ほーむへ 人物へ戻る    


最終更新 2011/12/18



李  遠







2011/12/18 開始

01

 賢の弟の李遠は、字を萬歳と言い、幼くして器局を有し、志度は恢然であった。ある時、同年代の子供達と戦闘の戲をなして、部分を指麾したが、軍陣の法に適ったものであった。郡守がこれを見て異とし、召して更に戲させようとした。他の子供は懼れて散走してしまったが、遠くから杖を持って叱して、再び向勢を取らせた。その意気は雄壯であり、前よりも盛んであった。これを見た郡守は


 この小児、必ずや將軍となるであろう。常ならざる人だ。


と称賛した。成長すると、書傳を読み漁ったが、主旨を掴むだけに留めた。


第二回更新

02

 北魏の正光末(六年。525、梁の普通六年)、天下が鼎沸し、勅勒の賊の胡jが原州に侵攻してきたが、その徒は甚だ盛んであった。遠の昆季は郷人を鼓舞しつつ統率して、拒守しようと試みた。しかし、郷人の心理情況は、猜疑と恐怖に駆られており、なかなか一方向に向かせる事が出来ずにいた。これを見た遠は剣の柄を握って


 近年以来、皇家は多難である。匈党がこの機に乗じ、その毒螫をほしいままにしている。王計は未だ振わないがため、その梟夷(誅戮)は緩んだままである。正に是れ忠臣の立節の秋であり、義士の建功の日であろう。丈夫たる者、どうして難に臨んで苟くも免じるを望もうや。死中に在って生を求めるべきであろう。諸人は皆な世載の忠貞であり、教義に沐浴しておろう。今、同(姓)を棄て異(姓)に即くが如く、順を去って逆に効(尽)すが如くであり、五尺の童子であろうとも、これに非ざれば、何れの顔を以って見天下の士に見みえようぞ。ここに異議を唱える者のあらば、この剣にて斬ってくれん!


と語気を強めた。郷人は皆な膝から震え上がり、命令を聞かないものはいなくなった。そして盟歃して覚悟を決めると、遂に深壁して守りを固めた。しかし、外からの救援が来なかったため、城は遂に陥落した。郷人の多くは殺害されたが、遠の兄弟は匿われたおかげで、難を逃れる事が出来た。遠は賢に


 今、逆賊が孔熾しており、忠良が屠戮されている。この遠が間行して入朝し、救援を請ってきます。兄は和光を晦迹して、禍を免じてくだされ。内から釁隙を伺って、変して功を立てるためにも。王師が西指して来ましたらば、表裏から相い応じるのです。今は國家の急に殉じるような情況ですが、私室の危を全うする事が出来ましょうぞ。しかし、凶威に窘迫されていては、むざむざと夷滅されてしまいます!


と言うと、賢は


 是れ我が心なり。


と同意を示して、遂に東行の策を定めた。遠は崎嶇を駆け抜け、京師に到達した。北魏の朝廷はこれを嘉して、武騎常侍に任命した。間も無くして別將に転じられ、帛千匹、弓刀衣馬が下賜された。

03

 爾朱天光が西伐を起こすと、遠には精兵が配され、郷導を命じられた。天光は遠の才望を欽して、特に目を掛けるようになり、伏波將軍、長城郡守、原州大中正に任命した。


第三回更新

04

 永煕三年(534、中大通六年)の二月、侯莫陳崇に内応した功によって、高平郡守に遷される。宇文泰は、後に北周の太祖とされる人物だが、遠と対面して語らうとスび、遠を麾下に置くなど、その親遇ぶりは甚であった。七月、北魏の孝武帝(元修)が西遷すると、假節、銀青光祿大夫、主衣都統に任命されて、安定縣伯に封じられて、邑五百戸とされた。西魏の文帝(元寶炬)が嗣位した大統元年(535、大同元年)の正月、遐年を思享しており、遠の字の萬歳を嘉であるとして、帝に扶されて升殿した。使持節、征東大將軍に遷され、進爵されて公とされ、摎W千戸とされ、左右を領した。竇泰の征伐に従ったり、弘農に向かうなどして、殊勲を挙げた。都督、原州刺史に任命された。その昔、泰が遠に


