をした。
20
蒙遜は騎兵二万を率いて東征を開始すると、丹嶺に軍を進めた。ここで、北虜の大人である思盤が部落三千を率いて降服してきた。
21
時に、連理の木が永平に生じた。永平令の張披が上書して
「
枝を異にするも幹を同じゅうするとは、遐方(遠方)が済化の応を有したと言えます。本を殊(異)にして心を共にするとは、上も下も莫二の固を有していると言えましょう。これは蓋し、至道の嘉祥であり、大同の美徴です。
」
と陳べた。しかし蒙遜は
「
これらは皆な二千石令長が、匪躬で済時するに現れる物だ。私のような薄徳の者でも、これに感ぜずにいられようか!
」
と感嘆した。
第十三回更新
22
永安十年(410、義熙六年)の三月、蒙遜は歩兵騎兵の三万を率いると、南涼の禿髮

檀に進攻を開始し、西郡まで軍を進めた。ここで大風が西北から巻き起こり、気に五色が見えたかと思うと、昼だと言うのに、あっと言う間に暗くなってしまった。顯美まで至ったが、数千戸を連れて帰還した。

檀が蒙遜を窮泉まで追撃した。そのため蒙遜は、これを迎え撃とうとしたが、諸將が口を揃えて
「
賊は既に營を築き終えており、犯してはなりません。
」
と言ってきた。しかし蒙遜は
「

檀は我らが遠来した事から疲弊していると考え、必ずや軽んじて備えを疎かにしているであろう。その壘壁は未だ完成しきっておらず、一鼓にして滅する事が出来ようぞ。
」
と言って聞き入れず、これに攻撃を加えて撃ち破ると、この勝利に乗じて姑臧にまで至った。夷夏で降服した者は、一万数千戸に上った。これに禿髮

檀は恐れおののき、講和を求め来た。蒙遜はこれを聞き入れ、軍を返した。

檀が南の樂都へと移ると、魏安人の焦朗が姑臧を拠点に自立を図った。永安十一年(411、義熙七年)の二月、蒙遜が歩兵騎兵の三万を率いて朗に攻撃を仕掛け、これを攻め落とすと、朗を宥した。文武官や將士と謙光殿で酒宴を催し、それぞれに金馬を下賜した。敦煌の張穆が經史に広く通じている上に、才藻にして清贍であったため、中書侍郎に抜擢して、機密の任を任せた。弟の沮渠

を護羌校尉、秦州刺史に任命し、安平侯に封じると、姑臧を鎮させた。しかし、一旬余りで

が死去してしまったため、從祖の沮渠益子を鎮京將軍、護羌校尉、秦州刺史に任命して、姑臧に鎮させた。
23
永安十二年(412、義熙八年)の十月、蒙遜は姑臧へと移った。そして、十一月、河西王の位に即くと、境内に大赦を出して、永安十二年を以って玄始元年と改めた。官僚を置くと、呂光の三河王の故事に倣った。宮殿を修繕し、城門や諸観を建てた。玄始二年(413、義熙九年)の四月、子の沮渠政コを世子に立てると、鎮衞大將軍、録尚書事を加えた。
第十四回更新
24
南涼の禿髮

檀が侵攻してくると、蒙遜は若厚塢でこれを迎え撃ち、返り討ちにした。南涼の湟河太守の禿髮文支は湟川に配されていたが、護軍の成宜侯と共に兵を引き連れて降服を願い出た。文支を鎮東大將軍、廣武太守、振武侯とし、成宜侯を振威將軍、湟川太守とし、殿中將軍の王建を湟河太守に任命した。蒙遜は書を下して
「
古えの先哲王が期に応じて乱を撥した時、八表を経略しなかった事は無かった。然る後に純風を広げていった。孤(私)は智が難を靖んじるには非ざれど、その職務は濟時にある。狡虜たる

檀が旧京に鴟峙して、その毒を夷夏に加えている。東苑の戮は、その酷なること長平より甚しく、辺城の禍は、その害なること


よりも深し。蒼生(人名)の無辜なるを念うたび、啓処している場合ではなく、自ら甲冑を疲し、身体を風塵に倦しなければならないと感じている。その巣穴(樂都)を傾けはしたが、

