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最終更新 2011/08/13



禿髮 







2011/03/17 開始

01

 禿髮檀は幼くして感性が鋭く、才略を有していた。父の禿髮思復檀の才能を認め、諸子に対して


 檀の明識や幹藝は、お前達の類には非ず。


と言ったほどであった。これ以降、諸兄は自分が父の後継に立った時には、自分の子を後継に立てるのではなく、檀に継がせるべきと考えるようになっていった。太初三年(399、隆安三年)の八月、禿髮利鹿孤が兄の禿髮烏孤の後継に立ったが、自ら積極的に軍事には携わらず、軍國の大事の全てを檀に任せた。建和三年(402、元興元年)の三月、烏孤が死去した。その後継に立って涼王を称し、樂都に遷都すると、建和三年を以って弘昌元年と改めた。


第二回更新

02

 建和元年(400、隆安四年)の七月、乞伏乾歸は晉興にいたが、世子の乞伏熾磐を人質に差し出して、乾歸自らは後秦へと亡命を図った。十一月、その熾磐が乾歸を追って逃走を図った。禿髮利鹿孤は騎兵を発して、その行方を追わせた。騎兵が熾磐を捕えて戻ると、利鹿孤は首を刎ねるよう命じた。しかし、その場にいた檀が


 臣たる子が君たる父の下へと帰するのは、振古よりの通義ではありませんか。故に魏武(三國・魏、曹操)は關羽(三國・蜀)の奔を善しとし、秦昭(戰國・秦、昭王)が頃襄(戰國・楚、頃襄王)の逝を恕したではありませんか。熾磐が逃叛をしはしましたが、孝心によるものであり嘉とすべきではありませんか。ここは全宥を垂して、以って海岳の量を知らしめるべきではないでしょうか。


と情状酌量を求めたため、禿髮利鹿孤は処刑を思い止まった。そして今、四月、乞伏熾磐が允街へと逃亡してしまうと、檀はその妻子を熾磐の下へと送ってやった。

03

 後秦の姚興が使者を派遣して、檀を車騎將軍、廣武公とした。檀は樂都を大城とした。弘昌二年(403、元興二年)の七月、興が配下の齊難らに歩兵騎兵の四万を与えて、呂隆を迎えに姑臧へと行かせた。檀は昌松、魏安の二戍を抑えた上で、これに手出しする事無く通過させた。


第三回更新

04

 後秦の涼州刺史の王尚が、その主簿の宗敞を派遣して来聘した。敞の父である宗燮は、後涼が呂光の治世の時(386〜399)、湟河太守から尚書郎として召還され、廣武で檀と会っていた。その時、燮は檀の手を執って


 君の神爽は群を抜いたもので、逸したる気は雲を陵ぐものだ。命世の傑と呼ぶに相応しく、必ずや今の世難を除き清めてくれよう。恨むらくは、私の年が老に達しており、これを見届ける事が出来ない事だ。私には敞と言う者を含めた兄弟がおるが、それを君に託したいものだ。


と言っていた。今、その宗敞が派遣されてきたため、檀は敞に


 孤(私)は常才ながらも、過大なる評価によって、尊先君によって見称されてしまったがために、大人水鏡の明を曇らせてしまうのではないかと、いつもその事を恐れていた。そして、家業を忝くも継ぐに至って、心中では君子を求めるようになっていた。『詩』に『中心藏之,何日忘之(中心、之れを藏せば、何れの日か之れを忘れん).』とあるが、図らずも今日、卿と見みゆる事が出来た。


と言った。これに宗敞は


 大王の仁は魏祖にr(等)しいものです。先人に思いを巡らせてみても、朱暉(後漢)が張堪の孤を眄(顧)み、叔向(春秋・晉、羊舌。字が叔向)が汝齊の子を撫したと言いますが、類に出来ましょうか。


と答えた。酒宴が進むと、語は平生にまで及んだ。すると檀は


 卿は魯子敬(三國・呉、魯肅。字が子敬)の儔(類)だ。恨むらくは、卿と共に大業を成し得ない事だ。


と陳べた。


第四回更新

05

 檀は後秦の強盛であり、また姑臧を図ろうと考えるようになっていたため、弘昌三年(404、元興三年)の二月、年号を捨て去った。尚書丞郎官も放棄して、參軍の關尚を後秦へと派遣した。姚興が尚に


 車騎(檀)は投誠献款(帰順)し、國の藩屏となっているが、兵を興す、大城を造ると勝手にやっているが、臣の道とこのようなものかね?


