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最終更新 2011/07/23



姚  泓







2011/07/09 開始

01

 姚泓、字を元子と言い、姚興の長子である。その性格は孝友に寛和さに過ぎたため、経世の用を持っていないと思われた。また、病気がちだったため、興は嗣とするのに躊躇した事もあった。そのため、泓が太子に立てられたのは、弘始四年(402、元興元年)の二月になってからであった。興が征伐や巡游に出る時は、常に留めて後事を任せていた。泓は博学にして談論を好み、中でも詩詠を最も好んでいた。尚書の王尚、黄門郎の段章、尚書郎の富允文は、儒術を以って侍講とし、胡義周、夏侯稚は、文章を以って游集した。時に尚書の王敏、右丞の郭播が、刑政が緩すぎるとして、制を峻とするよう議したが、これに泓は


 人情が挫辱されると、壯獅フ心を生む。政教が煩苛であると、苟免の行を起こさせてしまう。上が下を化す時は、風が草を靡くようにである。君らが朝化に参与するは、広く政の軌を明らかにしていく事にあるに、仁恕の道に務めずして、厳法酷刑を欲するなどは、上に立つ者が持つべき馭下の理と言えようか!


と喝破した。王敏らは、この議を撤回した。泓は經学を博士の淳于岐から授けられた。sの岐が病床に臥せるようになると、泓は自ら見舞いに参上し、牀下にて拜した。これ以後、公侯で師傅に見みえる時は、皆な拜するようになったと言われる。


第二回更新

02

 弘始十一年(409、義熙五年)の二月、姚興が平涼へ赴くと、その隙を狙って、馮翊人の劉厥が数千人を集めて、萬年を拠点にして叛乱を起した。これに泓は、鎮軍將軍の彭白狼に東宮の禁兵を与え、この討伐に差し向けた。厥は斬首に処したが、その他の党友は赦免した。諸將が揃って泓に


 殿下の神算は雷の如く発せられて、醜逆を蕩平されました。そこで、露布表言をし、その首級を晒して、以って遠近の情を慰すべきではないでしょうか。


と勧めたが、これに泓は


 主上は私に後事を委ねられたのは、それは寇逆を式遏せんがためだ。しかし、私の綏御が和を失したため、姦寇を長じさせてしまった。これは正に引咎責躬して、行間に帰罪せねばならないのに、どうして矜誕せんがために、その罪責を重くせねばならんのだ!


と耳を貸さなかった。右僕射の韋華がこれを聞き、河南太守の慕容筑に


 皇太子は実に恭恵の徳を有しており、社稷の福となろう。


と言って褒め称えた。弘始十六年(414、義熙十)には、弟の姚弼が奪嫡の謀を企てたが、泓は恩撫して、それ以前と全く変わらない態度で接した。未だ嘗て、色をなした事が無かった。姚紹は弼の羽翼であったが、泓はそれでも推心宗事して、対立を為すような事はしなかった。その証拠に、泓は即位してから、紹に兵権を預けて信頼を示している。これに紹も感じ入り、その誠実さに帰す事になる。そして兵もその忠烈を尽くした。その明識にして寛裕なる事は、このようであった。

03

 弘始十八年(416、義熙十二年)の正月、姚興が病没したが、これを秘して喪を発しなかった。南陽公の姚と大將軍の尹元らが、乱を為そうと謀ったため、泓はそれに与した者を全て誅殺した。齊公の姚恢に、安定太守の呂超を殺すよう命じたが、恢はしばらくしてからそれを実行した。これに泓は、恢が陰謀を抱いているのではないかと疑うようになり、恢はこれに感づき、本当に二心を抱くようになり、水面下で兵を集め出した。ら一派を一掃し終えると、そこで泓は喪を発して、皇帝位に即いた。そして、殊死以下を大赦して、弘始十八年を以って改元永和元年と改め、諮議堂を廬とした。葬儀を終えると、自ら庶政に当たった。内外の百僚を揶ハ一等として、文武官にそれぞれ直言を尽させ、政で時に合わなくなっていること、事で宗廟を光益する事があれば、諱する事無く言うように命じた。


