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最終更新 2011/09/02



慕容 コ







2011/08/25 開始

01

 慕容コ、字を玄明と言い、慕容の少子である。母の公孫氏が日が臍中に入る夢を見て、その昼寝の最中にコを生んだ。年が弱冠になる前であったが、身長は八尺二寸となっていた。その姿貌は雄偉であり、額には日角偃月が重なった文様があった。群書を博覧し、その性質は清慎であり、才藝に溢れていた。永和八年(352)の十一月、慕容儁が皇帝位に即くと、永和十年(354)の四月、コは梁公に封じられて、幽州刺史、左衞將軍を歴任した。升平四年(360)の正月、慕容が後継に立つと、范陽王に改封されると、間も無くして魏尹に遷され、散騎常侍を加えられた。太和二年(367)の十月、前秦の苻雙が陝を拠点に叛乱を起こすと、苻柳も枹罕で挙兵して、これに応じようとした。コはこの虚に乗じて前秦を討つように進言した。その辞旨は慷慨であった。識者はこれこそ遠略であると感じた。しかし、は決断できなかった。コの兄の慕容垂は、コを高く評価していた。そのため、軍國の大謀を論じ合うと、その言は必ず切至となった。垂がコに


 お前の器識は成長と共に進んでいる。呉下の阿蒙に非らずだな。


と言った。太和四年(369)の三月、東晉の桓温が侵攻を開始した。七月から九月の枋頭の役では、コは征南將軍として慕容垂と共に東晉軍を迎え撃った。十一月、垂が前秦に亡命してしまうと、コは連座して職を解かれた。太和五年(370)の十一月、前秦の苻堅に捕えられた慕容は、十二月、長安に移された。堅はコを張掖太守に任命した。しかし、数年後、免帰された。


第二回更新

02

 太元八年(383)の五月、東晉が前秦の討伐に乗り出した。苻堅がこれを迎え撃つべく、十一月、軍を江に沿って布陣した。この時、コは奮威將軍に任命されている。堅軍が総崩れすると、堅は張夫人の張氏を見失ってしまった。慕容がその張氏を護衛していた。コが色を正して


 その昔、楚莊(春秋・楚、莊王)が陳を滅した時、巫臣の諫を聞き入れて夏姫を棄てました。これは不祥の人であって、人主を惑乱させたからです。戎事(軍事)に女器を近づけてはならず、秦の敗師は正にこれが理由に他なりません。ここは目を覆って見なかった事にするべきであり、これを護衛するとは何事ですか!


と訴えたが、慕容は聞き入れなかった。そのためコは、馬を駆って去った。陽に至った時、コはの下に戻ってきて


 その昔、句踐(春秋・呉)が會稽に棲して、終に呉國を獲りました。聖人が時を待って動けば、百挙して百全するものです。天は禍を悔やんで、秦師を喪敗させたのであり、ここはその弊に乗じて、社稷を復活させる時なのです。


と進言したが、慕容はこれも聞き入れなかった。コは遂に見限って、慕容垂に從ってへと向かった。


第三回更新

03

 太元九年(384)の正月、慕容垂は燕王に即くと、コを車騎大將軍に任命して、再び范陽王に封じると、鎮衞に当たらせ、政事の決定にも参与させた。太元十八年(393)の四月、司徒に遷された。西燕の慕容永が長子に拠点を構え、兵十万を擁していた。垂がこれを討伐する議を起こすと、群臣は皆な難色を示した。その中、コが進み出て


 その昔、三祖が徳を積み、遺詠が耳に在り、故に陛下が龍飛されたのです。期せずして合致し、聖武によると言えども、また旧愛を示した事により、燕趙の士は喜んで燕臣となりました。今、永は既に偽号を建て、華戎を扇動して、群豎に從させるに至り、逐鹿して休む事をしません。先にこれを除くべきであり、ここは意見を一致させる必要があります。その昔、光武(後漢、光武帝)は蘇茂の難に駆けつけるために、不顧百官の疲を顧ませんでしたが、これは不仁でしょうか?機急だったのです。兵法に、已むを得ずしてこれを用いる時があります。陛下は已むを得ているではありませんか!


と陳べた。慕容垂は笑いながら列席の群臣に


 司徒の議は私と同じものだ。二人が心を同じゅうすれば、その利(鋭)は金を断つほどとなろう。我が計は決した。


と言って、これに從った。太元二十一年(396)の四月、慕容垂が臨終に当たって、子の慕容寶を城をコに任せるよう言い残した。その寶が後継に立つと、五月、コは使持節、都督冀青徐荊豫六州諸軍事、特進、車騎大將軍、冀州牧に任命され、南蠻校尉を領し、を鎮する事になった。留臺を外され、都督として南夏を専任した。


第四回更新

04

 北魏の拓拔章が城下に侵攻してくると、十一月、コは南安王の慕容青らに夜襲を掛けさせた。青は章軍を撃ち破り、新城まで退き下がらせた。青らは章軍を追撃する許可を求めてきた。これに別駕の韓