檀は猶お未だ授首していない。

檀の弟である文支は、項伯帰漢の義を追わんがために、彼方の重藩に拠して、臣妾となるを請うてきた。西平より以南は、城を連ねて帰順してきている。しかし

檀だけが窮獣の如く、樂都を守死している。四支が既に落ちているというのに、命がどうして久しく全う出来ようか!五緯の会は既に応じ、清一の期は

(遠)くない。馬を金山を散じて、黎元(人民)を永逸させるべきであろう。これを遠近に露布して、皆なに聞知させよ。
」
と陳べた。
25
蒙遜が西の


へ赴くと、冠軍將軍の伏恩に騎兵一万を与えて、卑和、烏啼の二虜を攻撃させた。恩はこれを大いに撃ち破ると、二千余落を連行して帰還した、
26
蒙遜が新臺で寝ていた時、閹人の王懷祖が蒙遜の暗殺を図った。足を傷つけられただけで事無きを得たが、その妻の孟氏を捕らえて斬り殺すと、三族に渡って皆殺しにした。
第十五回更新
27
蒙遜の母の車氏が危篤に陥ると、蒙遜は南景門に上って、銭を散じて百姓に下賜した。そして書を下して
「
孤(私)がこいねがうのは、宗廟の靈に、乾坤の祐に憑き、否剥の運会を済し、遺黎(人民)の荼蓼を拯う事であり、上は氛穢を掃清するを望み、下は家福を保寧するを冀す。太后は不豫(病気)であり、歳を跨いで更に増している。刑獄が枉濫されているため、人民が怨みを有しているのか?賦役が繁重であり、時に堪えられないと言うのか?群望が汲オていないため、神が譴しているのであろうか?諸身を内省しても、未だ罪の攸在(所在)を知らず。ここに、殊死以下を大赦する。
」
と陳べた。しかし、数日後、車氏はそのまま息を引き取った。
28
玄始四年(415、義熙十一年)の三月、蒙遜は湟河に兵糧を運ばせておき、自らは兵を率いて西秦の廣武郡を攻撃して、これを陥落させた。しかし、本軍への兵糧が続かなかったため、廣武から湟河へと向かい、浩

に渡った。乞伏熾磐は配下の乞伏

尼寅に蒙遜を迎え撃たせたが、蒙遜はこれを撃ち破って、その首級を挙げた。熾磐は今度は王衡、折斐、

景に騎兵一万を与えて、勒姐嶺に布陣させた。蒙遜はじりじりと戦塵を切り上げていき、遂にこれを大いに撃ち破ると、斐ら七百余人を生け捕りにした。景は逃げ帰った。蒙遜は弟の沮渠漢平を折衝將軍、湟河太守に任命して、軍を返した。
第十六回更新
29
五月、東晉の益州刺史の朱齡石が、使者を派遣してきた。蒙遜は舍人の黄迅を益州に派遣してこれに応え、上表して
「
上天が禍を降したため、四海は分崩してしまい、靈耀は南裔を擁し、蒼生(人民)は醜虜に沒さえています。陛下は累聖重光して、道は周漢を邁(過)ぎており、純風の被う所は、八表が宅心しています。この蒙遜、被髮して辺徼にあり、才は時雋に非ざるも、畏れ多くも河右の遺黎(人民)に推されて盟主となっています。この蒙遜の先人は、何代にも渡って恩寵を荷ってきました。夷嶮に隔てられ、義を執るも回わらざるも、朝陽に傾首して、王室を乃心してまいりました。去冬、益州刺史の朱齡石が使を遣してこの蒙遜を詣して、初めて朝廷の休問を具にしました。車騎將軍の劉裕が秣馬して戈を揮い、中原を以って事ととするは、天が大晉を贊し、篤く英輔を生んだと言えましょう。この蒙遜、聞少康の大夏を興すを、光武の漢業を復するを聞いていますが、いずれも剣を奮って起つも、兵は一旅にも満たなかったものの、配天の功を成し得た事は、車攻の詠に著しくあります。陛下は全楚の地に拠し、荊揚の鋭を擁されており、垂拱して晏然とされていればよかったものの、二京を棄てて以って戎虜に資してしまわれました!六軍が北軫したならば、克復するのは時間の問題です。この蒙遜に河西の戎旅を率いて、晉の右翼の前駆となる事をお許しください。
」
と陳べた。
第十七回更新
30
西秦の乞伏熾磐が、兵三万を率いて湟河に侵攻してきた。沮渠漢平が力戦して固守し続け、司馬の隗仁に熾磐軍に夜襲を掛けさせ、首級数百を挙げた。熾磐はここまでと軍を返すべく、老弱の兵を先行させた。漢平の長史の焦昶、將軍の段景は、熾磐に密書を送って招き寄せたため、熾磐は再び漢平に攻撃を仕掛けてきた。漢平は昶と景の説を聞き入れて、面縛して出降した。仁は壯士百余を率いて南門の樓上に陣取ると、三日に渡って抵抗を続けた。しかし、衆寡不敵、熾磐に捕えられてしまった。熾磐は怒りに任せて、仁を切るように命じた。ここで段暉が
「
仁は難に臨んで危を履み、奮って命を顧みざるは、忠と言えましょう。ここはこれを宥して、以って君に事えて獅ウせるべきでしょう。
」
と諫めたため、乞伏熾磐は隗仁を連れ帰った。仁が西秦に身を置くこと五年、段暉が何度か求めてきた事もあって、仁を姑臧に帰らせる事に決めた。出発の日、蒙遜は仁の手を執って
「
卿は、孤(私)の蘇武であった!
」
と言って、高昌太守に任命した。その為政には威恵の称が挙がったが、愛財していたため失された。
第十八回更新
31
玄始六年(417、義熙十三年)の二月、蒙遜が西の金山で祀し、沮渠廣宗に騎兵一万を与えて烏啼虜を強襲させた。廣宗は大勝利を収めて帰還した。蒙遜が西の


