2011/03/19 開始
01
姚萇、字を景茂と言い、姚弋仲の第二十四子である。幼い頃から聡哲として知られ、情況の変化に応じた計略を巡らせる事に長じていた。また、広い度量に飾り気の無い性格であったため、品行方正ではなかったが、諸兄から可愛がられていた。兄の姚襄の軍に従軍し、策略の最終決定にも参加した。永和八年(352)の三月、襄が洛陽攻撃に乗り出した時、萇が袞衣を身に纏って、御坐に昇り、諸酋長が侍立している、と言う夢を見た。襄は夜が明けると將佐を前にして
「
私はこんな夢を見た。こいつの志度は常ならざるものがあるが、或いは我が一族を飛躍させる可能性を秘めているかもしれないな。
」
と言った。その姚襄が、麻田で前秦軍に敗北を喫すると、乗馬が流矢に当たって死んでしまった。側に従っていた萇は、すぐに馬から下りて、その馬を襄に差し出した。襄が
「
お前はどうやって逃げると言うんだ?
」
と言うと、萇は
「
兄さんが助かるのが先決。なに、豎子どもにやられるような萇ではありません!
」
と答えた。ちょうどそこに、この事態に気づいた将士が駆けつけてきたおかげで、二人共に逃れる事が出来た。
02
升平元年(357)の五月、姚襄が前秦軍との戦いで戦死すると、萇は諸弟を伴って、前秦の苻生に降服した。苻堅は萇を揚武將軍に任命され、左衞將軍、隴東、汲郡、河東、武都、武威、巴西、扶風太守、寧、幽、

三州刺史を歴任した。揚武將軍に復帰すると、歩兵校尉に任命され、益都侯に封じられた。堅麾下の將として、大功を積み上げていった。
第二回更新
03
萇は楊安の蜀討伐の軍に従ったが、水辺で昼寝をしていた時、上から神光が煥然と差し当たった。近くでこの光景を見ていた者は、皆な萇が何か持っているのではないかと思った。太元八年(383)の八月、前秦の苻堅が東晉に進攻すると、萇を龍驤將軍、督益梁州諸軍事に任命した。龍驤將軍の任命に当たって、萇に対して
「
朕も当初、龍驤を以って業を建てた。龍驤の号は未だかうて人に与えた事は無いが、今、特にそなたに授ける。山南の事の一切は、卿に委ねよう。
」
と訓じた。これに左將軍の竇衝が進み出て
「
王は戲言は言わないものです。それが不詳の徴となるからです。陛下、お察しくださいませ。
」
と言ったため、苻堅は押し黙ってしまった。
第三回更新
04
十一月、前秦の苻堅が淮南で敗北を喫して、十二月、長安に帰還した。太元九年(384)の三月、慕容泓が挙兵して堅に反旗を翻した。これに対して堅は、子の苻叡を討伐軍として派遣し、萇をその司馬に任命した。しかし、四月、叡は泓軍に撃ち破られ、叡はその最中に戦死してしまった。萇は龍驤長史の趙都を堅に派遣して、敗戦及び叡が戦死した事を報告すると共に、その事を謝罪した。しかし堅はこの報告に怒り、都を斬り殺してしまった。これが萇の下にも届くと、恐れおののき、渭北へと逃亡し、馬牧まで至った。西州の豪族である尹詳、趙曜、王欽盧、牛雙、狄廣、張乾らが、五万余家を引き連れて駆けつけると、全員一致で萇を盟主に推した。萇はこれを固辞しようとしたが、天水の尹緯が
「
今、百六の命数が至っており、秦(前秦)の亡の兆は既に現われております。將軍の威靈は世に名高く、必ずや時艱を匡済する事が出来ましょう。そうと分かっているからこそ、豪傑が駆馳して推仰しているのです。明公がここでしなければならないのは、心を降して議に従い、群望に副う事なのです。ただ沈溺するを座して見て、これを拯救しないままでいてはなりません。
」
と進言してきた。萇はこの尹緯の進言を聞き入れて、大將軍、大單于、萬年秦王を称して、境内に大赦を出すと、年号を白雀として、行事を称制した。後秦の成立である。天水の尹詳、南安の

