2011/12/26 開始
01
李植の弟の李基は、字を仲和と言った。幼くして声誉を集め、立ち居振る舞いをしっかりと身に付け、談論を好み、群書を読み漁るなどしたが、最も耳目を集めたのは騎射の腕前であった。宇文泰は基を見てその才能を見抜き、義歸公主を娶らせた。大統十年(544、大同十年)、員外散騎常侍として初出仕する事となった。後に父の勲によって、建安縣公に封じられ、邑一千戸とされた。撫軍將軍、銀青光祿大夫、通直散騎常侍と歴任し、大丞相親信を領した。程無くして、大都督、進爵清河郡公に転じられた。
02
宇文泰は危を扶し傾を定するなどして、その威権は主を震わすほどになっていた。大統十七年(551、大寶二年)の三月、元欽が即位すると、廢帝であるが、二人の溝は大きくなっていった。この時、泰の諸子は、年が皆な幼沖であった。廢帝の三年(554、承聖三年)の正月には、章武公の宇文導、中山公の宇文護が、東西の鎮に出てしまっており、意を託せるのは諸婿で、これらを頼みとした。基は義城公の李暉、常山公の于翼らと共に武衞將軍に任命され、禁兵をそれぞれ指揮した。廢帝は警戒を強めたが、宮中や禁兵を掌握されてしまったため、泰暗殺の密謀は遂に漏洩したのであった。
第二回更新
02
西魏の元廓が即位すると、恭帝であるが、使持節、車騎大將軍、儀同三司に遷され、散騎常侍が加えられ、燉煌郡公に進爵された。程無くして侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司が加えられ、陽平國世子とされた。恭帝の三年(556、紹泰二年)の正月、六官が建てられると、御正中大夫に任命された。宇文覺が踐

すると、元年(557、太平二年)の九月、北周の孝閔帝である、淅州刺史に左遷された。
04
兄の李植が収監されたため、連座で処刑されるのが例であった。しかし、義歸公主の夫であった事と、また、季父の李穆の請願によって、死を免じられた。武成二年(560、陳の天嘉元年)、江州刺史に任命された。しかし、譴謫された事によって、常に憂懼が心に付き纏い、志を得られなくなっていた。翌年の保定元年(561、天嘉二年)、死去した。享年三十一。申公の李穆は、基に最も目を掛けていてたため、哭して悲慟した。そして、近しい者に
「
好兒が私を捨て去ってしまっては、門戸はどうやって興せるであろうか。
」
と言った。宣政元年(578、太建十年)、使持節、上開府儀同三司、大將軍、曹徐

三州刺史、燉煌郡公が追贈されて、諡号を孝とされた。子の李威が家督を継いでいる。
05
李威、字を安民と言い、右侍上士として初仕官し、累遷して開府儀同三司に至った。また、遠の爵である陽平郡公を改襲した。建コ六年(577、太建九年)、高祖(宇文

)の北齊平定に従い、その戦功によって上開府、拜軍司馬に任命された。建コ七年(578、太建十年)の三月、高祖が死去した事により、宇文贇が後継に立った。宣帝である。宣政元年と改めている。大將軍を進授したが、熊州刺史として中央を追われた。大象末(三年。581、太建十三年)、位は柱國に至った。
2011/12/26 終了。
『周書』 李賢/遠子基 - 423 -
第一回更新 開始 残り03段 全05段 2011/12/26
第二回更新 終了
2011/12/26 終了。