に至ると、前將軍の沮渠成都に騎兵五千を与えて卑和虜を攻撃させた。蒙遜も中軍三万を率いてこれに続くと、卑和虜は兵を引き連れて迎降した。遂に西海に沿って西に向かい、鹽池に至たると、西王母寺を祀した。寺の中には玄石の神図があった。そこで、中書侍郎の張穆に賦を作させ、これに銘して寺前に置いた。そして、金山に赴いてから帰った。
第十九回更新
32
蒙遜は書を下して
「
この頃、春には炎旱が起こり、時苗(新苗)が被害を受けた。碧原青野は、忽ち枯土壌に変わり果ててしまった。刑政は失中している今、下に冤獄が有るのだろうか?役繁賦重のため、上天が譴しているのであろうか?内省すれば多くが缺しており、孤(私)の罪である。書に言う。『百姓有過,罪予一人(百姓に過有らば、罪は予一人).』と。ここは、殊死以下に大赦を出す事とした。
」
と陳べた。この翌日、雨が降り出し、大雨となった。
33
九月、蒙遜の下に急報がもたらされた。後秦が東晉の劉裕によって滅ぼされたというものであった。蒙遜はこれに激しく怒りを覚えた。門下校郎の劉祥が、この事態の詳細を報告してきたため、蒙遜は語気を荒げて
「
お前は劉裕が入關したと知っておきながら、研研然としていたのか!
」
と言って、劉祥を斬り殺した。その峻暴さはこのようであった。左右の側近の方に振り返り
「
古えの行師では、歳鎮(木星、怒声)する所在を犯さなかったものだ。姚氏は舜の後であり、軒轅の苗裔である。今、鎮星が軒轅に在り、裕がこれを滅したと言うのであれば、關中を長く保てはしないであろう。
」
と言った。
34
蒙遜は鮮支澗で西涼の李

に敗れると、敗残兵を収拾して再び決戦を挑もうとした。前將軍の沮渠成都が
「
この成都が聞いたところによりますと、高祖(前漢、劉邦)は彭城で敗れはしましたが、終に大漢を成し得ました。ここは軍を返して、後に図るべきかと。
」
と諫めると、蒙遜はこれに從い、建康に城を築いて帰った。
第二十回更新
35
群臣が上書して
「
官を設けて職を分けるは、経國済時のためです。官次を恪勤させるのは、庶政を緝熙するためです。官なる者は匪躬を以って務と為し、任を受けし者は忘身を以って効と為します。皇綱が震されてより、戎馬は郊に生じ、公も私も草創(起稿)しましたが、未だ旧式に及んでいません。朝士の多くが憲制に違い、典章は遵されていません。或いは公文の御案を、家に在りて臥して署しています。或いは事を可否する無く、空を望んで過している有様です。黜陟をして皇朝を絶させ、駁議をして聖世を寢させるなど、清濁が共流し、能否が相い雑り、人は勸競の心を失い、度日の事を為しているだけです。憂公忘私が、奉上の道でありましょう!今、皇化は日に日に隆しており、遐邇は寧泰としつつあります。ここは綱維を肅振して、旧則を修めるべきではないでしょうか。
」
と陳べると、蒙遜はこれを聞き入れて、征南將軍の姚艾、尚書左丞の房

