2011/04/16 開始
01
姚興、字を子略と言い、姚萇の長子である。前秦の苻堅の治世には、太子舍人に任命されている。萇が馬牧にいた時、興は馬安から危険を顧ず、萇の下へと駆けつけた。白雀三年(386、太元十一年)の四月、萇が長安で皇帝位に即くと、建初と改元した。萇は皇太子に立てられた。萇が征討に出る時は、興は常に留め置かれて、後事を託されている。建初二年(387、太元十二年)の七月、長安の鎮を任されると、その政事には甚だ威恵があった。中舍人の梁喜、洗馬の范

らと共に經籍を講論していたが、兵難の最中でもその業が廃れる事が無かったため、周りの人はこれに感化されていった。建初八年(393、太元十八年)の十二月、萇が病死した。興は秘匿して喪を発しなかった。そして、叔父の姚緒を安定に、姚碩コを陰密に鎮し、弟の姚崇に長安を守らせた。碩コの將佐が碩コに
「
公の威名は宿將にあって重なるものがあり、部曲で最強と言ってもいいでしょう。今、喪代の際であり、朝廷は必ずや相い猜忌します。永安の道が失われると言う事です。そこで、ここは秦州へと離れて、事勢を窺うべきではないでしょうか。
」
と進言した。しかし姚碩コは
「
太子の志度は寛明であり、疑阻しようと言う意思は感じられないな。今、苻登(前秦)が未だ滅せられておらず、干戈は続くであろう。ここで二袁の蹤を追ってしまっていては、授この首をやつらにやってしまうようなものだ。私が死ぬだけで、終にはそれにも及ばない情況になってしまう。
」
と取り合わなかった。出発を前に姚碩コは興と面会し、興は優禮を以って待し、そして任地へと送った。
第二回更新
02
興は大將軍を自称し、尹緯を長史に、狄伯支を司馬に任じると、前秦の苻登討伐の軍を挙げた。咸陽太守の劉忌奴は、避世堡に拠点を構えると、反旗を翻した。しかし、興が忌奴軍に奇襲を加え、生け捕りにしている。建初九年(394、太元十九年)の四月、登が六陌から廢橋へと軍を進めてきた。そのため、始平太守の姚詳が馬嵬堡に陣を張って、登軍を迎え撃つ体勢を整えた。登軍の勢力が甚だ盛んであったため、興は詳軍だけでは対抗できないと判断して、自ら精騎兵を率いて登軍へと迫り、尹緯に歩兵を与えて詳軍の救援に向かわせた。緯は詳の計を採用して、廢橋に布陣して登軍を迎え撃った。登が緯軍に急襲を仕掛けてきた。緯はこれに合わせて出陣しようとしていたが、そこに興からの伝令として狄伯支が到着し、緯に対して
「
兵法とは、戦わずして人を制するだが、今がそれに当たるであろう。苻登の窮寇に対しては、自重せよとの事です。くれぐれも、軽はずみな戦いはしてはならない、と。
」
と言った。しかし尹緯は
「
先帝が登遐(崩御)して以来、兵情は擾懼している。今、思奮の力を以ってせざれば、逆豎に梟殄させられ、大事は去ってしまう。だからこそ、この緯は敢えて死を以って争う事を選択する。
」
と言って苻登軍へと出撃した。尹緯は登軍を返り討ちにした。これより以前から、登軍では水が不足していたため、渇死した兵が、十人に二、三人に上っていたのであった。この夜、登軍は潰滅した。登は単騎で雍に落ち延びた。五月、ここでようやく興は喪を発すると、行服した。そして、槐里縣で皇帝位に即いた。境内に大赦を出すと、建初九年を以って皇初元年と改めると、安定へと移った。
03
廢橋での戦いの以前に、前秦の苻登は弟の苻廣に雍の守りを預けて、子の苻崇を胡空堡に配していたが、登軍が潰滅したと知るや否や、皆な守りを放棄して逃げ出してしまっていた。雍へと落ち延びていた登であったが、雍は誰もいなく逃げ込める場所ではなくなっていたため、平涼まで更に落ち延び、残兵を収拾して馬毛山へと入った。七月、興が安定から陽へと進軍し、登軍と馬毛山の南で干戈を交え、これを撃ち破り、登を生け捕りにすると、登の首を刎ね飛ばした。その部兵は散り散りに逃げ出し、農業に復帰した。陰密の三万戸を長安に移住させ、大營戸を四つに分割し、四軍を設置してこれを領させた。
第三回更新
04
安南將軍の強熙、鎮遠將軍の楊多が反旗を翻すと、竇衝を盟主へと推した。この勢力のため、至る所で火の手が上がった。この討伐に、興が自ら諸將を率いて当たる事にした。武功まで進軍した時、多の兄子の楊良國が多を殺して投降した。衝の弟の竇彰武は、衝を離反した。そのため衝は、熙の下へと逃走した。しかしその熙は、興軍がそこまで来ていると知ると、戸二千を引き連れて秦州へと逃亡してしまった。衝は仕方なく

