2012/08/12 開始
第一回更新〜第二回更新
01
袁豹は、袁湛の弟であるが、字を士蔚と言い、湛と同じく謝安に知られ、學を好み見識が広かったが、更なるを求めて多くの典籍に目を通した。著作佐郎として東晉に初任官すると、衞軍將軍の桓謙の下、記室參軍に任命された。元興三年(404)の三月、武陵王の司馬遵が承制すると、大將軍に任命されているが、こちらでも記室參軍に任命された。丹陽尹の孟昶は、建威將軍司馬に任じた。一年余りすると、司徒左西屬に転じられ、撫軍將軍の劉毅の諮議參軍に遷され、記室を領した。毅が時に大田で建議すると、豹は上議して
「
國は民に以って本(農)を為させ、民は食を資するものを以って天と為します。その業を修むるは則ち教の興こりであり、その本を崇めるは則ち末の理です。実に治の要道であり、化に致るの階となるものです。その本に敦からざれば、則ち末業(商業)が滋(ますます)章(盛)となってしまいます。飢と寒が交(こもごも)に湊(至)れば、則ち廉恥は立ちません。当今、簒偽の末に接し、凶荒の余に値(遇)っており、爭いの源が既に開かれてしまい、彫薄は彌々啓かれ、栄利はその正性を蕩(除)き、賦斂はその資するところを

(尽)きさせる事になれば、良き疇からは側趾の

は無くなり、比(並)びし屋には困の患が起こり、中間で多故となれば、日に暇は無くなります。自と甲は卷かれ馬を止めれば、一、二年もすれば、積弊の黎となってしまい、振るうのは難しくなります。これは実に仁懐の矜恤し、明教の発するところです。
02
しかし、この業は修められなかったため、その通りとなってしまいました。司牧の官は、務めを為す事は無く、俗吏は庸近ですが、猶お常科を秉(執)れば、勧督の故典に依って、民情を迷わせる事になるでしょう。それは譬えるならば、堤を改修して氾濫を防ごうとしたものの、淵丘の変わりやすさを忘れるようなものであり、柱を昔弦に膠したために、忽ち宮商の調べから乖(離)れてしまうようなものであり、徒(いたず)らに考課の条して、豪分の益を無くするものです。清流が澄源に在るを、輪を高

に止めるを悟らざれば、患いを本に生じさせ、治の末なるが故です。そも位を設けるのは以って賢を崇するためであり、疏爵するのは以って命士とするためであり、上は能を量って以って官を審かにして、人に浮誉を取らせないようにすれば、則ち比周は息(止)み、游者が言(ここ)に帰れば、游子が既に帰れば、則ち南畝は闢(開)かれるでしょう。職を分けて以って務に任じ、吏を置いて以って役を周(遍)くするのです。職は任無きを立てず、吏は必ず非用を省いて、冗散を廃止すれば、則ち莱荒は墾されるでしょう。器とは以って用途に応じるもので、商とは以って財貨を通じさせるものであり、靡麗の巧を勦(断)ち、難得の貨を棄てれば、則ち彫偽は賤となり、穀稼が重となりましょう。耕耨に勤悴して、力を殷(注)いでも寡しか收められないのに、工商は逸豫であるのに、用は浅くとも利は深いものがあります。そこで、賈販の税を増して、疇畝の賦を薄(軽)くすれば、則ち末技(工商)は抑えられ、田o(農民)は喜ぶ事になるでしょう。さすれば、位に居する者に義従の徒は無くなり、野に在る者に并兼の党は靡(無)くなり、給賜を恩に致らせ、力役を私門に入らせなければ、則ち游食せし者は本に反(返)り、肆勤に自と勧(努)めるようになるでしょう。游食が省かれ肆勤が多くなれば、則ち東作は繁となるでしょう。密勿なる者は異を甄(明)らかにして、怠慢なる者は罰を顕(明)らかにすれば、勧課の令を明らかにして、糾違の官を峻(高)くすれば、則ち嬾惰は容れる所は無く、力田は望まれる所が有るようになり、力者は欣び惰者は懼れ、則ち穡人は勧めるようになるでしょう。およそこれら数事は、亦た務田の端趣です。これに莅(臨)むに清心を以ってし、これを鎮むるに無欲を以ってし、これを勗(励)ますに弗倦を以ってし、これを翼(助)けるに廉謹を以ってし、日計の小成を舍(捨)てて、遠致を莫歳に期せば、則ち澆薄は自と淳となり、心化は次第に為るでしょう。
」
と陳べた。豹は善く雅俗を言い、いつも古今を商較したり、また誦詠し、聴いた者は疲れを忘れた。
第三回更新
03
程無くして撫軍司馬に転じられ、御史中丞に遷された。