第三回更新

04

 先帝の姚興が李閏から羌三千家を安定に移住させ、そこからすぐに新支へと更に移していた。そして今、興が崩御した事を契機と見た羌酋の党容が、所部を引き連れて勝手に李閏へと帰り出してしまった。そこで泓は、撫軍將軍の姚讚にこれを連れ戻すよう命じた。讚は容を降参させ、豪右の数百戸を長安に連行し、その他はそのまま李閏へと帰してやった。北地太守の毛雍が、趙氏塢を拠点にして泓に反旗を翻した。姚紹がこの討伐に当たり、雍を捕えた。姚宣は時に李閏に鎮していたが、雍が敗れたとはまだ知らず、部將の姚佛生らを長安の防衛のために派遣する事にした。佛生が出発した後、宣の參軍の韋宗が、姦諂にして乱を好む性格だが、宣に対して


 主上は立ったばかりであり、威化はまだ現れておりません。勃勃は強盛であり、侵害して来たらば必ずや深くまで達するでしょう。本朝の難は未だ止んではいないのです。殿下は維城の任を預けられており、これを深慮しなければなりません。望の地形は険固であり、三方の要です。もし、ここに拠点を構えて、虚心で撫禦する事が出来れば、維城を確かなものにするだけでなく、霸王の業も為しえましょうぞ。


と自立を促した。姚宣はこれに耳を貸してしまい、戸三万八千を引き連れて、鎮所であった李閏を放棄して、南の望へと移った。宣が南へと移ると、諸羌が李閏を乗っ取って叛乱を起こしたため、姚紹がこれを鎮圧した。この事態に、宣は紹の下を詣でて謝罪した。しかし、紹は宣の行動に怒りを露わにして、宣の首を刎ねさせた。宣が望に移ってから、泓は長安の守備にと宣が派遣してきた姚佛生を帰らせて、宣に李閏に戻るよう説得させた。しかし佛生は、宣の計画に賛成してしまっていた。紹はその罪を責めた後、同じく首を刎ねさせた。


第四回更新

05

 泓は書を下して、士卒で王事に死した者に、爵位を贈ると共に、その家の賦役を免除した。宮臣十六人を五等子男に封じようとしたところ、姚讚が


 東宮の文武官は、守忠の誠を有してはいるでしょうが、未だ赫然の效を挙げておりません。それにもかかわらず、受封される者がこんなに多いのですか?


と諫めた。しかし泓は


 爵を朝廷が掲げ、以って懲勧来效させるのは、盛徳を標明するためではないか。この元子が家の不造(不幸)に遭った時、宮臣と共にこの百憂を同じゅうしておきながら、その福を独り占めしようとは、それこそ心に愧じずにいられようか!


と反論したため、姚讚は口籠ってしまった。すると姚紹が進み出て


 陛下は報徳をお忘れにならず、これを封ずると言うのは是です。古えにあっては、その事(報徳)を敬して、これを命ずるを以って始めとします。ここは来春を待って、然る後にこれを議すべきではないでしょうか。


と陳べたため、この封爵は中止された。六月、并州、定陽、貳城の胡の数万落が叛乱を起こし、平陽へと侵入すると、立義將軍の姚成都がいる匈奴堡に攻撃を開始した。そして、匈奴の曹弘を大單于に推して、至る所で略奪を働き始めた。これを聞いた征東將軍の姚懿が、蒲坂から弘の討伐に向かい、平陽でこれを撃ち破り、弘を捕えると、長安へと護送した。豪右一万五千落は、雍州へと移住させられた。


第五回更新

06

 仇池公の楊盛が祁山を攻め落とすと、建節將軍の王總を生け捕りにし、そのまま秦州にまで迫ってきた。これに泓が、後將軍の姚平を救援に差し向けると、盛は軍を退いた。上守將の姚嵩は、平と共に竹嶺まで盛を追撃した。姚讚は隴西太守の姚秦都、略陽太守の王煥を指揮下に置き、禁兵を率いて援軍に向かった。讚が清水まで至った時、嵩軍は盛軍によって撃ち破られ、嵩を始め秦都、煥らは皆な戦死してしまった。讚が秦州に至った時、盛は仇池へと軍を返していた。これに先立って、天水の冀縣の石鼓が鳴り響いた。その音は数百里に渡ると、野雉がこれに共鳴するように鳴き出した。秦州では地震が起こること三十二度、雷鳴が轟くこと八度、これによって山は崩落し建物が倒壊した。全て不祥とされた。そのため、嵩が出ようとした時、群僚は頑なに思い止まるよう諫めていた。しかし嵩は


 もし不祥が有ったとしても、それは天命であろう。ならば、逃げられるわけが無かろう!