川へと逃走先を変更したが、

川の

の仇高に捕えられ、興の下へと送られた。衝の從弟の竇統は、兵を引き連れて興に降服した。
第四回更新
05
皇初二年(395、太元二十年)、征虜將軍の姚緒を晉王に、征西將軍の姚碩コを隴西王に、征南將軍の姚靖に封じられたのを始め、功臣の尹緯、齊難、楊佛嵩らは公侯に封じられ、その他もそれぞれ封爵された。
06
鮮卑の薛勃は貳縣城に拠点を築いていたが、北魏軍の侵攻を受けたため、使者を派遣して興に救援を求めてきた。これに興は、姚崇を救援軍として派遣した。北魏軍が軍を返すと、勃は再び反旗を翻した。崇がこれを撃ち破り、勃を生け捕りにすると、士馬を鹵獲して帰還した。
07
興は庶母の孫氏を皇太后と追尊し、太廟に配饗した。
08
皇初三年(396、太元二十一年)の十二月、楊盛は仇池を保っていたが、東晉に使者を派遣して請命すると、使持節、鎮南將軍に任命され、仇池公に封じられた。同じ年、鮮卑の越質詰歸は戸二万を率いて、西秦の乞伏乾歸に反旗を翻して、興に帰順した。興は詰歸を成紀縣に配し、使持節、鎮西將軍、平襄公とした。
第五回更新
09
姚碩コが平涼の胡の金豹が守る洛城を攻撃して、これを陥落させた。これに先立って、上

の姜乳は同縣内に拠点を築いて、皇初三年(396、太元二十一年)に反旗を翻し、秦州刺史を自称した。しかし碩コの進攻を受けたため、乳は兵を引き連れて降服した。この功を以って、碩コは秦州牧、領護東羌校尉に任命され、上

を鎮するよう命じられた。乳は尚書として取り立てられた。強熙を始め略陽の豪族の權干城が、兵三万を率いて上

に包囲攻撃を仕掛けたが、碩コはこれを撃ち破った。熙は南の仇池へと敗走し、そのまま逃げ続け東晉へと亡命するに至った。碩コは西に布陣している干城に攻撃を仕掛け、干城は降服した。
10
興は郡國に令を発し、毎年一人、清行にして孝廉なる者を挙げるよう命じた。
第六回更新
11
西燕の慕容永は、既に建初九年(394、太元十九年)の八月、後燕の慕容垂によって滅ぼされていた。それ以後も、西燕から河東太守に任命されていた柳恭らは、それぞれが配されていた兵を指揮して守り続けていた。ここで興は、姚緒に討伐を命じた。恭らは河に沿って防衛線を引いたため、緒は渡河する事が出来なかった。鎮東將軍の薛彊は、これより先に楊氏壁に拠点を置いていたが、緒を渡河させるために龍門へと呼び込み、無事に渡河させた。緒軍は遂に蒲坂へと進入した。これによって恭軍の士氣はくじかれ、降服を請うた。新平、安定の新戸六千を蒲坂に移住させた。
第七回更新
12
皇初四年(397、隆安元年)の九月、興の母、つまり、太后の

氏が死去した。興の哀毀するさまは過禮であり、庶政を執る事も出来ないほどであった。群臣は議して、漢魏の故事に依って、葬儀が終わり次第、喪を明けるべきだと求めた。尚書郎の李嵩が上疏して
「
三王は制を異にし、五帝は禮を殊にしました。天下を孝治した事は、先王の高事です。ここは聖性に遵い、光道を以って訓とすべきです。既葬の後、素服にて臨朝し、天下に率先する事によって、仁孝の挙とすべきです。
」
と陳べたが、尹緯が
「
帝王の喪制は、漢魏に倣うべきです。嵩の意見は常を矯め禮を越えたものであり、軌度を愆またせるものです。有司に付して、専擅を論じる事を求めます。葬を終えたらば喪を除く、この前議に依る事を。
」
と反駁した。しかし興は
「
嵩は忠臣にして孝子であり、何の咎があるであろうか?尹僕射は先王の典を棄てて、漢魏の権制に遵えと言うが、それが朝賢の望む所であろうか!一切を嵩の議に依る事とした。
」
と言って、李嵩の上疏を採用した。
第八回更新
13
同月、鮮卑の薛勃が嶺北で反旗を翻すと、上郡、貳川の雜胡は全てこれに呼応し、安遠將軍の姚詳が守る金城を包囲した。そのため興は、姚崇、尹緯に兵を与えて討伐に向かわせた。勃が三交から金城へと向かってきたので、崇は營を並べて挟撃を加えた。しかし、兵糧の輸送が上手く続かなかったため、三軍の兵糧は底を突いてしまった。そこで緯は崇に
「
輔國將軍の彌姐高地、建節將軍の杜成は、どちらも諸部の豪であり、その位は三品に連なっています。輸送を督しているにもかかわらず、それを稽留させて、三軍をして乏絶せしめています。ここは刑書に照らして、以って職務怠慢を懲すべきでしょう。
」
と進言して、この二人を処刑した。これに諸部に激震が走り、租入した者は五十余万に上った。ここで興が自ら歩兵騎兵の二万を率いて討伐に乗り出し、これに勃は恐れおののき、軍を放棄して高平公の沒奕于の下へと逃げ込んだが、沒奕于は薛勃を捕えて護送した。
14

氏男の姚買得が、興が母の

氏の葬儀に出てきたところで、興を暗殺しようと企てた。これを密告してきた者がいたが、興は俄かに信じ難かった。そこで、李嵩を買得の下へと潜り込ませた。買得は嵩を信用して、暗殺の謀略を嵩に話した。嵩はここで買得の前から姿をくらまし、興にその全てを報告した。これで興も信じるしかなくなり、買得に死を賜すると共に、その党に与した者全てを誅殺した。
15
興は書を下して、百姓が錦繍を造る事と淫祀する事を禁じた。
第九回更新
16
興が兵を率いて湖城に進攻すると、東晉の弘農太守の陶仲山、華山太守の董邁は、興に降服した。そのまま陝城へと進み、上洛を陥落させるに至った。そして、姚崇に洛陽へと差し向けた。東晉の河南太守の夏侯宗之は金

