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最終更新 2011/06/18



姚  興




姚興上へ


2011/05/21 開始

01

 弘始九年(407、義熙三年)の四月、平北將軍、梁州督護の苻宣が漢中に侵入してきた。これに梁州別駕の呂營、漢中の徐逸、席難が挙兵して宣に呼応すると、苻宣を差し向けた楊盛に救援を請うた。盛はこれを受けて、援軍を派遣して口に布陣させた。南梁州刺史の王敏は武興まで退き下がる事を余儀無くされた。これによって楊盛は、桓玄の乱によって途絶えていた、東晉との使者の往来を復活させる事が出来た。


第二回更新

02

 六月、興は太子の姚泓を録尚書事に任命した。

03

 南燕の慕容超の下から、司徒で北地王の慕容鍾、右僕射で濟陽王の慕容嶷、高都公の慕容始が、身の危険を感じて、後秦の姚興の下に亡命してきた。

04

 華山郡で地面から沸騰した水が噴出し、その広さは百余歩にも及んだ。生物は皆な焼け爛れた。五ヵ月後になって、ようやく治まった。

05

 前月の五月、赫連勃勃が高平公の沒奕于を殺害すると、その兵を取り込み、この月に大夏天王と自称して自立を図った。夏である。

06

 これより以前、北魏主の拓跋珪が馬千匹を送り届け、興に婚姻を求めてきたため、興はこれを受け入れた。しかし、弘始二年(400、隆安四年)の三月、北魏が別に慕容氏を皇后を立てたため、この話は破談になった。これが原因となって、柴壁の戰が勃発したのである。前月の五月、北魏との通和が復活した。これによって、北魏は柴壁の戰で捕虜としていた狄伯支、姚伯禽、唐小方、姚良國、康宦を長安へと帰還させた。伯支らは、元の爵位に復帰した。

07

 禿髮檀と沮渠蒙遜の抗争が活発化していたが、檀は遂に東から河州刺史で西羌の彭奚念を、自らの勢力に取り込むべく、誘いを掛けてきた。奚念はこれに応じて、十月、河に防衛線を引いて、後秦に反旗を翻して檀に帰順した。

08

 弘始十年(408、義熙四年)の五月、蜀の縱が使者を派遣してきて、称藩する事を申し出てきた。そして、桓謙を指名して、流れに沿って東の劉裕を共に撃つ事の許可を求めた。興は謙の意見を求めると、謙が行く事を求めたので、これを許可した。


第三回更新

09

 中軍將軍の姚弼、後軍將軍の姚斂成、鎮遠將軍の乞伏乾歸に、歩兵騎兵の三万を与えて禿髮檀の、左僕射の齊難らに騎兵二万を与えて赫連勃勃の討伐に向かわせた。これに吏部尚書の尹昭が


 檀は遠い事を頼みにしており、ですから軽々に違逆しているのです。ここは、蒙遜と李玄盛に詔を下して、攻撃させるのが宜しいかと。その斃を待って、然る後にこれを取る。これこそ、卞莊(春秋・魯)の挙と言えましょう。


と諫めたが、興はこれを聞き入れなかった。赫連勃勃がこの動きを聞きつけると、河曲へと退いて守りを固めた。姚弼が金城から渡河し終えると、弼麾下の部將の姜紀が弼に


 今、王師は勃勃の討伐に乗り出したと触れ回っており、そのため檀はこれを判断しかねて、守りを強めておりません。願わくは、軽騎兵五千をお与えください。奴らの城門に急襲を掛けててご覧に入れましょう。さすれば、山沢の人は皆な我らが物となり、孤城に孤立無援の状態に陥るでしょう。後は造作も無く勝てましょう。


と進言したが、姚弼は耳を貸さなかった。昌松を陥落させると、長駆して姑臧に至った。禿髮檀は城を固守しつつ、奇兵で弼軍に奇襲を仕掛けた。不意を突かれた弼軍は敗れ、西苑まで退却させられた。七月、衞大將軍の姚顯に騎兵二万を与えて、諸軍の後続に付かせた。高平に至った所で、弼軍敗北の報がもたらされると、兼道で赴く事にした。そして、河外を撫慰して、兵を引き連れて帰った。檀は徐宿を使者に立てて興を詣でさせ、罪を謝した。

10

 齊難は赫連勃勃に捕えられていた。先の話になるが、弘始十一年(409、義熙五年)の正月に、興は平北將軍の姚沖、征虜將軍の狄伯支、輔國將軍の斂曼嵬、鎮東將軍の楊佛嵩に騎兵四万を与えて、勃勃の討伐に差し向けている。沖は嶺北まで軍を進めた時、欲ここから軍を返して長安に奇襲を掛ける事を謀ったが、伯支がこれに從わなかったため、思い止まった。しかし、この謀略が漏れる事を恐れて、伯支を鴆殺した。


第四回更新

11

 話は戻って七月、東晉軍が縱討伐軍を差し向け、これを大いに撃ち破った。そのため縱は、興に使者を派遣して救援を要請した。興はこれを受けて、平西將軍の姚賞、南梁州刺史の王敏に兵二万を与えて、救援として派遣した。東晉軍は攻め切れず、戦闘が長期化したために軍を返した。縱は使者を派遣して、救援のお礼として方物を献上した。弘始十一年(409、義熙五年)の正月、興は兼司徒の韋華に節を持たせて派遣し、縱を策拜して大都督、相國、蜀王とすると共に、九錫を加えた。備物典策の一切は、魏晉の故事に依拠したものであり、承制や封拜は全て王者の儀に則ったものである。