 古人は先に廟堂に決勝して、然る後に攻戦したものです。今、魏と撃すべきではない理由が四つあります。我が燕が動くべきではない理由が三つあります。魏は懸軍遠入しており、野戦の方に有利を見ています。これが一つ目の理由です。近畿に深入しており、死地に頓兵しています。これが二つ目です。前鋒が既に敗れており、後陣が固められています。三つ目です。彼軍は多で我軍は寡です。これが四つ目の理由です。官軍がその地で戦ってはなりません。動いてはならない一つ目の理由です。動いて勝たざれば、兵心を繋ぐのが難しくなります。二つ目です。城郭は未だ修復されておらず、敵が至らば備えが無いも同じです。三つ目の理由です。これらは皆な兵家の忌する所です。ここは溝を深くし壘を高めて、疲弊するのを待つべきでしょう。彼方は千里に渡って兵糧を運んで来ており、しかし、略奪する場所もありません。時間と共に三軍の兵糧は尽きるでしょう。そこを攻めれば、兵旅の多く斃れ、師は疲して隙が生じるでしょう。詳がこれを図れば、勝つ事が出来ます。


と反対した。これにコは


 韓別駕の言、良(前漢、張良)、平(陳平)の策である。


と言い、これを採用した。そして、慕容青に軍を返すよう命じた。十二月、北魏は遼西公の賀ョ盧に騎兵を与えて、拓跋章と共にを包囲攻撃させた。隆安元年(397)の正月、コは參軍の劉藻を後秦の姚興の下に派遣して、救援を求めた。合わせて、母兄の情況を調べるように命じた。しかし後秦は救援を出さなかった。そのめ、兵の動揺は日に日に強まっていった。これを感じ取ったコは、戦士を集めて酒宴を催すと、一人一人に言葉を掛けた。兵はその恩に感じ、皆な致死を恐れない心構えになっていった。時に章と盧に仲違いが生じ、それぞれ軍を退いていた。章の司馬の丁建が手勢を引き連れて、投降してきた。そして言うには、章軍は疲弊しており、撃ち破る事が出来る、と。これを受けてコは、諸將に章軍を追撃させ、これを大破した。これによって、人心は元に戻っていった。


第五回更新

05

 三月、北魏軍が中山に侵入してくると、慕容寶は薊へ脱出した。五月、慕容詳が皇帝位に即いて、自立を図った。時に、劉藻が後秦から帰還した。後秦の太史令の高魯は、その甥の王景暉を藻に随行させ、玉璽一紐と圖讖祕文を送り届けさせた。また


 徳有る者は昌(盛)んとなり、徳無き者は亡ぶ。徳は天命が受けるものであり、柔にして復た剛である。


との言葉を伝えさせた。また謠が起こって



大風蓬勃揚塵埃   大風が蓬勃して塵埃を揚げ。
八井三刀卒起來   八井の三刀が卒かに起來す。
四海鼎沸中山   四海は鼎沸し中山はす。
惟有コ人據三臺   惟だ有コの人の三臺に據すのみ。



とあった。群臣が慕容詳が中山で僭号し、北魏軍が冀州で盛んとなり、慕容寶の存亡が不明であった事から議して、コに皇帝位に即くよう勧めた。コは聞き入れなかった。この時、慕容達が龍城からにたどり着いて、寶が存命であると告げたため、群議は取り下げられた。十月、寶はコを丞相に任命し、冀州牧を領させると、南夏を承制した。


第六回更新

06

 十二月、コの兄子の慕容麟が義臺からに逃げ込んでくると


 中山が既に沒しており、魏は必ずや勝ちに乗じてに攻め込んでくるでしょう。兵糧が山のように積まれていますが、城が大き過ぎて固め難いものがあります。また、兵も動揺しており、戦う状態にありません。魏軍が未だ至らぬ内に、兵を擁して南に渡り、魯陽王の和に附いて、滑臺に拠点を構え、兵を集め穀を積んで、隙を伺って動く事こそ、計の上と言えます。魏が中山を抜いたとは言え、勢を長く留める事は出来ないでしょう。略奪も出来ぬままに、帰っていくと思われます。人は徙されるのを快く思いません。自と変を生ずるのが理であり、然る後に威を振るってこれを援せば、魏は内外から敵を受ける事になるでしょう。そこで、恋旧の士を依憑させるため、恩信を広く開いて、遺黎を召集すれば、一挙にしてこれを取る事が出来ましょうぞ。