の守りを固めた。崇はこの守りを撃ち破る事が出来なかったため、柏谷へと攻撃目標を変更して、これを陥落させている。流人で西河の嚴彦、河東の裴岐、韓襲ら二万余戸を引き連れて帰還した。
17
興は書を下して、士卒で戦死した者は、守宰に埋葬させる事とした。そして、その近親者を探し出させて、この後継に立たせた。
18
武都の

の屠飛、啖鐵らが隴東太守の姚迴を殺した。そして、三千余家から略奪を行うと、方山に拠点を構えて、興に対して叛乱を起こした。興は姚紹らに討伐を命じ、紹は飛と鐵の首級を挙げた。また、狄伯支に流人の曹會、牛壽の一万余戸を漢中に迎えに差し向けた。
第十回更新
19
興は政事に留心して、度量の広さを示すため、広く人材を求めていた。一言の善があれば、皆な厚く礼遇した。京兆の杜瑾、馮翊の吉默、始平の周寶が時事について論ずると、皆な美官に抜擢した。天水の姜龕、東平の淳于岐、馮翊の郭高は、いずれも耆儒にして碩徳、經に明るく品行方正であり、それぞれが門徒を数百を抱えており、長安にて教授させた。これによって、諸生が遠くからも至るようになり、その数は一万数千人に上った。興も聴政の暇を見つけては、龕らを東堂に呼んで、道藝について講論したり、名理を錯綜させたりした。涼州の胡辯は、苻堅の治世の末、東の洛陽へと移り、弟子千有余人に講義していた。關中の後進の多くがこれに赴き、教えを請うのであった。興は關尉に敕して
「
諸生が道藝の諮訪、諮gして修己しようとせんがために、往来出入があるであろうが、勿拘を常限(常規)とする。
」
とさせた。これによって、學者は皆なやる氣を起こし、儒風は盛んになった。給事黄門侍郎の古成

、中書侍郎の王尚、尚書郎の馬岱は、いずれも文章が雅正であったため、機密に携わる事となった。

の風韵は群を抜いていた。確然として群れる事を嫌い、天下の是非を図る事を己の任としていた。時に京兆の韋高が、阮籍(三國・魏)の人となりを尊敬して、母の喪にあって、琴を彈じ酒を飲んでいた。

はこれを聞くと涙声で
「
私が私刃を以ってこやつを斬ってくれん。風教を正すためにも。
」
と言うと、県を手に執って、韋高の所在を探し始めた。これが高の耳に達すると、恐れおののき、行方をくらました。そして、終生、

に見つからないように生きていった。
第十一回更新
20
皇初六年(399、隆安三年)の七月、興は鎮東將軍の楊佛嵩に洛陽を攻撃させた。十月、佛嵩は洛陽を陥落させた。
21
九月、郡國に命を発して、百姓で凶作によって奴婢と為らざるを得なかった者は、その全てを免じて良人に復帰させた。興は日月が薄蝕するなど、災禍が多く見られるようになると、降号して王を称する事とし、書を下して、群公や卿士、將牧から守宰に至るまで、それぞれ降一等とする事を伝えた。ここで、太尉で趙公の姚旻ら五十三人が上疏して
「
謹んで申し上げます。陛下の勲は皇天に格し、功は四海に響き渡り、威霊は殊域をも振わし、声教は遐方にまで及んでおります。成湯(殷・湯王)は殷の基を隆し、武王(春秋・周)が周の業を崇したと言いますが、喩うるに足りません。正に江呉を廓靖し、中岳に告成せんとする時に、どうして過ぎたる沖損を垂れて、皇天の眷命に違うべきでしょうか!
」
と諫めた。しかし興は
「
殷湯、夏禹の徳は百王に冠たるものであり、謙沖を順守していたが、未だ崇極に居す事は無かった。まして朕は寡昧であり、どうしてここにいる事が出来ようか!
」
と言って、取り合わなかった。そして、姚旻にこの事を社稷宗廟に報告させると、大赦を出し、皇初六年を以って弘始元年と改めた。そして、独り身の鰥寡には粟帛を下賜した。また、年七十以上の人には衣杖を加えた。始平太守の周班、槐里令の李

は、黷貨によって誅殺された。これによって郡國は肅然とした。洛陽が十月に陥落すると、淮漢以北の諸城の多くが、人質を送って帰順を申し出た。
22
興は書を下して、祖父母や昆弟で容隱していたとしても、それを赦した。姚緒、姚碩コは、興が降号した事から、王爵を外す事の許可を求めたが、興は許さなかった。
第十二回更新
23
京兆の韋華、

