2012/01/21 開始
01
尉元、字を苟仁と言い、代人である。代々の豪宗の出である。父の尉目斤は、その勇略によって世に聞こえた人であった。泰常年間中(416〜423)、前將軍に任命されている。泰常八年(423、劉宋の景平元年)の四月、北魏軍が虎牢を陥落させたが、この戦いで顕著な軍功を挙げた。これにより、中山太守に任命された。年十九、元は優れた弓術によって、周囲から注目されるようになった。神

年間中(428〜431)、虎賁中郎將に任命され、羽林中郎に転じられている。慎み深く細心の注意を払う性質であったため、匪懈せし者として知られるようになった。世祖(拓跋Z)はその寛雅にして風貌を有している事を嘉としていたため、程無くして駕部給事中に遷された。海隅への巡幸に従うと、富城男が賜爵され、寧遠將軍が加えられた。和平年間中(460〜465)、北部尚書に遷され、散騎常侍が加えられると、太昌侯に進爵され、冠軍將軍に任命された。
第二回更新
02
天安元年(466、泰始二年)の十月、薛安都が徐州ごと帰順する旨を伝え、救援を求めた。これに顯祖(拓跋弘)は、元を使持節、都督東道諸軍事、鎮南大將軍、博陵公として、城陽公の孔伯恭と共に派兵した。劉宋の東平太守の申纂は、無鹽の戍主となっていたが、元に降服を申し出た。しかし、これは偽計である。元は誠款の無いと知りつつ、表面上は受け入れると返答した。しかし、その裏ではしっかりと備えさせていた。同じように、劉宋の

州刺史の畢衆敬も、十一月、東平太守の章仇

を元軍の下へと派遣して、帰順を願い出ていた。元はこれも聞き入れていた。遂に長駆して軍を進めると、十二月、周凱は元軍の接近を知って遁走した。劉ケ(劉宋の明帝)は將の張永、沈攸之に兵を与えて、裏切り者の安都を討伐に向かわせていた。十二月、下

まで達していた。永は羽林監の王穆之に兵五千を配して、武原に置いた輜重を守らせた。龍驤將軍の謝善居には兵二千を与えて呂梁に配し、散騎侍郎の張引には兵二千を配して、茱萸を守らせ、兵糧の管理と各軍への供給を任せた。安都は城を出て元と面会すると、元は朝旨に依って、徐州刺史を授けた。そして、中書侍郎の高閭、李

を安都に付けて、城へと帰らせた。これとは別に命令を出して、孔伯恭に精兵二千を与えて、城の内外を安全を確認させた上で、元は彭城へと入った。
第三回更新
03
元は張永が険要の地に拠っており、また、攻守の勢力が倍であったため、士卒を無駄に損なう事になると判断した。そこで、薛安都と李

に彭城の守りを預けると、元が自ら精鋭部隊を率いて出撃した。呂梁を分撃し、兵糧輸送路を断った。謝善居は茱萸へと遁奔すると、その茱萸に配されていた張引と共に、更に東の武原へと逃げていった。元は騎兵を繰り出して追撃させ、首級八百余を挙げた。武原に追い詰められはしたが、兵は八千余が残っていた。そのために、なかなか陥落させられなかった。そこで、元が自ら甲胄を纏うと、四面から攻撃を開始した。王穆之の外營を撃ち破ると、その兵の大半を戦闘不能状態にした。そして、鹵獲した五百余乗の輜重を以って、彭城の諸軍に支給した。これを完了させると、軍を引いて戦闘の手を緩めた。わざと逃げ道を開いたのである。穆之は僅かに残った兵を連れて、永の下へと落ち延びていった。永は既に敗色濃厚な状態になっていたが、そこを元が勝ちに乗じて包囲攻撃を仕掛け、南門に攻勢を掛けた。天安二年(467、泰始三年)の正月、永は遂に城を棄てて、夜の闇に紛れて遁走した。孔伯恭、安都が勢いに乗って追撃を仕掛けた。時に大雨が大雪へと変わり、泗水も凍り付いてしまった。そのため船が使い物にならなくなり、永は船を放棄して逃げざるを得なかった。永が必ず奔亡すると、元は予測しており、自ら軍を率いて、その敗走路で待ち構えていた。追撃してきた安都ら南北から奮激し、呂梁の東で潰滅させた。挙げた首級は数万に上り、更に北に追撃すること六十余里、死者は折り重なるように続いた。これとは別に、凍傷で手足を失った者は、十人中に八、九人に上った。使持節、都督梁、南、北秦三州諸軍事、梁、秦二州刺史、寧朔將軍、益陽縣開國侯の垣恭祖、龍驤將軍、羽林監の沈承伯らを生け捕りにしている。永と攸之は、軽騎を飛ばして何とか逃げ切っている。鹵獲した船車や軍資、器械は、数え切れないほどであった。劉宋の東徐州刺史の張