12

 二月、興が平涼から朝那に赴いた時、姚沖が叛乱を起こそうとしていたとの報がもたらされた。沖は弟の中で最も年下であったが、その雄武さは並ぶ者がないほどであり、これを今回は目を瞑って、不問に附そうとした。しかし、姚斂成が涙ながらに興に


 沖は凶険にして不仁であり、いつも左右に侍して参りましたが、私は寝る時でも席に安んじられた事はありませんでした。願わくは早く処断される事を。


と訴えたため、興は


 おのれ沖めが、何と言うことをしてくれていたか!軽々に名將を害そうとしたのか。私がその罪を四海に明らかにしてくれん。


と言って、書を下して姚沖に死を賜すと、庶人の禮で葬儀を行わせた。

13

 東晉の河間王の子である司馬國、章武王の子である司馬叔道が亡命してきた。興は二人に向かって


 劉裕が晉室を匡復したと言うのに、卿らは何故に来たのだ?


と問うた。これに司馬國

 裕は不逞の徒と共に、王室を削弱しようとしております。宗門で自修して立つ事ができそうな者で、殺されなかった者はいません。今、ここにいるのは、この難を避けるためであり、実に誠款によるものではありません。死を避けんがためでしかありません。


と答えた。興はこの答えに満足し、司馬國を建義將軍、揚州刺史に、司馬叔道を平南將軍、州刺史に任命すると共に、甲第を下賜した。


第五回更新

14

 九月、興は貳縣城に赴いて、赫連勃勃の討伐に乗り出した。そこで、安遠將軍の姚詳を始め斂曼嵬、鎮軍將軍の彭白狼に兵糧輸送の管理を分担させた。諸軍が集結する前に、勃勃が騎兵で編成された大軍を率いて、奇襲を仕掛けてきた。興は歩兵軍を留めて、自らは曼嵬の營に逃げ込もうとした。これを知った兵は、皆な惶懼に陥った。そのため群臣は、思い止まるよう強く求めたが、興は聞き入れなかった。尚書郎の韋宗は興に阿って、興に行くよう勧めた。蘭臺侍御史の姜楞が、越次ながらも進み出て


 韋宗は傾険の不忠者であり、國計を沮敗しようとしています。真っ先に腰斬に処して、以って天下に謝すべきです。もし車駕が濫りに動いたとなれば、六軍は駭懼してしまい、人は守志する事が出来なくなってしまいます。取危の道と言わねばなりません。ここは、すぐにでも單使を発して、詳らを呼び寄せるのです。


と反論した。興は默然としてしまった。右僕射の韋華らが


 車騎を軽々しく動かす事は、戦わずして自潰する道です。曼嵬の營も至るかどうか分かりません。陛下、ご決断を。


と諫めた。これを受けて興は、左將軍の姚文宗に禁兵を与えて、赫連勃勃を迎え撃たせた。中壘將軍の齊莫に兵を与えて、文宗軍の後続に付かせた。文宗も莫も、勇果に置いては人に倍するものがあり、死力を尽くして戦った。勃勃は退却した。禁兵五千を姚詳に配して貳城の守りを預けると、興は長安へと帰還した。

15

 縱は侍中の良、太常の楊軌を派遣し、興との謁見を求めた。その席上、大軍を挙げて江東の討伐に乗り出すよう求めた。縱は荊州刺史の桓謙、梁州刺史の道福に兵二万を与えて、東の江陵を攻撃させた。興も前將軍の苟林に騎兵を与えて、これに合流させた。謙は枝江まで、林は江津まで軍を進めた。謙は江左の貴族であり、その部曲は荊楚の出身の者で構成されていた。そのため、東晉の將士の多くが、叛心を抱くようになっていた。これに気づいた荊州刺史の劉道規は、大いに恐れおののき、城を固守した。雍州刺史の魯宗之が、襄陽の兵を率いて救援に駆けつけた。そこで道規は、宗之を留めて江陵の守りを任せると、自らは軍を率いて迎撃に出た。謙の舟軍は大軍で編成されており、あわせて歩兵と騎兵を陸に布陣して、これを待ち受けた。枝江で両軍は激突したが、謙軍は撃ち破られた。謙は軽舸に乗り込んで、林軍に逃げ込もうとしたが、道規軍に追いつかれ、捕えられ首を刎ねられた。苟林は恐怖に駆られ、退却してしまった。


第六回更新

16

 興は國の財政が悪化したため、關津税を増税すると共に、新たに塩や竹、山木にも税を課す事にした。群臣は皆な反対した。


 天が殖した品物は、群生(人民)を養うための物です。王たる者は万邦を子育するものです。ここは節約すべきであって、その利を奪ってはなりません


と説いた。しかし興は


 關梁を踰して山水から利を得ているのは、皆な豪富の家である。我らはその余剰から取って、不足を補おうというのだ。どこに不可とするところがあろうか!


と言って取り合わず、遂にこれを断行した。.