と問うと、關尚が


 王侯は險を設けて以って自ら固めるとは、先王の制であります。それは人を安じて衆を衛するために、あらかじめ不虞に備えるためです。車騎は遐藩に在るため、勍寇に密邇されています。南則では逆羌が未だ賓せず、西則では蒙遜が跋扈しているのです。つまり、國家重門の防と為らんがためであり、陛下、その嫌は考えすぎにございます。


と答えた。これに姚興は


 卿の言、その通りである。


と笑った。


第五回更新

06

 檀は配下の文支に南羌、西虜を討伐させ、支はこれを大いに撃ち破った。姚興に上表して、涼州の領有を求めたが、認められなかった。その代わり、檀に散騎常侍が加えられ、邑二千戸を揩ウれた。義熙二年(406)の六月、檀は軍を起こして沮渠蒙遜の討伐に乗り出し、池まで進軍した。蒙遜は城を固守して、禾苗を刈り尽してしまった。檀は赤泉に至った所で、軍を返した。興に馬三千匹、羊三万頭を献上した。興はこれを忠の表れだとして、檀を使持節、都督河右諸軍事、車騎大將軍、領護匈奴中郎將、涼州刺史に任命し、常侍、公はそのままとした。姑臧の鎮を任せられる。檀が歩兵騎兵の三万を率いて五澗まで進軍した時、後秦の涼州刺史の王尚は辛晁、孟、彭敏に出迎えに行かせた。尚は清陽門から出ると、鎮南將軍の文支が涼風門から入った。宗敞が別駕として尚を長安に送り届けようとすると、檀が


 私が涼州の三千余家を得たが、情の寄するところは、唯だ卿一人だと言うのに、我を捨てて去ろうと言うのか?


と言うと、宗敞が


 今は舊君の下へは、送り届けに行くだけです。忠する所は殿下だけです。


と返した。しかし檀は


 私は今、新たに貴州を牧したばかりだ。懐遠安邇の略は、どうしたらよいのだ?


と言った。これに宗敞は


 涼土は疲弊はしていますが、形勝の地である事には変わりはありません。道は人の広める通りになるのであり、実に殿下に懸かっているのです。段懿、孟は、武威の宿望です。辛晁、彭敏は、秦隴の冠冕です。裴敏、馬輔は、中州の令族です。張昶は涼國(前涼)の旧胤です。張穆、邊憲、文齊、楊班、梁ッ、趙昌は、その武は飛羽(三國・蜀、張飛、關羽)と同じであります。大王の神略を以って、これを撫するに威信を以ってすれば、農も戦もどちらも修められ、文教は共に設けられましょう。さすれば、天下を從する事は可能です。河右がどうして定められない事がありましょうか!


と答えた。これに檀は大いにスび、宗敞に馬二十匹を下賜した。文武官と謙光殿で大饗し、それぞれに金馬を下賜した。


第六回更新

07

 西曹從事の史ロを後秦の姚興の下へ派遣した。興はロに


 車騎は涼州を平定して、本國に衣錦しているが、私の徳によるものか?


と問うた。これに史ロは


 車騎は河西にて徳を積んでおり、英問の広がりが薄く、王威に未だ接していない所からも、万里に渡って帰順させております。陛下が官方は才を以って任じ、功を量って職を授けられており、彝倫の常に則っており、これは徳と言えましょう!


と答えた。しかし姚興は


 朕は州を車騎に授けてはおらぬぞ。車騎は何によってこれを得たのか!


と続けた。これに史ロ曰は


 河西をして雲擾させ、呂氏をして顛狽させたのは、実に車騎の兄弟がその根本を傾けたからに他なりません。陛下が遐被を鴻羅されましたが、涼州はそれでもなお天網の外でした。故に征西(征西將軍、姚碩コ)は周召(周公旦、召公)の重を以って、姑臧を力屈したのです。齊難は王旅の盛を以って、張掖の勢を挫いたのです。王尚は孤城を独守し、外より群狄に迫られ、陛下が十年に渡って連兵しなかったため、中國は殫竭されてしまい、涼州は未だ取るに易き地ではありませんでした。今、虚名を人に假され、大利を收め、天からの妙算を知り、聖は道と合い、遷授と言えども、また時宜と言えましょう。