と取り合わなかった。そして、遂には戦死している。識者は秦州が泓の故郷であった事から、滅亡の徴と見做していた。


第六回更新

07

 夏の赫連勃勃が陰密を陥落させて、秦州刺史の姚軍都を捕えた。將士の五千余人が生き埋めにされた。軍都は目に怒気を表して、声をあらん限りに張り上げて、勃勃の残忍の罪を責め立て、勃勃に屈しようとはしなかった。勃勃は怒りに任せて、軍都を斬り殺した。勃勃が陰密を陥落させ、そのまま秦軍を続けて雍に迫ってくると、嶺北の雜戸は全て五將山へと逃げ込んだ。征北將軍の姚恢は安定を放棄して、戸五千を引き連れて新平へと逃げて行った。しかし、安定人の胡儼、華韜が兵を率いて、恢を迎え撃った。恢は単騎で長安へと逃亡を図った。立節將軍の彌姐成、建武將軍の裴岐は、儼によって殺され、鎮西將軍の姚ェは、鎮所を放棄して東へと落ち延びていった。勃勃は雍を選挙して、城に略奪を仕掛けた。姚紹を始めとして、征虜將軍の尹昭、鎮軍將軍の姚洽が歩兵騎兵の五万を率いて、勃勃の討伐に乗り出した。恢が精騎兵一万を率いて、この後続についた。水まで進軍した所で、勃勃は安定へと退き下がった。しかし、儼が門を閉じてこれに抵抗し、鮮卑数千人を殺して、安定ごと後秦に降伏してしまった。そこに、追撃してきていた紹が追いつき、勃勃軍と馬鞍坂で干戈を交え、これを撃破した。敗走する勃勃軍に更に追撃を加えたが、朝那に至った所で大きく引き離されてしまったため、ここで軍を返した。

08

 楊盛は兄子の楊倦に、長蛇を攻撃させた。平陽のの苟渇は兵千余を集めると、五丈原に拠点を築いて反旗を翻した。これに、鎮遠將軍の姚萬、恢武將軍の姚難に討伐を命じたが、渇軍によって返り討ちにされてしまった。そこで姚ェが渇の討伐に乗り出して、生け捕りにする事に成功した。泓は輔國將軍の斂曼嵬、前將軍の姚光兒に、陳倉まで侵入してきた倦を撃退するよう命じた。倦は散關へと退却した。夏の赫連勃勃は、兄子の赫連提を南の池陽へと侵攻させた。これを車騎將軍の姚裕、前將軍の彭白狼、建義將軍の蛇玄が迎え撃ち、撃退した。


第七回更新

09

 八月、東晉の太尉である劉裕が、大軍を率いて泓の討伐に乗り出した。九月、彭城まで軍を進めた。冠軍將軍の檀道濟、龍驤將軍の王鎮惡は淮肥から漆丘、項城の攻撃に、建武將軍の沈林子はから河に入り、倉垣の攻撃に向かっていた。王苟生は鎮惡に降服して、漆丘を明け渡した。徐州刺史の姚掌は道濟に降服して、項城を明け渡した。東晉軍が潁口へと達すると、至る所から降服を願い出てきた。その中にあって、新蔡太守の董遵は守りを固めて、降服しようとしなかった。しかし、道濟軍の攻撃によって撃ち破られ、遵は縄を掛けられ、諸軍門を引き回された。それでも遵は屈せず、顔に怒気をにじませて


 古えの王者が國を伐った時、士を待するに禮を以ってした、と聞く。君の行師は不義であり、國士を待すに非禮を以ってするか!


と怒鳴った。檀道濟はこの言葉に怒って、董遵を殺した。姚紹は東晉軍が至ったと聞くと、長安へと帰還して、泓に


 晉師は既に許昌を通過したとの事です。豫州、安定は孤遠です。簡単には救援に向かえません。ここは諸鎮戸を遷して、京畿の軍を充実させるべきです。精兵十万もあれば、天下を行するに足りましょう。また、二寇(東晉、夏)が侵攻してきたとしても、深害を得る事は無いでしょう。しかし、こうしなかったらば、晉が豫州を侵し、勃勃が安定を寇する事になり、手遅れになってしまいかねません!事機は既に至りました。速やかなるご決断を。


と進言した。しかし、左僕射の梁喜が


 齊公の恢は雄勇にして威名を有しており、嶺北の畏怖する所であります。また、鎮人は既に勃勃に対して深い仇を抱いており、守死無貳は道理です。勃勃も終には、安定を遠く離れて京畿を寇する事は出来ないでしょう。安定が無ければ、虜馬が必ずや、雍に及びます。今、關中の兵馬で、十分に晉師に当たる事が出来ます。どうして、まだ発生していない危を憂えて、自から先に削損する必要がありましょうか。