17

 興は朝門から出て文武苑に向かい、日が落ちてから帰ってきた。この時、平朔門から入ろうとした。前駆が至った時、城門校尉の王滿聰は、甲を纏って杖を持っていたが、門を閉じてこれを遮ると


 今、既に昏闇となっており、姦なるか良なるか見分ける事が出来ない。死しても、門は開く事は出来ない。


と言った。興は馬を回して、朝門から入った。翌朝、王滿聰を召し出して、進位二等とした。

18

 乞伏乾歸は、七月、反旗を翻して王号を復活させた。西秦の復國である。その乾歸によって、弘始十二年(410、義熙六年)の三月、金城が攻め落とされ、金城太守の任蘭が捕らえられてしまった。蘭は怒気を滲ませた表情で、乾歸の背恩違義を責め立てた。乾歸はこれに怒り、蘭を収監させた。蘭は差し出された何物も口にせず、遂に餓死した。


第七回更新

19

 夏の赫連勃勃は、麾下の胡の金纂に一万余の騎兵を与えて、平涼に侵攻させた。興は貳城に赴くと、平涼の救援へと駆けつけた。纂軍を潰滅させると、纂を生け捕りにした。勃勃は兄子の赫連提に定陽を攻撃させた。提は定陽を攻め落とすと、北中郎將の姚廣都を捕えた。曹熾、曹雲、王肆佛らは、それぞれ数千戸を引き連れ、勃勃を避けるために内徙してきた。興は肆佛を湟山澤に、熾と雲を陳倉に置いた。勃勃が隴右に侵攻を開始し、白崖堡を撃ち破って、遂に清水まで達した。略陽太守の姚壽都は城の守りを放棄して、秦州へと逃亡を図った。勃勃は人民を引き連れて、軍を返した。興が安定から追撃を掛けたが、壽渠川に至っても追いつけなかったため、ここで諦めて引き返した。

20

 天水人の姜紀は、呂氏の叛臣で、阿諂姦詐に長じており、人の親戚に取り入る事が得意であった。興の子の姚弼は興から寵されていたが、そのため紀は、遂に傾心して弼に附いた。弼は時に雍州刺史であり、安定を鎮していたが、紀は還朝するよう弼に持ち掛けた。そのために、常山公の姚顯と結び付かせ、その側近と党を結ばせていた。弘始十三年(411、義熙七年)の正月、弼を尚書令、侍中、大將軍として召還した。既に將相に居した弼は、襟を正して人と接した事によって、朝士との結び付きを広げる事となり、その勢力は東宮を傾けるほどにまでなり、遂には奪嫡の謀を抱くまでになっていく。


第八回更新

21

 赫連勃勃、乞伏乾歸が西北で乱をなし、禿髮檀、沮渠蒙遜が河右で兵をほしいままにしていた。そのため興は、將帥の臣を招集して、二方を鎮撫する事に対する意見を求めた。これに隴東太守の郭播が


 嶺北二州の鎮戸は、どちらも数万を数えていますが、文武の才を有している者が綏撫するのであれば、姦略を靖塞するのに十分でしょう。


と陳べた。これに興が


 私は常々、廉頗(戰國・趙)、李牧(戰國・趙)を得て四方を鎮撫させ、便宜行事させたと思っていた。しかし、任せられる人が出てこないため、叶わず終いにあった。卿よ、試しに名を挙げよ。


と問うと、郭播は


 清潔にして辺境を撫するのに長じているのは、平陸子の王元始でしょう。雄武にして奇略に長じているのであれば、建威將軍の王煥が挙げられます。賞罰必行、臨敵しても顧みざるは、奮武將軍の彭です。


と挙げた。しかし興は


 は令行禁止に関しては有能だが、綏辺の才ではないな。始、煥は年少であり、私はその人となりを知らない。


と言って、その人選に疑問を呈した。それではと郭播は


 廣平公の弼は、その才、文武を兼ねるものであり、一方を鎮督するに十分と言えます。願わくは陛下、遠くは前車を鑒し、近くは後轍を悟られますように。


と姚弼の名を挙げたが、興はこれも却下した。そして、太常の索を太尉、領隴西内史に任命して、乞伏乾歸を綏誘させた。その政事が優れたものであったため、乾歸は感化されてそれに從った。太史令の任猗が興に


 白気が北方より発生し、東西の五百里に渡って、天まで満ちております。破軍流血が起こり得るやもしれません。


と言った。乞伏乾歸は前年に捕えていた守宰を解放すると共に、謝罪して降服を願い出た。これに興は、赫連勃勃の難を懸念して、ここはこれを受け入れる事にした。乾歸とその子の乞伏熾磐に官爵を假した。

22

 姚詳は時に杏城に鎮していたが、夏の赫連勃勃の攻勢に晒されていた。兵糧が底を突いてしまい、守り放棄して南の大蘇へと逃亡した。勃勃はこれを追撃し、兵は離散し、詳は生け捕りにされてしまった。この時、衞大將軍の姚顯に詳を迎えに行かせていたが、詳が敗れたと知ると、杏城に留まった。そのため興は、顯を都督安定嶺北二鎮事に任命した。


第九回更新

23

 潁川太守の姚平都が許昌から来朝し、興に


 劉裕は姦計を練り、兵を芍陂に集結させており、擾邊の志を抱いているのは明白です。ここは、焼き討ちを仕掛けて、その謀を散じさせるべきです。


と進言した。しかし興は


 裕は軽弱であり、どうして我が疆を窺う事をし得ようか!姦心を有しているのであったとしても、それは子孫に在ろう!