と冷静に答えた。姚興はこの言にスして、騎都尉に任命した。


第七回更新

08

 檀は群僚と宣コ堂で酒宴を催すと、仰視して


 古人の言に『作者不居,居者不作』とあるが、正にその通りだな。


と歎じた。すると孟が進み出て


 張文王(張駿)が城苑を築き、宗廟を繕して、貽厥の資、万世の業を為しましたが、秦師(前秦)が渡河してきたため、然と瓦解しました。梁熙が全州の地に拠し、十万の衆を擁しましたが、酒泉にて敗れ、身は彭濟に死しました。呂氏は排山の勢を以って、西夏に王たりましたが、その率土は崩離し、秦雍に銜璧しました。ェ饒(前漢、蓋ェ饒)に言が有ります。『富貴無常,忽輒易人(富貴に常無し、忽ち輒ち人より易う)。』と。この堂が建てられて、年は百載になろうとしており、その十有二主は、唯だ信順した事によって久しく安んじ、仁義を以って永固する事が出来たのです。願わくは、大王がこれに勉められます事を。


と言った。この言に檀は


 君に非ざれば、その言を聞く事も無かったかもしれない。


と称賛した。八月、檀は姚興から受制されなかったが、車服や禮章の一切は王の物とした。宗敞を太府主簿、録記室事に任命した。


第八回更新

09

 檀は澆河へ赴くと見せかけて西平、湟河を襲撃し、諸羌三万余戸を連れ帰ると、武興、番禾、武威、昌松の四郡に分散させた。義熙三年(407)の九月、戎と夏から五万余人を徴兵して、方亭で閲兵すると、沮渠蒙遜の討伐に乗り出した。西陝まで達すると、蒙遜が軍を率いて迎撃に出てきた。蒙遜軍と均石で干戈を交えたが、蒙遜に返り討ちにされた。すると檀は騎兵二万を率いて、四万石の穀を西郡へと運び込んだ。しかし、蒙遜がその西郡に攻撃を仕掛け、これを陥落させている。この後、十一月、檀は夏の赫連勃勃と陽武で戦い、ここでも敗戦を喫している。敗れたばかりか、將佐十余人を失い、檀も数人の騎兵に守られながら南山へと逃亡を図らなければならなかった。その間、何度も追撃の騎兵部隊に追いつかれている。檀は東西から寇が至るのを恐れて、三百里内の百姓を姑臧に移り住ませた。これが國中に駭怨を生じさせる結果となった。屠各の成七兒は百姓の不満を感じると、手勢の三百人を集めて北城で反旗を翻した。梁貴を盟主に推し立てようとしたが、その貴は門を固く閉ざして応じる事は無かった。しかし、挙兵から一夜明けると、数千の人が集まっていた。殿中都尉の張猛が、その連中に向かって


 主上は陽武の敗因を、数の多さに驕っていたからと考えられた。ご自分の悔過を認め責めるなどは、明君の義であろう。しかし、諸君は、その小人に從って不義の事をなそうとするか!殿内の武旅がすぐそこまで来ている。目前に危が迫っているんだぞ。悔いても及びはせんぞ。


と声を張り上げると、これを聞き入れて解散していった。成七兒は晏然縣へと逃亡を図ったが、殿中の騎將である白路らが追撃を掛けて、七兒を斬り殺した。軍諮祭酒の梁、輔國司馬の邊憲ら七人も謀反を起こした。檀はこれを制圧し、七人全て首を刎ねた。


第九回更新

10

 後秦の姚興は、檀が外部では陽武での敗北、内部では邊、梁の叛乱があった事から、義熙四年(408)の五月、尚書郎の韋宗に情況を窺わせるべく、檀の下へと派遣した。檀は宗と六國による從の規や、三家による戰爭の略について論じ合った。遠くは天命や廃興、近くは人事や成敗にまで踏み込んだ。機変については尽きる事無く、話し振りは明快だった。退出した宗は


 命世の大才にして、経綸の名教なれど、必ずしも華宗夏士ではない。煩を撥し乱を理し、気を澄ませ世を済(救)えども、亦た未だ『八索』、『九丘』は読めない。しかし、五経の外、冠冕の表は、また自と有人である。車騎は神機にして秀発であり、確かに一代の偉人である。由余(春秋)、日(前漢)とて、多とするに十分であろうか!


と歎じた。韋宗は長安に帰還して姚興に


 涼州は残弊の後ではありますが、風化は頽しておりません。檀の権詐は多方である上に、山河の固に拠っており、まだ図る時期ではないかと存じます。


と報告した。しかし姚興は


 勃勃の烏合の衆ですら破る事が出来たのだぞ。私が天下の兵を以ってすれば、勝てない事があるはずがなかろう!