と反論した。泓は梁喜の案を採用した。吏部郎の懿が泓に


 齊公の恢は、廣平の難において陛下に忠勲をお示しになられましたが、陛下が龍飛紹統(即位)してからは、未だ殊賞を有しておらず、その意に答えていません。今、外ではこれを死地に置き、内では朝権に預からせていません。安定の人も孤危によって逼寇されれば、南遷を願う者は、十室に九室に及ぶでしょう。もし恢が精兵四万を擁して、鼓行して京師に向えば、社稷の累を為させずに済みます。!ここは、すぐにでも朝廷に召還して、その心を慰するべきです。


と言ったが、泓は


 恢が不逞の心を抱いていたとしよう。であるならば、これを召還すると言う事は、禍の至るを速めるに過ぎんだろうが。


と言って、聞き入れなかった。


第八回更新

10

 十月、東晉軍が成皋にまで至ると、洛陽の守備を預かっていた征南將軍の姚洸は、早馬を出して救援を要請した。これに泓は、越騎校尉の閻生に騎兵三千を与えて救援に差し向けた。また、武衞將軍の姚益男に歩兵一万を与えて洛陽の守備に向かわせ、征東將軍で、并州牧の姚懿を南の陝津に配して、この援護を為させた。洸麾下の部將の趙玄が洸に


 今、寇逼は既に深くに侵入しており、百姓は駭懼しています。衆寡敵せずの言葉通り、勢力に格段の違いがあり、敵に当たるのは無理かと思われます、ここは諸戍の兵士を引き連れて、金の固守に回るべきです。その間に、京師からの救援も至るでしょう。撃って出る事だけはしてはなりません。もし勝てなかったならば、大事は去ってしまいます。金は既に堅固にされており、軍にも被害は出ておりません。呉寇は金を通り越して、西に向かう事は出来ません。堅城の下で困憊すれば、その弊を制する事など容易い事です。


と進言した。時に姚洸の司馬の姚禹は、檀道濟と裏で通じていた。主簿の閻恢、楊虔は、どちらもその禹の党友で、趙玄の忠誠を忌み嫌っていた。そのため、これを挫いてやろうと、洸に撃って出るよう強く勧めた。洸はこれに従い、玄に精兵千余を与えて南の柏谷塢を、廣武將軍の石無諱に東の鞏城を守らせて、東晉軍を迎え撃たせる事にした。これを聞いた玄は、涙ながらに洸に


 この玄、三帝(姚萇、姚興、泓)より重恩を受けて参りました。守正して死を選びます。ただ、明公が忠臣の言を用いず、姦に誤たされては、後に必ずやこれを悔むでしょう。ですから、取り返しの付く今の内に。


と陳べた。この時、陽城を始め成皋、陽、武牢の諸城は全て降服しており、檀道濟らは長駆して迫ってきていた。石無諱は石關まで至ったが、逃げるようにして戻ってきた。趙玄は東晉の將の毛コ祖と柏谷で干戈を交えたが、衆寡敵せず、撃ち破られてしまった。玄は傷を負うこと十余、膝から落ちて大呼した。玄の司馬の騫鑒が、戦塵を縫って玄の元に駆けつけると、その身を抱え涙をこぼした。これに玄は


 私の傷は既に重い。君は早くここを離れろ。


と言ったが、騫鑒は


 將軍が助けられないのでれば、共にここで死しましょう。去れと言われても、どこに行けと言うのですか!


と言って、その場に留まった。共に戦塵に死した。姚禹は城壁を飛び越えて、東晉軍へと逃げ込んだ。檀道濟が洛陽に迫ると、姚洸は恐れおののき、遂に降服した。この時、救援の閻生は新安に、姚益男は湖城に至っていたが、洛陽が陥落したと知ると、軍を留めて、これ以上は進まなかった。


第九回更新

11

 十二月、姚懿は表向きは柔和だが、その実、冷酷な性格の持ち主であった。その懿に迷いが生じていた。懿の司馬である孫暢は、姦巧傾佞であり、乱を好み禍を楽しむような人物であった。その暢が懿に、長安を襲うよう勧めたのであった。姚紹を誅殺し、泓を廃して自立すべきだと説いたのである。懿はこれを聞き入れ、兵を率いて陝津に至った。そこで穀を散じて、河北の夷夏に与えた。國儲を出し切ってでも、戎と諸羌を招き寄せて、私恵を立てようとしたのである。これに、懿の左常侍の張敞、侍郎の左雅が強い語調で懿を


 殿下は母弟の親であり、分陝の重に居しております。ですから、安危休戚は、國と共にするものであります。漢(前漢)には七國の難(呉楚七國の乱、前154)が有りましたが、実に梁王(劉武)が頼りとなりました。今、呉寇が侵入してきて、四州(徐州、州、豫州、荊州)は傾没しています。加えて、西虜(夏、北涼)が擾辺して、秦涼は覆敗しています。朝廷の危は累卵と同じであり、正に是れ諸侯勤王の日ではありませんか。穀物は國の本です。それを今、散じようとしているのです。もし朝廷がこの事を殿下に問われたましたらば、どのような辞を以ってお答えになられますか?