と取り合わなかった。それでも、尚書の楊佛嵩を呼び出して


 呉兒(劉裕)は自分と言うものを知らないらしいな。非分の意を有しているとの事だ。孟冬の至るを待って、卿に精騎兵三万を預ける。これを焼き払って参れ。


と命ずると、楊佛嵩は


 陛下がこの佛嵩を任ずるにこの役を以ってするのは、肥口より淮を渡り、壽春に直行し、大軍を城に擁し、軽騎兵に掠野させて、淮南の地を蕭條とさせるためですね。兵と兵糧が整いましたらば、呉兒をして俯仰回惶させ、神爽を飛越せしめてご覧に入れましょう。


と陳べた。興は大いにスんだ。

24

 時に西胡の梁國兒が、平涼に壽冢を造ると、毎日のように妻妾と冢に入っては酒盛りをしていた。酔いが回ってくると、靈牀に上って歌ったりもした。周辺の人から注意を受けたとしても、國兒は全く意に介する事をしなかった。この前後の征伐で、幾度も大功を挙げていたため、興は鎮北將軍に任命し、平輿男に封じた。享年八十余で死去している。

25

 時に客星が東井に入り、地震が頻発した。百五十六回を数えた。公卿が抗表して罪を請ったが、興は


 災譴の来たるは、その咎は元首に在り。近代には或いは三公に帰罪したと言うが、全く効果は無かった。公らは皆な、その冠履を位に復せ。


と言った。


第十回更新

26

 弘始十四年(412、義熙八年)の十月、仇池公の楊盛が反旗を翻して、祁山を荒らし回った。そのため興は、建威將軍の趙に騎兵五千を与えて前鋒とし、立節將軍の姚伯壽に歩兵を与えて後続に付かせた。前將軍の姚恢、左將軍の姚文宗を鷲陝から、鎮西將軍にして秦州刺史の姚嵩を羊頭陜から進入させ、右衞將軍の胡翼度を陰密から城を経由させ、盛の討伐に向かわせた。興は軽騎兵五千を率いると、雍からこれに続き、諸將と隴口で合流した。天水太守の王松が嵩に


 先皇の神略は無方であり、その威武は世に冠たるものでした。冠軍將軍の徐洛生はその猛毅は人に倍し、佐命の英輔ですが、仇池に再入した時には、功無きままに帰ってきました。楊盛の智勇は全うするに足りませんが、地勢によって保つ事が出来ています。今、趙の兵、使君(姚嵩)の威を以ってしたとしても、先朝の例に当てはめますと、実に成功は難しいでしょう。使君は形便を把握されているのです。何故に表聞されないのですか?


と言ったが、姚嵩はこれに從わなかった。楊盛が兵を率いて、前鋒の趙軍と相対した。この時、後続の姚伯壽が怖気づいてしまい、これに続いていなかった。軍は五千と少ない兵力であったため、盛に簡単に蹴散らされてしまった。興は伯壽を斬首に処すと、ここで軍を返した。嵩は王松の進言を報告すると、興はその進言を評価した。


第十一回更新

27

 六月に乞伏乾歸が弑殺され、その子の乞伏熾磐が、八月、その後継に立った。この間に、群臣がこぞってこの虚に乗じるよう興に勧めていた。しかし興は


 乾歸は先に既に返善しており、我らは懐撫せねばならん立場だ。喪に乗じてこれを伐つなど、朕の本志には無い。


と言って、取り合わなかった。

28

 楊佛嵩を都督嶺北討虜諸軍事、安遠將軍、雍州刺史に任命して、嶺北の動員可能な兵を全て発して、赫連勃勃の討伐に向かわせた。嵩が発してから数日後、興は群臣を前にして


 佛嵩は驍勇にして果鋭だが、敵に臨み寇に対した時、制抑できなくなる事がある。だから、私は常にこれを憂慮して、兵を配するに五千を過ぎた事は無かった。しかし、今回の兵旅は今までに無いほどに多い。賊に遇すれば、必ずや敗れるであろう。今、既に遠くまで達しており、追い掛けようにも及べないだろう。私は深くこれを憂えている。


と言った。群臣は皆なこれに同意しかねたが、楊佛嵩は果して赫連勃勃に捕えられ、首を刎ね飛ばされた。


第十二回更新

29

 興は昭儀の齊氏を皇后に立てた。また書を下して、丞相の姚緒、太宰の姚碩コ、太傅の姚旻、大司馬の姚崇、司徒の尹緯ら、戦死した二十四人を姚萇廟に配饗した。興は大臣の喪が続いた事から、所司に臨赴の制を詳らかにさせた。所司が興に報告したのは、故事に依って東堂で発哀せよ、と言う事であったが、興はこれに從わず、大臣の死に際して、必ず葬儀に親臨した。

30

 姚文宗は太子の姚泓を可愛がっていたが、姚弼は深くこれを嫉んでいた。そして、弘始十六年(414、義熙十年)の五月、文宗が怨言を為したと興に誣告した。侍御史の廉桃生がこれを証言したため、興は怒りを露わにし、文宗に死を下賜した。これより以後、群臣は二の足を踏むようになり、弼の失敗を言う者はいなくなった。

31

 この時、貳縣の羌が叛乱を起こしたため、興は後將軍の斂成、鎮軍將軍の彭白狼、北中郎將の姚洛都に平定を命じた。しかし、羌に返り討ちにされると、成は恐れをなして、趙興太守の姚穆を詣でて帰罪した。穆は成を殺して送ろうとしたため、成はこれに怒りを覚え、夏の赫連勃勃の下へと亡命してしまった。