に命じて、朝堂の制を撰定させた。これを旬日に行うと、百僚は振肅した。
第二十一回更新
36
一ヶ月前の玄始九年(420)の六月、東晉で言う元煕二年、東晉の恭帝(司馬コ文)が廃位させられ、劉裕が皇帝位に即いた。東晉の滅亡であり、劉宋の成立である。永初と元号を立てた。そして、七月、太史令の張衍が蒙遜に
「
今、歳は澤城の西に臨んでおり、破兵が起こるでしょう。
」
と言うと、蒙遜は世子の沮渠政コに兵を配して、若厚塢に配した。蒙遜が西の白岸に至ると、張衍に
「
私は今年、定むる所が有るのだが、ただ太歳が申に在り、月もまた申を建(指)しており,未だ西行すべきではなかろう。ここは南巡して、その帰会するを求め、主して客する勿く、以って天心に順するべきであろう。計は臨機に在るのだ、慎んで露する勿れ。
」
と言い、遂に西秦の浩

に攻撃を仕掛けた。この時、蛇が帳前で盤していた。これを見た蒙遜は
「
前に騰蛇がいたが、今度は我が帳に在って盤している。天の意するところは、我らに軍を返して酒泉を先き定めよと言う事か。
」
と笑みを浮かべると、攻具を焼き払って軍を返すと、川巖に陣を布いた。西涼の李

が徴兵しているとの報がもたらされた。張掖を攻撃せんがためである。これを聞いた蒙遜は
「
我が計に陥ちたな。ただ我が軍が返したと聞けば、前には出てきまい。兵事は權(臨機)を尚(尊)しとする。
」
と言うと、西境に露布した。その内容は、「浩

を得て、更に進軍して黄谷へと向かう」と言うものであった。李

の耳にもこれが達し、大いにスび、都

澗へと進軍を開始した。蒙遜は軍を伏せてこれを迎え撃ち、

軍を懷城で撃ち破ると、一気に西涼の都である酒泉を攻め落とした。百姓を以前と変わらぬように生活させ、軍では掠奪を行う者が出なかった。子の沮渠茂虔を酒泉太守に任命し、西涼の旧臣は、その能力に從って任用した。
37
蒙遜は安帝の隆安五年(401)に州牧を称し、義熙八年(412)に皇帝位に即いた。この八年後に宋氏が受禪しており、劉宋の元嘉十年(433)、義和三年の四月に死去している。享年六十六、在位すること三十三年であった。子の沮渠茂虔が後継に立ったが、七年後の永和七年(439、元嘉十六年)の九月、北魏に降服している。合わせて三十九年で、北涼は滅亡した。
2011/09/16 終了。
『晉書』「載記」 沮渠蒙遜 - 3189〜3199 -
第一回更新 開始 残り36段 全37段 2011/09/10
第二回更新 更新 残り35段
第三回更新 更新 残り33段
第四回更新 更新 残り32段
第五回更新 更新 残り31段
第六回更新 更新 残り30段
第七回更新 更新 残り28段
第八回更新 更新 残り26段 2011/09/16
第九回更新 更新 残り24段
第十回更新 更新 残り21段
第十一回更新 更新 残り20段
第十二回更新 更新 残り16段
第十三回更新 更新 残り14段
第十四回更新 更新 残り11段
第十五回更新 更新 残り09段
第十六回更新 更新 残り08段
第十七回更新 更新 残り07段
第十八回更新 更新 残り06段
第十九回更新 更新 残り03段
第二十回更新 更新 残り02段
第二十一回更新 終了 2011/09/16
2011/09/16 終了。