と諫めた。姚懿はこれに怒って、笞打たせて殺した。泓の耳にこれが達すると、姚紹らを密かに呼び寄せて、朝堂で対処を謀った。その席上、姚紹が


 懿の性識は鄙近であり、物に従って推移します。今回の事を計画したのは、孫暢かと思われます。そこで、早馬を出して暢を召還なされませ。そして、撫軍將軍の姚讚を陝城に置き、この紹は潼關に赴いて、諸軍の節度と為りましょう。もし暢が詔を奉じて至ったのであれば、懿に河東の見兵を率いさせて、共に平呉寇を平らげてご覧に入れましょう。もしその逆釁が既に成っていたのであれば、詔敕を違距したとして、その罪を天下に知らしめて、声鼓してこれを撃つのです。


と進言した。これに泓は


 叔父の言、社稷の計なり。


と言って、姚讚を始め冠軍將軍の司馬國、建義將軍の蛇玄を陝津に、武衞將軍の姚驢を潼關に配した。


第十回更新

12

 姚懿は遂に挙兵して皇帝を称すると、州郡に檄文を飛ばし、匈奴堡に穀物を運んで、鎮兵に給しようとした。寧東將軍の姚成都がこれを阻止しようとすると、懿は辞を卑くして成都を招誘し、結託しようとした。そのために佩刀を送って、その証しとした。しかし、成都はこれを泓に進呈した。懿は驍騎の王國に甲士数百を与えて、成都を攻撃させた。しかし成都は、これを返り討ちにし、國を生け捕りにして収監した。そして、懿に使者を出して


 明公は母弟の親であり、推轂の寄を受けておろう。今、社稷の危は綴旒然なれば、恭恪にして憂勤にし、王室を匡輔すべきであろうが。それを奸を包藏して、宗廟を危する謀をなすなど、三祖の靈が公を安んじると思っているか!この鎮の糧は、一方に寄せられているが、鎮人に何の功があったと言うのだ?これらに給しようとしているのであろう!王國は蛇に足を画いた。國は罪人であり、既に収監してある。詔が下り次第、殺してくれる。この成都は義兵を糾合して、明公の罪を懲してくれん。大兵が集まるのを待って、明公とは河上で相見みえようぞ。


となじらせた。姚成都は諸城に宣告して、忠義に忠義を尽すよう命じ、兵を訓練させ馬には十分な飼葉を与えさせ、義租を挑発した。これによって、河東の兵で姚懿を詣でた者は無く、懿は深くこれを患いた。その中にあって、臨晉の数千戸が懿に呼応した。姚紹が蒲津から渡河して、臨晉の叛戸を攻撃し、これを大破した。懿はこれに震撼した。鎮兵で安定の郭純、王奴は、手勢を率いて懿を包囲した。紹が蒲坂に入ると、懿を捕えて収監した。孫暢らは誅殺した。


第十一回更新

13

 泓は内外で離叛が起こり、東晉軍が迫り来る最中の、弘始十九年(417、義熙十三年)の正月元旦、群臣と前殿で朝会を開くと、悽然と流涕し始めた。群臣はつられるようにして、皆な涙をこぼし始めた。この時、征北將軍の姚恢が、安定の鎮戸三万八千を引き連れると、室宇を焼き払って、車で方陣を組みながら、北雍州からは長安へと動き出した。恢は大都督、建義大將軍を自称して、州郡に檄文を飛ばした。君側の惡を除かん、と言うものであった。揚威將軍の姜紀は、兵を率いてこれに応じた。建節將軍の彭完都は、恢軍が近づいていると聞いて、陰密を放棄して長安へと走った。恢が新支に到達すると、紀が恢に


 國家の重將は東に在り、京師は空虚となっています。公が軽兵を率いて急襲すれば、事は必ずや為りましょうぞ。


と説いたが、姚恢はこれを聞き入れなかった。そして、南の城に攻撃を仕掛けた。鎮西將軍の姚ェは、この恢軍に撃ち破られた。この勝利によって、恢軍の士気は弥が上にも盛んとなった。長安には激震が走っていた。泓は早馬を出して姚紹を呼び出すと共に、姚裕と輔國將軍の胡翼度を西に配した。扶風太守の姚雋、安夷護軍の姚墨蠡、建威將軍の姚娥都、揚威將軍の彭は、恢軍に恐れをなして、恢に降服してしまった。恢の舅の苟和は、時に立節將軍であったが、守忠不貳な人物であったため、泓は和を呼び出して


 衆人の殆どが去就を考え始めている。卿、どうすればこれを収められると思うか?


