2011/04/10 開始
01
阮孝緒、字が士宗、陳留は尉氏の人である。父の阮彦之は、劉宋朝で太尉從事中郎となっている。
02
孝緒が七歳の時、從伯の阮胤之の家に嗣子がいなかったため、胤之に養子として迎えられた。胤之の母の周氏が死去した時、その百余万の遺産を残した。孝緒もこれを相続する事となったが、孝緒はその一切を受け取らず、胤之の姉、琅邪の王晏の母に譲り与えた。これを聞いた者は、皆な孝緒に嘆異の声を挙げた。
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03
幼い頃から至孝で、物静かな性格であり、近所の子供達と遊んでいても、池を穿って山を築くのを楽しみとしているような子供であった。年十三ともなると、五經に通じるようになっていた。年十五になった時、冠して父の阮彦之と対面したが、彦之は
「
三加彌尊は、人倫の始めだ。自ら勗(勉)めるを思い、我が身を庇(助)するのだぞ。
」
と誡めた。これに孝緒は
「
願わくは松子(仙人。赤松子)を瀛海(大海)に、許由(隠士)を穹谷(深谷)に追いたいものです。そして促生を保つためにも、塵累は御免蒙りたいものです。
」
と答えた。これ以降、一室に屏居するようになり、定省でなければ出戸する事も無くなり、家人ですらその面を見た事が無いほどであった。そのため親友は、「居士」と呼ぶようになった。
04
外兄の王晏が貴顕となると、何度か孝緒の門を訪れた。しかし孝緒は、必ず晏は顛覆するとして、常に逃匿して会おうとはしなかった。ある時、醤を食べたところ美味であったため、どこの物か問うと、王家から貰った物だとの答えが返ってきた。これを聞くや否や吐き出して、醢を棄てさせた。南齊の建武四年(497)の正月、その晏が誅殺されると、親戚の多くが累が及ぶのではないかと恐れた。しかし孝緒は
「
親戚ではあるが、関わり合いの無い人間だ。どうして連座が及ぼうか?
」
と言っていた。その通り、連座される事は無かった。
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05
南濟の末、中興元年(501)の十一月、義師(蕭衍軍)が京城を包囲していた時、孝緒の家では、その貧しさがために爨する事が出来ずにいた。僮妾は仕方無しに、隣家から樵を盗んできて火を起こしていたが、孝緒はこれを知ると、食べ物を口にしなくなった。そして、屋を壊させて、それで以って火を起こさせて炊事をさせた。居室には鹿牀があるだけで、竹樹が周りを囲んでいるだけであった。天監元年(502)、御史中丞の任ムが、孝緒の兄である阮履之の下を尋ね、孝緒の下にも赴こうとしたが思い止まり、その居室を望むだけに留めて
「
その室、邇(近)くにあると言えども、その人、甚だ遠し。
」
と歎じた。名流に欽尚される事は、このようであった。
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06
天監十二年、呉郡の范元

と共に朝廷に呼ばれたが、二人とも行く事は無かった。陳郡の袁峻が孝緒に
「
往時は、天地が閉ざされれば、賢人は隠した。今、世路は既に清んだ。子はそれでも遁しているが、可であろうか?
」
と問うと、孝緒は
「
その昔、周コが興ったと言えど、夷(伯夷)、齊(叔齊)は薇蕨を厭わなかった。漢道が方に盛んなりし時、黄(夏黄公)、綺(綺里季)は山林を悶としなかったではないか。仁を為すは己の由る所であり、どうして人世が関係しようか!まして、僕は往賢の類には非ざるぞ?
」
と答えた。
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07
この後、鍾山で聴講していた頃、母の王氏が急病に罹ったため、兄弟が孝緒を呼び出そうとした。しかし母の王氏は
「
孝緒の至性にして冥通している。必ずや自と到ろう。
」
と言った。果して、孝緒は胸騒ぎを覚えて、戻ってきた。隣里にこれが伝わると、孝緒を嗟異した。薬の調合に生きた人参が必要で、古い言い伝えでは、鍾山に自生すると言われていたため、孝緒が自ら奥深くを経巡ったが、数日しても見つける事が出来なかった。突如、一頭の鹿が目の前を横切っていった。孝緒はこれに何かを感じて、その後を付けて行った。そして、ある所まで来ると、忽然と姿を消してしまった。その消えた場所に目をやると、果して獲この草を発見する事が出来た。孝緒はこれを用いて薬を調合した。母がこの薬を服用すると、次第に平癒していった。孝緒の孝によって為された事だと、皆な歎じた。
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08
筮に長じた張有道と言う者が、孝緒に
「
子は隱跡とお見受けするが、心は明となっていないであろう。もしそうでなければ、龜蓍で考しても、験には現われないであろう。
」
と言って、布卦を始めた。五爻を