陽縣侯の孟懷玉の上母である檀氏が國太夫人を拜すると、有司は認める上奏をした。豹がこれを知ると、婦人は夫の爵に従うものであり、懷玉の父の大司農である孟綽は列卿に居しており、その妻が子の爵に従うのは適当ではないとした。尚書右僕射の劉柳、左丞の徐羨之、郎の何邵之を罷免するよう上奏した。詔が下され、どちらも贖論された。孟昶が死去すると、豹がその代わりに丹陽尹に任命された。義熙七年(411)、連座して、太尉諮議參軍に降され、長史に転じられた。
第四回更新〜第八回更新
04
劉毅の討伐に従う。劉裕は、宋の高祖となる人物であるが、益州刺史の朱齡石に蜀の討伐を命じると、豹に檄文を書かせた。その内容は
「
そも徳者に順えば昌(盛)んとなり、徳者に逆らえば亡ぶ。仁と義を失すれば、安を求めること難となり、阻に馮(依)り釁を負っても、克く成有ること鮮(少)なし。古えより詳観せよ。隆替は何度もあったが、成都が祀を世(継)いだ事は無く、華陽に興國があったためしも無かったではないか。
05
日者(昔日)、王室が多故となると、夷が

して紛を遘(構)えて、波が振いて塵が駭(乱)れ、それは遐裔まで覃及している。

爾なる

縱が、戸に黔首を編して、悪を同じゅうする者が相い求めるように、是れ崇め是れ長とし、肆(ほしいまま)に州相に反噬し、毒害を民黎に播(広)げ、我らをして西服せしめ、皇沢から隔

せしめた。義風が電のように靡かせ、天光が反(更)にW(輝)いてより、舊物を昭晢として、區宇を烟

しよう。庶務を草創するも、未だ九伐する遑(暇)は無く、これより以来、奄(俄)かに延すること十載である。而して野心は革(改)まらず、隙を伺いて間に乗し、逋叛せし者を招聚し、共に相い封殖して、我らが蠻

を侵擾し、我らが疆垂を搖蕩していた。我らは是れを以って治洲の役を有せば、醜類を尽く殪(殺)し、匹馬を遺す無く、桓謙を折首(斬首)にし、

福(

道福)は鳥逝して、

穴に奔伏したが、引頸して戮を待つだけであろう。
06
当今、北狄は露が晞(晒)されるように、南寇は埃が掃かれるようになり、朝風は

(正)しきを載せ、庶はその凝を績げば、康哉の歌は日に日に熙(興)こり、比屋の隆は詠まれる事になろう。孤(我)が職は是れ経略であり、一を思わば九有り、彼の禹の跡を眷(顧)れば、願くは懐を載き、命を奉じて西行せん事を。途は荊、郢に至り、巴、漢を瞻望しており、憤慨を深くせん。江源に濫觴を清し、氛

を井絡に澄して、叛を誅して遠を柔すは、今がその時である。そこで、河間太守の

恩、下

太守の劉鍾に命じて、精勇二万を以って、成都に直指させている。龍驤將軍の臧熹には、戎卒二万で、

江から進ませている。益州刺史の朱齡石は、舟師三万で、外水を電曜している。輔國將軍の索懇を分遣して、漢中の衆を総じさせ、 劍道から渡河させている。振威將軍の朱客子は、寧州の鋭を提し、瀘を渡り入っている。神兵が四臨して、天綱に宏く掩(覆)われ、衡翼すること千里となり、金鼓は万張、組甲や貝冑、景煥が波属し、華夷や百濮が、雲が會(集)まり霧が臻(至)り、以ってここに攻戦すれば、誰が敵と為ろうや。況んや又た義を奉じて而して行き、以って順じて動く者なれば、尚更であろう!
07
今、三陝の隘は、我らが境内に在り、岑彭(後漢)の荊門の険ではないのだ。いよいよその阻に入れば、平衢の四達であり、実にケ艾(三國・魏)の綿竹の艱は無いのだ。山川の形は、そもそも曩日に非らざれば、攻守の難易は、居然として百倍である。全蜀の強、士民の富に当たるに、子陽(後漢。公孫述の字)は自ら庸、