と問うと、苟和は


 もし天が妖賊を放縦とさせ、その逆節をほしいままとさせるのであれば、舅甥の理としては、奔馳するを待たずして加親するでしょう。もし、その罪が逆銷を極め、天がその罰を盈するのであれば、守忠執志するのが、この和の體です。親に違い君に叛するは、この和の恥づるところです。


と答えた。泓はその忠恕を善しとして、金章紫綬を加えた。姚紹は軽騎兵を率いて難に赴こうと、姚洽、司馬國に歩兵三万を配し、長安へと向かわせた。姚恢は曲牢から杜成に侵入しており、紹は恢軍と靈臺で相退治した。姚讚は恢の接近を聞くと、寧朔將軍の尹雅を弘農太守に任じて、潼關を守らせると、諸軍を率いて長安へ帰還した。泓は讚に謝して


 この元子、徳義を崇明する事も、群下を導率する事も出来ないままに、禍を蕭牆に致たしてしまい、変は自と同気に起こり、既に上は祖宗にまで達してしまい、諸父に合わす顔も無い。懿が構逆して滅亡したばかりだと言うのに、今度は恢が兵を擁して叛してしまった。どうしたらよいものか?


と方策を尋ねると、姚讚は


 懿らが称兵(挙兵)して内侮した理由は、誠に我らが軽弱のために、防遏の方法が無きがためです。


と答え、ここまで話したところで、袂を払って立ち上がると、大泣して


 この讚、大將軍と共にこの賊を滅せざれば、どの面にて陛下に再び見みえられましょう!


と続けた。泓は軍士に班賜し、姚讚の指揮下に置いて出発させた。姚恢軍の兵は諸軍が終結する様を見て、皆な恐怖に駆られだした。そして我が身の安全を考えるようになり、將の齊黄らが恢の下を離れて投降した。恢は軍を勧めて紹軍に迫った時、その背後から讚が突撃を仕掛け、恢軍を撃ち破った。この戦いで、恢を始め三弟の首級を挙げている。この報を聞いた泓は、哭して悲慟し、これらを葬するに公禮を以ってした。

14

 二月、王鎮惡が宜陽に至ると、毛コ祖に弘農太守の尹雅が守る蠡城を攻撃させた。雅軍は潰滅した。コ祖は騎兵を繰り出して追撃させ、雅は捕えられた。捕えられた雅であったが、見張りを殺して脱出し、潼關へと逃げ込む事に成功した。


第十二回更新

15

 檀道濟、沈林子に襄邑堡を陥落させられると、建威將軍の薛帛は河東へと逃げ込んだ。道濟は陝から北に渡河して、蒲坂に攻撃を仕掛けた。將軍の苟卓に匈奴堡を攻めさせたが、寧東將軍の姚成都がこれを返り討ちにした。泓は姚驢を蒲坂の救援に差し向け、胡翼度を潼關に配した。泓は姚紹を太宰、大將軍、大都督、都督中外諸軍事、假黄鉞に進位させると、魯公に改封した。侍中、司隸、宗正、節録は、そのままとした。これ以後、朝廷の大政の決定権を与える事とした。しかし紹は、これを固辞した。泓はその固辞を認めなかった。ここで、紹に武衞將軍の姚鸞らをその指揮下に配して、歩兵騎兵の五万を与えて、距潼關で東晉軍を迎え撃たせた。驢は并州刺史の尹昭と表裏の勢を為して、道濟軍を挟撃する手はずとなった。道濟は壁を固めて、戦う事はしなかった。そのため林子が道濟に


 今、蒲坂の城は堅く池は濬(深)く、容易に陥せるものではありません。攻めても兵を傷つけ、守っても戦況に変化はありません。今はこれを無視して、先に潼關に掛かるべきでしょう。潼關は天岨で、形勝の地です。鎮惡は孤軍のため、その勢力は寡少です。もし姚紹がここに来ましたらば、図り難いものとなります。もし潼關を陥とす事が出来れば、紹も戦わずして降服するでしょう。