と説いた。これ以前に慕容和もコに南徙する事を勧めていたため、これを聞き入れた。隆安二年(398)の正月、戸四万、車二万七千乗を引き連れて、から滑臺へと移ろうとした。その途中、暴風に見舞われて船が沈没してしまった。北魏軍が迫っており、皆なが不安に陥った。黎陽に退いて守るべきではないか、と言う議も起きた。この日の夕方から、川の流れが凍結を始め、夜には渡れるほどの氷の厚さになったため、渡河する事が出来た。夜が明けた頃、北魏軍が至った時には、氷が解けてしまっていた。正に神の仕業のような出来事であった。これが所以となって、黎陽津から天橋津とその名を改められている。滑臺に到着した時、景星が尾箕に出現した。水から白玉が発見され、形状が璽にそっくりであった。ここでコは燕元の故事に倣って、元年を称した。境内の殊死如以下に恩赦を出すと、百官を置いた。慕容麟を司空、領尚書令に、慕容法を中軍將軍に、慕輿拔を尚書左僕射に、丁通を尚書右僕射に任命し、その他もそれぞれ封授された。これより以前に、河間で麟が発見されたとの報告が届いており、慕容麟はそれを自分の瑞兆と捉えていた。そして今、水面下で謀反を企てていた。しかし、事が事前に露見し、コは死を下賜した。北魏の將の賀ョ盧が、手勢を引き連れて帰順してきた。


第七回更新

07

 慕容寶が龍城から南奔して黎陽に至ると、中黄門令の趙思を派遣して、慕容鍾に迎えてくれるよう頼んだ。この鍾は、コに尊号を称するよう勧める議を起こした首たる人物であり、これを聞いて憎悪の感情が生じた。そのため、思を捕えて獄に繋ぐと、早馬を出してこの事を報告した。コは群臣を前にして


 卿らは先に社稷の大計と言う事で、私に摂政を勧めてきた。私も嗣帝(慕容寶)が奔亡してしまい、人も神も主を空しくしたため、かりそめに群議に從い、衆望を繋ごうとしたのだ。今、天は禍を悔いて、嗣帝が帰還された。ならば私は、駕を備えて奉迎して、行闕に謝罪し、然る後に私第に角巾しようと思っている。卿らはこれをどう思うか?


と尋ねると、黄門侍郎の張華が進み出て


 そもそも争奪の世にあっては、雄才に非ざれば振いません。縦横の時にあっては、どうして懦夫が救えましょうや!陛下は匹婦の仁を蹈して、天授の業を捨てられるのですか?威権が一たび去れば、則ち身首は保てません。どこに退譲の理由があると言うのですか!


と陳べた。これにコは


 私は古人が逆取順守して、その先がどうなったのか分かっていない。それが、中路に徘徊している理由であり、悵然として未だ決断できないでいるのだ。


と答えた。慕輿護が慕容寶の虚実を問うよう求めると、コは流涕して護を遣った。護は壯土数百を從え、趙思を引き連れて北へ向かうと、寶の謀殺しようとした。寶が思を派遣した後、コが摂位した事を知り、恐れをなして北へ奔走していた。そのため、護が至った時にはその姿は既に無く、思をそのまま連れたまま帰還した。コは思が典故に通じていたため、任用しようとした。しかし思は


 その昔、關羽(三國・蜀)が曹公に重用されましたが、先主(三國・蜀、劉備)の恩を忘れませんでした。この思、刑余によって賤隸とされたとしましても、國の寵霊を荷った身です。犬馬にも心が有ると言いますが、況して人なら尚更でしょう!こいねがうのは、上(慕容寶)の下へと帰って、微節を明らかにする事です。


と辞した。コが頑なに留めようとしたため、趙思は怒りに満ちた声で


 周室が衰微した時、晉鄭が夾輔しました。漢(前漢)では七國の難が有りましたが、実に頼りとなったのは梁王(劉武)でした。殿下は親戚、叔父であり、位は上台ではありませんか。群后を率先して、王室を匡う事が出来ないのであれば、根本の傾へと赴き、趙倫(西晉。趙王の司馬倫)の事を為すべきではありませんか。この思も、申胥(春秋・呉、申包胥)の哭秦の効はありませんが、それでも君賓(勝、字は君賓)の莽世(王莽)に生を求めようとしなかった、その事を慕うものであります。


と言った。これにコは怒り、その怒りに任せて趙思を斬り殺した。


第八回更新

08

 八月、東晉の南陽太守の閭丘羨、寧朔將軍のケ啓方が、兵二万を率いて侵攻を開始して、管城まで軍を進めた。コは中軍將軍の慕容法、撫軍將軍の慕容和に迎撃を命じた。法は東晉軍を返り討ちにした。しかしコは、法が東晉軍に追撃を加えなかった事に怒り、撫軍司馬のを処刑した。

09

 前秦の苻登は既に後秦の姚興によって滅ぼされていたが、登の弟の苻廣は部落を引き連れてコに帰順していた。コは廣を冠軍將軍に任命して、乞活堡に配していた。隆安三年(399)の三月、惑(火星)が東井に差し掛かった。ある者が秦が復興する兆しだと言ったため、廣は秦王を自称して、慕容鍾を撃ち破った。この時、コは滑臺を都にしたばかりで、晉魏の間に挟まれた地には十城も無く、兵は一万に届かない程度しかいなかった。そこに鍾が敗れたとの報がもたらされたため、コの下を離れて廣に走る者が多数に上った。コは慕容和に滑臺の守りを預けると、自ら兵を率いて廣の討伐に乗り出し、廣の首級を挙げた。