と言い返した。それでも韋宗は


 形勢は移り変わるもので、終わりと始まりでは異なる事もあります。陵人すれば敗り易すく、自守すれば攻め難いものです。陽武の役は、檀が勃勃を軽んじたために敗れたのです。今、大軍を以ってこれに臨めば、必ずや守りを固めてくるでしょう。この宗が憚る事無く申し上げますと、群臣に檀に並ぶ者はおりません。天威を以ってこれに臨もうとも、未だその有利点を見つける事が出来ません。


と説いた。しかし、姚興は聞き入れなかった。そして、姚弼を始め斂成らに歩兵騎兵の三万を与えて、侵攻させた。また、姚顯を弼軍の後続に付かせた。その上で檀に書を送って


 尚書左僕射の齊難に勃勃を討たせるが、西に逃げられるのを警戒している。そのため、弼らを河西に向かわせている。


と偽った。檀はこれを信用してしまい、姚弼軍の動きに警戒を払わなかった。弼軍が漠口に至ると、昌松太守の蘇霸は城の守りを厳重にした。弼は霸に降服するよう勧めたが、霸は


 お前達は盟誓に違って、委順の藩を伐とうとしている。天地に霊が有るが、お前達の祐けをするか!私は涼鬼と為ろうとも、降る事などあり得ないわ!


と言って使者を追い返した。城が陥落させられると、蘇霸は斬り殺された。姚弼が長駆して姑臧に至ると、西苑に軍を置いた。州人の王鍾、宋鍾、王娥らは、城中にいたが、密かに内応する手はずを整えていた。しかし候人がこれを発き、全員を引き捕えると、檀の下へと護送した。檀はその元首だけを誅殺しようとしたが、前軍將軍の伊力延侯が


 今、強敵が外に在り、内には姦豎が有り、兵交が迫っており、禍難は軽くありません。ここは関わった者を全て生き埋めにし、内外を安んじるべきです。


と進言した。檀はこれに從い、五千余人を生き埋めにし、婦女は軍に分け与えられた。檀は諸郡縣に命じ、牛羊を野に放たせた。斂成は兵を出して、これを取るのに躍起になってしまった。ここで檀は鎮北大將軍の倶延、鎮軍將軍の敬歸ら十將に騎兵を与えて、四方から成軍兵に攻撃を仕掛け、これを大いに破った。挙げた首級は七千余を数えた。姚弼は壘を固めて出ようとはせず、檀が攻撃するも撃ち破れなかった。そこで檀は上流を堰き止めた上で、持久戦に持ち込み、水不足によって疲弊するのを待つ事にした。しかし、時に大雨が降りしきり、堰が崩壊してしまったため、弼軍は息を吹き返した。七月、後続軍の姚顯の下に、弼が劣勢であるとの報告が届いた。そのため、行軍速度を上げて駆けつけ、士気は弥が上にも高まった。そして、射將の孟欽ら五人を涼風門へと送り込んだが、弓を発するその直前、材官將軍の宋益らが切り込んで行き、この五人を斬った。顯は成に罪を擦り付けて、檀へ謝罪の使者を派遣し、軍を返して帰還した。

11

 十一月、檀は再び涼王の位に即くと、境内に恩赦を出して、元号を嘉平とし、百官を置いた。夫人の折掘氏を王后に立て、世子の禿髮虎臺を太子に立てると共に、録尚書事に任命した。左長史の趙晁、右長史の郭倖を尚書左右僕射に任命し、鎮北大將軍の倶延を太尉に、鎮軍將軍の敬歸を司隸校尉に任命し、その他もそれぞれ任命された。


第十回更新

12

 左將軍の枯木、馬都尉の胡康に沮渠蒙遜を攻撃させ、臨松から千餘戸を連行して帰還した。蒙遜はこれに激怒し、嘉平三年(410、義熙六年)の三月、騎兵五千を率いて顯美方亭に侵攻すると、車蓋や鮮卑を破って帰っていった。倶延が蒙遜を攻撃し、大きな戦果を挙げて帰還した。檀が自ら騎兵五万を率いて蒙遜討伐に乗り出そうとしたところ、趙晁と太史令の景保が


 今、太白(金星)が未だ出ず、歳星(木星)が西に在ります。ここは守りに徹するべきであって、伐人すべきではありません。近年は天文が錯乱し、風霧が時せずして発生しております。徳を修め自らを戒める事こそが、寧吉の法です。


と諫めた。しかし檀は


 蒙遜はここ数年、礼儀知らずになっている。我が封畿に侵入し、我が邊疆で略奪し、殘我が禾稼を荒らしているではないか。私は力を蓄え時を待ち、東門の恥を雪ごうとしていたのだ。今、大軍は既に集結している。卿は邪魔立てしようとするか?