と説き、檀道濟はこれに従った。そして蒲坂から南の潼關へと向きを変えた。姚讚は禁兵七千を率いて、渭北から東へと向かい、蒲津へと軍を進めた。劉裕は沈田子と傅弘之に兵一万余を与えて、上洛に侵入させた。城鎮を放棄して、長安へと逃亡を図る者が、至る所で現われた。田子らが青泥へと軍を進めると、姚紹は陣形を組んで前進し、道濟軍を迎え撃った。道濟が壘を固めて戦おうとしなかったため、紹は西營に攻撃を仕掛けた。しかし、これを陥とす事が出来なかった。そこで大軍を率いて、道濟に当たる事にした。これに道濟は、王敬、沈林子をし機械に置いて、紹軍を迎え撃った。將士は驚いて散じてしまい、定城へと引き返さざるを得なかった。紹は姚鸞を留めて守りを固めさせると、道濟の輸送路を遮断した。

16

 この時、劉裕の別將の姚珍が子午から侵入し、竇霸が洛谷から侵入してきた。それぞれ、兵数千を率いていた。泓は姚萬に霸軍を、姚彊に珍軍を迎撃させた。姚鸞は麾下の尹雅を繰り出し、道濟の司馬の徐と潼關の南で戦わせたが、雅はによって生け捕られてしまった。雅は裕の下へと送られてた。裕はその雅が前に逃亡を図ったため、雅の首を刎ねようとした。しかし雅が


 前の活は誠に望外の事でした。しかし、今の死は寧ろ受け入れられません。明公は大義を以って天下を平げようとされているのに、どうして秦をして守信の臣を無からしめんとするか!


と言うと、劉裕はこの言を嘉として、免ずる事にした。


第十三回更新

17

 泓は給事黄門侍郎の姚和都を堯柳に配して、沈田子の侵攻に備えさせた。姚紹は諸將に対して


 道濟らは遠来であり死を覚悟したものであるが、その軍旅は多くは無い。壘の守りを固めるのは、正に時間稼ぎをして、後続軍が続くのを待っているに過ぎん。私は軍を分けて郷に急がせ、その糧運を断絶しようと考えている。そうすれば、一ヶ月もせずして、道濟の首を麾下に掲げる事が出来るであろう。道濟らが敗れたとなれば、裕の計も破れよう。


と陳べた。諸將は皆な、この策略に賛同した。その中、將の胡翼度が


 軍勢は集めるべきであって、分けてはなりません。もし偏師が不利となれば、人心は駭懼してしまって、戦いどころではなくなります!


と反論したため、姚紹はこれを取り止めにした。ここで薛帛が、河曲を拠点に反旗を翻した。紹は分道で諸軍を配置して、掎角の勢を為した。輔國將軍の胡翼度を東原に配し、武衞將軍の姚鸞には大路に營を築かせ、東晉軍と相接させた。沈林子は精鋭を選抜すると、銜枚してこれに夜襲を掛けた。鸞軍は潰滅し、士卒の死者は九千余人に上った。


第十四回更新

18

 姚讚が河上に軍を展開すると、恢武將軍の姚難に蒲坂から穀を運ばせて、軍に供給させようとした。しかし、香城に至った所で、東晉軍に撃ち破られた。時に泓は、姚ェに堯柳を守らせ、姚和都に河東にいる薛帛を攻撃させた。東晉軍が難の動きを追っていると知ると、兼道して救援に向かったが、至る前に難が敗れたため、裕の裨將を河曲で撃ち破って、蒲坂に軍を置いた。讚は沈林子軍に敗れ、単騎で定城へと逃げ込んだ。紹は左長史の姚洽と姚墨蠡に騎兵三千を与えて、河北の九原に配して、道濟の諸縣からの租輸を遮断しようとした。しかし洽が


 そもそも、小敵は堅し、大敵は擒すものです。今、兵衆は単弱であり、遠く河外に在ります。いかに明公の神武と言えども、鞭が短く勢が異なれば、恐らく無理かと存じます。


と言ったが、姚紹はこれを聞き入れなかった。沈林子が兵八千を率いて、姚洽を河上で迎え撃った。洽は戦死し、軍は潰滅した。紹は洽の敗北を知ると、忿恚して病を発してしまった。そのため、姚讚に後事を託し、姚難を關西に配した。紹は吐血して絶命した。

