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最終更新 2011/12/26



李  植







2011/12/26 開始

01

 李遠の子の李植は、太祖の宇文泰の時には既に相府司録參軍として、朝政を司っていた。しかし、晉公の宇文護が権力を掌中にすると、任用されないのではないかと恐れを抱き、宇文覺が即位した元年(557、太平二年)の九月、その護を暗殺しようと画策した。これは、『周書』の「孝閔帝紀」で語られている。しかし謀は漏洩し、護の知るところとなり、植は梁州刺史に左遷された。時を置かずして、皇帝の宇文覺が護によって廃され、略陽公とされた。護は弘農から植の父である李遠、また植を中央に呼び戻した。遠は変があるのではないかと恐れ、これに応じようとしなかった。しかし


 大丈夫たる者、寧ろ忠鬼となるべきであって、どうして作叛の臣となろうか!


と意を決し、遂にこれに応じる事にした。京師(長安)に至ると、宇文護は李遠の功名が素より重い事もあって、全く宥そうかと考えていた。遠を引き入れて面会して


 公の兒が異謀を有し、この護の身を屠戮しようとしたばかりか、宗社を傾危しようとした。叛臣や賊子は、その理は同疾である。公よ、早急に対処されよ。


と言い、植を李遠に預けた。遠は植に大いに目を掛けており、植も口辯したため、そのような謀は無かったと言った。遠はこれを信用した。翌朝、植を連れて宇文護に謁見しようとした。護は植は既に死んでいると言い


 陽平公(李遠)は何の意があって自ら来たのだ?


と問うと、左右の側近が


 植も門外におりますが。


と答えた。これに宇文護は激怒して


 陽平公めが、俺を信じなかったな!


と言うと、二人を中に召し入れた。遠に同座を命じ、略陽公の宇文覺と植に遠の目の前で証言させようとした。植は言葉に窮し、覺に


 本よりこの謀を為したるは、社稷を安じ、至尊に利そうと欲したからに他なりません。今日、ここに至りしは、何事か云々。


と植が言葉を続けていたが、遠は謀略が事実であったと分かると、牀を投げて


 お前のようなやつは、誠に万死に値するわ。


と言い放った。宇文護は植を斬り殺し、李遠に自殺を命じた。遠、享年五十一であった。植の弟の李叔諧、李叔謙、李叔讓も誅殺されている。その他は、幼年であったために放免とされた。


第二回更新

02

 建コ元年(572、太建四年)、晉公の宇文護が誅殺されると


 故使持節、柱國大將軍、大都督、陽平郡開國公の遠は、早くから駆任を蒙っており、夙より勲績は著しかった。内にあっては帷幄に参し、外にあっては藩維に属した。誠を王室に竭(尽)し、横禍に罹した。貞良を言念すれば、傷悼が追揩ウれる。榮寵を加えて、用(以)って忠節を彰らかにせん。


と詔が下された。本官が追贈されて、陝熊等十五州諸軍事、陝州刺史が加えられた。諡号を忠とされた。隋の開皇元年(581、太建十三年)、上柱國、黎國公が追贈された。邑三千戸とされ、諡号を懷に改められた。植を始め諸弟にも、諡号が加贈されている。


2011/12/26  終了。


『周書』 李賢/遠子植 - 422 -


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第二回更新    終了


2011/12/26 終了。