32

 興は姚紹と姚弼に、禁衞の諸軍を与えて、嶺北を鎮撫させた。遼東侯の彌姐亭地が、その部人を率いて南の陰密に移動すると、百姓から略奪を働いた。弼は亭地を捕えて移送すると共に、その部人七百余人を殺し、二千余戸を鄭城に移住させた。


第十三回更新

33

 姚弼への寵愛は増す一方であり、施行しようと提案した事で、納いれられない事は無くなっていった。弼は調子付いて、嬖人の尹沖を給事黄門侍郎に、唐盛を治書侍御史に任命して引き入れた。これらによって、機要に携わる者は、弼の党人で固められるに至った。更にその範囲を武臣にまで広げて、余す所無く自分の息の掛かった人間で構成しようとした。この動きに右僕射の梁喜、侍中の任謙、京兆尹の尹昭は、機を見計らって興に


 父子の間の事は、他人がとやかく言うのは難しいところです。しかし、君臣も父子の如くであり、我らはこのまま黙ったままでいる事は出来ません。並后匹嫡は、有史以来、國を傾け家を乱さなかった事はありません。廣平公の弼は姦凶にして無状であり、陵奪の志を密かに抱いている節があります。陛下がこれを寵するは不道であり、その威権を假すなどは、傾険無ョの徒を、その側に鱗湊させる事に他なりません。市巷では諷議が沸き起こり、そのどれを取っても、陛下が廃立の志を抱きそうになっている、と言うものであります。誠にこの如くであるのであれば、我らは死されたとしても、奉詔せずにはいられませんでした。


と訴えた。これに興は語気を荒げて


 どこにそんな事が有ると言うのだ!


と言ったが、尹昭らが


 廃立の事が事実で無いのであれば、それでいいのですが。ただ、陛下が弼をご寵愛されておりますが、行く末はこれに禍されるでしょう。願わくはその左右を除き、その威権を減じられますことを。さすれば、弼が太山の安を有すだけでなく、宗廟社稷も亦た磐石の固を有す事になりましょう。


と答えると、興は押し黙ってしまった。

34

 興が病床に伏せると、妖賊の李弘が貳原で叛乱を起こした。貳原のの仇常が、挙兵して弘に呼応した。興は病身ながらも輿に乗って、この討伐に向かった。常は斬り、執弘を捕えて帰還した。常の部人五百余戸を許昌に移住させた。


第十四回更新

35

 興の病状が悪化した時、太子の姚泓は東華門に兵を置いて、諮議堂で看護していた。姚弼は乱を為すべく水面下で行動を起こし、数千人を招集すると、甲を身に纏わせ第に伏せさせた。撫軍諸軍の姚紹を始め侍中の任謙、右僕射の梁喜、冠軍將軍の姚讚、京兆尹の尹昭、輔國將軍の斂曼嵬は、いずれも禁兵を指揮して、内に宿衛していた。姚裕は使者を蒲坂に派遣して、姚懿にこの事を報告した。また、諸藩にも密書を発して、弼の反逆の状を伝えた。懿は流涕しながら將士に


 上は今、病床に臥されており、臣子は冠履を整える事も出来ないでいる。そんな中にあって、廣平公の弼は私第に兵を擁して、儲宮(太子)に不忠を働こうとしていると言う。正にこれは、孤(私)の徇義亡身の日となろう。諸君はいずれも忠烈の士であろう。孤と共にこの挙に徇じようではないか。


と報告し、それぞれに決意を求めた。將士は皆な奮怒の表情を浮かべ、袂を払って立ち上がり


 殿下の為す所に從おうぞ。死生は顧ん。


と声を挙げた。ここで囚徒を全て解放し、布帛数万匹を散じて將士に下賜した。そして、建牙誓衆すると、長安へと行軍を開始した。鎮東將軍にして豫州牧の姚洸は洛陽で、平西將軍の姚ェも雍で兵を挙げ、姚泓の難に向かった。興は病状が安定すると、群臣と対面した。ここで征虜將軍の劉羌が、泣きながら興に


 陛下が病床に臥せられて数旬、どうしてこのような事態になってしまったのでしょう!


と言った。興は


 朕の過庭に訓が無かったばかりに、諸子をして不穆たらしめ、四海に愧を晒してしまっている。卿らは各々が思う所を陳べて、社稷を安んじてくれまいか。


と意見を求めた。これに尹昭が


 廣平公の弼は寵を恃みに不虔となったばかりか、兵を擁して貳心を抱くまでに至っており、どう考えても刑書に置かざるを得ず、典憲を明らかにしなければなりません。陛下が含忍して法を加えられないのであれば、最低でも威権を削奪し、藩國に散居させて、以って覦の禍を和らげ、天性の恩を全うさせるべきでしょう。


と答えた。興は梁喜に意見を求めた。


 卿はどう考えるか?


と問うと、その梁喜は


 この喜の愚見は、昭が陳べた所と同じであります。


と答えた。興は姚弼が文武の才を兼備していたことから、法に致す事を決断できず、尚書令の職を解くだけに留め、大將軍、廣平公として第に帰した。姚懿らの下に、興の病状が安定しているとの報がもたらされると、それぞれ軍を返して鎮に戻った。懿、姚恢を始め弟の姚ェらは、皆な抗表して弼の罪を訴え、これを刑法に照らすよう求めたが、興はこれを聞き入れなかった。


第十五回更新

36

 北魏から聘者が到来し、婚姻を求めてきた。時を同じくして、平陽太守の姚成都が来朝していた。興は成都に


 卿は久しく東藩にいて、魏とは隣接しているな。彼方の事形を教えてくれないか。今、求婚に来ており、私の心では受け入れるつもりでいる。そうすれば、最終的には、災を分かち患を共にする事が出来るであろうからだ。それでだ、長く相い接援していけると思うか?


