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最終更新 2011/03/04



姚 弋仲




2011/02/26 開始

01

 姚弋仲、南安郡は赤亭の羌人である。その祖先は有虞氏(帝舜)の苗裔と言われる。帝禹が帝舜の少子を西戎に封じ、代々羌酋を荷ってきた。その後、燒當が罕の間で雄飛し、七世孫の填虞は、後漢の中元末に西州を寇擾していたが、楊虚侯の馬武に撃ち破られ、塞外へと敗走させられた。填虞の九世孫に当たる遷那が、種人を率いて塞内に移住してくると、漢朝はこれに嘉して、冠軍將軍、西羌校尉、歸順王を假すと、南安の赤亭に居住区を与えた。遷那の玄孫の柯迴は、三國・魏から鎮西將軍、綏戎校尉、西羌都督に任命されている。柯迴の子が弋仲である。若い頃から道理に明るく、思い切りの良い性格の持ち主であった。そんな人物が、生業に従事しなかったばかりか、人の世話や救済ばかりしてい。あたかも、それが自分の務めであるかのように。しかし、これによって、種人から畏敬の念を受けるようになり、信頼を得るに至った。永嘉の乱が起きると、永嘉六年(312)、東の楡眉に移動を始めると、戎も夏もおんぶ紐で子供を背負ってでも、これに従おうと言う者が続出した。その数は数万に上った。弋仲は護西羌校尉、雍州刺史、扶風公を自称した。


第二回更新

02

 太寧元年(323)の七月、前趙の劉曜は陳安を平らげると、弋仲を平西將軍に任命すして、平襄公に封じ、隴上に邑を与えた。咸和四年(329)の九月、後趙の石虎が上を陥落させると、弋仲はその虎に


 明公は兵十万を擁し、その功の高さは一時に冠たるものだ。正に是れ行權立策の日と言えよう。隴上には剛毅の者が多くいる。秦の気風は猛勁だ。道が興隆すれば、その後に服してこよう。しかし、道が衰亡へと向かえば、顕在化する前に叛乱を起こすだろう。ここは隴上の豪強を移住させ、心腹を虚にして遇すれば、畿甸に実りある存在となろうぞ。


と説いた。石虎はこれを聞き入れ、石勒に弋仲を行安西將軍、六夷左都督に任ずるよう上申した。東晉の豫州刺史の祖約が後趙に亡命してくると、勒は約を礼遇していた。それが変わらなかったため、翌年の咸和五年(330)の二月、弋仲が上疏して


 祖約は晉朝に対して仁義に悖る行いをしており、太后を逼殺し、主に対して不忠をなしてきました。陛下がこれを寵されているのを見まして、この弋仲、姦乱の萌を、その始まりが今なのではないかと恐れております。


と陳べると、石勒はこれを善しとした。そして、後に祖約を誅殺した。


第三回更新

03

 咸和八年(333)の七月、後趙の石勒が死去すると、翌八月、後継に立った石弘によって、石虎は丞相、魏王、大單于とされ、これによって虎は権力を掌握する事となった。虎は弋仲の言を思い出し、十月、秦雍の豪傑を關東に移住させた。これに伴って、弋仲は数万の部兵を率いて清河へと移る事となった。そして、奮武將軍、西羌大都督に任命され、襄平縣公に封じられた。咸和九年(334)の十一月、虎が弘を皇帝位から引き摺り下ろして自らが即いた。即位に当たっての参賀に、弋仲は病気と称して赴かなかった。虎の度重なる召集によって、ようやく赴いた。虎の前に出た弋仲は、表情を更に鋭くして


 共に後事を託されたと言うのに、それを逆に奪うとは何事か!


と言い放った。石虎は弋仲の強正に畏怖を覚え、罪する事が出来なかった。永和元年(345)の十二月、持節、十郡六夷大都督、冠軍大將軍に遷された。弋仲の性格は、清倹にして直であったが、威儀を修めていなかった。そのため、幾度と無く言をしてきたが、その言葉に遠慮や忌諱は無かった。それでも虎は、弋仲に大いに敬意を表し続けた。朝廷の大議に際しては、必ず弋仲を決定に参加させた。そのため、公卿は憚って、これに同調していった。武城の左尉は、虎の寵姫の弟であるが、弋仲の部内に侵入して荒らし回った。そのため弋仲は尉を捕え、今回の迫脅の状を数え上げると、左右の者に斬首するよう命じた。左尉は流血するまで叩頭し、左右からも諫められたため、斬首を中止させた。その剛直にして不回なのは、このようであった。


第四回更新

04

 永和五年(349)の正月、石虎が皇帝位に即くと、梁犢が叛乱を起こした。虎は李農に討伐を命じたが、農軍は陽で撃ち破られたため、虎は大いに恐れ慌てた。そして早馬を出して、弋仲にも鎮圧に加わるよう求めた。これを受けた弋仲は、部兵八千余を率いて南郊に駐屯し、軽騎兵を伴ってへと向かった。この時、虎は病に臥していたため、弋仲との面会を断った。その代わり、領軍省に引き入れて、自分の食事を下賜させた。弋仲はこれに怒って口にせず