郡の夏侯軌、始平の

眺らが、襄陽の流人一万をまとめ上げて、東晉に対して反旗を翻し、興に帰順しようとした。興はこれらと東堂にて面会し、華に
「
晉が南遷して、承平して既に久しいが、今の政化や風俗はどうなっているか?
」
と問うた。これに韋華は
「
晉主は南面の尊に有ると言いましても、総御している実態はありません。宰輔が執政しているのが現状です。政治に関わる者は、多門から構成されるようになり、権力は公家の元から去って、遂にこれが習俗と成りました。刑網は峻急になり、風俗は奢宕となっています。桓温、謝安より以後は、未だ寛と猛の中庸が見られません。
」
と答えた。興はこれに大いにスび、韋華を中書令に任命した。
第十三回更新
24
興は河東に赴いた。時に姚緒が河東に鎮していたが、興は家人の禮を以って待した。書を下して、先朝の旧臣であった姚驢磑、趙惡地、王平、馬萬載、黄世の子を五等子男に封じた。また、百僚に命じて、殊才や異行の士を挙げさせると同時に、刑事政事に携わる者で、その用に足りない者がいたならば、全て排除させた。兵部郎で金城の邊熙が、軍令が煩苛であり、簡約にすべきではないかと上陳してきた。興はこれを覧じて喜び、孫呉の誓衆の法に依って、この損益を図るようにさせた。興は長安に律學を立て、郡縣の散吏を召集して、これを受けさせた。その中で通明な者は郡縣に戻して、刑獄を論決する任に当てた。州郡縣で採決する事の出来る者がいなかった場合は、廷尉にその決定を預けた。興は常に諮議堂に臨んで、疑獄の裁定に関与した。これによって、冤罪は無くなったと言われた。
第十四回更新
25
姚緒、姚碩コが頑なに王爵を外す事を求めていたため、これが許された。緒、碩コの威権は日に日に強まっていたため、興は姦佞や小人に沮惑されるのではないかと不安に思い、清正な君子を選んで二人の輔佐につけた。
26
興は司隸校尉の郭撫、扶風太守の強超、長安令の魚佩、槐里令の彭明、倉部郎の王年が清勤にして貞白であったため、書を下して褒美とし、邑一百戸を増させた。超には關内侯が賜爵され、佩らは進位一級とされた。
27
弘始二年(400、隆安四年)の五月、姚碩コに隴右の諸軍を率いさせて、西秦の乞伏乾歸を攻撃させた。七月、興が援軍として行動を察知されないように接近し、乾歸軍は敗走を開始した。部兵三万六千が降服し、鎧馬六万匹を鹵獲した。後秦軍の兵が略奪を働かなかったため、百姓はこれを迎え入れた。興は枹罕まで軍を進めると、王公以下に賜して、卒伍にも行き渡らせた。
28
興が西に出ている今、沒奕于はこの虚に乗じて安定を急襲しようと考えた。長史の皇甫序が思い止まるよう強く諫めたため、沒奕于は自らの失言に恥じ入り、序の暗殺を企てるようになった。
29
西秦の乞伏乾歸は身の危険を感じて、後秦に亡命してきた。十一月、長安に至ると、興は乾歸を鎮遠將軍、河州刺史、歸義侯とし、部兵はそのまま乾歸の下に戻した。
30
興は書を下して、將帥で大喪に遭ったもので、疆

ないし嶮要の所にいない者は、全てに対して葬儀に向かう事を許可した。そして期を終え次第、王役に戻るようにさせた。従軍中に喪に遭った場合は、百日の服喪休暇を与えた。邊將で家に大変があった場合でも、交代の者が至る前に去った者は、勝手に官を去ったとして、これを罪とした。東晉の將軍であった劉嵩ら二百三十七人を解放して、建

へと帰還させた。
第十五回更新
31
弘始三年(401、隆安五年)の十二月、北魏が五万の大軍を発して、沒奕于の守る高平に侵攻を開始した。弘始四年(402、元興元年)の二月、北魏軍がその姿を見せると、沒奕于は軍を放棄して、数千騎を率いて赫連勃勃と共に秦州へと落ち延びようとした。これによって北魏軍が瓦亭まで軍を進めてきたため、長安は大騒動となり、諸城は閉門して固守する構えを見せた。沒奕于に及ばず取り逃したため、北魏軍はここで軍を返したが、それとは別に北魏の平陽太守の貳塵が河東に侵入してきた。そのため興は、練兵講武して、城西で閲兵を行うと、幹勇壯異の者を殿中に召入した。群臣を東堂に呼んで、北魏討伐の大議を起こした。群臣は皆な行うべきではないと諫めたが、興は耳を貸さなかった。ここで司隸の姚顯が
「
陛下は天下の鎮であり、親行すべきではありません。ここは諸將に分討させ、廟勝の策を授けるべきです。
」
と進言すると、興は
「
王たる者は、正に土を廓げ乱を靖んじる事を以って務めとするものであろう。私がどうしてこれを辞退せようか!
」
と返した。
32
興は子の姚泓を皇太子に立て、境内に大赦を出し、男子で父の後継に立った者には爵一級を賜した。
第十六回更新
33
五月、姚平、狄伯支に歩兵騎兵の四万を与えて、北魏の討伐に差し向けた。姚碩コ、姚穆には歩兵騎兵の六万を与えて、呂隆の討伐に向かわせた。平が河東まで進軍した時、興は光遠將軍の党娥、立節將軍の雷星、建忠將軍の王多らに、杏城を始め嶺北の突騎を率いて、和寧から援軍に掛け付けるように命じた。越騎校尉の唐小方、積弩將軍の姚良國には、關中の勁卒を率いて平軍の後続に付くよう命じた。姚緒には河東の出陣可能な全兵を率いさせて前軍節度に任じ、姚紹には洛東の兵を、姚詳には朔方の騎兵を率いさせて、平望で集結させた後、興軍に合流するよう命じた。沒奕于には上