と問うと、姚成都は


 魏は柴壁の克捷(戦勝)以後は、戎甲は損失する機会は無く、士馬は桓々とし、師旅は充実しています。今、和親を結び、合わせて婚姻の好みとなれば、分災共患だけでなく、実にまた永安の福となるでしょう。


と答えた。興はこれに大いにスび、吏部郎の嚴康に方物を持たせて報聘させた。


第十六回更新

37

 姚懿、姚洸、姚宣、姚ェが来朝すると、姚裕を介して興に


 我らは今、皆な外におりますが、陳べたい事があって参ったのです。


と伝えた。これに興は


 言いたいのは弼の事だけであろう。私も既に知っておるわい。


と面会を断った。しかし姚裕が


 弼について論ずべき事があるのであれば、陛下はこれを垂聽なさらねばなりません。もし、懿らの言が大義に違うものであったならば、その時は、改めて刑辟に照らせばよいのです。距するとは何事ですか!


と食い下がったため、諮議堂で面会する事となった。その席上、姚宣は流涕しながら


 先帝は大聖を以って基を起こされ、陛下は神武を以って業を定されております。正に七百の祚を隆め、万世の美が為ろうとしています。にもかかわらず、どうして弼をして、社稷を傾する謀を為させようとされるのですか。ここは有司に委ねて、刑憲に照らすべきです。我らは死を以ってこの事を請います。


と訴えた。しかし興は


 私自らが処す事であり、お前達が憂慮すべき事ではない。


と言って取り合わなかった。これより以前、大司農の竇温、司徒左長史の王弼が、密表を上げて、姚弼を太子に立てるよう興に勧めていた。興はこれに從いはしなかったが、同時に、これを責める事もしていなかった。撫軍東曹屬の姜が上疏して


 廣平公の弼が姦を抱くこと積年、禍を謀ること有歳であり、傾諂の群豎と共に画策しており、釁逆を為そうとしているのは明確であり、戎裔にまで嘲笑われてしまいます。文王の化は、寡妻を刑した事にあります。今の聖朝の乱は、愛子より起りました。ここでその瑕を含忍し、その罪を掩蔽したとしても、逆党は却って盛んになるばかりで、扇惑は止まず、弼の乱心はそれこそ差し迫ったものとなりましょう!ここは凶徒を斥散して、禍の始まりを絶つべきです。


と陳べた。興は姜のこの表を梁喜に示して


 天下の人で、私の子について口にしないものがいないらしいが、どうしたらよいであろうか?


と言ったが、梁喜が


 信じるはの言の如くのものであります。陛下、速やかに裁決されませい。


と姜の意見に賛同を示したため、興は黙然としてしまった。

38

 太子・事の王周も、襟を正して士を引きいれ、東宮で党を築いていた。弼はこれを憎み、周を陥れる隙を窺っていた。しかし、周の抗志は確然たるもので、これに屈する事は無かった。興はその守正を嘉して、周を中書監に取り立てた。


第十七回更新

39

 興が三原に赴くと、群臣に向かって


 古人に言が有る。『關東は相を、關西は將を出し、三秦は儁異に饒し、汝潁は奇士が多い』と。私は天の明命に応じて、中原に跨拠し、流沙より以東、淮漢より以北で、未だ嘗て傾己招求しなかったもの、匡を求めて及ばなかったものはいない。明かりが下を照らさざれば、懸魚を感じさせる事は出来ない。智效の一官、行著の一善が至れば、私は歴級してこれを進める事が出来て、後門をして歎を為さしめる事が出来よう。卿らは仄陋より明揚して、我が助けとなる者を挙げよ。


と言った。これに梁喜が


 奉の旨は求賢ですが、それに関しては、今までも休み倦む事無く行っております。しかし、未だ儒亮の大才も王佐も器も見つけられておりません。つまりは、世に賢なる者の乏しいと言わねばなりません。


と答えたが、これに興が


 その昔、霸王が起った時には、將であれば韓呉(韓信、呉)、相であれば蕭ケ(蕭何、ケ禹)がいたではないか。將を往時の賢から採れなければ、相を後時の哲に求める事も出来ない。卿は、自らの識拔の不明なるにもかかわらず、これを求めるも至らずとは、四海を厚誣するつもりなのか!