を安じる能わず、劉禪(三國・蜀)は敢えて南中に竄命せず、荊邯(後漢)が謀を折られ、伯約(三國・蜀。姜維の字)は鋭を挫じかれてしまった。故に成敗に数(法)の有るを知るも、智の延(及)ばないが、これはいずれも益土の前事であり、当今の元龜である。盛なるは盧循の如く、強なるは容超(五胡・南燕、慕容超)の如く、南海を陵威し、北岱を跨制して、樓船は万艘であり、江を掩(覆)いを蓋(覆)い、鐵馬は千群であり、原を充(満)たし隰を塞いでいる。廣固の攻めでは、陸に完なる雉(城壁)は無く、左里の闘いでは、水に全なる舟は靡(無)く、或いは京畿に顕戮され、或いは万里に伝首された。故に逆順に勢の有るを知り、力抗することの難しきは、これ又た目前の殷鑑であり、深切にして著明なるものである。
08
梁益の人士は、咸(皆)な明王に化されており、駆迫されること一時であり、本より奧主に非らず。縱(

縱)の淫虐なるは、日に月に揩オ播(広)がっており、罪の非ざるを刑殺し、死されたのは沢を以って量られるものである。而して、待命すれば寇讎の戮に、崎嶇すれば豺狼の吻に遭うのだ。どうして誠を南凱に遡(求)め、東雲を延首しないのだ。普天には来蘇の幸が有るのだぞ。どうして一方の後予の怨を懐いていられようか。王者の師は、仁を以って本を為すものである。逆を舍(捨)てて順を取れば、ここに自ずと三駆、齊斧が加えられる事となり、身を縱(許)されるであろう。それ甲を衿(帯)びて反接し、自ら軍門に投ずる者が有れば、一切の問うところ無し。士子も百姓も、列肆も安堵される事となり、吉凶を択すれば、自ら多祐を求められよう。大信の明は、tなるは朝日の若くである。もし、それ迷いて姦邪に復して、愚を守りて改めざれば、火が孟諸を燎する事となり、芝も艾も爛ぜられれば同じであり、河が金

を決すれば、淵も丘も體を同じである。これを悔もうと欲すれど、どうして及ぼうぞ!
」
と言うものであった。
09
義熙九年(413)、死去した。享年四十一。翌年、伐蜀の謀に参与した事により、南昌縣五等子が追封された。
第九回更新
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子の袁洵は、元嘉年間(424〜453)にあって、顕官を歴任している。廬陵王の劉紹が南中郎將、江州刺史に任命されたが、年少のため親政する事が出来なかったため、洵が長史、尋陽太守に任命されて、府州事を代行した。元嘉三十年(453)、呉郡太守に任命された。元凶(劉劭)が弑立すると、洵に建威將軍が加えられ、佐史が置かれた。時に、安東將軍にして隨王の劉誕が義兵を挙げると、洵に前鋒となるよう檄が飛ばされ、輔國將軍が加えられた。事が平じられると、間も無くして死去した。征虜將軍が追贈され、諡号を貞子とされた。長子の袁は、別傳がある。少子の袁覬は、学問を好み文を作すに巧みで、有世から清誉を受けた。官は司徒從事中郎、武陵内史に至ったが、急死した。
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袁洵の弟の袁濯は、揚州にて秀才として名を知られたが、急死している。濯の弟の袁淑、濯の子の袁粲は、どちらも別傳がある。
2012/08/12 終了。
『宋書』 袁湛 弟豹 - 1498〜1502 -
第一回更新 開始 残り10段 全11段 2012/08/11
第二回更新 更新 残り09段
第三回更新 更新 残り08段
第四回更新 更新 残り07段
第五回更新 更新 残り06段
第六回更新 更新 残り05段
第七回更新 更新 残り04段
第八回更新 更新 残り02段
第九回更新 終了
2012/08/12 終了。