は團城に拠り、徐州刺史の王玄載が下

を守り、輔國將軍にして

州刺史で樊昌侯の王整、龍驤將軍にして蘭陵太守の桓忻は近民を駆り出して、険阻によって守りを固めた。元がこれを慰喩すると、

と青州刺史の沈文秀は使者を派遣して降服を申し出た。整、忻も帰命した。
第四回更新
04
元は上表して
「
彭城の倉廩は尽きようとしており、誰もが飢色を浮かべております。そこで、冀、相、濟、

の四州の粟を運ぶ事を求めます。張永が遺棄した船九百艘を使って、清水で輸送すれば、新民を救済する事が出来ます。
」
と陳べると、顯祖はこれに従った。四月、また上表して、兵を分けて戍を置き、青冀を進定すべきと陳べた。重ねて上表して
「
彭城は賊の要蕃でありまりましたが、積粟も強守も無かったがために、固守する事が出来なかったのです。ですので、兵糧を集め戍を強めれば、劉ケが師徒を悉く動かしたとしても、淮北の地で敢えて窺おうとはしないでしょう。これは自然の成り行きです。
」
と陳べた。これに詔が下され
「
後軍の到着を待って、守防を図られよ。青冀には既に援軍を派遣しており、克定されるを待って、更に軍糧を運ばれよ。
」
とされた。元は更に上表して
「
この元、出疆の命を受けてより、ここに寒暑を経ましたが、進みてはケ艾(三國・魏)の一挙の功も無く、退きては羊

(西晉)の保境の略も無きままです。確かに淮岱は振(救)する事は出来ましたが、民情は未だ安んじられてはおりません。この元は愚智でありながらも、偏任に当たっており、苟しくも事とすべきは宣に徹するにあり、敢えて以聞(上奏)せずにはいられません。この元、前の上表にて、下

が水陸の湊(集)まる所である事から、先に殄滅すべきと図りましたが、兵をやって討つこと数度、なお未だ擒定する事が出来ておりません。そのため、彭城、下

の信命は未だ断じられおりません。それは、この城の人は、元々が賊との界に居しており、心は尚お恋土しておりません。そして、相い誑惑して、希幸非望しています。南と息耗しようとしていますが、壅塞されおり達する事が出来ていません。しかし、ここまで窮迫しているにもかかわらず、降るを肯んじようとはしておりません。彭城の民である任玄朗なる者が、淮南から鎮に到りまして、劉ケの將の任農夫、陳顯達が兵三千を率いて、宿豫へ向かっていると称しました。この元、その日の内に覘使を放って、その虚実を検めさせたところ、朗の言する通りでした。この元が自ら撃って出るべきところですが、兵糧の輸送が間に合っておらず、また、新民が変を生じさせるのではないかと危ぶんで、子都將の于沓千、劉龍駒に歩兵騎兵の合わせて五千を与えて、これを攻撃するよう命じました。しかし、征人は長引くに従って、逃亡する者が多くなります。また、様々に扇動されて、固志を有し続けられる者はおりません。その上、器仗が敗毀してしまい、一つも使える物が無くなりました。この元が聞いたところでは、伐國の事は重にして、古人も難としたところであり、功を立てるには、必ず経略を以って挙げられるものである、と。もし賊が彭城に向うとすれば、必ず清水、泗水を経て宿豫を通過し、下