第九回更新

10

 慕容寶が黎陽に至った時、慕容和の長史の李辯は、和に寶を迎え入れるよう勧めたが、和に聞き入れられていなかった。辯は謀が漏れる事を恐れて、東晉軍を管城へと呼び込んでおき、コが自ら軍を率いて討伐に当たるよう仕向けた。その隙を突いて、叛乱を起こそうと言う計画であった。しかしコが撃って出なかったため、愈の不安は更に募っていった。そして今、コが苻廣の討伐に出ている間、辯は和に、今度は叛乱を起こすように勧めた。しかし、和は耳を貸さなかった。これに辯は怒り、和を斬り殺して、滑臺ごと北魏に帰順してしまった。この時、將士の家は尽く城内に置かれていたが、コはこれに攻撃を仕掛けようとした。そのため韓範が


 魏師が既に城に入っており、國の成資を押さえているでしょう。客主の勢が翻然と変わってしまったため、人情は危うい状態にあります。戦うべきではないと考えます。ここは先ず一方に拠すべきでしょう。關中に基を築き、然る後に力を畜えてこれを図るのです。計の上なるものと言えましょう。


と説き伏せたため、コは思い止まった。右衞將軍の慕容雲が李辯を斬り、將士の家族二万余人を引き連れて脱出した。これに三軍は慶スした。コは群臣を集めて今後を謀って


 苻廣が平らげられたとは言え、撫軍(慕容和)が失拠しており、進みては強敵が有り、退いても託す所は無い。どこに出たらよいであろうか?


と意見を求めた。これに張華が進み出て


 彭城は山川に囲まれており、楚の旧都でもありましたし、地は険阻で人は殷(盛)んです。ここを攻めて拠点を築き、基本とするべきではないでしょうか。


と答えた。これとは反対に、慕容鍾、慕輿護、封逞、韓は、滑臺を攻めるよう強く求めた。その時、潘聰が


 滑臺は四通八達しており、帝王の居ではありません。特に、北は大魏(北魏)に通じ、西は強秦(後秦)に接しております。この二國は、枕を高くして待っていられるような相手では有りません。彭城は土地は広いものの人は少なく、その地は平らであり険なる場所はありません。また、晉の旧鎮ですので、必ずや大軍を以って距してくるでしょう。また、江淮に非常に近く位置しているため、水路に阻害物が無いため、秋夏の長雨によって氾濫すると、千里に渡って湖の如くなります。また、水戦は我が國の不得手とするところであり、呉(東晉)の得手とする所です。今、これに勝てたとしましても、久安の計は見当たりません。青齊(青州)は肥沃な土壌をしており、『東秦』と呼ばれています。土地は二千里に広がり、戸は余十万を数え、四塞の固を、負海の饒を有しています。正に用武の國と言えましょう。三齊の英傑は、志を蓄えて待ったと言います。誰が明主を得て以って尺寸の功を立てようと思わない者がおりましょうか!廣固は、曹嶷が營を築いた所です。山川は阻峻であり、帝王の都たるに十分です。ここは、辯士を先に遣って説いて回らせ、大兵がその後に続けて進ませるべきでしょう。辟閭渾はその昔、國恩を負っていました。必ずや翻然と向化するでしょう。もし守迷して順わなかったのであれば、大軍でこれに臨めば、自然と瓦解するでしょう。ここに拠点を構えてしまえば、その後は閉關して鋭気を養い、隙を窺って動けばいいのです。これによって、二漢は關中、河内を有す事が出来たのです。


と進言した。しかし、コは決断に踏み切れずにいた。沙門の朗公は占候に通じていたため、コは朗公の下を訪れて、どこに向かうべきかを問うた。これに朗公は


 三策を敬覧しますに、潘尚書の議が興邦の術と言えます。今歳の初、長星が奎婁に出現し、遂に虚危を掃いました。虚危は齊の分野であり、除旧布新の象です。ここは先に旧魯(州)を定じて、琅邪を巡撫し、秋風の戒節するのを待って、然る後に北転して齊に臨むのが、天の道と言えるでしょう。


と答えた。コはこれに大いにスび、軍を率いて南へと向かい、州北鄙の諸縣を尽く降服させると、守宰を置いて慰撫した。老年の生活状況を問い、軍に略奪を禁じるなどしたため、百姓はコへの警戒心を解き、牛酒を手にして沿道で迎えた。