と言い返した。それでも景保は


 陛下は、この保を不肖とはされず、使この保をして乾象の察を司らせました。ですから、事を見て言わざるは、臣の體ではありません。天文がはっきりと示しています。動くに一つも利は無いと。


と引かなかった。それでも檀は


 私は軽騎五万を以って討伐に出るのだ。蒙遜が騎兵で以って我らを迎え撃って出たところで、衆寡敵せずと言うものだ。兼歩して来たらば、舒疾して応ずればいい。右を救わばその左を撃ち、前に赴けばその後を攻めればいい。交兵接戦する事無く終えられよう。卿は何に懼しておるのだ?


と聞き入れようとしなかった。それでも景保が


 天文は虚せず。必ずや変が起こりましょう。


と続けたため、檀は遂に怒りを覚え、景保を鎖で繋いで連れ出させ


 功有らばお前を殺して晒してくれようぞ。功無くんば、お前を百戸侯に封じてやるわい。


と浴びせた。果たして、沮渠蒙遜が兵を率いて迎撃に出てきた。窮泉で干戈を交えたが、檀は大敗を喫し、単騎で逃げ帰るのがやっとだった。景保は蒙遜に生け捕られた。蒙遜は保を


 卿は天文に明るいと聞く。彼の國にあってその任を任されていたはずだが、天に違い順を犯すとは、その智はどこにあったのか?


となじった。これに景保は


 私が智無きに非ず。ただ、この言の從われなかったに過ぎん。


と言い返した。これに沮渠蒙遜は


 その昔、漢祖(前漢、劉邦)は平城で困窮した際、婁敬が功をなした。袁紹(後漢)が官渡で敗れた時、田豐を戮した。卿の策は二子と同じで、貴主が未だ図る事が出来ないようだ。卿は必ずや婁敬の賞を有すであろう。私は今、卿を放そう。ただ恐れるのは、田豐の禍がその身に降りかからない事だ。


と称賛した。景保は


 寡君の才は漢祖にあらねど、本初(袁紹の字)ごときと一緒にされては困ります。封侯されはしても、禍を慮る必要はありません。


と言った。沮渠蒙遜は景保を解放した。保が姑臧に戻ると、檀は


 卿は、孤(私)の蓍龜であった。これに從う事が出来なかったのは、孤の深罪だ。


と謝罪して、前言の通り、景保を安亭侯に封じた。


第十一回更新

13

 沮渠蒙遜がそのまま進軍して姑臧を包囲すると、百姓は東苑の戮がまた起こるのではないかと恐れ、皆な散り散りになって逃げた。掘、麥田、車蓋の諸部は、全て蒙遜に降服した。檀は使者を派遣して請和を求めると、蒙遜はこれを聞き入れた。檀は司隸校尉の敬歸とその子の敬他を人質に差し出したが、その途中、歸が胡坑に至った所で、逃げ帰ってしまった。他は追手の兵によって捕えられた。蒙遜は八千餘戸を連行すると、軍を返した。右衞將軍の折掘奇鎮が、石驢山を拠点にして反旗を翻した。檀は蒙遜の脅威に脅え、また、奇鎮に嶺南を落とされるのではないかと恐れ、樂都への遷都を敢行した。留大司農の成公緒を留めて、姑臧を守らせた。檀が城を出てすぐ、焦ェ、王侯らが門を閉じて叛乱を起こし、三千余家を集めて、南城へ立て籠もった。ェは焦朗を大都督、龍驤大將軍に推して、自らは涼州刺史となって、蒙遜に降服した。鎮軍將軍の敬歸が奇鎮の討伐に乗り出し、石驢山でこれを敗死させた。


第十二回更新

14

 嘉平四年(411、義熙七年)の二月、沮渠蒙遜が姑臧を手中に収めると、樂都に侵攻を開始した。檀は安北將軍の段苟、左將軍の雲連を虚に乗じて番禾から出撃させ、その後方を撃たせて、三千余家を西平に移住させた。蒙遜に樂都を包囲されたが、檀は三旬に渡って持ち堪えた。そのため蒙遜は、檀に使者を派遣して


 寵子を人質として出せば、我らは軍を返そう。


と持ち掛けた。しかし檀は


 去るも否も、卿の兵勢によるものだろうが。しかも、卿は盟に違って信は無い。どうして人質を送らねばならんのだ!