演を左右長史に、南安の姚晃、尹緯を左右司馬に、天水の狄伯支、焦虔、梁希、

魏、任謙を從事中郎に任命した。姜訓、閻遵を掾屬に、王據、焦世、

秀、尹延年、牛雙、張乾を參軍に、王欽盧、姚方成、王破虜、楊難、尹嵩、裴騎、趙曜、狄廣、党刪らを帥とした。
第四回更新
05
慕容沖と前秦の苻堅の戦闘が始まり、戦況は激しさを増していった。萇は西上へ向かおうとしていたが、沖によって妨害されてしまうのではないかと恐れ、使者を送って通知すると共に、子の姚崇を沖に人質として送った。そして北地に進屯すると、兵を訓練して兵糧を積み上げ、時局の変化を見守った。堅は晉人の李詳ら数千戸を敷陸に送り込んでいたが、ここに至って、萇に帰順してしまった。これによって、北地、新平、安定の羌と胡で、萇の傘下に入ったのは十万余戸を数えた。六月、堅が諸將を率いて攻撃を仕掛けてきたが、勝ちきれないままに退却した。
第五回更新
06
九月、慕容沖が前秦の苻堅の守る長安に攻め込んだ。その報が、十月、萇の下へともたらされた。これに対する進趨の計が議論された。群臣は皆な
「
ここは先に咸陽を押さえ、その後に天下を制するべきかと。
」
と答えた。しかし萇は
「
いや、そうではなかろう。燕は懐旧の士を以って兵を挙げているのだぞ。もし功が成り事が達成されれば、皆な東帰の思を抱くようになるであろう。長く秦川を固めようなどとはせんだろう!私は兵を嶺北に移そうと考えている。そこで軍事に必要な物資をかき集めて、秦が弊し燕が迴するのを待とうと言うのがその理由だ。然る後に、垂拱してこれを取ればいい。兵の刃を血で汚さずして、座して天下を定むる。これこそが卞莊(卞莊子。春秋・魯)の得二の義と言えよう。
」
と聞き入れなかった。前秦の寧朔將軍の宋方が、騎兵三千を率いて雲中から長安へと向かっていた。萇は貳縣からこれに攻撃を加え、方は単騎で逃げ出すのがやっとだった。司馬の田晃は残軍を引き連れて萇に降服した。萇は諸將に新平を攻撃させた。白雀二年(385、太元十年)の四月、これを陥落させると、安定まで攻略した。これによって、嶺北の諸城は全て降服した。
第六回更新
07
五月、前秦の苻堅が西燕の慕容沖の攻撃に抗しきれず、五將山へと逃走した。六月、沖は長安へと入った。前秦の司隸校尉の權翼、尚書の趙遷、大鴻臚の皇甫覆、光祿大夫の薛讚、扶風太守の段鏗ら文武官の数百人が萇の下に亡命して来た。七月、萇は驍騎將軍の呉忠に騎兵を与えて、五將山に逃げ込んだ堅を包囲させた。萇は新平へと向かった。この時、忠が堅を捕らえて、新平へと護送した。
08
十月、西燕の慕容沖が、車騎大將軍の高蓋に兵五万を与えて、侵攻させた。新平の南でこれを迎え撃ち、返り討ちにした。蓋は麾下数千を引き連れて投降した。散騎常侍に任命されている。
09
白雀三年(386、太元十一年)の二月、西燕の慕容沖が弑殺された。東帰を求めていた鮮卑兵の意を汲んだ韓延が、行動を起こしたのである。そして、三月、西燕は長安を去って、東へと帰還を始めた。これによって、長安は空になった。これに乗じて、盧水の

奴が長安で皇帝を称した。渭北は尽くこれに呼応した。扶風の王が兵数千を擁して、馬嵬を守っていた。奴は弟の

多にを攻撃させた。四月、萇が安定からこのに攻撃を仕掛け、撃ち破った。は漢中へと逃亡した。同じくを攻撃していた多を捕え、そのまま一気に奴へと攻勢を掛けた。奴は恐れをなし、降服した。
第七回更新
10
長安に入った萇は皇帝位に即いた。大赦を出すと、白雀三年を以って建初元年と改め、国号を大秦と定めると、長安を常安と改称した。妻の