第十回更新

11

 八月、コは使者を派遣して、齊郡太守の辟閭渾の説得を試みた。渾が聞き入れなかったため、慕容鍾に歩兵騎兵の二万を与えて、渾を攻撃させた。コが琅邪まで進むと、徐の士で帰順してきた者は十余万を数え、琅邪以北で迎えに出てきた者は四万余人に上った。コが城に進攻すると、守將の任安は城を放棄して遁走した。潘聰に城を鎮させた。鍾は青州の諸郡に檄文を発して


 隆替に時が有り、義は昔經に列されてきた。困難では聖が興り、事は中に彰らかである。宣王が危周に龍飛して、光武が絶漢に鳳起したのは、これは蓋し暦数大期であり、帝王の興廃である。我らは永康の多難より、長鯨が網を逸したため、華夏は四分され、黎元(人民)は五裂された。逆賊である辟閭渾の父の蔚は、その昔、段龕と共に川で阻乱したが、太宰(慕容恪)が東征した事により、凶命は勦絶された。渾は覆巣の下にあって、全卵の施を蒙ろうとしている。かつても犬馬識養の心が無かったが、今度は凶父楽禍の志を継ぎ、東秦を盗み拠し、遠く呉越に附こうとしている。そして、黎元を割剥して、南海に委輸しようとしている。皇上は期に応じ、再集するよう大命を下し、彼方の營丘に矜(憐)れんだが、俄かに王略を阻んだ。故に七州の兵二十余万を以って、岱宗を巡省し、罪を齊魯に問わん。その昔、韓信(前漢)が裨將を以って齊を伐ったが、征は有るも戦は無かった。耿(後漢)が偏軍を以って歩(張歩)を討ったが、克つに移朔も掛からなかった。しかし、万乗の師を以って、一隅の寇を掃うのは、山を傾け卵を砕くようなもので、これは易すきに非らず。孤(私)は不才ながらも、忝くも先駆を荷い、元戎十二万を都督している。皆な烏丸の突騎、三河の猛士であり、劍を奮して夕火と光を争い、戈を揮して秋月と色を競おうとしている。これで攻城すれば、いかなる城が勝てない事があろうか。この衆が戦えば、いかなる敵が平らげられないだろうか!その昔、竇融(後漢)が河西を以って漢に帰して、その栄は後裔にまで及んだ。彭寵(後漢)が漁陽で盗逆したが、奴僕まで殺された。近くであれば、曹嶷が跋扈していたが、後趙に擒えられた。段龕が干紀したが、前朝に取滅された。これは古今の吉凶であり、已然の成敗なのであろうか?渾がもし先に迷うも後に悟れば、栄寵が加えられるであろう。もし敢えて王師を抗しようと言うのであれば、敗滅してその遺燼も残しはしまい。稷下の雄よ、岱北の士よ、渾を斬送する事が出来た者には、佐命と同じ賞がなされようぞ。しかし、もし機を履みて発せざれば、必ずや玉石と共に摧かれよう。


と陳べた。辟閭渾はコ軍の接近を知ると、八千余家を引き連れて廣固へと入った。諸郡は慕容鍾の檄を受けて、コに呼応した。渾は震え上がり、妻子を連れて北魏へと逃亡を図った。これにコは、射聲校尉の劉綱に追撃させた。綱は城で渾に追いつき、その首級を挙げた。渾の參軍であった張瑛は、檄文を作成する役を任されていたが、その辞は不遜なものであった。制圧されるに及び、コは瑛を捕えて、この事について責めた。しかし瑛は、神色自若としており、おもむろに


 渾がこの瑛を有す事は、韓信が通を有していたのと同じであった。通は漢祖(前漢、劉邦)に遇った時に恕を蒙った。瑛は陛下に遭したが戮を加えようとしている。古人と比べてどうだ。不幸とは言えまいか。防風の誅であれば、この瑛、甘んじて受け入れよう。しかし、堯舜の化が四海に広がらないだろうが。


と答えた。コはこの言を善しとしたが、この後、張瑛を殺した。コは遂に廣固へと入った。


第十一回更新

12

 隆安四年(400)、コは廣固の南郊で皇帝位に即いた。大赦を発すると、元号を建平とした。行廟を宮南に設けると、使者を派遣して奉策告成させた。慕容鍾を司徒に、慕輿拔を司空に、封孚を左僕射に、慕輿護を右僕射に進位させた。度支尚書の封ト、中書侍郎の封逞を風俗の巡察に派遣し、行く先々で將士と大饗した。妻の段氏を皇后に立てた。學官を建立して、公卿以下の子弟を始め二品士門の二百人から選抜して、太學生とした。


第十二回更新

13

 建平二年(401、隆安五年)の十月、群臣との酒宴を催し、宴も酣になった頃、コは笑いながら


 朕は寡薄と言えども、己の南面に恭して諸侯と朝し、上に在っても驕らず、位に夕タしている。これは、古えのどの主と等しくするであろうか?