を、中軍將軍で廣陵公の姚歛には洛陽を権鎮させ、姚顯と尚書令の姚晃を補佐として、太子の姚泓に長安を任せた。泓はすぐさま西宮に入った。
第十七回更新
34
碩コが姑臧に進軍し、呂隆軍と干戈を交えると、俘斬一万を数える大勝を挙げた。隆の將の呂他らは兵二万五千を引き連れて、東苑から降服してきた。これに先立って、禿髮利鹿孤が西平に、沮渠蒙遜が張掖に、李玄盛が敦煌に拠点を築いて、隆と相対峙していたが、ここに至って、それぞれ隆に使者を立てた。
35
興は戎兵四万七千を率いて、長安を発して姚平の後続に付いた。平は攻北魏の乾城に攻撃を仕掛けること六十余日、これを陥落させた。柴壁に拠点を築いた。七月に北魏から救援の大軍が差し向けられ、八月、平軍に攻撃を仕掛けてきた。平は汾水を分断して、これに備えた。北魏軍は興が蒲坂まで来ていると知ると、この動きに警戒するあまり進む事が出来なくなった。
36
時に姚碩コが呂隆を攻撃していたが、夷夏を撫納して、守宰を分置、兵糧を節約しつつ粟を積み増すなどして、持久戦の用意を着々と進めていた。隆はこれ以上長引いては持ち堪えられないと、遂に降服を決意した。碩コが軍を整然と統率したおかげ、秋の収穫を荒らす者は出なかった。また、先賢を祭り、儒哲を禮したため、西土の人民は、これをスんで迎え入れた。
37
十月、姚平軍は兵糧も矢も盡きてしまった。そのため、麾下三十騎を引き連れて汾水に赴くと、その身を投じた。狄伯支ら十將四万余人は、全て北魏に捕えられた。興は書を下して、軍士で戦没した者に、厚く褒贈を加えた。北魏軍はこの勝利の乗じて、蒲坂へと侵攻してきた。姚緒は固守して戦おうとしなかった。北魏はここで軍を返した。
38
興は河西の豪右一万余戸を、長安に移住させた。
第十八回更新
39
東晉の輔國將軍の袁虔之、寧朔將軍の劉壽、冠軍將軍の高長慶、龍驤將軍の郭恭らは、桓玄から離反した。北魏への亡命を図り、追っ手を攪乱させるために、他の者と分かれて、興の下へと亡命する事にした。十二月、興は東堂でこれらと面会すると、虔之らに対して
「
桓玄は晉臣として名高いが、その実は晉賊であろう。さて、その才度は父(桓温)に及ぶものか?大事を成し得うるや否や?
」
と問うた。これに袁虔之が
「
玄は世資を頼みに、荊楚に雄拠しました。晉朝の失政に乗じて、遂に宰衡をする偸盗に至りました。その性質は安忍無親であり、多くの忌する者を殺しています。位は才ならざる者に授けられ、爵は己の愛を以って加えるなど、公平の度など全く見られず、その父に遠く及びもしません。今、既に朝権を握るに至っており、必ずや弑奪を行います。我らは命世の才に非ざれば、他人に駆除を頼む事しか出来ません。これは天が機を陛下にお授けになられたのです。願わくは、速やかに経略をお立てになられて、呉楚を廓清されます事を。
」
と答えると、興は大いにスび、袁虔之を大司農に任命し、他もそれぞれ任命する事とした。しかし、虔之がこれを固辞して、疆

の任を求めたため、假節、寧南將軍、廣州刺史に改授された。
40
興は昭儀の張氏を皇后に立て、子の姚懿、姚弼、姚洸、姚宣、姚ェ、姚

、姚璞、姚質、姚逵、姚裕、姚國兒を公に封じた。大鴻臚の梁斐を使者に立て、新平の張構をその副使として、禿髮

檀を車騎將軍、廣武公に、沮渠蒙遜を鎮西將軍、沙州刺史、西海侯に、李玄盛を安西將軍、高昌侯とする旨を伝えさせた。
第十九回更新
41
興は鎮遠將軍の趙曜に兵二万を与えて、西の金城に配置すると、建節將軍の王松

に騎兵を与えて、呂隆が守る姑臧の加勢に向かわせた。松

が魏安に至った時、禿髮

檀の弟の禿髮文真によって包囲されてしまった。松

の部隊は打ちのめされ、松

は生け捕られて、

檀の下へと送られてしまった。これに

檀は大激怒し、松

を長安へと送り届けると共に、全て文真の罪であるとして、深く陳謝した。
42
興は書を下して、馬嵬の戦いの時の將吏を記録させ、全員を抜擢した。そして、堡戸を夫役、租税を二十年に渡って免除する事とした。興は倹約志向の性格で、車馬に金玉の飾を付ける事をせず、これによって自ら下を化す事を心掛け、清素の者を敦尚しない事は無かった。しかし、游田を趣味としていたため、著しく農を害していた。京兆の杜

は、僕射の齊難が匡輔の益を持っていないとして、「豐草詩」を作してこれを箴し、馮翊の相雲は「コ獵賦」を作して諷刺した。興がこのどちらも見ると、これを称賛して、金帛を下賜した。それでも、終ぞ游田が改まる事は無かった。
第二十回更新
43
東晉の順陽太守の彭泉が、郡ごと興に帰順した。これを受けて興は、楊佛嵩に騎兵五千を与えて、荊州刺史の趙曜と共に泉を迎えに差し向けた。そのまま南郷を陥落させ、東晉の建威將軍の劉嵩を捕えると、略地しつつ梁國に至った所で軍を返した。また、弘始五年(403、元興二年)の七月、兼散騎常侍の席確に涼州を詣でさせ、呂隆の弟の呂超を入侍させるよう求め、隆はこれに同意した。この時に、呂隆は禿髮