 俺は賊を撃つべく呼び出されたんだ。食い物をもらいに来たんじゃないぞ!俺は上に会っていないんだから、その存亡(病状)を知らない。一見さえさせてくれれば、死んでも恨みはせんぞ。


と声を荒げた。左右の側近がこの言葉を石虎に伝えたため、ようやく面会が果たされた。その席上、弋仲は虎を


 兒(子)が死んで愁いが来ただと?それで疾になっただと!兒の小時にあっては、好人に輔相させる事も出来ず、相い殺す事態に至らせた。兒にも過が有るだろうが、その下人に甚だなる責があったため、このような事態に陥ったのだ。お前の病は長引いているが、今度立てた兒(石世)も幼いかろう?癒えなかったら、天下は必ず乱れるぞ。そんな今だ、これを憂うべきであって、賊なんぞにかまけている場合じゃないぞ。犢らは思帰の心を抱いており、その途中で困窮して姦盜となって、その行く所で殘賊しているに過ぎず、捕えてしまえば終わりだ。この老羌に、前鋒として效死させよ。さすれば、一挙で決してくれようぞ。


と言った。弋仲は真っ直ぐな性格であったが、言葉に荒っぽいところがあり、尊卑に関係無く汝(お前)と呼んでいた。虎はそれを大目に見て不問に附し、使持節、侍中、征西大將軍に任命すると共に鎧馬を下賜した。これに弋仲は


 お前、この老羌が破賊に堪えられないとでも思っているのか?


と言うや否や、弋仲は鎧を身に纏うと馬に跨り、馬に策をくれて南に向かって駆け出し、辞も陳べずに飛び出て行った。そして、程無くして梁犢の首級を挙げてきた。この功によって、弋仲は劍履上殿、入朝不趨が許され、西平郡公に進封した。


第五回更新

05

 永和六年(350)の正月、冉閔が国家簒奪に乗り出すと、閏正月、弋仲は閔討伐の軍を起こして、混橋まで軍を進めた。冉閔が皇帝位に即いた二ヵ月後、三月に石祗が襄國で皇帝位に即いた。弋仲は右丞相に任命され、殊禮を以って待された。祗と閔の間で戦闘が繰り返されていたが、閔軍によって襄國が百余日に渡って包囲攻撃を受けていたため、永和七年(351)の二月、弋仲は子の姚襄を祗軍の救援に差し向ける事にした。その出発に際して、弋仲は襄に


 お前の才は閔に十倍する。もし梟するか擒するかが出来なかったら、俺に二度と会えると思うなよ。


と言って誡めた。三月、姚襄が冉閔と長蘆澤で干戈を交えると、閔軍を大破して帰還した。しかし、出発前に襄に言ったこと、閔を捕える事が達成されていなかったため、弋仲は怒って、百杖の罰を加えた。


第六回更新

06

 弋仲の部曲の一人、馬何羅は博学にして文才を有していたが、永和五年(349)の四月、張豺が石世の補政の任に就くと、弋仲から豺に主替えをしてしまった。豺は何羅を尚書郎に任命している。しかし、翌月の五月にはその豺が斬首されたため、何羅はすぐに出戻ってきた。皆ながこれを殺すよう勧めたが、これに弋仲は


 今正に是れ招才納奇の日であるぞ。その力用を用いるべきであって、害すなんてしておれるか。


と言って取り合わず、馬何羅を參軍に任命した。その寛恕はこのようであった。


第七回更新

07

 弋仲には子が四十二人にいたが、常日頃から諸子に対して


 俺は元々、晉室の大乱に乗じ、石氏から厚遇を持って待されてきた。故に賊臣を討ってその徳に報いんと欲していた。しかし今、石氏は既に滅んでしまい、中原には主が無くなってしまった。古えより、未だ戎狄で天子となった者はいない。俺が死んだら、お前らは晉に帰順しろ。そして、臣節を尽せ。不義の事をなすでは無いぞ。


と訓戒していた。、弋仲は東晉に帰順を願い出ると、十一月、弋仲は使持節、六夷大都督、都督河北諸軍事、車騎大將軍、儀同三司、大單于に任命され、高陵郡公に封じられた。永和八年(352)の三月、病没した。享年七十三。

08

 升平元年(357)の四月、子の姚襄が入關したが、前秦の苻生に潰滅させられた。陣中に残された弋仲の柩を生が発見すると、生は王禮を以ってこれを天水冀縣の孤磐に埋葬した。太元十一年(386)の四月、姚萇が皇帝位に即くと、景元皇帝と追諡され、廟号を始祖とされた。墓は高陵と呼ばれ、園邑五百家が置かれた。


2011/03/04 終了


『晉書』「載記」 姚弋仲 - 2959〜2961 -


第一回更新 開始 残り07段 全08段  2011/02/26
第二回更新 更新 残り06段
第三回更新 更新 残り05段
第四回更新 更新 残り04段      2011/03/04
第五回更新 更新 残り03段
第六回更新 更新 残り02段
第七回更新 終了

2011/03/04 終了