と返した。群臣は皆な感心した。


第十八回更新

40

 東晉の荊州刺史の司馬休之は江陵に、雍州刺史の魯宗之は襄陽に拠点を構えて、劉裕と交戦状態に入っていたが、求援を要請する使者を興の下に派遣してきた。興は姚成王、司馬國に騎兵八千を与えて派遣した。

41

 姚弼は、姚宣が自分を罪するよう興に訴えた事を、根に持っていた。そのため、遂に宣を誣告するに至った。この時、宣の司馬である權丕が長安に至っていた。ここで興は、丕に宣を匡輔させる益が無いと判断し、丕を殺そうとした。丕の性格は傾巧であり、我が身を守るため、宣の罪状を誣告した。興はこれを信じてしまい、怒り狂って、すぐさま早馬を出して杏城で宣の身柄を拘束させると、そのまま獄に繋がせた。そして、弼に兵三万を率いて、秦州を鎮するよう命じた。ここで尹昭が興に


 廣平公は皇太子と不仲であり、強兵を外に擁しており、陛下がすぐにでも諱さなければ、社稷を必ずや危に陥れるでしょう。『小不忍以致大亂(小、忍びざれば以って大亂を致す)』とは、陛下の今を言うに他なりません。


と諫めたが、興は耳を貸さなかった。夏の赫連勃勃が杏城に侵攻してきたため、興は姚弼を救援に差し向けたが、冠泉に至った所で杏城は陥落してしまった。興が北地に向かった時、弼は三樹にいた。その弼と斂曼嵬を新平に向かわせると、興は長安へ帰還した。


第十九回更新

42

 弘始十七年(415、義熙十一年)の五月、姚成王が南陽に至った時に、司馬休之らが劉裕に撃破されたとの報がもたらされたため、成王はここで軍を返した。休之、魯宗之は遂與王の司馬文思、新蔡王の司馬道賜、寧朔將軍で梁州刺史の馬敬、輔國將軍で竟陵太守の魯軌、寧朔將軍で南陽太守の魯範を引き連れて、興の下に亡命してきた。

43

 夏の赫連勃勃は、赫連建に兵を与えて、貳縣に侵攻させた。建は騎兵数千で平涼に攻撃を仕掛けた。姚恢が建軍と五井で干戈を交えたが、平涼太守の姚興都が建に捕えられ、遂に新平への侵入を許してしまった。姚弼がこの討伐に乗り出し、龍尾堡で決戦となると、これを大いに撃ち破ると共に、建を生け捕る事に成功し、長安へと送りつけた。これより以前から、勃勃は彭雙方の守る石堡に攻撃していたが、雙方が力戦して固守していたため、長らく攻め落とせずにいた。しかし、ここで建敗北の報がもたらされたため、軍を返して帰還した。


第二十回更新

44

 司馬休之らが長安に至ると、興は休之らに対して


 劉裕は晉帝を崇奉していると言うが、闕が有ると言うのか?


と問うた。これに司馬休之が


 この休之が以前に都に赴きましたところ、琅邪王のコ文が涙ながらに言うのです。『劉裕は主上を供御しているが、克薄にして奇深である。』と。事勢を以ってこれを推しますに、社稷の憂は測り難いものがあります。


と答えた。これを聞いた興は、司馬休之を荊州刺史に任命して、東南の事を任せようとした。しかし、休之がこれを固辞し、魯宗之らと共に襄陽、淮、漢を擾動する事の許可を求めた。そこで、休之を鎮南將軍、揚州刺史に任命し、宗之らもそれぞれ任命された。休之が出発しようと言う時、侍御史の唐盛が興に


 符命が記す所では、司馬氏が再び河洛を得ると出ています。休之は既に鱗を濯して南翔する機会を得ており、恐くは復び池中の物となる事は無いでしょう。ここは崇禮すべきであって、放してはなりません。


と言ったが、興は


 司馬氏についてそのように記されていたとしても、これを留め置いた方が患いとなろう。


と言って、そのまま出発させた。

45

 揚武將軍にして安郷侯の康宦が、白鹿原にいた胡の数百家から略奪を働くと、上洛へと逃亡した。上洛太守の宋林は、これを入れまいと抵抗した。同郡内の商洛縣の黄金らが義兵を挙げて、これと宦を挟み撃ちにした。宦は兵を引き連れて帰罪した。興はこれを赦し、その爵位に復帰させた。


第二十一回更新

46

 時に白虹が日を貫いた。天の事象に通じた者が興に


 不祥の事がある兆しです。しかし、それが終われば自と消えましょう。


と伝えた。九月、興は薬治療を行っていたが、姚弼は病気と称して姿を見せず、その時、第に兵を集結させていた。興の耳にこれが達すると、怒り心頭となり、その党友である殿中侍御史の唐盛、孫玄らを捕えて、首を刎ね飛ばした。太子の姚泓が興に


 この泓は誠に不肖であり、弟を訓諧する事が出来なかったため、弼に是非を構造させるまでに至らせ、天日を仰いで慚づるばかりです。陛下が、もし、この泓を以って社稷の憂とされるのであれば、この泓を除いて國の寧を、家の福をお図りください。もし、天性の恩をお下しになり、この泓に刑戮を加えるに忍びないのであらば、この泓に守藩する事をお許しください。


と陳べた。興は慘然として容を改めると、姚讚、梁喜、尹昭、斂曼嵬を諮議堂に呼び出して、姚弼を捕えるべく密謀した。時に姚紹は雍城にいたため、早馬を出してこれを告げた。数日を経ても、結論に至らなかった。弼の党友は兇懼した。興はこれらが変を為すのではないかと憂慮し、速やかに弼を捕らえて、中曹に収監した。そして、党に与した者を窮責して、誅殺する事とした。これを聞いた姚泓が現われ、流涕して頑なに中止するよう求めたため、取り止めになった。興は梁喜に


 泓は天心にして平和であり、その性格には猜忌と言うものが見られない。必ずや群賢を容養して、我が子孫を保全してくれるであろう。


と言った。これにより、姚弼の党友は皆な赦免された。


第二十二回更新

47

 靈臺令の張泉も興に


 惑が東井に入り、旬紀して返りました。それから余月も経っていないのに、再び心に差し掛かりました。王はこれを惡とします。仁を修め己を虚にして、天譴にお答えくださいませ。