檀に逼迫されるのではないかと不安になっていたため、上表して内徙させてくれるよう請願してきた。これを受けて興は、齊難を始めとして、鎮西將軍の姚詰、鎮遠將軍の乞伏乾歸、鎮遠將軍の趙曜らに歩兵騎兵の四万を与えて、隆を迎えに河西へと差し向けた。八月、難が姑臧に至ると、司馬の王尚に涼州刺史の任を代行させ、兵三千を配して姑臧に鎮させると、將軍の閻松を倉松太守に、郭將を番禾太守に任命して、二城を分戍させた上で、隆を始め宗室の僚属を長安に移住させた。沮渠蒙遜は情勢を読んで、弟の沮渠

に方物を持たせて朝貢させた。尚は涼州刺史の職務を全うすべく、人民を綏撫して、導くに信義を以ってしたため、百姓はその恵化に惹かれて、翕然としてその下に集った。北部の鮮卑も、皆な使者を派遣して貢款した。
第二十一回更新
44
東晉の桓玄が、使者を派遣して来聘すると、辛恭靖、何澹之の引き渡しを求めた。これに興は、恭靖は留めて、澹之を引き渡した。これに際して
「
桓玄は暦運を推計せず、簒逆を図ろうとしているが、天は未だ晉を忘れておらず、必ずや義挙が起こるであろう。しかし、私がこれを見るに、終に傾覆が来たと思っている。卿は今、馳往しようとしているが、行けばその敗に逢うであろうな。相い見みゆるの期は、遅くとも遠からじと言えよう。
」
と言った。皇初六年(399、隆安三年)の十月、洛陽が陥落した際に捕えられていた辛恭靖が、長安に護送されて、興の前に連行された時に、興に対して拜さなかった。これに興は
「
朕は卿に東南の事を任せようと思っている。
」
と言ったが、辛恭靖は
「
俺は寧ろ國家の鬼となろうぞ。羌賊の臣などなれるか。
」
と痛罵した。興はこれに怒り、別室に幽閉していた。ここに至って、辛恭靖も城垣を越えて逃走を図った。
第二十二回更新
45
興は姚碩コ、姚斂成、姚壽都に兵三万を与えて、仇池の楊盛を討伐させた。壽都らは宕昌から進入し、斂成は下辯から進軍した。盛は弟の楊壽に斂成軍を、從子の楊斌に壽都軍を食い止めさせようとした。壽都は逆襲を食らわせて、斌を生け捕りにし、残兵を盡く捕虜とした。壽らは恐れおののき、兵を引き連れて降服を願い出た。碩コは軍を返した。
46
東晉の汝南太守の趙策は、守りを放棄して興の下へと走った。
第二十三回更新
47
興は逍遙園へと向かうと、諸沙門を澄玄堂に呼び入れて、鳩摩羅什の佛經に関する演説を聴講した。羅什は夏言に通じており、一たび旧經に目を通しただけで、多くの乖謬を見つけて、胡本と対応していない事を指摘した。そこで興は、羅什を始めとして、沙門の僧略、僧遷、道樹、僧叡、道坦、僧肇、曇順ら八百余人と、更に大品を出し、羅什は胡本を持ってきて、興は旧經を手にして、互いに考校を加えた。その新文で旧文と異なる部分が出てきた場合は、全員で理義を合わせた。諸經と諸論の合わせて三百余卷が成立した。今の新經は、全て羅什が譯した物である。興は既に佛道に帰依していたが、ここに至って、公卿以下で欽附しない者は無かった。沙門では、遠くらか至った者は五千余人を数えた。起仏塔を永貴里に、波若臺を中宮に建てると、沙門で坐禪する者が、常に千数百を数えていた。州郡もこれに感化され、佛に帰依する者が十室中九室に上った。
第二十四回更新
48
弘始七年(405、義熙元年)の六月、姚碩コを始め、冠軍將軍の徐洛生らに仇池の討伐を命じ、建武將軍の趙

を宕昌から進軍させ、斂倶には漢中を攻撃させた。
49
時に劉裕は桓玄を誅殺して、安帝を迎えていた。これによって玄衞將軍で新安王の桓謙、臨原王の桓怡、雍州刺史の桓蔚、左衞將軍の桓謐、將軍の何澹之らは、興の下へと亡命してきていた。七月、裕は大參軍の衡凱之に姚顯を詣でさせ、通和を求めてきた。顯は吉默を使者に立てて、これを認める返答をした。これ以後、聘使の往来が絶える事は無かった。東晉は南郷の諸郡を返還するように求めると、興はこれを容認する事とした。これに群臣は皆な、要求を呑んではいけないと諫めたが、興は
「
天下の善の一つだ。劉裕は微位より身を起こして抜擢され、晉室を匡輔するに至っている。私が数郡を惜しむ事によって、その美を成させないでいられようか!
」
と言って取り合わず、南郷、順陽、新野、舞陰などの十二郡を東晉に返還した。
50
姚碩コは楊盛との戦いを、優勢に運んでいた。盛は勝てない事を悟り、降服を願い出る事にした。その保証として、子の楊難當を始めとして、僚佐の子弟の数十人を人質として送った。碩コはこれを受けて、軍を返した。盛は使持節、散騎常侍、都督益寧州諸軍事、征南大將軍、開府、益州牧、武都侯とされている。この前月に、斂倶は成固縣を陥落させ、漢中の流人の郭陶ら三千余家を關中に移住させている。
第二十五回更新
51
興は境内を始め朝廷内の文武官に告げ、名声を挙げたとしても、叔父の姚緒と姚碩コの名声を超えた評価はしないものの、殊禮を彰するとした。興は謙恭にして孝友であり、緒と碩コに会う時はいつも、家人の禮を以ってしていた。服を整え傾悚して、呼ぶ時は字で呼び、車馬や服玩に関しては、必ず二叔を先にして、然る後にその次に服させた。朝廷の大政は、必ず二人に諮問してから実行に移された。
52
太史令の郭