と尋ねた。青州刺史の鞠仲が


 陛下は中興の聖后であります。少康、光武の儔(類)と言えましょう。


と答えた。コは左右の側近を顧て、鞠仲に帛千匹を下賜するよう命じた。しかし仲は、下賜品が多いと、これを辞退した。これにコは



 卿は朕を調戲したのかもしれないが、朕は卿を調戲したつもりはないぞ!卿は飾って非実を答えたからこそ、虚言を以って賞したまでだ。賞を加えるのは謬ではない。何ぞ謝るにたりようぞ!


と言った。すると韓範が進み出て


 この範、天子は戲言する無く、忠臣は妄対する無しと聞き及びます。しかし、今日の論、上下ともに欺いたとなれば、君臣は共に失したと言わねばなりません。


と陳べた。コは大いにスんで、韓範に絹五十匹を下賜した。これ以後、競って進言するようになり、朝廷には直士で溢れかえった。


第十三回更新

14

 コの母と兄は、これより以前から長安にいた。そこで、平原人の杜弘を長安を、その存否を問わせに向かわせた。出発を前に弘は


 この弘が長安に至ったとして、もし太后の動止を奉じる事が出来ませなんだら、すぐさま西の張掖へと向かい、死を以ってしてでも効を為しましょう。弘の父、雄は年が六十を超えておりますが、未だ栄貴に沾していません。そこで本縣の祿を乞い、烏鳥の情を申させて下さい。


と陳べた。側で聞いていた張華が


 杜弘は未だ行ってもいないのに祿を求めるなどは、要利の情の深いものと言えます。行かせてはなりません。


と陳べた。しかしコは


 私は軽とするところの財を散じて、重とする所の死を求める事もある。まして、親尊の為であれば、吝(惜)しんでいられようか!それだな、弘は君の為に親を迎えようと、父の為に祿を求めようとしているのだ。外で利を求めていたとしても、内では実に忠孝ではないか。


と言って取り合わず、杜弘の望み通り、その父の杜雄を平原令に任命した。弘が張掖に至った時、盗賊によって殺されてしまった。コはこの訃報を聞くと悲しみ、その妻子を厚く面倒を見た。


第十四回更新

15

 建平三年(402、元興元年)、コは齊城に赴き、營丘に登って晏嬰(春秋・齊)の冢を望んだ。そして、振り返って左右の側近に


 禮では、大夫は城に逼さずして葬すとされている。平仲(晏嬰の字)は古えの賢人であり、禮に通じていた人物であった。生けるに近市に居し、死せるに近城に葬さる。有意(故意)であろうか?


と問うた。これに青州秀才の晏謨が


 孔子はこの謨の先人である平仲を賢と称したので、賢に間違いはありません。その梁の高さを知らずして、その禮に豊であると言えましょうか?蓋し政は家門に在り、故に倹する事によって世を矯正しようとされたのでしょう。存していれば、湫隘に居す事を選べますが、卒してしまえば、どうして地を選んで葬し得ましょうか!門の遠からざる所にされたのは、平生の意を汲んでの事でしょう。


と答えた。晏謨を從えて漢の城陽景王(前漢、劉章)廟に至ると、庶老を招いて申池で酒宴を催した。その後、北の社首山に登り、東の鼎足を望んだ。そして、牛山に目を転じると


 古えで死なざるもの無きや!


と歎じた。愴然と終焉の志が感じられた。そして、晏謨に齊の山川や丘陵を始め、賢哲の旧事について問うた。謨は詳細にこれに答えてた。地形に関しては地図を著した。コは深く嘉として、尚書郎に任命した。商山に治所を立て、鹽官を烏常澤に置いて、軍國の用を広げた。


第十五回更新

16

 建平四年(403、元興二年)の四月、故吏であった趙融が長安から至り、母と兄の凶問を伝えた。コは慟哭のあまり吐血し、そのまま病床に臥せるようになってしまった。司隸校尉の慕容達が、ここに及んで謀反を起こした。そして、牙門の皇に兵を与えて、端門を攻撃させた。殿中帥の侯赤眉が、門を開いてこれに応戦した。中黄門の孫進はコを抱えて城壁を乗り越えると、進舍に隠れた。段宏らが宮中で変が起こったと聞きつけ、兵を率いて四門に布陣した。コが入宮すると、赤眉らを誅殺した。達は恐れおののいて、北魏へと亡命した。慕容法が濟北の楡谷で北魏軍で干戈を交え、北魏軍を撃ち破っている。