を経由するでしょう。青州に向かえば、また下

を経て沂水に入り、東安を経由するでしょう。これらは、賊が用師の要としてきた場所です。今、先に下

を定し、宿豫を平して、淮陽に鎮して、東安に戍を設ければ、青冀の諸鎮は攻めずして陥ちましょう。四所を服させられなければ、青冀を抜いたとしましても、百姓は狼顧して、なお僥倖の心を抱き続けるでしょう。この元が愚考しますに、ここは青冀の師を釈いて、先に東南の地を定して、劉ケの北顧の意を断じ、愚民の南望の心を絶するべきかと思われます。夏は水量が盛んですが、津途が無くとも渡る事が出来ます。冬は路が通じていますが、高城が無くとも固める事が出来ます。此の如くなれば、淮北は自と挙し、暫くの労にて永らくの逸となりましょう。今、季節は熱きに向かおうとしていますが、今はまだ行師は可能です。兵は神速を尚(尊)ぶもので、久しくなってしまえば変が生じます。もし、天雨が既に降り、或いは水が通っているのであれば、兵糧の輸送は更に多くする事が出来るようになり、進取を図る事が可能となりましょう。恐らく近淮の民庶は、翻然と図を改めるでしょうが、青冀の二州は、すぐには抜く事は出来ないでしょう。この元が僚佐と共議しましたが、皆なが同意しております。隠して陳ぶざるは、損敗の責を有すると懼すからです。陳べても験が無ければ、誣罔の罪と成さるを恐それます。惟(思)みるは天鑒の懸量によりて、この元の愚款を照らさん事を。
」
と陳べた。
第五回更新
05
劉ケが再び、七月、沈攸之、呉ニ公に兵数万を与えて、沂清に沿って進ませ、下

の救援に向かわせた。これに元は、孔伯恭に歩兵騎兵のあわせて一万を与え、迎撃に向かわせた。また、攸之が先の敗戦によって、兵で手足に重傷を負った者や、凍傷によって膝行となった者を、全て攸之の下へと送り返して、攸之軍の士気を削ごうとした。また、上表して救援軍の派遣を求めた。これを受けて詔が下され、征南大將軍の慕容白曜が救援に差し向けられた。白曜が瑕丘に至ると、敵に遭遇してしまった。時に泗水が涸れてしまっていたため、攸之軍は進軍する事が出来なくなっていた。このため、白曜は進軍を止めた。伯恭が劉宋軍を大いに撃ち破ると、攸之、ニ公は軽騎で遁走した。元は劉宋の徐州刺史の王玄載に書を送って、その禍福を示した。これに玄載は狼狽し、夜の闇に紛れて逃走した。宿豫、淮陽は、いずれも城を放棄して遁走した。皇興二年(468、泰始四年)の正月、南中郎將、中書侍郎の高閭が騎兵千を与えて、張

に代わって東徐州刺史に任命された。中書侍郎の李

が、畢衆敬に代わって東

州刺史に任命された。これによって、新民を安んじようとした。元は都督徐、南、北

州諸軍事、鎮東大將軍、開府、徐州刺史に任命され、淮陽公に封じられた。持節、散騎常侍、尚書は元のままである。元に詔が下され
「
賊將の沈攸之、呉ニ公が蟻衆を率いて駆して、下

に進寇してきたが、卿の戎昭の果毅にして、智勇の奮発によりて、水から陸から絶を邀(求)め、時に応じて摧殄した事により、淮より以北は、蕩然と清定された。皆な是れは元帥の経略、將士の効力がもたらしたものである。朕が用(以)って嘉とするところである。獲たる所の諸城は要害の所であり、兵を分けて戍を置き、民情を帖(定)している。今、方に呉會を清蕩するためにも、秣陵に懸旌されよ。用兵に宜しき所に至ってからは、形勢や進止に関しては、善く量度を加えよ。動靜を以聞されたし。
」
とされた。
第六回更新
06
この時、徐州に妖人が現れ、姓を司馬、字を休符なる者が、晉王と自称して、百姓を扇惑していた。これを聞きつけた元が、麾下の將をやって斬っている。皇興四年(470、泰始六年)、元に詔が下され、還京して西郊に赴くよう命じられた。程無くして、鎮所に帰還している。延興元年(471、泰始七年)の五月、元は淮陽王に假された。延興三年(473、元徽元年)、劉c(後廢帝)が蕭順之、王