が興に
「
戌亥の歳、孤寇が西北より起きると出ました。その鋒を慎しまれた方が宜しいかと。起きる兵は流沙の如く、戦死した者は乱麻の如く、戎馬は悠々と隴頭で合流し、鮮卑や烏丸は不安に陥り、國朝は奔命して疲弊するでしょう。
」
と言った。時にあちらこちらで泉水が涌き出で、これを飲むと病気が癒えると言う噂が立った。しかし、後に全く効果が無い事が判明した。また、神女と称する妖人が出て来る事があったが、これを死罪に処した。
53
興は大規模な閲兵のために、杜郵から羊牧へと至った。弘始八年(406、義熙二年)の六月、興は姚碩コから至ると、境内に大赦を出した。そして、その碩コが秦州に帰る時に、興は雍まで見送った。
第二十六回更新
54
禿髮

檀が馬三千匹、羊三万頭を献上した。興はこれを自分に対する忠の表れとして、

檀を涼州刺史に任命した。涼州刺史の王尚を長安に召還している。涼州人の申屠英ら二百余人が、主簿の胡威を代表者に立てて興を詣でさせ、尚を留任させるよう請願した。しかし、興はこれを認めなかった。威は興との面会を果たすと、流涕しながら興に
「
我らが州が奉國して五年経ちましたが、王威は接しておらず、胆を銜して冰に棲み、孤城を独守せざるを得ない状態です。仰しては陛下の威靈を恃みとし、俯しては良牧の化を仗みとしています。なのに、急に天人が心変わりをされて、華土を以って狄に資すると言うではないですか。仮に

檀の才望が時に求められるものであったとしたらば、我らは何も言わなかったでしょう。しかし、聞き及びましたところでは、我らから買った馬三千匹、羊三万口を献上した結果と言う話です。これが事実であったとしたらば、人を棄して畜を貴としたと言わねばなりません。もし馬を軍國に供せよというのであれば、直に尚書から一符を頂ければ、三千余家戸から一匹を供出させて、朝に下されれば夕には用意が出来ます。何故に一方をあの姦胡に委ねられるのですか!その昔、漢武(前漢・武帝)は天下の資を傾けて、河西を開拓する事によって、諸戎を隔絶させる事に成功し、遂に匈奴の右臂を断ちました。これによって、終に大宛王毋寡を屠る事を成し得ました。今、陛下は玉門に布政し、西域を流化されようとしているのに、どうして五郡の地を以って、これを


に資しようと言うのですか。忠誠たる華族を虐虜に棄てようと言うのですか!ただ我が州里を塗炭に墜すだけでなく、恐らくは聖朝

食の憂となりましょう。
」
と語った。これを受けた興は、西平人の車普を王尚の下へと差し向け、留まるよう伝えさせた。また、禿髮

檀にも使者を派遣して、事の次第を告げさせた。この時、

檀は既に姑臧まで至っており、普はそこで報告した。

檀はこのままでは、せっかくの領地を失う事になりかねないため、王尚にすぐに出発するよう急き立て、姑臧に入る事に成功した。
第二十七回更新〜第三十回更新
55
王尚が長安に到着した時、呂氏の宮人を秘匿したこと、逃人の薄禾らを勝手に殺した事を罪として、南臺に拘禁されてしまった。これを知った涼州別駕の宗敞、治中の張穆、主簿の邊憲、胡威が上疏して尚の理を
「
我が州は荒裔であり、隣は寇讐に囲まれており、居泰しようにも垂拱の安は無く、運否は傾覆の難に離されています。張氏が頽基してより、徳風は途絶えてしまい、扇いでも吹く事はありませんでした。呂氏の命数が盡きようとした時、梟鶚がこれを機に翻々としました。群生(人民)は罔極の痛に、西夏は焚如の禍に見舞われていたのです。そこに幸いに、皇鑒が降眷され、純風が遠くにまで及んできました。刺史の王尚は垂滅の州に任を受けてより、策は難全の際に応ずるものであり、自ら下を率いて、倹約を実行し、労逸や豊約は、皆なと同じくしていました。また、農桑を励行した事によって、廃業は無くなりました。然る後、王威を振るって不庭を掃い、天波を迴して氛穢を蕩しました。これによって群逆は冰摧されて、朱陽の曜を待つ事はありませんでした。秋霜が隕