すると、張有道が
「
これは咸に為りそうだ。これは應感の法であって、嘉遯の兆では無いぞ。
」
と言うと、孝緒は
「
どうして後爻が上九と為らないと分かるのだ?
」
と言うと、果して陽卦が出て、遯卦となった。これを見た張有道は
「
これは所謂『肥遯無不利(肥(ゆた)かに遯(のが)る。利ろしからざるなし)。』か。象は実に應コであり、心迹を併せ持っている。
」
と歎じた。これに孝緒は
「
遯卦を得たとしても、上九爻が発せざれば、升遐の道は、高謝して生を許そう。
」
と言った。『高隱傳』を著すと、炎帝、黄帝から、天監の末に至るまで、斟酌して三品に分けると、若干の卷となった。また著論して
「
そもそも至道の本とは、貴とするは無為に在る。聖人の跡は、弊を拯うに存す。弊拯は跡を由とするが、その跡が本に乖うものであれば、本は既に無為となり、非道の至と為る。そして跡が垂れざれば、世に平は無い。その本が究されざれば、道は実に交喪する。丘(孔丘。孔子)、旦(周公・旦)がその跡を存したのは、その本に晦かったからである。老(老子)、莊(莊子)はその本に明かったため、その跡を深く抑える事が出来た。跡が抑える事が出来れば、数子が有余としたであろう。本を晦と見たため、尼丘(孔子)は不足となったのである。得一の士に非ざれば、彼の明智を闕く。體二の徒は、ただ鑒識を抱くだけである。しかし、聖は極照であり、かえってその跡を創る。賢は未だ宗に居さず、更にその本を言う。跡に拯世を求めるのは、聖に非ざれば能わざるなり。本が明理であれば、賢を照らせよう。もし、この本跡を體し、かの抑揚を悟れば、孔、莊の意は、その半ばを過ぎよう。
」
と陳べた。
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09
南平元襄王の蕭偉が、孝緒の名を聞きつけて、書を送って招こうとしたが、赴く事は無かった。孝緒は
「
志の驕にして富貴に非ず。ただ性が廟堂を畏れるだけだ。もし


をして驂ずる事が出来れば、何を以って驥

を異としよう。
」
と言った。
10
南齊の建武五年(498)、青溪宮の東門が突如として崩壊し、大風が東宮門外の楊樹をなぎ倒した。これについて孝緒が問われると、孝緒は
「
青溪は皇家の旧宅だ。齊は木行であり、その東は木位である。そして今、東門が自壊したのは、木が衰えたからだ。
」
と答えた。
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11

陽忠烈王の蕭恢の妃は、孝緒の姉である。王は嘗て命駕して、一緒に遊そうとしたが、孝緒は垣を鑿って逃げ出し、会おうともしなかった。諸甥が歳時に饋遺したが、その一切を納める事は無かった。人がこれを疑問に思っていると
「
私は送ってくれと願った事はない。だから受け取らないのだ。
」
と答えた。
12
常日頃から石像を供養していた。以前から損壊していた箇所があったが、心から治補を欲すると、一夜が明けると忽然と完全に治っていた。皆なこれに驚かされた。
13
大同二年(536)に死去した。享年五十八。門徒はその徳行を誄して、諡号を文貞處士とした。著した『七録』など二百五十卷は、世間に広まった。
2011/04/10 終了。
『晉書』「處士」 阮孝緒 - 739〜742 -
第一回更新 開始 残り11段 全13段 2011/04/10
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2011/04/10 終了。