懃に兵三万を与えて、淮北の諸城に入寇させてきた。元は諸將を分けて迎え撃たせ、これを敗走させている。元は上表して
「
淮陽郡は上黨令の韓念祖は、始臨の初、旧民が南叛してしまい、一人もいなくなってしまいました。そこで撫綏して再び呼び戻す事に努め、民を愛しむこと子の如くしたため、南来民の費係先など前後して帰順してくるようになり、戸は二百有余に至りました。南濟陰郡は

陵縣人の趙憐らが、念祖が綏撫を善くしており、清身にして潔己であると称讃の辞を陳べ、念祖を

陵令に任命するよう請願してきました。この人を得れば、必ずや離叛した民を招集して、一縣を成立させるまでに至りましょう。
」
と陳べると、顯祖は詔を下して
「
君を樹(立)つるのは民である。民情がそのようであるならば、その請願を聞き届ける事とする。
」
と答えた。元が下人の善を伝える事は、このようであった。太和元年(477、昇明元年)、内都大官として中央に戻された。使持節、鎮西大將車、開府、統萬鎮都將として中央を離れると、任地にて夷民の心を大いに得た。太和三年(479、昇明三年)の四月、淮陽王に進爵された。旧老を以って禮され、歩挽に乗ること、朝廷内で杖する事を許された。
第七回更新
07
劉宋の昇明三年の四月、劉c(後廢帝)は蕭道成に禪位した事により、劉宋は滅亡した。それに代わって、南齊が成立した。道成とは南齊の高帝である。太和四年(480、建元二年)の十月、道成は多く間諜を放って、新民を扇動してきた。そのため、不逞の徒が至る所で蜂起した。元の威名は以前からこの地に振っていたため、使持節、侍中、都督南征諸軍事、征西大將軍、大都將に任命して、諸軍を総率して討伐に当たった。元は五固賊の桓和らを討伐して、翌年の太和五年(481、建元三年)の九月、尽く平定した。これによって東南は清晏となり、遠も近も帖然となった。元は侍中、都曹尚書として中央に呼び戻され、尚書令に遷された。太和十三年(489、永明七年)の十二月、司徒に進位する。太和十六年(492、永明十年)、庶姓の王爵が例降された事により、山陽郡開國公に封じられ、食邑を六百戸とされた。元は上表して
「
この元、天安の初より、律を奉じ戎を総じて、淮右を廓寧した事によりて、海岱は既に平じられ、徐岳を忝なくしております。素餐尸祿すること年歳を積んでおりますが、彼土の安危は具悉するところであります。惟彭城は水陸の要であり、江南の用兵では、莫不ここに拠らなければ諸夏を威陵する事は出来ません。そも國の大計とは、豫備を先とするものです。この元が徐方を克した時には、青齊は未だ定せられておらず、河より以南は、なお彼此を懐しておりました。時に劉ケが張永、沈攸之、陳顯達、蕭順之らを前後して数度に渡って派兵して、彭城を取れらんと規し、勢は青

に連なりました。唯だ彭城を既に固めていたため、永らを摧屈する事に成功しました。今、彼の戍兵を見ますと、その多くが胡人のようです。この元が前に徐州に鎮していた日、胡人で子都將の呼延籠達が罪を負った事より、叛乱を起こしました。この時、胡類を鳩引して、一時は扇動し得ました。しかし、威霊の遐被なるを頼みにして、罪人はここに戮されました。また、團城の子都將で胡人の王敕懃は、釁を負いて南叛しましたが、姦図を懼していたため、同党を狡誘しています。愚誠によりて見ますれば、彭城の胡軍を以って南豫州の徙民の兵と取り換え、彭城の戍に転じるべきではないでしょうか。また、中州の鮮卑の兵数を増加させるべきでしょう。事に宜しきかと思われます。
」
と陳べた。これに対して
「
公の陳ぶるところ、甚だ事機に合うものである。
」
と詔が下された。
第八回更新
08
元は何度も上表して、老のために乞身した。八月、詔が下され
「
元は年尊にして識遠なるが、幾度か告退を表した。朕は公が徳を秉(保)ち清を