するように、勁風の威を待つ事もありませんでした。どうして定遠(後漢・班超)を足高とし、營平(前漢・趙充國)を独美としましょうか!経が始まってから、朝廷が改授を計画し、使希世之功を、必ず成るものを成さしめようとされません。これを失うは易く、これを実践するには機があるのに展させません。その時に当たって、その事を分かっている者は、誰が慨然しない事がありましょうか!
56
既に遐方に遠役して、外にて劬労して、功績が未だ酬恩されずとも、公務にあって怠る事はありませんでした。京師に至ってより、今で二旬になりますが、出車の命は及ばず、萋斐の責がここまで深いとは。呂氏の宮人の裴氏を匿ったこと、及び逃人の薄禾らを殺害した事により、南臺に禁されていますが、天が玄鏡を鑒すれば、すぐに囹圄を免じられ、譏繩の文は、未だ簡墨を離さないでしょう。裴氏の年は、知命(五十歳)になろうとしていて、首髮が二毛(黒毛、白毛)であり、本家に

居しています。つまり尚の室にはおらず、年は邁にして姿の陋なれば、送るに及ばないでしょう!辺藩は守備が求められ、衆力は是れに寄っており、禾らは逃亡を図ったのであり、その罪は憲墨に当たるものであり、殺を以って殺を止むるは、安辺の義と言わねばなりません。裴氏を送らなかった事が罪といいますが、奚官の一女子が減ったに過ぎません。勲を論じれば、則ち功の重であり、瑕を言すれば、則ち過ちは微です。法を司る者が毛を吹いてまで疵を求め、労を忘れて過を記していては、先哲が当年に泣血するでしょう。微臣も天を仰いで洒涙するところです。
57
また、尚の奉國は、二朝に渡っています。能なるか否なるかは、既往を照らせば分かる事であり、優なるか劣なるなるかは、聖心が判断されれば宜しいでしょう。微過は有ったにしろ、その功は補うに余りあるものであり、ここは罔極の施を広げて、覆載の恩を彰すべきではないでしょうか。
58
我らは西州に生まれ、翰飛する翼もありません。久しく偽政に沈められ、進趣の途も絶たれていました。しかし、皇化で既に沾うに及び、投竿の心が深くより沸き起こり、遂に策名委質する事によって、位は吏端を忝くするに至りました。主の辱は臣の憂であり、故に繭を重ねて款を披すのです。陛下がこれを悟られますように。
」
と陳べた。興はこれを覧じて大いにスび、黄門侍郎の姚文祖に
「
卿は宗敞と言う者を知っているか?
」
と尋ねた。これに姚文祖は
「
この文祖と州里を同じくし、西方の英雋であります。
」
と答えた。すると興は
「
王尚に理があると言うこの表は、文義が甚だ佳であった。王尚について再考すべきかもしれんな。
」
と言うと、姚文祖が
「
尚は南臺におり、賓客との交通を禁止されています。敞は楊桓の下にいたのであって、尚については明るくないと思われますが。
」
と疑問を呈した。この言葉を聞いて興は
「
そうであれば、桓とはどうであるか?
」
と問うた。これに姚文祖は
「
西方の評では、敞は甚だ重なるものとされ、楊桓より勝っております。敞はその昔、呂超と周旋していたと言う事ですので、陛下、試しに下問されてはいかがでしょうか。
」
と呂超に尋ねる事を勧めると、興は呂超を呼び出して
「
宗敞の文才はどれくらいだ?誰に類するか?
」
と尋ねた。これに呂超は
「
敞は西土にあって、その時論は甚だ美でした。敞は魏(三國・魏)であれば陳(陳琳)、徐(徐幹か)、晉(西晉)であれば潘(潘岳)、陸(陸機)と言えます。
」
と答えた。これを聞いた興は、表を呂超に示して
「
涼州は小地であるが、このような才がいると言うのか?
」
と尋ねた。これに呂超は
「
この超の知る敞の余文とこれを比べますと、物足りない感じがします。琳琅は崑嶺より産出し、明珠は海濱で採取されます。地を以って人が求められるのであれば、文命は大夏の棄夫、姫昌(文王)は東夷の擯士に過ぎなかったでしょう。ただご下問である文彩の何如については、区宇を以って格物すべきではないかと存じます。
」
と答えた。これに興はスび、王尚の罪を赦すると共に、尚書に任命した。
2011/05/14 終了
姚興下へ
『晉書』「載記」 姚興上 - 2975〜2988 -
第一回更新 開始 残り57段 全58段 2011/04/16
第二回更新 更新 残り55段
第三回更新 更新 残り54段
第四回更新 更新 残り50段
第五回更新 更新 残り48段 2011/04/22
第六回更新 更新 残り47段
第七回更新 更新 残り46段
第八回更新 更新 残り43段
第九回更新 更新 残り40段
第十回更新 更新 残り39段
第十一回更新 更新 残り36段 2011/05/02
第十二回更新 更新 残り35段
第十三回更新 更新 残り34段
第十四回更新 更新 残り28段
第十五回更新 更新 残り26段
第十六回更新 更新 残り25段
第十七回更新 更新 残り20段
第十八回更新 更新 残り18段
第十九回更新 更新 残り16段
第二十回更新 更新 残り15段
第二十一回更新 更新 残り14段 2011/05/09
第二十二回更新 更新 残り12段
第二十三回更新 更新 残り11段
第二十四回更新 更新 残り08段
第二十五回更新 更新 残り05段
第二十六回更新 更新 残り04段
第二十七回更新 更新 残り03段 2011/05/14
第二十八回更新 更新 残り02段
第二十九回更新 更新 残り01段
第三十回更新 終了 2011/05/14
2011/05/14 終了。