と言って突っ撥ねた。この返答に沮渠蒙遜は怒りを覚え、室を築き耕作を始めて、持久戦の構えを見せた。これを見た群臣が、蒙遜からの要求に応じるよう強く求めたため、子の禿髮安周を人質に差し出した。これを受けて、蒙遜は軍を返した。

15

 吐谷渾の樹洛干が軍を率いて侵攻してくると、檀は太子の禿髮虎臺に迎撃を命じた。しかし、樹洛干によって撃ち破られている。


第十三回更新

16

 檀が再び沮渠蒙遜の討伐に動こうとすると、邯川護軍の孟トが


 蒙遜は姑臧を併呑したばかりで、その凶勢は甚だ盛んです。ここは守りを固めて隙を伺う時であって、妄りに動いてはなりません。


と諫めたが、檀は聞き入れなかった。五道から進軍し、番禾、に至った所で、五千餘戸を連行した。將軍の屈右が進み出て


 陛下が転戦されること千里、前に陣を全うさせる無く、戸や資財を奪って、それは衢路に溢れかえるくらいの数です。ここは急ぎ軍を返して、出来るだけ早く峻険を越えてしまうべきです。蒙遜は用兵に長けており、士兵も実践慣れしています。軽軍で急襲されたらば、我らは慮表を突かれる事になります。大敵が外から迫れば、徙戸が内で叛乱を起こしかねません。危の道と言わねばなりません。


と陳べた。しかし衞尉の伊力延が


 我が軍勢は正に盛んとなっており、將士の勇気は自と倍になっています。加えて、彼方は徒(歩)であり、我が方は騎です。勢が相い及ぶはずがありません。倍道して軍を返すとなると、資財を捐棄する必要があり、これは人に弱みを示す事になります。計と呼べるものではありません。


と反駁した。屈右は退席すると、諸弟に対して


 我が言が用いられなかった。これも天命か。しかし、我らが兄弟の死地となるがな。


と呟いた。一天俄かに掻き曇り、霧が出てきたかと思うと風雨が強まった。そこに蒙遜軍が大挙して至り、檀の軍は蹴散らされ、退却した。蒙遜に樂都を包囲されたため、檀は守りを固めた。そして、子の禿髮染干を人質に差し出すと、蒙遜は軍を返した。安西將軍の勃が西境で兵威を振った。蒙遜が西平に侵入してきて、戸を徙し牛馬を略奪して帰っていった。


第十四回更新

17

 邯川護軍の孟トが上表して、鎮南將軍で湟河太守の文支が酒に溺れて諫言に耳を貸さず、政事を放棄していると訴えた。これを見た檀は、伊力延に


 今、州土は予断ならない状態になりつつある。そのため、杖する者は文支だけに留めたいところだが、どう思う?


と問うた。これに伊力延は


 ここは呼び寄せて訓告し、行いを改めさせるべきでしょう。


と答えた。これを聞き入れて、檀は文支を呼び出した。支が到着すると、すぐに


 我が二兄は英姿であったが早世された。私は不才ながらも統を嗣いだが、大業を荷うには足りず、顛狽すること斯くの如しだ。どの面目で世を見ろと言うのだ。存し得たとしても、その実は、隕しているも同じだ。こいねがわくは、子鮮(春秋・衛)に憑して衞に存し、文種(春秋・越)を藉して呉に復す事だが、卿にも同じ事を求めたい。しかし、聞くところによれば、卿は酒に耽るだけで、庶事を荒廃させていると言うではないか。私は年既に老に差し掛かっている。卿が斯くの如くであれば、祖宗の業を誰に寄すればいい?


と責め諭した。文支は頓首して陳謝した。


第十五回更新

18

 邯川人の衞章らが孟トの暗殺を企て、南の西晉の乞伏熾磐を呼び込もうとした。これを知った郭越が


 孟君は寛であり、恵を以って政事に当たられている。何の罪があって殺そうと言うか!私はお前達に反対して死のうとも、君を裏切ってまで生きたくはないぞ。


と思い止まるよう訴えた。郭越はすぐさま、この事を孟トに報告した。トは衞章らを酒宴におびき寄せて、その場で四十余人を斬り殺した。既に謀略は動き出していたため、トは乞伏熾磐軍が至るのを恐れて、早馬を文支に出した。これを受けて、文支は將軍の匹珍を救援に差し向けた。熾磐は城まで至ったが、珍軍がすぐそこまで来ていると知ると、軍を返した。