氏を皇后に、子の姚興を皇太子に立てると、百官を置いた。火徳を以って苻氏の木行を承ける事とし、服色は漢氏の周の故事を承けたのに倣う事とした。六月、安定の五千余戸を長安に移住させた。七月、弟の征虜將軍の姚緒に、司隸校尉に任命すると、長安を鎮させた。
第八回更新
11
萇は安定へと進軍を開始し、前秦の平涼將軍で胡の金熙、鮮卑の沒奕于を大いに撃ち破った。八月、遂に秦州まで軍を進めると、前秦の秦州刺史の王統と対峙した。天水の屠各、略陽の羌胡で、萇に呼応した者は二万余戸に上った。この事態に統は戦意を喪失し、九月、降服した。將士と上

で酒宴を催すと、南安人の古成

(古成が姓)が進み出て
「
我が州は、人は多く地は険阻であり、雋傑は林の如くおります。用武の國と言えましょう。王秦州(王統)は賢才を集め用いる事をしてきませんでした。また、三分鼎足の最中にあって、座して珠玉を玩する事に興じていました。そして、今に至ったのです。陛下、秦州の金帛を散じて六軍に施し、旌賢表善する事が鄙州の望に適う事かと存じます。
」
と言った。萇はこの言葉を善しとし、尚書郎に抜擢した。弟の姚碩コを都督隴右諸軍事、征西將軍、秦州刺史に任命し、護東羌校尉の職務に当たらせて、上

に鎮させた。
12
十月、萇は安定に帰還すると、徳政に努め、恵化を布き、非急の費を省いて、時弊の救済に当たった。また、閭閻の士で豪介として知られた者があれば、全て称賛した。
第九回更新
13
秦州が前秦の苻登に攻め込まれたため、萇は秦州へと救援へと向かったが、登軍に撃ち破られた。太子の姚興は長安に鎮して、登と対峙した。建初二年(387、太元十二年)の八月、前秦の馮翊太守の蘭犢が苻師奴と反目すると、その隙を突くようにして西燕の慕容永が犢に侵攻を開始した。犢が使者を派遣して救援を請うたため、萇が自ら軍を指揮して救援に向かう事にした。これに尚書令の姚旻、左僕射の尹緯らが
「
苻登は瓦亭の近くにあり、陛下が軽々に動いていい情況ではありません。
」
と諫めたが、萇は
「
登は愚鈍で決断力に乏しい奴だ。だからいつも時機を失しているのだ。私自らが動いたと知っても、兵と兵糧集めに動くだけで、軽軍で深入すると言う決断を下せまい。この両月の間に、三豎に勝つなど造作も無い事だ。我が事は必ずなろう。
」
と聞き入れなかった。九月、泥源まで軍を進めた。苻師奴が迎撃に出て来たが、これを潰滅させ、残兵は尽く捕えた。十二月、蘭犢を生け捕りにすると、その士馬を鹵獲した。萇は苻堅の尸を掘り返すと、数え切れないほど鞭を加えた。そして衣裳を剥ぎ取ると、棘の上に寝かせた上で、穴埋めにした。西燕の征西將軍の王宣が、兵を引き連れて萇に降服した。
第十回更新
14
關西の雄傑は、苻氏(前秦)が末期に陥っており、萇の命世なる雄略を以ってすれば、天下の事は一旦にして定まるであろうと思っていた。しかし、萇はその前秦の苻登と何年にも渡って対峙しており、その上、何度も登に敗北を喫していた事から、建初三年(388、太元十三年)の七月までに、その遠近に関わらず、多くの者が去就を計るようになっていた。そのような中、征虜將軍の齊難、冠軍將軍の徐洛生、輔國將軍の劉郭單、冠威將軍の彌姐婆觸、龍驤將軍の趙惡地、鎮北將軍の梁國兒は忠を守って離反しようなどとは考えもせず、皆な子弟を留めて營を守らせ、兵糧を供給し続けた。また、自ら精兵を率いて萇の軍事に従っていた。時に諸營が多くなり過ぎていたため、萇軍を大營と号するようになった。大營の号は、ここより始まった。時に大雪が続いたため、萇は書を下して深く自らを責罰し、散後宮の文綺や珍宝を散じて軍事の足しにした。また、自らの食事を一味とし、妻にも綵を重ねないようにさせた。將帥で王事で死した者には、秩二等を加えた。士卒で戦死した者には、その全てに褒贈した。そして、太學を立てて、先賢の後を禮した。
15
敦煌の索の盧曜が、前秦の苻登暗殺を願い出た。これに萇は
「
卿の身に何かあった場合、誰を後に立てればよいか?
」
と問うと、盧曜は
「
この曜が死したらば、友人である隴西の辛暹に後事を託してください。
」
と答えた。萇は盧曜を刺客として送り込んだ。しかし、事前に事が発覚し、曜は苻登に殺されてしまった。この報がもたらされると、萇は生前の言葉通りに、辛暹を騎都尉として取り立てた。
第十一回更新
16
建初四年(389、太元十四年)の八月、前秦の苻登が安定に侵攻してくると、諸將は萇に決戦を求めた。しかし萇は
「
窮寇と勝を競うのは、兵家の下なるものだ。今、計を以ってこれを取ってみせようぞ。
」
と聞き入れなかった。そして、尚書令の姚旻に安定の守備を預けると、苻登が輜重を置いていた大界に夜襲を掛け、これを攻め落とした。諸將は、今度は、登軍の混乱に乗じて撃つべきと進言したが、これに萇は
「
登軍は混乱してはいるが、その怒気はまだまだ盛んなものがある。ここは軽々に動いてはならぬ。
」
と言って、これ以上の攻撃を止めた。萇は安定の地が狭い上に、苻登の侵攻を受けていたため、姚碩コに安定を鎮させて、安定の千余家を陰密に移住させると、遣弟で征南將軍の姚靖に鎮させた。
17
長安に社稷を立てた。百姓で年七十にして徳行のある者を、中大夫に任命して、毎年、牛酒を下賜する事とした。
第十二回更新
18
尹緯と姚晃が古成

