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最終更新 2011/02/21



索  




2011/02/19 開始

01

 索、字をコ林と言い、敦煌の人である。何代も続く冠族の出である。は若い頃は游侠を気取っていたが、青年する頃には、心変わりをしたかのように学問に打ち込むようになり、佐世の才器を有しているとまで言われるようになった。前涼の建興四十九年(361、升平五年)の十一月、張天錫が輔政の任に当たると、は冠軍、記室參軍に任命された。升平三年(363、興寧元年)の閏八月、天錫は張玄を弑殺して即位すると、司兵に任命され、禁中録事を歴任した。執法の輔佐に当たると、州府は肅然とし、郡縣も行いが改まった。羽林左監に遷されると、勤幹の称を得た。中壘將軍、西郡武威太守、典戎校尉として中央を離れた。政務の機軸は寛和であり、戎も夏もその恵に安んじられた。天錫も大いにを敬遇した。前秦の建元十二年(376、太元元年)の八月、天錫が降服した事によって、前涼は滅亡した。苻堅がと初対面を果たすと


 涼州の信の多くは君子によるものだ!


と感嘆の声を挙げた。既にが河西の徳望を得ていたことから、九月、苻堅はを別駕に任命した。


2010/02/20

02

 建元二十一年(385、太元十年)の八月、苻堅が殺され、苻丕がその後継につくと、大安元年と改めた。九月、西域から戻ってた呂光が姑臧を陥落させると、涼州の郡縣は尽く降服していった。その中にあって、酒泉太守の宋皓と、が郡の守りを固めて、頑として降服しようとしなかった。そのため光は実力行使に至り、これを攻め落として生け捕りにした。光は


 孤(私)は既に西域を平らげ、將に京師の難に赴かんとしているに、梁熙は理由も無きまま、孤が帰路を絶っている。これは朝廷の罪人であり、卿は何の意があって頑迷に郡を阻み、自ら元悪と同じとなるか!


と責め立てた。これには、怒りの表情を顔に声に浮かべて


 將軍は叛胡を討つべしと言う詔を受けたのであろう。それとも、涼州にて乱すべしと言う詔を受けられたのか?寡君(梁熙)に何の罪のありて、將軍はこれを害したるか?この、ただ苦力の少なきがために、固守して以って君父の讎に報いる事の能わざるのみにして、豈に逆の彭濟が如く望風して反叛せんや!主の滅すれば臣は死す、禮の常であろう。


と呂光を責め返した。市で処刑されたが、その最期まで神色として、変わる事は無かった。


2010/02/21

03

 弟の索菱も儁才を有していて、張天錫に仕えて執法中郎、冗從右監に任命されている。前秦の苻堅の下では、伏波將軍、典農都尉に至っている。と共に殺害された。


2011/02/21 終了


『晉書』「載記」 苻登/索 - 2954〜2955 -


2011/02/19 開始 残り02段 全03段
2011/02/20 更新 残り01段
2011/02/21 終了