19

 嘉平六年(411、義熙九年)の四月、沮渠蒙遜が再び樂都に侵攻してきたが、二旬に渡って持ち堪えると、蒙遜は軍を返した。鎮南將軍の文支が蒙遜に帰順し、湟河を明け渡した。五千余戸が姑臧に移住させられた。蒙遜がすぐさま侵攻してきたため、檀は太尉の倶延を人質に差し出した。蒙遜はこれを受け入れて、軍を返した。


第十六回更新

20

 嘉平七年(414、義熙十年)の五月、檀は西の乙弗を征伐する事を議したが、孟トが


 連年の不作で、上も下も飢弊しております。加えて、南から熾磐が、北から蒙遜が迫っており、百姓は騒動しており、下は業を安心して行えない状態にあります。今、遠征して勝ったとしても、後の患いは必ず深まります。ここは熾磐と盟を結び、糴を融通してもらって難を救うべきです。雜部を慰撫して、軍資を蓄え、兵力を充実させ、時を待って動くべきでしょう。『易』にあります。『其亡其亡,繋於苞桑.』と。陛下がこれを図らん事を。


と諫めた。しかし檀は


 孤(私)がそのために略地しようと言うのに、、卿は阻もうと言うのか。


と言い返した。そして、太子の禿髮虎臺に


 今、不種の年が続き,内も外も窘しており、そのためにも西行してこの弊を救わねばならん。蒙遜は去ったばかりであり、すぐに来る事は出来まい。旦夕に慮らねばならんのは、熾磐だけである。しかし彼の名は微であり、兵は少ないときている。討禦するに易く、私が一ヶ月もしない内に戻ってくれば、問題は無い。お前は樂都を守っていればよい。失墜させてはならんぞ。


と言った。檀は騎兵七千を率いて乙弗を急襲し、これを大いに撃ち破り、牛馬羊四十余万を略奪して戻った。


第十七回更新

21

 乞伏熾磐が虚に乗じて襲来すると、撫軍從事中郎の尉肅が禿髮虎臺に


 今、外城は広大で、固守し難いものがあります。ここは國人を内城に集めて、守ってください。この肅らが、諸晉人を率いて外に撃って出ます。仮に勝てなくとも、まだ万全を保てます。


と進言した。しかし禿髮虎臺は


 熾磐が小賊など、旦夕に走らせられよう。卿は憂いが過るぞ。


と聞き入れなかった。禿髮虎臺は、晉人が二心を抱いているのではないかと恐れ、豪望にして勇謀なる者を召して、これを内に閉じ込めた。孟トは涙ながらに


 熾磐は道ならざる者で、人も神も憤を同じゅうしております。このト、進みては恩を荷いて遷を重ね、退いては妻子の累を顧ております。どうして二心を抱きましょうや!今、事は既に差し迫っており、人は自効を思っています。どうして猜を抱けましょうか?


と言った。これに禿髮虎臺は


 私が子の忠を知らないとでも思ったか。余人が生きながらえられるよう、君らにこれを安んじさせよう。


と言った。一旬後、城は陥落した。


第十八回更新

22

 六月、安西將軍の樊尼が、西平から檀の下に逃げ込んできた。檀は兵を前にして


 今、樂都が熾磐の手に落ち、男夫は尽く殺され、婦女は軍に賞されたと言う報がもたらされた。もう帰ろうにも、赴く所が無くなってしまった。卿らは私と共に乙弗の資を藉して、契汗を取って妻子を贖う事が、望むところとなろう。そうしなければ、熾磐に帰順して奴僕と為るしかない。妻子と見みえるのを忍んで、他の下へ行けようか!


と鼓舞すると、軍を率いて西へと向かった。しかし、兵の多くが逃亡を始め、鎮北將軍の段苟に連れ戻すよう命じたが、その苟すら帰ってこなかった。この事実に、残りの將士も離散を始めた。中軍將軍の勃、後軍將軍の洛肱、安西將軍の樊尼、散騎侍郎の陰利鹿だけが残った。檀は


 蒙遜、熾磐は、どちらも私の人質となっていたのだ。今、これに帰したとしても、何と鄙であろうか!四海は広くとも、匹夫がその身を置く所が無いとは、何と痛なる事よ!蒙遜は、私とこの数年で名を等しくしている。熾磐は少年からの姻好であり、忌とする所を同じくしている。その勢はどちらも違う。皆なが死を共にするよりも、分かれて全うする方を選ぶべきである。樊尼は長兄の子で、宗部が寄る所である。我が兵は北の出身の者が一万近くいて、蒙遜が遐邇から士民を集めている。存亡継絶はこれに從え。お前は西に行け。勃、洛肱も尼と共に行くのだ。私は年老いた。行った所で容れられまい。それだったら、寧ろ妻子に見みえてから死のうぞ!