に
「
苻登の窮寇は、年を経ているが未だ滅する事が出来ない。また姦雄が鴟峙して、あちらこちらで乱し煽っているため、夷も夏も皆な二心を抱くようになってしまった。これにどう対処したらいいと考える?
」
と問うた。これに古成

は
「
主上の権謀は類う者は無く、信賞必罰によって、賢能の士は皆な楽推を抱いております。どうして大業の成ざるを慮りましょう。

賊の滅せざるを憂いましょうや!
」
しかし尹緯は
「
登の窮寇は未だ滅しておらず、姦雄があちこちで扇合しているのだぞ?にもかかわらず、我らが懼するに及ばないとな?
」
と、その真意を問い質すと、古成

は
「
三秦は天府の國であり、主上は十分の内、既にその八を有しております。今ここで憂慮するに値するのは、苻登、楊定、雷惡地だけで、その他は瑣々としたものであり、どうして論ずるに足りましょうか!また、惡地に関しては、その地は狭く兵も寡少であり、こちらも憂うに足りません。苻登は烏合犬羊を頼みにしており、一時の余命を保っているに過ぎません。その智勇を推し測れば、至尊の匹(類)に非ざる事が分かります。霸王の起には、必ず駆除があります。然る後に大業を克定するのです。その昔、漢魏の興りには、いずもれ十有余年、海内を一同するに掛かっています。五、六年の間では未だ長いとは言えません。主上の神略は内に明るく、英武は外に発せられており、天下に無敵と言えましょう。登を取るなど、余力で十分です。願くは徳を布し仁を行い、賢を招いて士を納め、兵を獅オて馬を秣し、以って天機を候さん事を。もし、その鴻業の成さざれば、この

、腰斬を請うて以って明公に謝そう。
」
と答えた。尹緯がこの言葉を萇に報告すると、萇は大いにスび、古成

を關内侯の爵位を賜した。
第十三回更新
19
建初四年(389、太元十四年)の十二月、前秦の雷惡地が兵を引き連れて萇に投降すると、萇は鎮東將軍に任命した。しかし、建初五年(390、太元十五年)の四月、前秦の魏褐飛が大將軍、衝天王を自称して、

胡の兵数万を率いて安北將軍の姚當成が守る杏城に侵攻してくると、惡地がこれに呼応して、鎮東將軍の姚漢得の守る李潤を攻撃した。萇はこれを討つべく議すると、群臣はこぞって
「
陛下は六十里先の苻登を憂いていないのに、どうして六百里先の褐飛を憂われるのですか?
」
と答えた。しかし萇は
「
登はすぐに殄する事は出来ないが、我が城もまた、登がすぐに図る事が出来ない。しかし惡地は多智であり、常ならざる人物だ。南の褐飛を引き込み、東の董成と結託し、甘言美説を以って姦謀を成して、杏城、李潤を得たならば、惡地はそこを拠点とし、遠近を控制して、相い羽翼を為すであろう。そうなっては、長安の東北が再び我が領有となる事は適わない。
」
と言い、潛軍を率いて進軍を開始した。萇はこの時、兵二千にも満たなかった。対して魏褐飛、雷惡地の兵は数万に上っていたが、

