2011/06/24 開始
01
尹緯、字を景亮と言い、天水の人である。若い頃から大志を抱いて、家業に從事する事をしなかった。身長は八尺、腰周りは十囲とも思えるくらいで、魁梧にして爽気を有していた。書傳を読んでいて宰相が立勲の場面に差し掛かると、そこで読む手が止まり、歎じたのであった。前秦の苻堅は、永和十二年(356)の八月、尹赤が姚襄に降服してしまったため、諸尹氏は全て禁錮とされ、出仕できない状態に追い込まれてしまった。そのため、緯が任官して吏部令史になるまで時間が掛かってしまったが、その風志は豪邁であり、郎はから畏敬の念を集めた。堅の末年、

星が東井に出現した。緯は堅の敗北が近いと読み取った。その時の喜びようは、甚しいものがあった。天に向って再拜した。思わずして涙がこぼれ始め、長歎したのであった。友人で略陽の桓識は、緯のその様を見て怪しみ、その理由を問うた。これに緯は
「
天時はこのようだ。正にこれは霸王が龍飛する秋(時)に相違無い。我が杖策の日が来た。自分が難に遭うと分かったとしても、それよりも、我が才志を展じる事が出来ない事の方が怖いんだ。我が心は今、欣と懼とが交錯しているんだ。
」
と答えた。
第二回更新
02
太元九年(384)の四月、姚萇が前秦の苻堅の圧迫を受けて、馬牧へと逃げ込んでいった。これを知った緯は、尹詳、

演らと共に、群豪に呼び掛けをして、萇を盟主に推した。後秦の成立である。白雀と元号を建てた。これによって緯は、遂に佐命の元功となったのである。白雀二年(385、太元十年)の七月、萇が堅軍を破ると、緯を堅の下に派遣して、禪代に応じるよう説得させた。堅は緯に
「
卿は朕にあった時、何の官であったか?
」
と問うと、緯は
「
尚書令史だったが。
」
と答えた。これを聞いた苻堅は
「
宰相の才、王景略(王猛)の儔を有していたのにか。朕は卿を知らなかったんだ。亡ぶとしても、むべなるかな!
」
と歎じたのであった。
第三回更新
03
緯の性格は剛簡にして清亮であり、張子布(三國・呉、張昭。子布は字)の人となりを敬慕していた。馮翊の段鏗は、その性格は傾巧であったが、その博識のため、姚萇は鏗を気に入っていて、侍中として引き入れようとした。緯は不可であると強く諫めたが、萇は耳を貸そうとしなかった。緯は幾度と無く満座を前にして、鏗を槍玉に上げた。これに鏗は、緯に対する鬱憤が溜まっていった。萇がこれを聞いて緯に
「
卿は學を好まぬのは仕方ないが、だからと言って學者を憎む理由になるのか?
」
と問い質した。これに緯は
「
この緯、學を憎んだりはしておりません。ただ鏗の不正を憎んでいるまでです。
」
と答えた。これを受けて姚萇は
「
卿は知らぬかもしれんが、いつも蕭何に比類するものと思ってきた。そのところはどう思うか?
」
と問うた。これに緯は
「
漢祖(劉邦)は蕭何と共に布衣より身を起こして、そのため互いに貴とし合ったのです。陛下は貴中より起こられ、そのためこの緯を賤としているのです。
」
と答えた。姚萇が
「
卿は実に及ばない。どうしてそう思うのか?
」
と問うと、緯は
「
陛下は漢祖をどのように思われてますか?
」
と問い返した。これに姚萇は
「
朕は実に漢祖に及ばない。卿は蕭何に遠い。故に如かざること甚だとしたのだ!
」
と答えた。すると緯は
「
漢祖が陛下に勝る理由は、段鏗の徒を遠ざける事が出来たからに他なりません。
」
と答えた。姚萇は押し黙ってしまった。段鏗は北地太守として中央を逐われた。
04
建初八年(393、太元十八年)の十二月、姚萇が病没した。緯は萇の後継に立った姚興と共に、皇初元年(394、太元十九年)の六月、前秦の苻登を生け捕り殺している。この成興の業は、全て緯の力によるものである。輔國將軍、司隸校尉、尚書左右僕射を歴任し、清河侯となっている。
第四回更新
05
緯の友人で隴西の牛壽が、漢中の流人を引き連れて、後秦に帰順してきた。そして緯に
「
足下は平生から『時の明なれば、功を立て事を立てるに十分な才がある。道の消なれば、二疏、朱雲を追い、その狂直を発して、胡廣(後漢)の徒が隨俗を汚隆したような事はさせはしない。』と言っていたな。今、その時であろう。正に竹素に垂名する日だ。勉められよ!
」
と言った。これに対して緯は
「
私の求める所は、正にその通りだ。ただだ、未だ宰衡を夷吾(春秋・齊、管夷吾。管仲)に委ねる事も、韓信(前漢)が羈旅するのも分かっていない。これを恥と思っている。功を立て事を立てると言ったが、未だ昔言を負う事が出来ないでいる。
」
と返した。姚興がこれを聞いて、緯に
「
君が壽に言った事は、何と誕(大)なるかな!立功立事は、古人はどうであったろうか?
」
と尋ねた。これに緯は
「
この緯は、未だ古人に愧じた事はありません。どうしてか?時来の運に遇えば、則ち太祖を輔翼して、八百の基を建てましょう。陛下が龍飛の始に及んで、苻登を翦滅し、秦雍を盪清して、生きては端右を極め、死しては廟庭に饗されるでしょう。古えの君子は、ここまで出来たでしょうか。
」
と答えた。姚興は大いにスんだ。緯が死去すると、興の悼むこと甚だであった。司徒が追贈され、諡号を忠成侯とされた。
2011/06/24 終了。
『晉書』「載記」 姚興下/尹緯 - 3004〜3005 -
第一回更新 開始 残り04段 全05段 2011/06/24
第二回更新 更新 残り03段
第三回更新 更新 残り01段
第四回更新 終了 2011/06/24
2009/06/24 終了。