と天文を解釈した。興はこれを聞き入れた。

48

 弘始十八年(416、義熙十二年)の正月元旦、興は太極前殿で群臣と対面した時、沙門の賀僧が慟泣し始めると、それを止められずにいた。皆なこれを怪しんだ。賀僧なる者は、どこから来たのか分からなかったが、その言事が全てその通りになっていたため、興は甚だ賀僧を神禮していた。賀僧はいつも、隱士の数人と共に讌會に呼ばれていた。


第二十三回更新

49

 興は華陰に向かう事にすると、姚泓を監國に任命して、西宮に居させた。興の病気が悪化したため、長安へと帰還して来た。泓がこれを出迎えようとしたが、宮臣が近寄り


 今、主上の疾は篤くなっている上に、姦臣が側に在ります。廣平公(姚弼)は非常を起こそうと常に目を光らせており、いつ変化を起こすか測り難い情況にあります。今、殿下がお出になられても、進みては則ち主上に見みえるを得ず、退きては則ち弼らの禍に見舞われましょう。どこにも帰する所は無いのです!ここは深く情禮を抑えまして、以って宗社を寧じくださいませ。


と言った。姚泓はこれに從う事にした。そして、黄龍門の樽下で拜迎する事とした。姚弼の党友が興を輿に乗せると、皆な危懼を抱いた。尹沖らが泓が出迎えに出てきたところを暗殺しようと図っていたが、尚書の姚沙彌がその沖に


 もし太子が備えをしていたら、迎侍には来ないだろう。ここは、乘輿を奉じ、廣平公の第に直接向かうべきです。宿衞の將士は、上がそこにいると聞けば、自と寄り集まってくるだろう。誰が太子を守るだろうか!我らは廣平公の故に、身を逆節に陷している。しかし今、乘輿を以って南幸すれば、自と杖義の理に当たれよう。さすれば、廣平を禍から救うだけでなく、前愆を雪ぐに足ろうぞ。


と言ったが、尹沖らは耳を貸さず、興に從って殿中に入り、乱を為そうとした。しかし、興の存亡をつかむ事が出来なかったため、行動に踏み切れずにいた。興は入宮すると、姚泓を録尚書事に任命して、姚紹、胡翼度に禁中の兵を指揮させると、内外の防御に当たらせた。また、斂曼嵬を姚弼の第に踏み込ませた。曼嵬は第中の甲杖を没収して、武庫に納めた。


第二十四回更新

50

 興の病状が急変すると、興の妹である南安長公主が見舞いに訪れたが、会う事は叶わなかった。興の少子の姚耕兒が室外に出ると、兄の姚


 上は既に崩御された。速やかに計を決められよ。


と耳打ちした。これを受けて、姚は党友と共に甲士を率いて、端門に攻め込んだ。殿中上將軍の斂曼嵬が兵を率いてこれに対抗し、この間に、右衞將軍の胡翼度が禁兵を率いて、四門を封鎖した。これにらは、壯士に門を上らせ、屋を伝わせて侵入させた。壯士が馬道にまで達した時、姚泓は諮議堂で興を見舞っていたが、曼嵬に殿中の兵を指揮させた。曼嵬は兵を武庫に登らせ、それ以上の侵入を許さず、太子右衞率の姚和都が東宮の兵を率いて、馬道の南に駆けつけた。このため、らはこれ以上の侵入は無理と判断して、端門に火を放って焼き払った。興は病身を押して前殿に立つと、弼に死を下賜すると宣言した。禁兵は興の姿を見ると、歓喜に踊り湧き立ち、甲を身に纏うと賊へと襲い掛かっていった。賊兵は恐怖におののいた。ここで和都が、東宮の兵を率いて後方から攻撃を仕掛けると、らは潰滅し、驪山へと逃亡を図った。の党友であった呂隆は雍へと落ち延び、尹沖らは東晉に亡命した。興は姚紹を始めとして姚讚、梁喜、尹昭、曼嵬を内寢に呼び入れると輔政を託した。その翌日、興は息を引き取った。享年五十一、在位すること二十二年であった。後継に立った姚泓によって、諡号を文桓皇帝、廟号を高祖とされ、墓は偶陵とされた。


2011/06/18  終了。


『晉書』「載記」 姚興下 - 2991〜3004 -


第一回更新    開始 残り49段 全50段  2011/05/21
第二回更新    更新 残り42段
第三回更新    更新 残り40段
第四回更新    更新 残り37段
第五回更新    更新 残り35段
第六回更新    更新 残り32段      2011/05/27
第七回更新    更新 残り30段
第八回更新    更新 残り28段
第九回更新    更新 残り25段
第十回更新    更新 残り24段
第十一回更新   更新 残り22段      2011/06/03
第十二回更新   更新 残り18段
第十三回更新   更新 残り16段
第十四回更新   更新 残り15段
第十五回更新   更新 残り14段
第十六回更新   更新 残り12段      2011/06/11
第十七回更新   更新 残り11段
第十八回更新   更新 残り09段
第十九回更新   更新 残り07段
第二十回更新   更新 残り05段
第二十一回更新  更新 残り04段      2011/06/18
第二十二回更新  更新 残り02段
第二十三回更新  更新 残り01段
第二十四回更新  終了           2011/06/18


2011/06/18 終了。