19

 泓は東晉軍が接近してきたため、北魏に使者を派遣して救援を求めた。これに北魏は、司徒で南平公の拔拔嵩(長孫嵩)、正直將軍で安平公の乙旃眷を派遣して、河内に向かわせた。また、游撃將軍の王洛生が河東に軍を展開して、泓の援護を為した。


第十五回更新

20

 七月、劉裕が陝城まで軍を進めると、沈林子に精兵一万余を与えると、山を越させ道を開かせて、青泥にいる沈田子らと合流させ、堯柳の攻撃に備えさせた。八月、泓は姚裕に歩兵騎兵の八千を与えて迎え撃たせ、泓も自ら大軍を率いて後続についた。姚裕が田子軍に敗れたため、泓は上まで軍を退き下げた。これによって、關中の郡縣の多くが、東晉軍と通じる事態を生んでしまった。劉裕が潼關に至ると、將軍の朱超石、徐猗之を河北にいる薛帛と合流させ、蒲坂を攻撃させた。姚讚が劉裕を關西で待ち構え、姚難は香城に軍を置いた。劉裕は王鎮惡、王敬を秋社から西に渭を渡らせ、難軍に迫らせた。鎮東將軍の姚璞と姚和都は、猗之軍を蒲坂で撃ち破り、猗之の首級を挙げた。超石は軍を放棄して、潼關へと逃げ込んだ。讚は司馬休之と司馬國關から河内に向かわせ、北魏軍を引き連れて劉裕軍の後ろにつかせた。難は鎮惡軍の圧迫に耐え切れず、軍を西に退いた。時に長雨が続いたため、渭水は氾濫寸前まで水位が上がっていたため、讚らは北渡する事が出来ずにいた。鎮惡は水陸から兼進し、難軍に追いついた。泓は上から軍を返して、石橋に軍を置いて援護を為した。讚は鄭城へと退却した。鎮北將軍の姚彊は郡人数千を引き連れ、難と共に上に陣を張って、鎮惡を待ち受けた。鎮惡は毛コ祖に彊軍を攻撃させて、これを大いに撃ち破ると、彊の首級を挙げた。難は長安へ遁走した。


第十六回更新

21

 劉裕が鄭城に入った。泓は姚裕、尚書の統に兵を与えて宮中を置き、姚洸を西に配し、尚書の姚白瓜には四軍の雜戸を長安に入れさせた。姚丕は渭橋を守り、胡翼度が石積に布陣し、姚讚を霸東に配すと、泓は逍遙園に軍を置いた。王鎮惡が渭の両岸から進軍して、丕を渭橋で撃ち破った。泓は逍遙園から救援に向かったが、水量が多く地が狭かった上に、丕が既に敗れていたため軍を返した。姚ェを始め前軍將軍の姚烈、左衞將軍の姚寶安、散騎の王帛、建武將軍の姚進、揚威將軍の姚、尚書右丞の孫玄は、皆な戦死してしまい、泓は単騎で宮へと逃げ帰った。鎮惡が平朔門から入ると、泓は姚裕ら数百騎と共に石橋へと脱出した。讚は泓が敗れたと知り、將士を召してこれを告げた。兵は皆な刀を地に突き立て、袂を払って号泣した。翼度はこれより以前から劉裕と通じていたが、この日に、軍を捨てて劉裕の下へと駆け込んだ。讚は夜の闇に紛れて諸軍を率いて、泓と石橋で合流しようとしたが、東晉軍が既に諸門を固めてしまっていたため、讚軍は入る事が出来ず、兵は皆な驚散してしまった。


第十七回更新

22

 泓は進退が窮まり、劉裕に降服する事を考え始めた。すると、子の姚佛念が、年十一であったが、泓に


 晉人はその欲を逞しゅうして、終には全う出来ないでしょう。願わくは、自ら裁決されます事を。


と言ってきた。泓は憮然として答えなかった。姚佛念は遂に、宮牆に登って、身を投じて死んでしまった。泓は妻子を引き連れて壘門を詣で、降服を願い出た。九月、姚讚も宗室の子弟百余人を引き連れて、劉裕に降服した。裕はこれを皆殺しにし、余宗は江南に移住させた。泓は建康に送られ、市で斬首に処された。享年三十、在位すること二年であった。建康の百里の内では、草木が尽く焼け死んだ。

23

 姚萇が孝武帝の太元九年(384)に皇帝位に即き、泓に至るまでの三世、安帝の義熙十三年(417)に滅亡した。三十四年であった。


2011/07/23  終了。


『晉書』「載記」 姚泓 - 3007〜3018 -


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2011/07/23 終了。