(重)んじて、體は平隱を懐き、仁は淵廣を雅して、謀猷は是れ仗なれば、方に民政を委ね、用(以)って億兆(人民)を康させんとし、故にその度に文に札を累ねて、沖志に違ってきた。しかし、謙光のいよいよ固にして、再三の請のいよいよ切になり、高謨に従って屈せざれば、復び何を以ってその美徳を成させんや。もはやその致仕を許そう。主にするは外に付きて表を出されよ。禮に如(従)いて遂げるを申し渡す。
」
とされた。元が謝老のために闕を詣でると、庭にて引見された。昇殿を命じられて労宴が催され、玄冠、素服が下賜された。また詔が下され
「
そも大道は凝虚であり、至コは沖

であり、故に后王は玄猷を法として以って世を御し、聖人は謙光を崇して而して美を降すのである。是を以って天子は三老を父として事(仕)え、五更を兄として事えるのは、孝悌を萬國に明らかにし、教本を天下に垂す所以なのである。自と高い識博を非道にすれば、孰か能くこれに処すだろうか?是の故に五帝は徳を憲し、三王は言を乞ったのである。もし備(全)てを一人に求めるのであれば、これは古哲と同じと言う事であり、叔世の老で、孰れか能く克く堪えられるだろう?上聖を師しても則ちその挙を為すに難しく、中庸を傅れば則ちその選を為すに易し。朕は既に虚寡にして、徳は曩哲を謝しており、更、老の選には、差があるべきであろう。前司徒、山陽郡開國公の尉元、前大鴻臚卿、新泰伯の游明根は、共に元亨利貞、明允にして誠素であり、少(若)くして英風を著くし、老しくして雅迹を敷きて、位は台宿を顕しており、帰して私第に終わられよ。始を知り卒(終)を知るは、希世の賢と謂い得るであろう。公は八十の年を以って、三老の重に処すが宜い。卿は七十の齢を以って、五更の選に充たるべし。
」
とされた。これによって、三老と五更を明堂で、國老と庶老を階下で養す事となったのである。高祖(拓跋宏)は三老に再拜すると、自ら袒して牲を割いて、爵を執りて饋した。五更には肅拜の禮を行い、國老、庶老に賜する衣服には差が設けられた。元が言して
「
天地が分判し、五行が施則されてより、人の崇するところは、孝順に重きが置かれなくなりました。しかれども、五孝六順は、天下の先(尊)するところであり、願わくは陛下がこれを重じになられて、以って四方を化されん事を。この元、既に衰老してしまいまして、遠趣を究める事は出来ませんが、心耳の及ぶ所は、誠を尽くさざる事はありません。
」
と陳べると、高祖は
「
孝順の道、天地の經、今、三老の明言より承り、これを懐に銘そう。
」
と答えた。游明根が言して
「
その至孝とは霊に通じる事であり、至順とは幽を感じる事です。故に『孝經』に言うのです。『孝悌の至とは、神明に通じ、四海を光(照)らす』と。このようであれば、則ち孝順の道は、格(至)らざる所は無くなりましょう。願わくは陛下がこれを念いて、黎庶(人民)を済(救)わん事を。この明根、年にて志するは朽弊であり、識見は昧然になりましたるが、心には慮が在り、敢えて尽さざる事はありません。
」
と陳べると、高祖は
「
五更は三老を助すに言を以って範を至らせ、コ音を敷き展べさせる事により、克己復禮する事にある。行来を以って授けたまえ。
」
と答えた。禮が畢わると、歩挽一乘が賜された。詔が下され
「
それ尊老尚更は、列聖と致を同じゅうしている。欽年敬徳は、綿哲と軌を斉(等)しくしている。朕は玄風に道謝し、昧叡の則を識り、先誨を仰禀していると言えども、猷旨に遵わんと企している。故に老を推すに徳を以ってし、更を立つるに元を以ってすれば、父はこれ彰し、兄はこれ顕す。前司徒公の元、前鴻臚卿の明根は並びに沖コの懸車にして、懿量の歸老であり、故に老を尊するに三を以ってし、更に事うるに五を以ってす。更、老は官に非ず、耄耋は祿が罔(無)いと言えども、事は既に高かかれば、宜しく殊養を加えるべし。三老は上公の祿を給し、五更は元卿の俸を食すべし。供食の味は、またその例と同じゅうす。
」
とされた。
第九回更新
09
太和十七年(493、永明十一年)の七月、元の病状が悪化すると、高祖が自ら赴いて病床を見舞った。八月、薨した。享年八十一。詔が下され
「
元は至行にしてェ純であり、仁風にして美富であった。内にあっては越羣の武を秉し、外にあっては温懿の容を挺した。少(若)きより長に至るまで、勳勤は備至であり、五朝に歴奉し、四葉を美隆した。南は河淮の功を曜し、北は燕然の効を光し、魯も宋も仁を懷し、中鉉は徳を載している。謂うところの立身とは本末を備う事であり、行道とは終始を著す事であり、勳は玉牒に書され、惠は民志を結ぶものである。ここに及んで五福が集まる攸(所)であり、懸車にて歸老した。謙損は既に彰され、遠も近も流詠しており、茲に父事を陟して、我が萬方の儀とせん。眉壽を極め、いよいよ王業に贊したと謂えり。天は老を遺そうとせず、奄ちに爾に薨逝した。功を念い善を惟えば、怛に懐を抽(裂)かれる。戎事は奪に致っており、恨むらくは禮を尽せなかった事のみだ。布帛綵物を二千匹、温明祕器、朝衣の一襲を賜し、并せて墳域を営造せん。
」
とされた。諡を景桓公とされた。葬儀は殊禮を以って挙され、羽葆鼓吹、假黄鉞、班劍四十人が給され、帛一千匹を賜された。
尉元/子羽 第一回更新
01
子の尉