や胡でこれに赴く者は、途切れなく続いていた。萇は一軍しか至らなかったのを見ると、喜色を浮かべた。群臣はこれを怪しんで、その故を問うた。これに萇は
「
今、同悪が相済して皆な来ており、我らが勝ちに乗じて席巻すれば、一挙にしてその巣穴を覆す事が出来よう。東北に余は無くなろうぞ。
」
と答えた。魏褐飛らは萇軍の兵が少くいと見るや、全兵を率いて攻撃を仕掛けてきた。これに対して萇は、壘を固めて戦おうとせず、弱勢であるかのように装った。しかし、その裏で、子の姚崇に騎兵数百を与えると、褐飛らに悟られないように壘を出発させ、その背後に回り込ませた。崇が背後から奇襲を仕掛けると、褐飛軍の兵は混乱に陥った。そこに萇は、鎮遠將軍の王超、平遠將軍の譚亮に歩兵騎兵を与えて突撃させた。挟み撃ちにされた褐飛軍は潰滅した。これによって、褐飛を始め一万余の首級を挙げた。この状況に、雷惡地は降服を願い出た。萇はこれを受け入れ、以前と同じように遇した。これ以後、惡地は
「
私は智勇の施すところは、一時の傑たりと自惚れていた。諸雄を見渡すと、我が徒の如く、皆な應一方を跨拠して、獣が千里に嘯すると踏んでいた。しかし、姚公に会って、その智力に摧屈されるに至り、我が分を悟った。
」
と人に語るようになった。雷惡地は猛毅でありながら清肅であったため、義に非ざる事を求めるような事はしなかった。そのため、嶺北の諸豪は皆な、惡地を敬憚するようになった。
第十四回更新
20
萇は姚當成に命じて、營所の柵孔に樹の一根を植えさせて、戦功を旌させていた。一年余りして、當成に情況を問うた。これに當成は
「
營所が手狭になっておりますので、拡張しようかと考えております。
」
と答えた。しかし萇は
「
結髮以来、戦いを重ねてきたが、このような快となる事は無かった。千六百を以って三万の兵を破ったのだ。國の事業とは、このように克舉されるべきである。同じように、小こそ奇であって、大なる事がどうして貴であろうか!
」
と言った。
21
貳城の胡の曹寅、王達が馬三千匹を献上した。これによって、寅は鎮北將軍、并州刺史に、達は鎮遠將軍、金城太守に任命された。
第十五回更新
22
萇には大まかで、粗雑な面があった。そのため群臣で過を為した者がいると、時に面と向かって罵辱を加える事もあった。そのため太常の權翼が
「
陛下は弘達にして自任であり、小節にこだわる事無く、群雄を駕馭し、儁異を苞羅し、嫌を棄して善を記すなどは、高祖の量を有していると言えましょう。しかし、軽慢の風だけは除くべきかと。
」
と注意を喚起した。これに萇は
「
私の性格の問題だな。舜の美を我が物にしようと思っているが、未だその欠片を得る事も出来ないでいる。しかし、漢祖の短所は、既にその一つを得てしまっている。もしこの

言を聞かなかったらば、どうしてこの過ちに気づけただろうか!
」
と謝辞を陳べた。
23
南羌の竇鴦が戸五千を従えて帰順してきた。安西將軍に任命している。
24
萇は書を下して、私仇に復讐した者は、全て誅殺するとした。また、將吏で亡滅した場合は、信頼を寄せる者に従わせ、成長した後に立てるように、これを援助して養育するようにさせた。
第十六回更新
25
建初六年(391、太元十六年)の四月、鎮東將軍の苟曜は逆萬堡に配されていたが、密かに前秦の苻登と使者を交わし、内応する事を約した。五月、萇は馬頭原まで軍を進めていた登軍と戦うも、登軍に撃ち破られてしまった。萇は残兵を収拾して、再び登軍と戦うための体勢を整えた。この時、姚碩コが諸將を前にして
「
上、軽々しく戦う事を慎しまれよ。いつも、計を以って取っているではありませんか。しかし今、戦況は既に有利を失い、更に賊に逼まれています。必ずや他に良い策があります。
」
と言ったが、萇はその姚碩コに向かって
「
登の用兵は緩慢なだけでなく、その駆け引きと言うものを知らない。今、軽兵で直進すれば、すぐさま我が軍の東に布陣するであろう。また、必ずや苟曜の豎子めは、これと連結するであろう。事が長引けばその変を成させてしまい、その禍は測り難いものがある。ここで速戦をするのは、豎子に登と謀らせる前に、登と好みを深める前に、その事を散敗させるためだ。
」
と聞き入れなかった。そして軍を進めて、苻登軍を大いに撃ち破った。登は