第十六回更新

17

 尚書の韓が上疏して


 二寇を逋誅しましたが、國恥は未だ雪がれておらず、關西では豺狼が藪を為し、揚越では鴟が林を為しています。三京社稷はと言えば、草の生えるに任せて丘墟となり、四祖園陵はと言えば、雑草が生い茂って手入れがなされていない状態です。義夫憤歎の日、烈士の忘身の秋と言わねばなりません。にもかかわらず皇室は多難であり、威略は未だ振っていません。これは、長蛇をして翦たせず、封豕をして假息させているようなものです。人は憤慨を抱き、常に一日の安は永久には続かないと、終朝の逸には卒歳の憂は無いと言っています。陛下は大業を中興し、務は遵養に在り、遷萌の失土を矜(傷)んでおります。長く復(免除)して役させなければ、黎庶(人民)を愍んで息肩させられ、因循を貴とすれば擾(乱)させないでしょう。これによって、營丘を保寧する事が出来るばかりか、秦越の手出しを難しくさせます。今、群凶が僭逆して、実に繁なる徒を有し、我らが三方に拠して、國の瑕釁を窺っています。虚実を詳細に量って、成敗をしっかりと校(考)するべきかと深く思います。そうすれば、兵を養いて甲を氏i研)き、農地を広げて兵糧を蓄える事が、必然となります。その結果は、進みては雪恥討寇の資となり、退いては山河万全の固となるでしょう。百姓は秦晉の弊によって、次々と手を結んでいます。或いは百室が戸を合わせ、或いは千丁が籍を共にして、城社に依託するなどしています。燻燒される事を恐れず、そのいずれもが課役を無視して、姦をほしいままにしています。風(風化)を損ね憲を毀するなどは、法が容れるところではありません。ただ検令が未だ宣せられていないため、戮を加える事が出来ないでいます。今、黎萌(人民)を隠実(調査)して、その編貫(戸籍)を正すべきではないでしょうか。こいねがわくは、上にあっては皇朝理物の明を増し、下は軍國兵資の用を益さん事を。もし採納されましたらば、求めるは山海の裨(助)となる事です。さすれば、商鞅の刑に、ス綰の害に遇おうとも、辞する所ではありません。


と陳べると、コはこれを聞き入れた。そして、車騎將軍の慕容鎮に騎兵三千を与えて、境に沿って防衛と警戒に当たらせ、百姓が逃竄するのに備えさせた。また、韓を使持節、散騎常侍、行臺尚書に任命して、郡縣を巡視させて調査させ、蔭戸五万八千を発見した。は公廉にして正直な人物で、行く先では野宿して一夜を明かす事もあったため、人民は調査に素直に応じたのであった。


第十七回更新

18

 コは諸生を大々的に集めて、策試に親臨した。これを終えて饗宴を催すと、高きに乗って遠矚し、尚書の魯邃を顧て


 齊魯には、もとより多くの君子がいた。当昔の全盛の時、接(接子)、慎(慎到)、巴生(田巴)、淳于(淳于)、鄒(衍)、田(田駢)の徒は、修檐(長檐)に蔭われ、清沼に臨み、朱輪を馳し、長剣を佩びて、非馬の雄辞をほしいままにし、談天の逸辯を奮っていた。指麾(指揮)すれば則ち紅紫が章を成し、俛仰すれば則ち丘陵に韵が生じたと言われる。しかし、今日に至って、草で荒れ果て墳は頽し、気は消え煙は滅している。永言も千載すれば、依然のままとはいかんな!


と言うと、魯邃は


 武王は比干の墓を封じ、漢祖は信陵(戰國・魏)の墳を祭りました。どちらも賢哲に心に留め、いつも往事を思っていたのです。陛下の慈は二主より深く、澤(恩沢)は九泉を被っております。もし彼らが知ったならば、銜荷しない事は無いでしょう。


と答えた。


第十八回更新

19

 これに先立って、妖賊の王始が太山で兵を集めると、太平皇帝を自称していた。その父を太上皇と号し、兄を征東將軍に、弟を征西將軍に任じている。慕容鎮がこれを討伐して捕え、都市で斬首に処する事とした。処刑に臨んで、その父と兄弟の所在を尋ねると、始は


 太上皇帝は外に蒙塵し、征東、征西は乱兵に害されてしまった。ただ朕の一身だけだ。頼りとするところは無い。


と答えた。これを聞いていた妻が


 その口(言葉)に坐(連座)したのですか。ここに至って、何で自分の命を大切にしないのですか!


と怒声を挙げた。これに王始は


 皇后よ!古えより、不破の家が有ったか!不亡の國が有ったか!


と言い返した。処刑人が刀鐶を首筋に当てると、王始は処刑人を仰視して


 崩れれば崩れるまでよ。最期まで帝号を改める気は無い。


と言い放った。コはこれを聞いて、王始の首を晒させた。


第十九回更新

20

 前年の建平三年(402、元興元年)には、東晉の桓玄が簒逆に動き出し、己に附かない者を誅殺していった。冀州刺史の劉軌、襄城太守の司馬休之、征虜將軍の劉敬宣、廣陵相の高雅之、江都長の張誕は、いずれも次は自分の番ではないかと不安に陥り、同年の十月、コの下に亡命してきていた。そして今、九月、中書侍郎の韓範が上疏して