は、頗る器望を有していた。祕書中散、駕部令として官界に入り、主客給事に転じられ、通直散騎常侍が加えっれ、守殿中尚書とされ、侍中を兼任した。太和十七年(493、永明十一年)の八月、父が死去した事に伴い官職を去った。喪が明けて元の官職として復帰し、詔が下され父の爵を襲し、平南將軍が加えられた。太和十八年(494、延興元年)の九月、高祖(拓跋宏)が自ら百司を考すると、

が怠惰であるとして、常侍から長兼に降格させられ、守尚書とされ、奪祿一周とされた。十月、洛陽に遷都された。山陽が畿内となった事により、博陵郡開國公に改められた。後に征虜將軍、恒州刺史に任命された。死去すると、それらが追贈され、諡号を順とされた。
02
子の尉景興が家督を継いで、正始元年(504、天監三年)に死去した。

州刺史が追贈された。子はいなかった。
03
尉景興の弟の尉景儁が、襲爵した。員外散騎常侍とされる。延昌年間中(512〜515)、國吏を杖して死なせた事に連座して、深澤縣開國公に降封された。
04
子の尉伯永が家督を継ぐ。子が無かったために、爵は除かれた。
05
尉

の弟の尉靜は、寛雅にして才識を有していた。世宗(元恪)の治世(499〜515)、尚書左民郎中に任命された。死去すると、博陵太守が追贈された。後に、鎮軍將軍、洛州刺史が重贈され、諡号を敬とされた。
06
子の尉祐之は、通直散騎常侍、護軍長史となっている。
2012/01/21 終了。
『魏書』 尉元 - 1109〜1116
『魏書』 尉元/子羽 - 1109〜1116
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