 孤に卿が有るは、身体に手臂の用が有るが如くであり、どうして少しでも身を輟せようか。本州の栄は、私事でしかない。卿が述職してくれさえすれば、孤は寄懐しなくて済む。


と言っていた。ここで、遠の兄である李賢が州事を代行する事となった。大統三年(537、大同三年)の十月、沙苑の役では、遠が最も戦功を挙げ、これによって車騎大將軍、儀同三司に任命され、陽平郡公に進爵され、邑三千戸とされた。時を置かずして、獨孤信の東略によって、遂に洛陽に入った。大統四年(538、大同四年)の七月、東魏の侯景らによって包囲されてしまった。しかし、八月、宇文泰が救援に駆けつけたため、景は包囲を解いた。河橋の戦いにあっては、遠は獨孤信と共に右軍に位置していたが、形勢が不利であったため退却を余儀無くされた。大丞相府司馬に任命された。軍國の機務の全てに遠は参与したが、権勢を畏避した。時に河東は回復されたばかりで、民情は未だ安定していなかった。そこで泰は遠に


 河東國は要鎮である。卿に非ざれば、これを撫す事は不可能である。


と言い、河東郡守に任命した。遠は敦く風俗を奨励し、農桑を励行した。また、厳しく姦非を取り締まって、守禦の備を修復していった。そのため、一ヶ月もしない内に、百姓は安堵を取り戻した。宇文泰は嘉して、書を下して労を労った。侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司として召還された。西魏が東宮を建てると、太子少傅に任命され、程無くして少師に転じられた。


第四回更新

05

 大統九年(543、大同九年)の二月、東魏の北豫州刺史である高仲密が、州ごと帰順を願い出きた。時に東魏の高歡が、後に北齊の神武帝とされる人物であるが、河陽に軍を置いていた。宇文泰は仲密が遼遠にいたために、救援に向かうのが難しいと考えていたし、諸將も皆な恐れて赴こうとしなかった。すると遠が


 北豫は遠く賊との境に在り、高歡も河陽に軍を置いています。常理で論じるのであれば、救援は実に難しいと言わねばなりません。しかし、兵は神速を尊び、事は合機を貴しとします。古人に『不入虎穴,安得虎子(虎穴に入らずんば、安んぞ虎子を得んや)。』と言があります。そこで、奇兵を以ってその不意を突けば、事は或いは成し得るかもしれません。利鈍があるのは、兵家の常です。もし顧望して行おわれなかったとなれば、それはすなわち、克定の日は無いと言う事です。


と言った。これを聞いた宇文泰は


 李萬歳の言うところ、人意を満足させるものである。


と喜びの声を挙げた。そして、行臺尚書に任命して、前駆として東へ向かわせた。宇文泰も大軍を率いて、後続についた。遠は悟られないように行軍し、高仲密を救出して帰還した。泰の山攻撃に従う。戦況は不利な展開であったが、遠軍だけは整然としており、殿(しんがり)を任された。程無くして、都督義州弘農等二十一防諸軍事に任命された。


第五回更新

06

 遠は綏撫をよくし、幹略を有していて、守戦の備えとして、精鋭を揃えていた。境外の人を厚く撫し、間謀として用いた事により、敵中の動静を把握していたため、動きを先に知る事が出来ていた。事が泄れて誅戮された者がいても、悔とする者いなかった。このように人心を得ていた。莎柵で狩猟を行った時、叢の薄い所に石があったのだが、兎が伏せているのだと思って、これに射掛けて命中した。鏃は一寸余が突き刺さった。果たして見てみると、やはり石であった。宇文泰はこれを聞いて異とし、書を賜して