に退却した。前秦の強金槌が、任地である新平ごと萇に帰順してしまった。これを受けて萇は、すぐさま騎兵数百を引き連れて、金槌の營に向かおうとした。これを群臣が諫めたが、萇は
「
いや、金槌は既に苻登の下を去っているのだ。ここで今度、私を図ったとしたら、どこに帰すると言うのか!徳を慕って附してきている。その推款として、人質(子の強逵)も差し出してきている。私が信じずしてこれを待したのであれば、どうして万物を御せようか!
」
と言って取り合わなかった。群

は果して異謀を巡らそうとしていたが、強金槌がこれに従わなかった。
26
十二月、萇は陰密に軍を出して、安定に侵攻してきた前秦の苻登軍を迎え撃つことにした。出発を前にして、太子の姚興に
「
苟曜は姦変を好む人間だ。将来的に國の害となるであろう。私が北に行ったと聞けば、必ずやお前に会いに来るだろう。そこで捕えて殺してしまえ。
」
と訓した。苟曜は、果たして、姚興との面会を求めて、長安に至った。そこで興は、尹緯に責めさせてた後で、曜を誅殺した。
第十七回更新
27
萇は前秦の苻登軍を安定の東で撃退すると、酒を用意させて盛大に主演を催した。諸將が皆な
「
もし魏武王(兄の姚襄。魏武王は諡号)であったらば、この賊を今に至らしめる事は無かったでしょうな。陛下が慎重なのは分かりますが、程があります。
」
と言うと、萇は苦笑しながら
「
私が亡兄に及ばない所が四つある。身長が八尺五寸、臂は膝下まで垂れ下がり、人が望むにこれを畏敬していた。これが一つ目だ。十万の兵を率いて、天下と爭衡し、望麾して進めば、前に陣させはしない。これが二つ目だ。古きを温(たず)ね今を知り、道藝を講論し、英雄を駕馭して、雋異を收羅する。これが三つ目だ。大軍を董率して、険を履すること夷(平ら)の如くするに、上下は皆な允として死力を尽くす。これが四つ目だ。功業を建立するために、群賢を使うと言うのは、正に算略中の一片に過ぎない。
」
と言った。これを聞いていた群臣は、皆な万歳を称した。
28
萇は書を下して、留臺や諸鎮に學官を置かせ、廃れる事の無いようにさせた。そして、優劣を考試させて、才に応じて擢させた。建初七年(392、太元十七年)の三月、前秦の驃騎將軍の沒奕于が戸六千を引き連れて帰順してきた。使持節、車騎將軍、高平公として取り立てた。
第十八回更新
29
萇は病床に伏せるようになると、遣姚碩コを李潤に鎮させ、尹緯に長安を守らせて、太子の姚興を行營に呼び寄せた。その出発を前にして、征南將軍の姚方成が興に
「
今、寇賊が未だ滅せられていないのに、上が病床に伏せられてしまわれた。王統、苻胤らは皆な部曲を有しており、このままでは人に害を為すでしょう。お発ちになられる前に、これらを除かれておくべきかと存じます。
」
と進言した。姚興はこれを聞き入れ、苻胤、王統、王廣、徐成、毛盛の、前秦から帰順してきた者を誅殺した。その後で、萇の下へと向かった。興が到着すると、萇は怒りを露わにして
「
王統の兄弟は私の州里の者であって、他遠の志など持つ訳が無かろう。徐成らは、その昔、秦朝(前秦)にあって、いずれも名將であった男達だ。天下はまだ定っておらず、私がそれを果たそうとしている時に、誅害するなどとはどう言う事か!人の気を殺ぐではないわ!
」
と怒鳴りつけた。
30
萇は書を下して、兵吏で征伐に従い、戸が大營に在る者は、その家の賦役を免除する事とした。
第十九回更新
31
建初八年(393、太元十八年)の七月、前秦の苻登は、竇衝と対峙した。萇は衝から救援要請を受け、これに応ずるかどうか議した。これに尹緯が
「
太子の純厚の称は遐邇(遠近)に著しいものがありますが、將領の英略は、未だ遠近の知られる所になっておりません。ここは太子に親行させて、威武を広めて、防