と言い残すと、乞伏熾磐の下へと向かった。陰利鹿一人が随行した。檀がその利鹿に


 危より去して安に就くのが、人の常と言うものであろう。我が親族も皆な去った。卿は何故に一人留まるか?


と随行する理由を問うた。これに陰利鹿は


 この利鹿の老母は家におり、方寸(心)は実に乱れております。ただ忠孝の義は、今は共に全うする事は敵いません。西は沮渠に哭する事は出来ませんが、包胥(春秋・楚。申包胥)の誠は申しましょう。東は秦援に感ずる事は出来ませんので、毛遂の操を展しましょう。羈を負いまして陛下に侍するが、この利鹿の分です。願わくは、遠猷を広げ、進止の算を審らかにせん事を。


と答えた。この言葉に檀は


 人を知ることは素より未だ易からず。人も亦た未だ知ること易からず。大臣や親戚も皆な我を棄て去ったと言うのに、終始に虧せざるは、唯だ卿一人。歳寒に凋せずと言うが、これを卿に見た。


と歎じた。檀が西平に至ると、乞伏熾磐は使者を出して郊迎し、上賓の禮を以って待した。


第十九回更新

23

 樂都が陥落した時、諸城は尽く乞伏熾磐に降服した。しかし、尉賢政だけが浩を固く守って、下ろうとしなかった。そのため熾磐が


 樂都は既に陥ちたぞ。卿の妻子は私の下にいる。孤城を独守して、どうしようと言うのか!


と呼び掛けた。これに尉賢政は


 涼王より厚恩を受け、為國家の藩屏となった身だ。知樂都が既に陷ち、妻子が捕えられたと知れども、先に獲賞を返上して、その後は受誅に從おう。しかしだ。主上の存亡が知れない今、投降するわけにはいかん。妻子など小事で、動懷するに足りようか!その昔、羅憲(三國・蜀、西晉)は待命して、晉文(西晉の文帝。司馬昭)はこれを亮とした。また、文聘(後漢)が遅れてきた時、魏武(三國・魏、曹操)は責めなかったではないか。一時の栄を求めて、委付の重を忘れる事は、恥であろう。大王もこれと同じようには出来ぬのか!


と取り合わなかった。そこで乞伏熾磐は、禿髮虎臺に尉賢政を諭す文章を書かせたが、賢政は


 あなたは國儲(太子)であろう。節を尽くす事が出来ぬままに、人に面縛され、父を棄て君に負(そむ)くとは、万世の業を虧すものである。この賢政は義士たり。お前と一緒にはされたくない!


と言って聞かなかった。しかし、今、檀が左南に至ったと聞くと、尉賢政は投降した。


第二十回更新

24

 七月、乞伏熾磐は檀を驃騎大將軍に任命すると、左南公に封じられた。一年余りの後、義熙十一年(415)、熾磐によって鴆殺された。鴆毒を盛られた時、左右の側近が檀に解毒薬を飲ませようとしたが、檀は


 我が病、どうして療すべきであろうか!


と言って断り、遂に息絶えた。享年五十一。前年に乞伏熾磐に帰順するまで、十三年の在位であった。景王の諡号が贈られた。禿髮虎臺も、この後、熾磐によって殺された。檀の少子の禿髮保周、禿髮賀、倶延の子の倶覆龍、禿髮利鹿孤の孫の禿髮副周、禿髮烏孤の孫の禿髮承鉢は、皆な沮渠蒙遜の下へと亡命した。しかし、しばらくしてから、北魏へと帰順した。北魏は、保周を張掖王、覆龍を酒泉公、賀を西平公、副周を永平公、承鉢を昌松公に封じた。

25

 禿髮烏孤が安帝の隆安元年(397)に立ってから、檀に至るまでの三世、凡そ十八年、安帝の義熙十年(414)に南涼は滅亡した。


2011/08/13  終了。


『晉書』「載記」 禿髮檀 - 3147〜3157 -


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第二十回更新   終了           2011/08/13


2011/08/13 終了。