 そもそも帝王の道にあっては、必ず経略を崇びます。その時にあってその人が無ければ、則ち弘済の功は闕けます。その人が有りてその時にあらざれば、則ち英武の志は申せません。王業を成し得る者が現われて初めて、人と時が合うのです。晉國が内難になってより、ここまで七載です。桓玄が逆簒しましたが、その虐なるはあの董卓(後漢)を超えるものであり、神は怒り人は怨んでおり、殃が積み重なっています。可乗の機で、これに過ぎるものは無いでしょう。陛下の神武を以って、これを経緯(治)して、楽奮の卒を駆って、厭乱の機に接すれば、譬えるならば、声が響に応じて発せられるように、形が影に隨って動くように、未だその易きに比すものはありません。合わせて、江淮南北の戸口は未だ幾くならず、公私の戎馬は数百を過ぎず、守備の事も言わずもがなでしょう。もし歩騎の一万を以って、雷霆の挙を建て、卷甲して長駆し、まっしぐらに江會に臨めば、必ずや旗を望んで草偃し、壺漿が路に並べられましょう。跨地は数千を、兵は十万を超え,西の強秦(後秦)を併呑して、北の大魏(北魏)に対抗し得ましょう。境を拓き疆を開き、社稷を保寧しようとするに、今より過ぎたるはありません。この機会を逸してしまえば、豪桀が再び起こり、桓玄を梟除して、惟新の化を布すでしょう。遐も邇も寧されてしまえば、物は異望する無く、建を屠り難くなるばかりではなく、江北すら望む事は出来なくなりましょう。機が過ぎれば患が生まれ、憂いが必ず至ります。天もこれを取らずとあらば、悔を及ぼすでしょう。陛下がこれを覧じられますよう。


と陳べた。これにコは


 この頃、しばしば百六に纏され、宏綱が俄かに弛み始め、遂には姦逆をして華を乱させ、旧京をして墟穢させるに至った。否運を至るたびにいつも、憤と慨とが胸に去来する。その昔、少康が一旅の衆を以って、夏の配天を復活させたと言う。まして、朕は三齊の地に拠し、五州の衆を藉りているのだ。これを教して以って軍旅として、これを訓じて以って禮讓させれば、上も下も義を知り、人は自ら奮う事を思うようになるであろう。そうすれば、後は甲を繕して釁を待ち、日久を為せばいい。ただ先に欲するのは中原を定める事であり、逋を掃除してから、然る後に淳風を宣布すれば、九服を経理し、長江にて飲馬させ、旌を隴坂に懸けられよう。この志の未だ遂げざる内は、戈を韜(収)めるわけにはいかん。今の事、王公はこれを詳議せよ。


と陳べた。皆な桓玄が志を得たばかりで、図る事は難しいとして、中止を求めた。城西で講武が行われた。歩兵三十七万、車一万七千乗、鉄騎五万三千が編成され、それは山沢に周亘するほどの数であり、旌旗が彌漫し、鉦鼓の声は天を振い動かすほどであった。コは高きに登ってこれを望むと、振り返って劉軌、高雅之に


 その昔、郤克(春秋・晉)が齊に忿り、子胥(春秋・呉、伍員。子胥は字)は楚を怨み、終にはその剛烈を暢し得て、名を千載に流する事に至った。卿らは既に投身有道を知っており、昔人に慚ずるところは無いな。


と語った。高雅之らは頓首して


 幸いにも陛下天覆の恩を、大造の澤を蒙り、その存亡継絶は、実に聖時に在り、万隕されようとも、何としてでも上に報いましょうぞ!


と答えた。建平五年(404、元興三年)の三月、コの下に桓玄が敗れたとの報がもたらされると、慕容鎮を前鋒に、慕容鍾を大都督に任じて、歩兵二万、騎兵五千を与え、出兵の期日まで立てられたが、コが病床に臥せてしまったため、出兵は取り止めとなった。


第二十回更新

21

 コは兄子の慕容超を長安から迎えようとしていたが、建平六年(405、義熙元年)の四月、到着した。九月、コの夢に父が現われ


 お前には子が無い。早くに超を太子に立てよ。そうでなければ、悪人に生心されるぞ。


と言われた。目が覚めて妻に


 先帝の神明が勅する所を、この夢意に見た。私の死期は近い。


と告げると、書を下して慕容超を皇太子に立て、境内に大赦を出した。子で父後と為った者は人爵二級となった。コの病状が急変し、そのまま病没した。享年七十。その夜、十余の棺が用意され、四門からそれぞれ出され、山谷に埋葬された。その尸の所在は、誰にも知られていない。在位すること五年、獻武皇帝の諡号が贈られた。


2011/09/02  終了。


『晉書』「載記」 慕容コ - 3161〜3172 -


第一回更新    開始 残り20段 全21段  2011/08/25
第二回更新    更新 残り19段
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第十回更新    更新 残り10段
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第十二回更新   更新 残り08段      2011/09/02
第十三回更新   更新 残り07段
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第二十回更新   終了           2011/09/02


2011/09/02 終了。