の原とすべきしょう。
」
と建策した。萇はこれに採用した。そして姚興に
「
賊徒はお前の転近を知れば、必ずや堡に駆入してこよう。これを急襲すれば、勝てない事があろうか。
」
と訓した。これを受けて、姚興は胡空堡へと至った。竇衝軍の包囲は、これによって解かれた。苻登は姚興が胡空堡に向かったと聞いて、引き返した。興はこの隙に、前秦の根拠地の平涼を急襲して、大きな戦果を挙げて帰還した。全て萇の策の通りに事が運んだ。帰還した興は、再び長安の鎮に戻された。
32
萇は書を下して、妖謗の言や赦前の姦穢を除くため、劾挙のあった者は、皆なその罪を以って罪とした。
33
八月、東晉の平遠將軍、護

校尉の楊佛嵩が、胡蜀の三千余戸を引き連れて、萇に帰順してきた。東晉の楊

期、趙睦が、これを追撃してきた。これを知った萇は、九月、姚崇を救援に差し向けた。崇は東晉軍を大いに撃ち破り、睦の首級を挙げた。佛嵩を迎え入れて、鎮東將軍に任命した。
第二十回更新
34
十月、萇は長安に向かっていたが、新支堡に至った所で病気が篤くなったため、これより先は、輿に乗せられて進んだ。その道中、萇はこんな夢を見た。苻堅が天官の使者、鬼兵数百を引き連れて、營中に突入してきたのだ。これに萇は恐れおののき、宮へと逃げ込んだ。宮人は萇を迎えて鬼を迎え撃った。その一撃が、誤って萇に当たってしまった。これを見た鬼が口々に
「
正中は急所だ。
」
と言った。矛が引き抜かれると、血が一石余も流れ出た。そこで目が覚めた。萇は激しい動悸に襲われていた。そして、夢の中で矛が当たった所に腫が出来た。醫がこれを刺し開くと、出血が夢と同じくらいに出た。萇は狂言をうわ言のように言った。
「
臣萇が申し上げます。陛下を殺したのは、兄の襄であって、臣の罪ではありません。願くは臣を枉げざる事を。
」
と。長安に到着すると、十二月、太尉の姚旻、尚書左僕射の尹緯、右僕射の姚晃、尚書の狄伯支らを呼び出し、輔政を託した。そして萇は、姚興に
「
この諸人を毀損する者が出てきても、これに耳を貸してはならんぞ。骨肉を撫するに仁を以って、大臣に接するに禮を以って、万物を待するに信を以って、黔首を遇するに恩を以ってせよ。この四つが備わっていれば、私が憂う事は無くなろう。
」
と残した。その翌日、萇は息を引き取った。享年六十四。在位すること八年であった。武昭皇帝の諡号を贈られ、廟号が太祖、墓は原陵とされた。
2011/04/09 終了
『晉書』「載記」 姚萇 - 2964〜2973 -
第一回更新 開始 残り32段 全34段 2011/03/19
第二回更新 更新 残り31段
第三回更新 更新 残り30段
第四回更新 更新 残り29段
第五回更新 更新 残り28段
第六回更新 更新 残り25段
第七回更新 更新 残り24段
第八回更新 更新 残り22段 2011/03/25
第九回更新 更新 残り21段
第十回更新 更新 残り19段
第十一回更新 更新 残り17段
第十二回更新 更新 残り16段
第十三回更新 更新 残り15段 2011/04/02
第十四回更新 更新 残り13段
第十五回更新 更新 残り10段
第十六回更新 更新 残り08段
第十七回更新 更新 残り06段 2011/04/09
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第十九回更新 更新 残り01段
第二十回更新 終了
2011/04/09 終了