 その昔、李將軍の廣親にもこのような事が有ったと言うが、公が今、これと同じ事をした。その徳を世載していると言えよう。熊渠(春秋・楚)の名と言えども、その美を独占できないな。


と陳べた。

07

 東魏の段孝先(段韶、孝先は字)が歩兵騎兵の二万を率いて、宜陽へと向かった。兵糧の輸送と言う名目であったが、その実、窺の意を有していた。遠はその計を事前に察知し、これを急襲して撃ち破り、その輜重や器械を鹵獲した。孝先は遁走した。宇文泰は、乗馬や金帶、牀帳や衣被、雑綵二千匹を下賜して、大將軍に任命した。


第六回更新

08

 間も無くして、尚書左僕射に任命された。遠は宇文泰に


 この遠、秦隴の匹夫であり、才藝は共にこの程度です。平生より念い望んでいるのは、一郡守で十分です。際会に遭逢して、聖明を奉ずるを得ました。主は臣を貴として遷し、以ってここに至っています。今の位は上列に居し、爵は通侯を邁(過)ぎ、方面を受委して、生殺は手に在ります。栄寵は一時に留まらず、光華は身世に足るものです。尚書僕射は、任は端揆に居すものであり、今、以って賜授されましたが、その罪責は重いものがあります。明公がこれを全うせんと欲するのであらば、この授は寢(止)む事を乞います。


と辞退を申し出たが、宇文泰は


 公の勲徳は兼美であり、朝廷が欽したものであり、衆から選して挙しており、どうして辞するに足りようか。また、孤の公に対するは、義は骨肉に等しいものであり、どうして官位の間を容れて、退譲を致すか。深く望むところより乖している。


と返したため、遠は已むを得ずして、拜職する事にした。宇文泰も第十一子の宇文達を、遠の元に預けた。後の代王である。親待のされようは、このようであった。


第七回更新

09

 時に宇文泰は、嫡嗣をまだ決めていなかった。宇文毓が子の中で年長者で、後の二代皇帝となる明帝であるが、既に成徳を有していた。宇文覺は嫡子であったが、後の北周の初代皇帝である孝閔帝であるが、年がまだ幼冲であった。そのため、恭帝三年(556、太平元年)の四月、群公を召集して


 孤は子を立てるに嫡を以ってせんと欲するも、大司馬が疑を有すのではないかと恐る。


と言った。大司馬とは獨孤信であり、宇文毓の妻である敬后の父である。列席者は皆な押し黙り、誰も発言しようとしなかった。その中で遠は


 そもそも、子を立てるに嫡を以って長を以ってせざるは、禮經の明義です。略陽公は世子であり、公、何をか疑うところがありましょう。もし信が理由で迷われるのであれば、この場で信を斬る事を求めます。


と言うと、刀を抜いて立ち上がった。宇文泰は立ち上がり


 何をするか!


と言い、獨孤信も自ら申し開きをしたため、遠は刀を鞘に戻した。群公は遠の議に従う事にした。議が解散されて退出すると、遠は獨孤信に


 大事に臨んで、こうでもしなければ何ともならなかったのです。


と謝した。獨孤信も遠に


 今日は公を頼みとして、この大議を決しようとしていました。


と謝した。六官が建てられると、小司寇に任命された。宇文覺が即位した元年(557、太平二年)の正月、北周の孝閔帝であるが、柱國大將軍に進位し、邑千戸とされた。また、弘農の鎮に復帰した。


2011/12/18  終了。


『周書』 李賢/弟遠 - 418〜422 -


第一回更新    開始 残り08段 全09段  2011/12/18
第二回更新    更新 残り06段
第三回更新    更新 残り05段
第四回更新    更新 残り04段
第五回更新    更新 残り03段
第六回更新    更新 残り01段
第七回更新    終了


2011/12/18 終了。